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タイム・トラベル・パラドックス

作者: 岡田 希望


20XX年 11月15日 東京


携帯電話の着信音が、枕もとから鼓膜を震わせる。

 後藤正治は短い呻き声を上げ、携帯を手に取った。こんな朝早くに誰だよと思いつつ画面を見ると、時刻はとうに十一時を回っており、電話は見たことのない番号からだった。

 正治はしばし思案した後、通話ボタンを押した。若い女の声だ。

 「厚生労働省職業安定局の村田と申します。後藤様のお電話で間違いないでしょうか」

 正治は一瞬訝りながら「はい、そうですが」と返事をした。

 「この度は厚労省主催のタイムトラベル・インターンへのお申込み、誠にありがとうございます。厳正なる審査の結果、後藤様は当選されましたのでお電話差し上げました」

 正治は頬をつねってみた。どうやら夢ではないようだ。

 タイムトラベル・インターン――ここでようやく正治は、半年前に出した職業訓練の申込書の存在を思い出した。

 タイムトラベルとは、すなわち過去と未来に行き来することである。この技術は、正治が子どもの頃に完成された。光より速い粒子の発見だか何だか、正治にはさっぱりであったが、アニメの世界が現実になったと当時世間は大騒ぎしていた。

 結局、元の世界に戻れない危険性があるとかで、一般向けには使用されないと法律で定められ、世間の関心はあまりなくなった。しかしここに来て何の狙いがあってか、厚労省主催でタイムトラベルを利用した職業訓練の募集が行われたのである。

 「つきましては、参加の可否を三日後の午後五時までにこちらの番号までお掛けいただくよう、お願い申し上げます。何か質問はございますか」

 質問なら山ほどある。どの時代に行くのか、何をするのか、そもそも本当にタイムトラベルなんて出来るのか、そして何故自分が選ばれたのか。

 「タイムトラベルって、どういうものですかね」正治は散々迷った挙句、意味の分からない質問をしてしまった。村田がクスリと笑う。

 「それは参加を承諾された後にご説明申し上げます。要項をメールで送信させていただきますので、ご確認いただいたうえで、参加の可否をお伝えください。また、この電話の内容は絶対に他言することがないよう、お願い致します」

 通話が切れた後も正治はしばらく画面を見つめていた。タイムトラベルという、およそ聞き馴染みのない言葉だけが頭の中にこだましている。

 どうしようかと思いながら、正治の内心ではもう既に行かない理由が見当たらなかった。

 正治は二十七歳独身で、彼女もいない。一浪一留の後に、適当に潜り込んだ食品商社での激務と上司のパワハラに嫌気がさし、半年前にフリーターへと転身した。それと同時に、二年間付き合ってきた恋人、美香にふられた。いい歳をした甲斐性なしと付き合う理由などないのだろう。以来、アルバイトを掛け持ちしながら、特に目的もなく日々を過ごしている。タイムトラベル・インターンの申し込みをしたのは退職時の勢いであったが、正治にとってはタイムトラベルでもしない限り、今の自分の生活に何一つ希望が持てないのもまた事実であった。

 タイムトラベル、してみるか――正治は携帯をベッドに放り、声を上げて伸びをした。大きな屁が開始のゴングのように部屋に響いた。


 正治が指定されたのは、オフィス街にある喫茶店だった。こちらです、と奥のテーブルで手を上げたのは、同い年くらいの縁の大きな眼鏡をかけた女性であった。美人だが、機械のような無表情である。

 渡された名刺には、村田佳澄という名前が記されており、厚生労働省、以下長く厳めしい漢字が並んでいる。握手した左手の薬指には指輪がはめられていた。いかにも自分とは住む世界の違う人、といった感じである。

 いい暮らししてるんだろうな、正治はひとりごちる。親の顔が見てみたい。勿論いい意味で、だが。

 「この度は参加を承諾していただき、ありがとうございます」村田が深々と頭を下げる。正治は何となくきまりが悪くなり「いえ、こちらこそ」と頭を下げた。

 店員にコーヒーを二つ注文してから、村田は「では早速、本題に入らせていただきます」と居住まいを正した。

 村田は要項にもあった内容をまず確認した。タイムトラベルする時代は二〇一八年、場所は東京、期間は一ヶ月。その前に一週間ほど村田の指導の下、その時代のことや仕事内容についての研修が行われる。勤務先は広告代理店であった。村田が続ける。

