たまゆらの艱苦
胸が大きくて人生で得した事なんてない。
私は常々そう思っている。
「何で男の人は大きい胸を好むんだろう……」
幾度となく思い悩み、その度に残酷に突き付けられる『そういうものだから仕方がない』という現実。
時には当の男性に開き直られたり、大きくて良いじゃんと同じ女性にさえ理解して貰えない苦しみ。
酷い時は嫉妬さえされる。
「つらい……肩は重いし、可愛いブラはないし、走ると痛いし、男の人からはいやらしい目線を向けられるし、自分の胸を武器だなんて思えない私にとっては、ただの余分な贅肉なのに」
口にする事さえ気遣いを求められる『贅沢な悩み』。
こんなもの、いっそなくなってしまえとどれだけ願っても、朝起きるたびに理解させられる重荷。
周囲に理解者のいない巨乳女子の懊悩は、誰からも同情を得られない、持つ者の傲慢としか映らないのだ。
いっそ自分の長所だと開き直れれば楽なのだけれど。
「そんな簡単に価値観が変われば苦労しない」
私の結論はいつもこうだった。
今日も今日とて、私は己の呪わしい乳をぶら下げて、生きねばならない。
この世で最初に巨乳を美德のように言い出したのが誰だか知らないが、七代祟っても足りないくらいに私は憎んでいる。
「はぁ……学校行きたくないなあ」
さりとて、不登校になれる程ナイーブでも無いのが私の精神の困った所だ。
男子にからかわれたりいやらしい目を向けられたり、女子から嫉妬されても私はただ、フラットな精神でいられる。
少なくとも、対外的には。
ああ、胸もこの精神くらいフラットならなあ。
私は内心で口にしづらい悩みを繰り返す。
益体のない想いはただ内心で渦巻き、泥のように、澱のように溜まり続けてはストレスとなる。
しかし、私にはストレス発散の方法が、一応あったりする。
それこそが私の、この胸の悩みをブッ飛ばす唯一の心の安らぎだ。
それはーー。
「やあ、玉響さん」
「こんにちは、勾玉くん」
私は放課後に、いつも話をする男子がいる。
学年も、クラスも、下の名前すら知らない。
でも、私が思い悩んで苦しんで、独り、公園に居た時に、声を掛けて私の悩み苦しみに寄り添ってくれた男の子だ。
「今日も疲れちゃった」
私はそんな一言から、彼にアレコレと愚痴る。それが日常的な光景だった。
「お疲れ様、また、男子や女子から嫌な事を言われたのかな」
「まあね」
毎度の事だが、毎度の事だからと言って私が慣れると思ったら大間違いなのだ。
「酷い人達だね。君の事を、ただただその肉塊の付属物のように評するなんてね」
「そうなのよ! いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも、胸の話ばっっっっっっっっっかり! それ以外の話題ないのかっての!」
私は溜まりに溜まったストレスを口にして、発散する。
彼は私に言ってくれる。
「君の人格や、内面を無視した下劣な話題に終始する連中に耳を貸すことはないよ。君という存在はただ、君という一個体として在るように在れば良い」
その言葉は、私の擦り切れた精神を少しずつ癒してくれる。
「勾玉くんだけだよ。そんなふうに言ってくれるの」
彼も男子だから最初は私は警戒した。
けど、彼は私の呪いの象徴とも言うべきこの胸に一切の視線も、欲も、揶揄すらもしなかった。
そんな彼は私をいつもいつも慰め、同情し、励ましてくれる。
それでも暫くの間、男性の目線に毒され捻くれ過ぎた私は、彼が私をただ煽てて、ある程度信頼を寄せた所でこの胸に欲望を吐き出そうとする下衆である可能性を捨てなかった。
だから、彼とこんな会話をし始め、彼を少しずつ信頼し始め、私はある日彼の気持ちを確かめたのだ。
「勾玉くんは私の胸にまるで興味がないのね。本当に本当なのか確かめて良い?」
「どうぞ」
私は自らの胸をはだけて見せた。
流石に生ではないが、ブラまで。
しかし彼は一切何の反応も示さず、ただ私を優しい目で見つめていた。
「言ったろう。僕は君の外見でどうこう、態度を変える人間じゃない」
その言葉は初めてこの私の頑なになった心を氷解させた。
それから彼とはずっとこうして放課後に語り合う仲だ。
「君の存在だけが私の救いだよ」
「僕に依存し過ぎるのもどうかとは思うけれどね。君がそうして、ささくれた心と傷ついた精神を癒せるのであれば、吝かではない」
彼はそう言ってシニカルに笑う。
「君がいなかったら私はストレスで不登校になるか、教室でキレ芸するか、胸を切り落としているよ」
私は半ば冗談めかして言う。
「胸を切り落とすのは頂けないね。不登校も人生へのダメージになるし、ギリギリ、キレるくらいを限度にしたほうが無難だね」
冷静に私の冗談に切り返す彼。
こういうちょっと真面目過ぎる所もあるが、基本的に彼の言う事は私の欲しい言葉ばかりだ。
なので私は、ついこう言ってしまった。
「大丈夫、君がこうして私のストレスの捌け口になってくれているうちは」
そこできっと彼は『これからも』と言ってくれると思った。
――だが、彼は今日に限ってこう言った。
「僕がいつまでも君のストレスを受け止められるとは限らない。いずれ君は、その悩みを自ら解決せねばならないのだ」
どうして?
どうしてそんな事を言うの?
