欺瞞のピエロ VII
好きな日本画家は長谷川等伯です。
かわいがってください。
05
独白である。
小説というより、少女の自分語りとして思ってもらっても差し支えない。
あたかも感情機能が備わっていないアンドロイドのように、あらかじめ用意された筋書を素読する役者のように、淡々と、坦々と、彼女は喋りだした。己のすべてを胸のうちから、口から吐露しようとしていた。
「私には、名前はないわ」
と、彼女はいきなり三宝そう言った。
名前がない。夏目漱石の飼っている猫みたいな子だ。
「どんな名前だったか覚えてないの」
夏目漱石の飼っている猫は、名前を覚えてないというより、そもそも名前を与えられていない。夏目漱石に生涯追陪していた細君が言うには、誰もあの猫を呼びやしないのだから、名前なんかつけたって詮の無いことなのだと。
猫が覚えていないのは、自分がどこで生まれたかということだけである。
「名前どころか、きっと私に素敵な名前をつけてくれたであろう親の存在すらも、記憶にないわ。呱呱の声をあげたことはなかった。私は、母親の子宮から産まれたのではなく、昏い昏い意識の闇の中から産まれてきたわ。産まれて初めて目にしたものは、母ではなかった。初めて目にしたものは、”神様”と名乗る奇妙なやつだった」
どこで生まれたかも覚えてないなんて甘っちょろい感じじゃなかった。何もかも覚えていないという感じだった。記憶の概念がまるでないのかと思しき惨憺たるありさまだった。
さて、いよいよ話がファンタスティックになってきた。
普通信じられる話はないけれど、今は信じるしかないだろう。
ここでこんな誇大な嘘をつくメリットもないし。
「”神様”だなんて、胡散臭さにますます拍車がかかってきた。そう思うでしょ?」
正直思う。
「わかるわ、その気持ち」
わかるんだ。嬉しいよ。失礼だが、僕は、さっきまで君とは一生わかり合えないだろうと思っていたところだ。
けれども、わかり合えるというのはつまるところに、僕の心も彼女と同じく”人外”となっていることを示しているのだから、それはそれで恐ろしいことなのかもしれない。
「だって斯く言う私もそういう気持ちになったもの。私は物心がとっくについた、理性ある少女として産まれたのだから、神様なんて非現実的な存在を、疑念をさしはさまずに受け容れることなんてできる筈がないわ。だけど、そもそも自分が赤ん坊ではなく、十歳ばかりの少女として産まれたという事実が非現実的なのだから、もう”神様”という非現実的な存在も認めざるを得なくなったの」
だろうね。
理性ある少女というのはすなわち、今までの偉そうな態度をあっさり切り捨てた挙げ句に土下座する人種であることは、驚き桃の木山椒の木だけれど。
ふむ。勉強になるな。理性ある少女とはプライドを切り捨ててあっさり土下座する人間であると、あとでメモに書き留めておこう。
「神様は言ったの」
何を言った?
勿体ぶらずに、遠慮せずに、躊躇せずに、存分に語って欲しいものである。
「これは罰だと」
罰――
罪や過ちに対するこらしめ、という意味の言葉である。
すると何だろう。この子は一体どんな重い罪を背負っているのだろう。
いや、それよりも――
なんの権利があって、この子に罰を下しているのだろう。
それが、わからない。
「何に対する罰かって?生憎、私にもわからないわ。私が知りたいわよ」
「覚えていないの――私がどんな罪に問われていたか。無論、神様に尋ねてみたわ。でも、あいつ、梃子でも動かなかったわ。教えてくれなかった......」
淋しげに、彼女はそう言った。
罰とは、具体的にはどういうことだ。僕はそれを訊かずにはいられなかった。
「罰。それは端的に言えば人殺しよ」
人殺し。
なかなかどうして端的な表現であった。
「殺す対象となるのは、暗闇を抱えている人間たちよ」
暗闇とは、何だろうか。
そういえば、先刻も彼女は暗闇という気がかりな言葉を使っていた。彼女は普通の人間には見えない。ただし、暗闇を抱えている人間であれば、見ることができる。そのような事を言っていた。
彼女の言ってることが悉く真実であるとすれば、僕もまた、その暗闇とやらを抱えている人間の範疇に入るのだろうか?実際、今の僕は彼女が視えているし。
なら......僕もいずれは彼女にとっての抹殺目標になるのか?