 「現在と違う社会構造、技術、人々の価値観。そういった中での経験は必ず次のキャリアに活きるものであると我々も自負しております」

 正治は大きく頷いた。村田の話にはどこか説得力があった。

 「続いて注意事項です」村田が羽織っていたジャケットを脱ぐ。ふわりと柔軟剤のいい香りがした。

 注意事項は、過去と今との整合性を保つためのものだった。要するに、過去に戻って親を殺せば自分が生まれてこないという、いわゆる「親殺しのパラドックス」のように、現在が大きく変わってしまうようなことはするなということだ。

 「そして最後なんですが…」ここで村田が一つしわぶく。正治は身構えた。「自分がタイムトラベラーであることは絶対に明かさないで下さい。これを破ってしまうと永久に現在に帰ってこられなくなります」

 「するわけないじゃないですか」正治は噴き出してしまった。二〇一八年の世界で「俺はタイムトラベラーだ」と言い張る人間の姿を想像してしまったからだ。とんだ笑いものである。

 「こちらからの説明は以上となりますが、ご質問等ありますか」

 村田の説明は聞きやすく、殆ど理解することが出来た。だからこそ、聞けば聞くほど規模の大きい、社会的意義のあるもののような気がして、正治は恐る恐る尋ねてみた。

 「あのう、どうして僕なんでしょうか」

 「審査の条件に適していたからです」村田は事務的な口調で答える。

 「自慢じゃないですけど、僕には大した能力もなければ金も地位もない。そんな僕にここまでしていただけるなんて、とても信じられなくて」

 正治は言いながら情けなくなったが、これが本音である。

 村田がじっと正治を見た。「後藤さんは半年前に退職されて、現在はフリーターをされていますよね」

 「はい」

 「ご結婚はされていなくて、ええと、お付き合いされている方とかは」

 「いません」美香の顔が浮かぶ。

 「ご両親はご健在でしたでしょうか」

 「母が高校生の時に病気で死んで、父親はどこかで新しい家庭を作ってます」本当に失礼だな、と答えながら思う。

 「ですから、そういった条件が今回の応募条件を満たしていたため、ご参加をお願いしました」村田は特に悪びれるふうでもなく淡々と言った。

 多分応募してからの半年間で調べられていたのだろう。審査の条件――次第に正治も、どういうことだか分かってきた。

 だが正治は、初対面のアカの他人から言われて黙っていられるほど落ちぶれてはいないつもりだった。深く息を吸う。

 「つまり、この社会から消えても問題ない存在ってことですね」言いながら顔が熱くなってきた。村田の表情が強張るのもおかまいなしに、一気にまくし立てる。

 「さっきも言ったように、僕には能力も金も地位もない。その上あなた方が調べたように、職もないし彼女もいなければ、身寄りもない。たしかにそれなら一定期間社会から消えようが、生涯過去から戻って来れなくなろうが、誰にも心配されないし、何の問題もありませんもんね」

 「いえ、決してそのようなことではありません。誤解なされたようなら申し訳ございません」村田が頭を下げる。

 正治は怒るというよりはむしろ、悲しくなってきた。今自分が早口でまくし立てたことは全て事実である。とどのつまり怒るということは、自分が社会の歯車からこぼれ落ちた人間なのだと認めることに他ならなかった。

