欺瞞のピエロ IX
好きなサボテンはペヨーテです。
一度は食してみたいです。
かわいがってください。
歩行中。
歩行中。
歩行中。
そして、歩行すがら会話中。
「で、君の名前は......ないんだっけ」
「そうよ」
うむ、とても不便だなあ。
「基本、人間心理観測者は単独行動で、人間たちに気づかれずに任務を遂行するから、名前がなくても困りはしなかったわ」
「じゃあ、自分に名前をつけなよ。僕が君を呼ぶとき困るから。苟且の名前でもいいから」
「自分に名前をつける......ね。考えたことがなかったわ」
「”神様”とかいうやつは、君をなんて呼んでたんだ?」
「あいつが私を呼ぶときは、”女”と呼んでるわ」
「......」
おそろしくシンプルというか、大雑把というか。
「人間心理観測者は複数人いるんだよね、たぶん」
さっき彼女は”私達”って言ってたから、おそらく間違いないはずだ。
「ん、一応私以外にもいっぱいいるわ」
「当然そのなかには女性もいっぱいいるんだろう?もし”神様”が君を名前ではなく、かたくなに”女”と読んでいるのであれば、かなり紛らわしいだろう。不特定な呼び方をしたら、他の人も呼ばれたかと勘違いして寄ってくるんじゃないか?」
「ああ、それなら大丈夫よ。”神様”は用があるときのみ、人間心理観測者を一人だけ自分の元へ召喚するから。”神様”に呼ばれて召喚されるのは一人だけ。そいつが男ならば、”男”と呼ばれる。そいつが女ならば、”女”と呼ばれる。だから、紛らわしいなんてことはないわ」
「そうなのか......」
しかしながら、それでも僕はいまだに納得できなかった。
「いや、でも、なんで君達に名前をつけてあげないんだ?その”神様”とやらは。別に呼ぶとき不便じゃないから名前をつけないという理由は、首肯しかねるのだけれど」
「本人曰く『面倒くさい』ですって」
「随分とぞんざいな理由だね......」
人間心理観測者に名を与えることは、禁忌に触れるとか、そういう理由ではないかと踏んでいたのだけれど、どうやら全然違ったようである。
「一人一人の人間心理観測者に自身のネーミングセンスを消費するよりも、自分の書く小説に出てくる登場人物に自身のネーミングセンスを消費したほうがよい。なんてことも言ってたわね」
「作家志望の”神様”だったんですか......?」
ますますふざけた理由だな。
さて、話に花を咲かせているうちに、自宅に到着した。
「あ」
と、声を発した僕の顔は、たちまち渋柿のように真っ青になった。なぜならば、家の二階の部屋の電灯がついていたからである。だからどうしたのだときっと読者諸君は拍子抜けし、疑問に思うことだろう。何を隠そう、あの部屋は、途轍もないモンスターが巣食っている部屋だ。そのモンスターは僕がこの世で最も恐れているものである。悪霊よりも、キングコブラよりも、核弾頭よりもよっぽど恐ろしいのである。
「どしたの」
僕の怯えた表情を見て戸惑う彼女。
待て待て。帰るのはたしか十一時だったはずなのに。今はまだ九時なんだけど、これほど早いご帰還は予期していなかったんだけど!
「いや......なんでもない。入ろう」
僕は慎重な足取りで、緩慢と家の扉を開けて中へ入っていった。
「なにこそこそしてるの。他人の家に忍びこもうとしているわけでもあるまいし」
君は何もわかってないからお気楽でいいだろうけれど、僕の場合はそうはいかないんだよ。
摺り足から忍び足、それから齷齪足へと。僕はのそのそと廊下を歩いていき、二階へ上がっていった。
しかし二階にたどり着いたその瞬間、僕はついにやつの奇襲に遭った。
「こぉのどら息子がァァァァァ!!こんな夜中にどこほっつき歩いてるんだァァァァァ!!」
見た目だけ完全に幼女の姉が、なんともみごとな飛び蹴りを僕に食らわせた。どら息子と罵っているけれど、姉である。見た目はどちらかというと(いや完全に)妹っぽいけれど、姉である。
ゆうくんというのは、僕の名前・裕太郎にちなんだ呼び方である。
鳩尾に甚大なダメージを負った僕は、飛ばされて、自分の部屋の扉に強く叩きつけられた。
空手や跆拳道などの格闘技を齧っているわけでもないのに、なぜこれほどの戦闘力を有しているのだろうか、我が姉は。姉には格闘技の鍛錬とかそれ以前に、そもそもそういった天稟の才能が備わっていたとでも言うのだろうか。だとすれば身の毛がよだつほどに恐ろしい話である。
どうやら我を十四まで育てし偉大なる父母は、とんでもないモンスターを創り出したようだ。
「ちょっとゆうくん、その地の文はいささか失礼じゃないの?」
ご立腹の姉は、怒気が一切感じられない、仔猫のような可愛らしい声でそう言った。
ていうか地の文を読むな。
瀬戸ケ谷くんと同じく、我が姉は地の文を難なく解読できる異能力を持っているらしい。
小説の形式を丸々無視している。
イグノア、あるいはイグアナしている。
メタもほどほどにしてほしいものである。
「それはともかく、ゆうくん、こんな遅くにどこに行ってたの!」
「いや、その、瀬戸ケ谷くんの家に行ってました!」
これが、僕が咄嗟に出した答えであった。
「何をしに?」
「四月下旬の修学旅行のレクリエーションで、皆でタンゴを踊るというのはいかがか、というアイデアを忽然と思い出したんだよ。だから、その、姉さんが帰ってくる前に瀬戸ケ谷君のところに行ってそのアイデアを提供して、今帰ったところなんだ」
見切り発車である。
汗がだらだらと額、頬、顎へと垂れ下がっているのがそれを裏付けている。
「なるほど、ちょっと待って。瀬戸ケ谷君に電話して聞くから」
「ふぇっ!?」
待て。確かに僕は瀬戸ケ谷君の家に向かったが、家の中までは行ってないし、あまつさえ彼に会ってすらいない。瀬戸ケ谷君に確認を取られたら、瀬戸ケ谷君はきっと、僕が訪れたことなんて知らないと言うに相違ない。
まずいなあ。
「いや、もうこんなに夜遅くに電話をかけるのは失礼じゃないかな?」
焦燥に駆られた僕は、なんとかして姉を食い止めようとした。