欺瞞のピエロ I
葉月 詩埜と申します。
好きな仮面の軍勢は矢胴丸リサです。
今後ともどうぞご贔屓に
名無某の真名探し
内的独白。韜晦は、不要だ。
不知火裕太郎とは一体何者かと僕に訊かれても困る。これに対して僕は、一発で諸君の納得を得られるような回答が考えつかず、思案投げ首の体だ。別に不知火裕太郎のことが知らない訳ではない。寧ろ知っている。知り過ぎていると言っても良い。そいつがどんな顔貌をしているのか、どんな性格をしているのか、それから、どんな人生を歩んできたのか、僕は不知火裕太郎を誰よりも詳しく、深く知っている。何故かくのごとく自信に漲った断言ができるかというと、簡単だ。そして、当然である。不知火裕太郎という名はずばり僕を指し示している名だからである。得意気に自分語りができるほど僕は傲慢な人種ではないし、土台、僕に穎脱した何かの才能がなく、況してや、何かの偉業を成し遂げた過去もないため、語れるものなど一つもないのである。平凡の平凡による平凡のための平凡達が暮らす国の平凡の大統領。それが僕である。僕以外に有りえない。辛うじて語るとするならば、せいぜい僕が庭の蟷螂と格闘してギリギリで勝利を獲得したという、何をか言わんやの、冴えない武勇伝位しかない。それでも僕に纏わることについて長広舌を振れと無茶な注文をしてくるのであれば、いよいよ僕は十八番である自嘲癖を余す所なく発揮してしまうことになろう。そうなると敬愛する読者諸君の顰蹙を購う事案が避けられないのは目に見えているので、無論発揮などしないが。これから僕に関するストーリーをいざ擺開せんとする時に、読者の機嫌を損ね、読者を逃してしまうのはさすがにご勘弁なので、僕はとりあえず、安直かつ無難な自己紹介だけで済ましたいと思う。
まだ逃げないでください。お願いします。記念すべき第一話なのですから、そこはご寛恕願いたい。
01
不知火裕太郎......つまり僕はまさに平凡の型に嵌った中学三年生の少年であり、小説の主人公にしてはどこか物足りない人物である。得意科目は国語。苦手科目は国語以外全般だが、数学がなかんずく駄目で、もはや絶望的であり、破滅的といってもさほど過言ではない。理系達は常套句のように数学は答えが決まっている、難しくなどないと言う。某小学生名探偵の言葉をもじれば、数学の答えはいつもひとつ!といったところだ。しかし、よしんば数学というのは答えが決まっていて明快であるとしても、僕からしてみればその答えとやらに導く過程がとんでもなく難しい。数字を見るだけでも目眩がしそうだ。数式ともなると卒倒寸前である。あれを解読できた理系達は、高度な文明を築いた宇宙人か何かではないかと、僕は三日ほど本気で疑ったことさえある。桜の花が見事に咲くことを信じられず、三日ほど不安になっていた梶井基次郎ばりに疑っていた。
「でも高校受験では数学を使わなきゃいけないから、そのままにしておくわけにはいかないでしょ」
同級生、鳥飼唯奈は冷静に着実に数式を解いていきながら、僕にそう言った。僕と冗長な会話を続けながらも、難関校の入試の難題をすらすら解いていた。化け物である。
「それは当然わかっているさ。けど、生理的に受け付けないんだよ。さあ数式を解こうとすると、毎度激しい頭痛に見舞われる」
「数学は、そこまで面倒なものだったっけ?」
「僕にとってはね。どの教科にしろ、人の好き嫌いが分かれるじゃんか。古文が意味不明だから古文を苦手とする人とか、暗記能力が低いから社会を苦手とするとかさ。まあ、全部得意としている君にとっては関係なく、理解できない話だろうけど」
と、捻くれた風に僕は言った。
「厭な言い方をするね、不知火くんは。わたしにだって弱点はあるんだよ」
「たとえば?」
「わたし、美術だけ成績が悪いんだよ」
「へー」
意外だなあ。むしろ美術が一番すごそうだと思っていたのだけど。鳥飼に油彩画を描かせたら、ポール・セザンヌに匹敵する作品が生まれそうだと思っていたのだけど、どうやらそうではないらしい。
「じゃあ、通知表の美術の評価は?1から5の評価で、どの程度に値するの?」
「もうすこしがんばりましょう」
「そんなほんわかした成績評価があり得るか!」
いつからこの学校は小学校に変わったんだよ!