 「いえ、こちらこそ取り乱してすみません」正治も小さく頭を下げる。

 気まずい空気になる。店内ではジャズが静かに流れていた。

 またやってしまった――正治は、我慢の利かない自分の性格が嫌になった。

 仕事を辞めた時だってそうだ。あと一年我慢していれば、パワハラ上司と違う部署に異動出来たかもしれない。仕事も要領を得て楽しく感じたかもしれない。

 社会の歯車からこぼれた正治を作り上げたのは、紛れもなく正治自身なのだった。

 「でも、僕変わりたいんです」ポツリと切り出した。視界が歪む。正治は自分が涙ぐんでいることに気付いた。

 「今やってるアルバイトだって誰にでも出来ることだし、やりがいもない。毎日ただ、めしを食うためだけに働いてます。社会のためになることなんて何一つ出来ていない。家に帰って一人になると思うんです。ああ、このまま死んだとして誰も泣いてくれる人なんていないんだろうな、じゃあ死んじゃおうかって」

 しばし沈黙が流れる。村田が眼鏡を押し上げた。

 「大丈夫です、そのためのタイムトラベル・インターンです。あなたが再び社会に必要な人材になれるよう、私が全力でサポートさせていただきます。」村田の口調はあくまで事務的だが、やや顔が上気している。

「それに」村田が髪をかき上げた。「一番大事なのは今、あなたに変わる意志があるかどうかですから」柔らかく微笑む。

 温かい言葉に、正治は声を上げて泣きたいのをこらえた。

 「ありがとうございます。僕、頑張ります」正治はもう一度、頭を下げた。

 「それでは最後に、こちらの書類に捺印をお願いします」村田の表情が一瞬で元の無表情に戻る。その変わりように正治は内心でずっこけた。

 「二〇一八年の冬には寒波が来ます。くれぐれもお身体には気を付けて下さいね」去り際にそう言って微笑んだ村田は、正治にとって笑顔の素敵な女性に、すっかり変わっていた。

 タイムトラベルで、俺は変わろう――正治は拳を握り締め、靴を鳴らしながら駅までの道を駆けていった。もう一度開始のゴングを鳴らすかのように。


2018年 11月26日 東京


 耳元でアラームが鳴った。時刻を確認すると、七時だった。

 なんだと呟き二度寝しようとしたところで、自分が勤め人であったことを思い出し、正治はしぶしぶ布団から出た。この年の冬はよく冷える。

 冷蔵庫にあったサラダチキンをかじり、野菜ジュースをパックのままあおるだけの簡単な朝食をとり、シャワーを浴びてそそくさとアパートを出る。

 正治が住んでいるのは、職場から二駅ほどの、元の世界と大差のないワンルームのマンションだった。村田が用意してくれたものだ。

 「おはようございます」正治がオフィスに入ると、既に八割がた出社しており、端々からおはようと聞こえる。いい会社だ――と正治は思う。

 正治のインターン先、「原広告社」は従業員五十名ほどの小さな広告会社だ。広告宣伝・イベント企画運営など幅広く手掛けており、忙しさはかつての職場にも負けないが、アットホームな雰囲気が正治にはありがたかった。

