花倉の乱 後日談
1536年 8月 1日
「私は、私は……兄上を……」
震える声が静かな部屋に反響して消えた。承芳さんのくすんだ瞳に透明な光が灯り、それは頬をつたう一筋の雫に変わった。僕はそれを拭う事はしなかった。彼の中にたまっていた感情が詰まっているような気がしたから。
「私は兄上を殺したくない……殺したくない」
絞り出すようにして口にしたその言霊が、今まで彼がどれだけ我慢し、自分を殺し続けてきたかを物語っていた。
「やっと、聞けました……貴方の声を。ほんとに、こんなに待たせないでくださいよ……」
承芳さんから見たら、すごく可笑しな顔をしているだろう。笑おうとしても、溢れる涙が邪魔して上手く笑えない。堰を切ったように感情が流れ出し、くしゃっと歪んだ顔を承芳さんの胸に埋め声を上げて泣きじゃくった。
「なんだこの茶番は。承芳、関介殿。私はお前たちのことを少し見誤っていたのかもしれんな」
その言葉は失望や軽蔑のような、鋭く刺々しい空気を纏っていた。大きなため息をつくと、恵探さんの方へ歩み寄り懐から刀を抜き取った。やっぱりこの人には僕らの気持ちは届かないのか。
「雪斎さん! お願いですから、承芳さんの声を聞いてください!」
「はぁ、うるさい小僧共だ」
刀を恵探さんに向けて振り下ろした。しかしそれは恵探さんの体ではなく、巻き付いている縄を切り裂いた。殺されると思った恵探さんは、目を見開いてあり得ないと言いたげに雪斎さんを見上げた。
「雪斎、何故だ?」
「勘違いするな、お前を許したわけではない。ただ」
雪斎さんは僕らの方を向いてもう一度大きな嘆息を漏らした。やれやれと手を振って突き放してるのかと思ったが、その顔にはいつもの優しい微笑みが戻っていた。
「子供の我儘を聞いてやるのが、大人の務めというものだ。恵探よ、馬鹿な小僧共に助けられたな。二度は無い、分かったら消えろ」
雪斎さんを見上げてくしゃっと顔を歪ませると、床を叩いて勢いよく立ち上がった。僕らを見据える彼は、憑かれた物が取れたような穏やかな表情をしていた。
「承芳、また…………さらばだ」
一言だけ呟くと、身を翻しその場を後にした。本堂の裏手から外に出た恵探さんの姿は、暗い森の中へと消えていった。もう二度と会う事は無いだろう。これでようやく終わったんだ、承芳さんの長い戦いが。
「承芳、関介殿、此方へ来なさい」
柔らかな笑みを浮かべてこちらに手招きをしている。雪斎さんは僕らを認めてくれた、覚悟を受け取ってくれた。本当に雪斎さんには迷惑ばかりかけている。
何だろう、褒めてくれるのかな? 成長したなとか、頑張ったなとか声を掛けてくれるのかもしれない。厳しい祖父は褒めるという事を殆どしなかった。その為自分が思っている以上に、人から褒められる事を体が求めているようだ。
「雪斎さん、ありがとうございます! 僕たちの想いを受け取ってくれて」
「そうですね、それでは関介殿から頭をこちらに」
「頭ですか? これでいいです?」
いいこいいこって頭でも撫でてくれるのかな?
しかしそんな期待は一瞬で葬り去られた。急に頭の頂点に雷のような衝撃が落ちたと思うと、その衝撃は体全身に浸透し直ぐに痛みへと変わった。
「いったぁぁぁい! 頭が……割れる。うぅぅ」
「次は承芳だ。こっちに来い」
「すまない和尚、私は急用を思い出して」
「早く来い!」
ひぃっ! 褒めるどころかめっちゃ怒ってる。まぁですよねぇ。地鳴りのようにガンガンする頭を押さえながら丸まった。承芳さんの悲鳴が聞こえたけど、耳鳴りのせいで何処か遠くの事のように感じる。
「お前たち、こんな我儘が一発で済むと思っているのか? さて、肩も温まってきたし。残りの九十九発覚悟するがよい」
一発でこの痛みなのに、そんなに殴られたら本当に頭が割れちゃうよ。涙目で訴えても無駄だった。容赦ない鉄拳は、僕と承芳さんの頭上に何発も降り注いだ。
そこからの記憶はあまり無い。ただ、それから一週間以上頭痛が収まる事は無かった。
1536年 8月 1日
「痛かったですね」
「ああ、本当に頭が割れるかと思ったよ」
「でも、間違っていなかったですよね僕たち」
「そうだな。それは和尚も分かってくれているはずだ」
不意に熱を纏った風が吹き込み、部屋の中に夏の匂いが充満した。濃い緑の匂いが鼻の奥をくすぐり、無性に泣きたくなる感情を覚えた。
「恵探さん、今頃どうしてると思います?」
「生きているさ、きっと何処かで」
そうだといいな。僕らと恵探さんは、もう二度と交わる事のない道の上を歩いているんだ。だけど、それでも同じ今を生きているんだ。どうしようもなく暑い夏を。過酷な戦国という世界を。
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