欺瞞のピエロ V
好きな忍術は颶風水渦の術です。
かわいがってください。
04
名無某は、人間心理観測者である。ちょっと待って不知火裕太郎。それは一体どういう職業だ、というか職業であるかどうかすら怪しいが、胡散臭いにもほどがあるだろう、騙されているのではないのかと、諸君は色々と言いたげであろうけれど、一旦その話題は保留にしておこう。どうせ、のちのち彼女自身がその説明を懇切丁寧にしてくれるのだから、僕がここで説明するのは無駄骨である。
僕がそんな彼女と出くわしたのは、そう、四月一日の夜、瀬戸ケ谷和也の自宅の門外であった。瀬戸ケ谷くんの自宅を西洋絵画鑑賞のようにじろじろと見つめてばかりで、その場から動こうともしていない不審な彼女は、およそ十歳くらいだと思われる少女の姿をしていた。世俗の汚穢の一切合切を吸い取って浄化してしまいそうな愛くるしい顔立ち、静かな妍を湛えた碧い眼、それから澄んだ銀色の髪など、あまりに日本人らしくなく、神秘的な容貌がゆえに、かなり目立っていて、その不審ぶりに拍車をかけている。
瀬戸ケ谷くんの言うストーカーとは、きっとこの少女のことだろう。
看過できる筈がない。善良なる一市民たる僕は、ここは不審者の逮捕、あるいは未成年者の補導につとめるべきなのだろう。
僕は、素知らぬ体で近寄り、彼女の肩をそっと叩いて、話しかけみた。
「えっと、君」
彼女は返事をしない。
「君」
いまだに返事をしない。
「ねえ......」
やはり返事をしない。
依然として返事をせずに押し黙る、まるで父親を忌むようになった年ごろの娘のような彼女に、業を煮やした僕は、いよいよ強硬手段に講ずることを決めた。僕は、彼女のやわっこい頭を卒然として掴み、乱暴に揺らしたあと、小さな体躯を独楽のように一回転させてやった。
過度の回転ですっかり酔ってしまった彼女は、千鳥足で道路を歩き、コンクリート塀に額をぶつけてしまった。
加害者は自分だけれども。可哀想に思えた。
「なにするの!」
彼女は疳高い声で僕を怒鳴りつけた。当然の反応である。
「人が話しかけてきた時はちゃんと返事をしなさいって、お母さんに習わなかったの?」と言って、いざ僕が毅然たる態度で説教を始めようとすると、彼女は即座に、「知らない人が話しかけてきた時は相手にしないでなら、お母さんに習うよ」と返してきた。
尤もである。僕なんかよりも、彼女の言い分の方が遥かに正鵠を得ていて、間然すべき点が微塵たりともなかった。
将来子を持つ親となるかもしれない僕が、間違えてしまったとはいえども、知らない人に話しかけられたら返事をするべきという考えを起こしてしまったことは、愧赧すべき事実である。
「まあ、そもそもお母さんなんて、いないけどさ......」
さらっと彼女は、空気をまずくするようなとんでもないことを呟いた。聞き捨てならないので、僕は名も素性も知れぬその少女に詳しく話を聞いてみようとしたけれど、忽如彼女は僕の言葉を遮った。
「ていうかさ」
彼女は言った。
「なんであんたは私が視えるわけ?なに、あんた、なんか暗闇でも抱えてるの?」
「え?」
何を言ってるんだろうか、この娘は。
本当にわけがわからないのだけど。
ワケガワカラナイヨ、なのだけど。
「久し振りに人間と口を利いたよ......何年振りだろ」
「......」
奇妙奇天烈にして、摩訶不思議なことをぶつぶつと喋っている彼女に、僕はついていけなかった。
久し振りに人間と口を利くって。君は山の中に住んでいる仙人か。
しかしその囈言を真実であると鵜呑みにする僕ではない。
「家に連れて行ってあげるから、住所教えて?」
「誘拐犯みたいなセリフね」
「いっそ誘拐して家に帰してやりたい気分だよ!」
険悪な態度を取る彼女に、僕は苛立ちを抑えることができなくなった。
己の利潤を考えず、わざわざ少女を家まで届けようとする親切な誘拐犯なんて、この世にはいないけれども。というか、そいつはもはや誘拐犯というより、ただの補導につとめる警察官である。
「誰の家に?あんたの家に?わあ......変態だね」
「僕に幼女趣味はない!」
たとえ僕に幼女趣味があっても、君みたいな変な子は僕の家に連れ込むことは断じてない。玄関先に近寄ることさえ許さない。
「でも、別にいいよ。そういうことを、私にしても」
「何がいいの!?そういうことって何!?その傍点の意味はもっと何!?」
「誘ってあげてるんだから、少しは乗ってきなさい!」
「逆ギレされた!?」
乗れるわけ無いだろ。今さっき僕に幼女趣味はないと明言したばかりだというのに。大体、君の方こそ変態じゃないのか......?
まあ、それはともかく。
段々と話が脱線していってるような気がするんだけど......
「もういい。で、君はこんなところで何をやっているの?」
「あんたには関係ないじゃない」
「関係あるよ。君が立っているところは、僕の友達の家の前だよ?黙って見過ごすことはできないだろう」
「ふうん、友達思いなんだね」
「......」
「一応訊いてみるけどさ」
「......なに」
「私は、あんたの友達やらを殺しに来たって言ったら、どうする?」
何を言ってるんだろうか、この娘は。
本当にわけがわからないのだけど。
ワケガワカラナイヨ、なのだけど。
さっきとは味わいも意味合いも違う、異質なわけのわからなさであった。さっきの気持ちと、今の気持ちは、戸惑いというものがベースとなっているけれど、性質的には明瞭な差異がある。その差異というのは、簡潔に言えば、さっきの戸惑いとは違って、今の戸惑いには”怒り”という性質を具えている、ということである。
「どうするって、決まってるだろう」
僕は言った。
「止めるさ、善良なる一市民として」
敢えて瀬戸ケ谷和也の友達としてと言わなかった僕は、別にツンデレではない。単にそれを言うのが億劫だっただけである。
この少女は警察官に保護されるべきのだとばかり思っていたけれど、どうやら逮捕されるべき対象だったらしい。
「無理だよ、それは」
少女は冷ややかな笑みを浮かべて、淡々とそう言った。
「人間ごときに後れを取る私じゃないよ。馬鹿にしないで」
そして、彼女はその小さな体躯を纏う純白なワンピースのどこに隠し持っていたのかの知れぬ巨大な鎌を取り出した。
亜空間から取り出した、のだと思われる。
喫驚した。
驚愕した。
愕然した。
然様、この時に魯鈍な僕はやっと思い出した。
ストーカーの情報の中でもっとも気がかりで重要な情報を、何故か僕は忘却していた。
『その少女は、この世のものではない』という情報。
おそらく、完全に信じていなかったから、心のどこかで馬鹿にしていたから、つまらない情報だと決めつけていたから、切り捨ててしまったのだろう。