 正治は村田の指示で、派遣社員という名目で一昨日から仕事をしている。二十七歳でインターンというのは無理があるのだろう。

 「おっ派遣くん、今日は早いね」初日早々時間ぎりぎりで駆け込んだ正治を、主任の関がからかう。

 その隣では、育児休業から復帰して間もないという吉岡が、かわいい盛りの息子の自慢を延々と周りにしている。

 正治は肩をつつかれたのでふと視線を移す。同じタイミングで派遣社員として入社した川上祥子だった。長い黒髪が揺れている。

 「おはよう後藤君。今日ね、夜七時から私たちの歓迎会があるらしいの。来れそう?」

 「ああ、うん。大丈夫」正治が答える。タイムトラベル三日目の人間に他の予定などあるはずがない。

 「よかった」祥子はにこりと笑うと、ふわりと踵を返した。柑橘系の香水が鼻をくすぐる。

 正治は昨日、出会ったばかりの祥子に一目惚れしてしまった。黒髪ロングで目がくっきりとした祥子は、どこか村田と似たところがあるが、正治が惚れたのはその笑顔である。

 「えっ私たち同い年なんだー。じゃあ祥子って呼んでね」その一言だけで正治は恋に落ちてしまった。残念ながら今のところ「川上さん」呼びである。

 恋をするには一ヶ月では短すぎる。正治は頭では分かっていたが、一度しかないタイムトラベル、恋愛でも後悔しないようにいけるところまでいこうと決めていた。


 正治の仕事は、イベントの企画運営である。地元商店街の祭りから有名歌手のコンサートまで、クライアントのニーズに合わせて企画し、販促、集客を行う。

 正治は関、吉岡、祥子と共に、紅白歌合戦にも出場経験のある女性歌手のコンサートの案件を任された。なかなか大きな案件で忙しくなることが予想されるが、祥子に「初めて同士、頑張ろうね」と笑いかけられたので何とかなりそうだ。我ながら単純だなと正治は思う。

 その日の仕事が終わるとイベント部門の十人ほどで、正治と祥子の歓迎会という名目の飲み会が行われた。たかが派遣に歓迎会を催してくれるあたり、社風の良さが窺える。

 「お疲れ様です」と口々に言いながらビールジョッキを鳴らしあう。

 「で、後藤ちゃん。もうパワポの使い方はマスターしたわけ」左隣から、人をからかうのが趣味の関が早速正治に絡む。

 「ええ、まあ」正治が遠慮がちに答える。正直まだマスター出来たとは言い難い。そもそも正治にとって、キーボードのついた、この時代の「パソコン」なるものを触るのは初めてで、入力の煩わしさや処理の遅さにびっくりしていたのだ。

 「もう関さん、後輩いじめないで。最近パワハラパワハラって世間はうるさいんだからさ」とフォローしてくれるのは吉岡だ。

 正治にとってこんなことは、パワハラには全くあたらない。パワハラというのは、徹夜で作成した資料データを目の前で全消去されたり、大勢の見ている前で怒鳴りつけたり――思い出すだけで憂鬱になってくる。

 「関さんはもう少し人のいいところを見てあげなきゃ。今日のクライアントへのトーク力、私感心しちゃった。ねえ、祥子ちゃん」吉岡が枝豆を口に運びながら言う。

 「はい、私もびっくりしちゃいました。同期として負けてられないなー」祥子は酒に強くないのか、頬を赤くしていたずらっぽく正治の方を見る。

 正治は酒に強いがひどく赤面した。トーク力は商社時代の営業スキルの賜物だ。正治はまさか、自分が辞めたブラック企業に感謝する日が来ようとは思ってもみなかった。

 「ほら、美人二人から褒めてもらえたろ。これで俺がからかって落とすから、ちょうどいいバランスになるってわけ」と関。

 「そんなバランスいりませんー。関さん、娘の反抗期のストレスを部下にぶつけちゃだめですよ」すかさず吉岡。

 「ばれたか。でもな、お前んとこのガキだっていつかはそういう日が来るんだぞ」

 「ウチの翔ちゃんは大丈夫ですぅ」吉岡が憎々しげに舌を出す。

 場がドッと笑いに包まれる。どこかから「いよっ夫婦漫才」の声が上がる。正治の向かいの祥子も大口を開けて笑っていた。

 正治は心から愉快な気分になるのと同時に、こんな職場の飲み会もあるのかと、なんだか不思議な気分になった。

 正治の知る職場での飲み会は、とにかく上司が気持ちよくなるように、部下はひたすらお酌に気遣い。そして上司が気分よく酔ってくると始まる説教タイム。お前はあれがなってないだの、俺が若い時はこうだっただの、百万回同じ話を壊れたスピーカーのように延々と浴びせられるその時間は、苦行以外の何物でもなかった。

 「ほんとに面白いね」祥子が小声で話しかける。

 正治は全く同感なのと、照れくさいのとで、ぶんぶんと頷いた。そしてふと目線を左に移すと、関がおやっと面白そうな顔でこちらを見ていた。

 まずいな――正治は内心顔をしかめる。関に正治の好意を知られると、性格的に色々なお節介を焼きかねない。

 しかし関はそれ以上関心を示さず、別の話題を振り始めた。

 正治は不安とともに、ジョッキに残ったビールを一気にあおった。


 小さい子どもがいる吉岡への配慮もあり、早めに解散することになった。二次会でもあるかと思ったが、関から「川上嬢を無事に送り届けろ。これは職務命令だ」と言われ、従うことにした。大袈裟な瞬きは、目配せなのかコンタクトが外れそうになっているのか。