考えるだけで背筋が凍る。
「私達はその人間が抱えている暗闇を、実存している心像と呼んでいるわ。それは畢竟ずるに、劣等感であったり、孤独感であったり......云々。そういった消極的なものを言う言葉よ」
なるほど。説明は理解できた。ただ、実存している心像とかいう用語は長ったらしい上難解なので、聞くだけでお腹いっぱいになる。
長い用語は読者たちに不案内だから、せめて省略しよう。
エグハルというのはいかがだろうか。
「だけど」
彼女は言った。
「人間なんて誰しも消極的になることがあるのよ」
確かにそうだ。
「消極的になる人間のみ殺すという定義だと、それは全人類を殺すにイコールするわ。だから、私達は、他者に害を及ぼす消極的感情を持つ人間を抹消することを取り決めたの」
他者に害を及ぼす――
「そのような消極的感情が暗闇であり、実存している心像であるわけよ。瀬戸ケ谷和也は、その感情を持ち、その感情を悪しき力として使い、他者に危害を加えていることが発覚したの。これが瀬戸ケ谷和也を抹消する正当なる理由。異議をさしはさむ余地は、ないわ」
なんだって?
彼が他者に危害を加えている?
いや、それよりも、あんなにも元気溌剌たる彼が、消極的感情に苛まれていることが一番の驚きである。
日頃見せている瀬戸ケ谷和也の笑顔が、今ではうざったく思えなくなった。とても恐ろしく感じるようになった。
あの笑顔の裏には、一体何があるというのだろう。
「普遍的消極的人間ではなく、人に害を与える蓋然性のある消極的人間を排除すること。つまり、実存している心像の力を得た人間を排除するのが私達......人間心理観測者の使命なの」
独白終了。
これにてようやく前パート終了。
さてお待ちかね本パートである。
ここで沈黙を保ち、心の中で彼女の独白にちょいちょい茶々(ちゃちゃ)を入れていた僕が、ついに口を開き始めた。
「サイコロジカル......うん、申し訳ないが、もはや僕にはもうこれ以上君の話についていける自信がない」
頬を流れる冷や汗を拭いながら僕は言った。
「ついてこなくてもいいわ。どっちにしろ私は瀬戸ケ谷和也の抹消を急がなきゃいけないから」
「......」
頑固だなあ。どうやら是が非でも彼女は瀬戸ケ谷和也を見逃したくないらしい。
「あのさ」
「デートのお誘いならお断りよ」
「違う!」
なぜ僕がこの期に及んで君をデートに誘うんだ!文脈上おかしいこと極まりないだろう!
「デートのお誘いなら男割りよ」
「急に鎌を握りしめるな!!怖いだろうが!!」
デートに誘われたくらいで男(僕)を鎌で割ろうとするな!
「デートのお誘いなら学割りよ」
「お得じゃないか......」
「それだけじゃないわ。デートもできるわよ?二倍お得よ」
「お断りなんじゃなかったのかよ!」
裁判長!今の彼女の証言はアキラカにムジュンしております!
ていうか閑話休題!
もうツッコミすらもお腹いっぱいである!
僕は別に恐怖のツッコミ男と呼ばれているわけでもあるまいのに、なぜこうもツッコミに憂き身をやつしているのだろうか。
「君が瀬戸ケ谷くんを殺す前に、僕には一つだけ君に聞きたいことがある」
「なに、聞きたいことって。手短に......言ってよね?」
「気になる男子生徒に屋上に呼び出されたツンデレ女子か!顔を赧らめるな!えらく可愛いじゃないか!」
もうお腹いっぱいだって!
「......君が瀬戸ケ谷くんを殺す理由は、瀬戸ケ谷くんがその......なんだっけ、守衛している哈尔滨の自然......」
「勝手に用語を作らないで。実存している心像よ」
「そう、瀬戸ケ谷くんはあまりに病みすぎたから、そのエグハルの力を手に入れたんだろう?」
「略すな」
「そのエグハルの力を無力化する術はないのか?」
「あるわよ」
「即答かよ」
「あるけどなに?」
「いやこっちが『なに?』って言いたいよ!人を殺すという最悪な選択をするよりも、人を救うという最善な選択をするべきだろう!」
「うるさいわね。なによ、正義ぶって」
「なに?」
「面倒なのよ、人を救うのは。私の事情も知らないくせに一丁前に説教するのはやめてくれる?痛々しいわ」
「事情?なんの事情?」
と、僕が問うと、彼女は、悲しそうにこう言った。
「人を救いたい?私だってそうしたいわよ!でも、実存している心像の力を有する人を救おうとすると、私自身がその力によって殺されるのよ!」