「ただ単に美術センスが悪すぎたから1をつけるのもなんだから、一応3にしてもらってるらしいんだけどね。3という評価の下に、もうすこしがんばりましょうってスタンプが押されてたの」
「逆に君が描いた作品が見てみたいよ!」
ピカソみたいな絵を描くレベルなのだろうか(もちろんピカソのあれはキュビズムを追求した抽象画であり、実際画力は高いということは熟知しているが)。僕は美術選択ではなく、書道選択だから、彼女の圧倒的に悪い美術センスには、全く気が付かなかった。
「......だったらさ。美術ではなく、他の芸術選択をすればいいのに。なぜわざわざ苦手な美術を」
「いや、わたし絵を描くのが好きだし、まさかあそこまで作品を否定されるとは思わなかったもの」
「自覚していなかった!?」
しかも否定されたのか。たかが素人の創作物を躊躇なく否定することは相当だぞ!
「でも安心したよ」
僕は言った。
「やはりどの人間には必ず瑕疵はあるんだなあ。君がそこまでの芸術音痴だとは夢にも思わなかった」
「そりゃそうでしょう」
「でも、僕は君とは違って、瑕疵が多数ある。しかも致命的な瑕疵ばかりだ。こんな僕が世渡りできる筈もない。お先真っ暗だ」
「ペシミストだね。まだまだ若いのに、お先真っ暗とか言わないで。受験で憂鬱になるのはわかるけどさ」
受験勉強に追われる日々。重苦しい暗闇に全身を纏綿される日々。滋味のない日々。現時点で、少なからず僕の心の支えになってくれているのは鳥飼である。彼女は、さながら知恵を司る女神のごとき者だった。何の酔狂か知れないが、彼女は、いつも懇切丁寧に僕に勉強を教えてくれている。
どうして僕なのか。僕と同等、あるいはもっと下の成績の人間なんてもっと居る筈なのに。どうして僕だけ彼女に優遇されるのか、エニグマだ。
「鳥飼」
「なに?」
「君には、将来の夢とかあるの?」
「そうだねえ。恥ずかしい話、まだ具体的な夢はないけど......」
頬を赤らめて彼女はそう言い、少し考えた。
「別に恥ずかしい話でもないだろう。中学生が具体的な夢を持つことこそ、珍しく。立派に過ぎるんだ。なりたい職業に見当がつかない人だっていっぱいいるんだから。大学に入ってからやっと考え出した人もいるらしいよ」
「うーん、わたしね。いつか、世間に貢献できるような仕事がしたくてね。たとえば、知識、事実、もしくはしかるべき理論などを広める仕事」
「というと、ジャーナリストかな?」
「それも一つの道だね」
鳥飼が記者になるのは、あまり想像できなかった。外交官や、高級官僚のポストに就く印象があった。
「だけど、ジャーナリストというのは、自分としてはピンとこないの」
「え?」
では、つまるところ、彼女は何になりたいのだろう。それを聞き出したかったけれど、彼女が少々小首をかしげる様子から明察するに、本人ですらわかっていないのだろうから、不毛な質問は控えることにした。
「不知火くんは......」
鳥飼は僕に問いかけた。
「何か夢はあるの?」
「......僕か」
正直、わからない。具体的な夢どころか、なりたい職業どころか、漠然とした夢すら持っていなかった。皆無である。
「僕は――」
この時僕はなんと答えたか、不思議なことに憶えていなかった。