 隣にいる祥子の方を見る。祥子はよほど酒に弱いのか、顔を真っ赤にしている。その上テンションも高い。

 「私、酔うと笑い上戸なんです。笑い祥子、なんちゃって」

 恐ろしくつまらないギャグを飛ばし、一人でケラケラと笑っている。ギャグのクオリティはさておき、こんな姿の祥子もまた可愛いと、正治は思う。

 二人でタクシーに乗り込んだ。祥子の免許証を拝借し、運転手に行き先を告げる。正治の家とも大して離れていないようだ。

 「川上さん、大丈夫?」正治はさっき買ったミネラルウォーターのペットボトルを渡す。

 「ありがとう。ふふ、後藤君、優しいんだー」祥子が屈託なく笑う。

 これは――正治は考える。送る口実に家まで入り、そのまま朝までパターンなのか。いいや、それはいけない。慌ててかぶりをふる。

 自分自身を変えたくてタイムトラベルしてきたのだ。決して性欲を満たすためではない――正治は酒の力で失いそうになる理性を、何とか揺り起こしていた。

 祥子はひとしきりテンションを上げきると、そのまま寝てしまった。正治にもたれかかる。

 正治は全神経を右肩に集中させつつ、一方では自分に残る理性を総動員していた。これ以上のことが起きると、本当に間違いを起こしかねない。

 そのときだった。祥子の瞳から、一筋の涙がこぼれた。「お母さん…」か細い声が涙と共に口を伝う。

 正治はなんだか見てはいけないものを見てしまったような気がして、目をそらした。二十代後半にもなって母の名を呼び、泣くのはただ事ではない。

 一ヶ月で恋をするなんて、無理があるかもしれない――正治は人を好きになることと深く知ることの間に高く聳える壁を見たような気がした。今のままでは到底登れそうにもない。

 正治が隣で悶々としていることなど知らず、祥子は再び寝息を立て始めた。

 タクシーが祥子のアパートの前に停まる。正治は祥子を揺り起こした。

 祥子は先ほどの記憶はないようで、「ありがとう。おやすみなさい」と少し酔いが醒めたのか、柔らかく微笑んでいた。

 正治は運転手と二人きりになった車内で、さっきまでの甘酸っぱさと切ないような苦さを反芻していた。


2018年 12月10日 東京


 「お疲れ様でしたー」

 正治、祥子、関、吉岡の四人は舞台袖で手を叩いた。

 正治のタイムトラベル・インターンが始まってから二週間が経ち、初めて手掛けたコンサートイベントが、無事終了した。二千人のホールは満員御礼、グッズも完売した。クライアントから受けた厚い感謝の言葉に、正治は仕事のやりがいを見出した気分だった。

 「初めてにしては大きな案件だったが本当によく頑張った」と関が労う。

 「営業スキルの後藤君と頭脳明晰の祥子ちゃん、いいコンビじゃない」と吉岡。

 「そんなことないですよ」二人で同時に言い、かぶりをふる。あまりのシンクロに顔を合わせて笑った。

 実際、今回の仕事をきっかけに、正治は祥子との距離を大きく縮めることに成功していた。

 祥子が人前で話すのが苦手な部分を正治がカバーし、正治の要領がよくない部分を祥子がカバーしてくれた。そして、祥子が見せる優しさや、時々うっかりミスをしてしまう天然さに、正治はますます惹かれていった。