私は裏切られたような気分になり、尋ねる。
「図らずも君が以前に言っていたろう。『そういうものだから仕方がない』。それは、男の性なのだろう。そこに、君は何らかの形で反逆するという姿勢を見せるべきだと僕は愚考するね」
――なんだ。
結局、君もそうなの。
私は失望してしまう。
「勾玉くんが、あんな連中の肩を持つなんて思わなかった」
だけど彼は首を振る。
「違う。僕は君にそういった視線も感情も、一度として送った事などないだろう? 僕はただ、君が黙って、彼らの卑しい目線の嬲り者にされている事を、何ら抵抗する事なく、受け流そうともせず、無視しているつもりで、それすらし切れていない。そこに、抵抗の意志を見せるのはどうか、と提言しているのさ」
彼の言う事は難しい。
それって、私がこんな胸だから悪いって言いたいの?
私が何の抵抗も見せないみたいな言い方をするが、私は嫌だ、という事は顔や態度に出しているつもりなのだけれど。
「そういう意味でもない。君の周りに理解者も支援者も居ない不幸、それはそれで、同情されるべき事だ。しかし、君は己のそういった境遇を、いつかどうにかなると、ただ見過ごして、直視しないようにして、鬱屈を溜め込み、こうして僕にただ愚痴を吐き出す事で、すんでの所で耐えている。それは、いずれ、己の身を焼き焦がす、黒い感情だ」
「……やっぱり、私自身が悪いと言っているようにしか聞こえないわ。虐められる方にも、原因がある、みたいな言い方にしか」
卑屈な感情が、そういった反発の言葉を生み出す。
だが彼は根気強く、私を説得しようとする。
「虐められる方が悪い、だなんて、とんでもない事だ……そうではないのだよ、玉響さん。言葉にしてみたまえ。顔や態度ではなく、ハッキリと、口にしてみたまえ」
「私の胸を見ないでって? 私の胸に嫉妬しないでって? そんな恥ずかしい言葉を口にしろと?」
「そうだ」
彼は言った。
きっぱりと。
私の、脊髄反射的な反発にも、まるで動じる事なく。
「……酷い事を言うのね」
私は、これまでずうっと私を慰め続けてくれた彼の裏切りのような言葉に、うつむいてしまう。
「そうかも知れない。でも、君はこのまま、事態が解決するのを待っていても、何も変わらない、とは思わないか?」
私はこれ以上私を責めるような言葉を聞きたくなくて、ただ、自分が聞きたい言葉だけを欲しくて、質問に質問で返す。
「……君が、もし、私のクラスの男の子なら、直接庇ってくれた?」
彼は、その質問にこう答えた。
「ああ、僕がもし、君のクラスの所属ならね」
そうか。
彼は、あくまでどこか別のクラスの誰かだから、そんな逸脱した、ある種異常とも言える義憤を抱えて私のクラスに突撃してくれたりはしないのだ。
そんな、都合のいい存在じゃないんだ。
「そっか。でも、君のその気持ちは、嬉しいわ」
私はそう答えるのがやっとだった。
「君の問題は、君自身が解決したまえ。僕に言えるのは、それだけさ」
言って、彼は手を振り、去っていった。
◆◆◆
翌日の事だった。
私はいつものように、男子や女子から、卑猥な目線や言葉、嫉妬や羨望の言葉を掛けられ――しかし。
私はそこで、言った。
声高らかに言った。
「うるさい。見ないで。そんな、いやらしい目を向けないで。私の胸を、羨ましがらないで。憧れないで。私は、そういう風に、見られるのが、大嫌いなんだ」
思ったより、冷静に言えた。
大きな声でもなく、ただ、ただ、冷淡に。
まるで、私の背中を勾玉くんが押してくれているかのようだった。
教室はシーンと静まり返り、私の事をからかっていた男子も、露骨に淫らな目で眺めていた男子も、皆が目を逸らしたり、謝ったりしてきた。女子も同様だった。ハッキリ謝る子は少なかったが、多くの子は何も言わなくなった。ヒソヒソと私の陰口を叩く子も、居なくなった。
――私は、呪いから解放されたのだ。
◆◆◆
その日の放課後。
いつもの公園。
「勾玉くん、私、言えたよ。……勾玉くん?」
彼は、居なかった。
私はそこで、ようやく気付いた。
彼は、多分、私の内心が生み出した、私の本音なのだ。
私は、そんな彼と、つまり、ただ、自分の内面と向き合って、葛藤していただけなのだろう。
私はそう思った。
◆◆◆
あれから何年も経った今、私は自分の身体的特徴に対して、コンプレックスを解消したとまでは言えなくとも、何らかの他人からの不愉快な言動を、ハッキリと拒絶する事が出来るだけの精神力を持ち合わせる事はできた。
私は大人になった今でも思う。
――私の取った行動、例が、全ての同じ悩みを持つ女の子に適用できる解決策だとは思わない。
私が勇気を出してああ言えたのは、私の内面が顕在化するほどに強烈な、イマジナリー・フレンドを生み出すほどに異常な自我、自意識の発露を見せた、ある種の奇跡だったと思う。
他に頼れるもののない私だからこその。
常識を覆す、思春期の幻影。
私の精神は私だけが救えた。
でも、私はきっと、誰かに救って欲しかったんだ。
本当なら、そうあるべきだったと、私は思っている。
現実は、それほど優しくはなかったけれど。
願わくば、私と同じ呪いを掛けられた誰かは、救われますように。
私は今日もそう願い、この胸を揺らす。
まるで、零れる涙のように。
(終わり)