 「あらあら息ピッタリじゃない。もしかしてコンビじゃなくてカップルだった?」吉岡がからかう。

 「ち、違いますよ」正治が慌てて否定する。祥子の方を見ると、顔を赤くしていた。

 「そんなことより、どうですか。今日は打ち上げに一杯」その場の流れを変えるべく、正治はグラスを傾ける仕草をして提案した。

 「いいけど」と関は言いかけて「いや、悪い。俺はここんところ残業続きだったから、家族サービスしてやんないとな」そう言って吉岡の方を見る。

 「私は今日旦那が遅くなるから、翔ちゃんの面倒を見る日なのよね」と吉岡。

 「ここは、若いお二人で行ってきたらどうだい」関は二人を見て言う。

 流れを変えるつもりがむしろ本流の勢いを増してしまった。

 「俺はいいけど…」そう言って祥子の方を見る。ええい、ここは流れに乗ってみよう。

 祥子は照れくさそうにはにかんで頷いた。

 天は正治に味方したようだ。内心でガッツポーズをする。

 関のお節介もたまには役に立つようだ。「まあ明日も朝から仕事だから、何とは言わんがほどほどに、な」という余計な一言を除けば、だが。

 吉岡はやれやれといった表情で苦笑していた。


 「それじゃ、改めてお疲れ様」

 二人でジョッキを鳴らす。正治が選んだのは二人の最寄り駅近くの和風個室居酒屋だった。

 「いやー、肉体労働の後のビールは染みるなー」祥子が目を細める。口の端には泡がついていた。

 「祥子さんそれおっさんみたい」正治が笑いながら言う。だが祥子の気持ちはよく分かる。イベント設営、撤収作業の手伝いに二人は駆り出されていたのだ。日頃運動不足の正治に力仕事は応えた。

 「祥子さん力あるんだね、びっくりした」十キロはありそうな大きな植木鉢を一人で軽々と抱えていたことを思い出した。

 「学生時代テニス部だったからかな」祥子が答える。「正治君は何かやってたの?」

 「俺はサッカー。高校の途中でやめちゃったけど」言いながら正治は、高校時代も自分がパワハラを受けて辞めたことを思い出し、自身の運命を内心で呪った。

 「へえ、サッカーなんだ。正治君、どっちかっていうとバスケ顔してるから」と祥子。

 「それ、どんな顔」正治は笑った。祥子はたまに不思議な感性でものを言う時がある。しかしそれもまた、可愛い。

 他愛もない話が続く。二人は同い年という気軽さもあってか話が進み、比例するように酒も進んだ。

 正治は楽しいと思う一方で、心の片隅では先日の祥子の涙の真相が気になっていた。母親との間に何かあったのだろうか。もしかしたら言えないことかもしれない。

 正治は、聞きたい自分と聞きたくない自分が心の中でないまぜになっていた。好きな人のことを何でも知りたいというのは、自然な感情だが時に危険だ。

 「そういえば祥子さん、兄弟はいるの?」正治は少し遠間から探りを入れてみた。

 「当ててみて―」

 「面倒見がよくて優しいから、弟がいるかな」

 祥子は「そういう恥ずかしいことさらっというー」と照れながら「いないよ、一人っ子」と言った。

 「え、そうなんだ。実は俺も一人っ子」

 「一人っ子同盟だー」そう言って祥子が相好を崩す。「みんなからさ、一人っ子イコール自己中心的みたいな偏見持たれがちだよねえ」

 「そうそう。何でも独り占めできるとか、お下がり着なくて済むとか」

 しばらく一人っ子談議で盛り上がる。本来の狙いは外してしまった。

 これでよかったかもしれない――と正治は思う。あと二週間で帰る身だ。深入りしすぎて傷つけることだけは避けたい。

 それでもこの思いだけは伝えたい――とも正治は思っている。この心地いい関係では終わらせたくないという思いが正治にはあった。仮にだめだったとしても、旅の恥はかき捨て、タイムトラベルの恥もかき捨てである。

 二時間ほど話し続けてお開きになった。祥子はご機嫌で「こんなに話したのいつぶりだろ」とその場で伸びをする。

 会計は正治が払おうとしたが、祥子に固辞された。「こんなに楽しませてもらったんだから、私にも払わせて」と微笑む。その笑顔がプライスレスなんだよなあと、正治はひとりごちる。

 二人で店を出る。今夜の冷え込みは強烈で、刺すような風が正面から吹き付けた。

 正治はタクシーを呼ぼうかとも思ったが、祥子が「歩いて帰ろうよ」というので、そうすることにした。この前ほどは酔っていないようだ。

 「見て、星がきれい」祥子が空を見上げて言った。人差し指でオリオン座をなぞり、手が冷たくなったのか、口元に当てて白い吐息を集める。

 「ほんとだ」相槌を打ちながら、正治が見ているのは星空ではなく、その綺麗な横顔であった。

 歩きながらとりとめのない会話をする。その傍ら、正治は告白のタイミングを窺っていた。するなら今しかないような気がしたのだ。

 祥子の家――タイムリミットが近付いてきた。

 思いを伝えたい衝動が込み上げた。「祥子さん」正治が呼びかける。

 「ん、どうしたの」祥子が星空から正治に視線を移す。大きな瞳が夜空の星よりも輝いて見えた。

 「初めて会った時から、あなたが好きです」

 ついに言ってしまった――と正治は思った。

 祥子はきょとんとして正治を見ている。

 「こんな俺でよければ、付き合ってください」

 祥子は黙って言葉を探しているようだった。正治は周りの気温が三度ほど下がったような気がした。

 祥子の目から涙がこぼれた。口を開こうとしたが、あとからあとから涙が頬を、口を伝って言葉にならない。「ごめん」と一言だけ呟いて、祥子はアパートに駆けていった。

 正治は目の前の出来事が上手く把握出来なかったが、自分がふられたという事実だけははっきりと分かった。

 どれくらいそこに立ち尽くしていただろう。さっきまで綺麗だった星空が雲に隠れ、雨が降り出した。冷たい雫が正治の心の中を伝っていった。


 気が付いたら正治は浴槽に浸かっていた。帰ってから風呂を沸かし、入るまでの記憶が欠落している。

 頭の中で、祥子の「ごめん」という声だけが乱反射している。

 「ふられちゃったかあ」正治は声にして呟いた。呟いた途端、さっきの光景を現実だと受け入れたとともに、今までの祥子の優しさ、笑顔が甦ってきた。

 正治は声を上げて泣いた。言葉にならない感情が涙となり、声となり、正治の心の奥から溢れ出してくる。

 旅の恥はかき捨て――だと内心では強がってみせていた。運が良ければ程度に思っていた。しかし正治は自分の中で、祥子の存在がここまで大きくなっているのだということを、今更知った。

 風呂を上がり、髪を乾かし、床に就いても感情は収まってはくれなかった。

 酔いはとっくに醒めてしまっていた。眠れるはずがなかった。


2018年12月23日 東京


 あっという間に一ヶ月が経ち、タイムトラベル・インターンも最終日となった。

 正治は祥子にふられてから二日ほどは無気力で、関にどやされることもあったが、それ以降は立ち直った。というよりは、それまでの全てのエネルギーを仕事に向けた。コンサートが終わってすぐ始まった次のイベントでも、無事に成功を収めることが出来た。

 ただしその間、祥子との会話は殆ど一切なかった。別のチームとして行動していたということもあるが、明らかに正治は避けられていた。

 この日は正治の送別会として、関と吉岡に連れられて職場の隣駅の居酒屋に行った。関が乾杯の音頭をとる。

 「いやー、おめでたいとはいえ残念だな。ウチで正社員になってくれればいうことなしだったんだけどな」正治の挨拶の言葉もそこそこに、関が言った。

 正治はこの時代上では、正社員として転職するということになっていた。タイムトラベル・インターンの概念がないためだ。村田らがどのように工作しているのかは、正治には知る由もない。

 「あーあ、後藤君も祥子ちゃんもいなくなるなんて、寂しくなるわ」と吉岡さん。

 実は同じタイミングで祥子も会社を去ることになった。実家に戻るようなことを噂で聞いたが、実際に話せていないので真相は分からない。

 「しかし、送別会にも来てくれないなんて、川上はドライな奴だなあ」関がビールジョッキを一瞬で空にする。今日はペースが速そうだ。

 「何言ってんの」吉岡が関を非難の目で見る。そのまま視線を正治の方へ移した。

 「ん、お前らなんかあったのか」関がのんびりと言う。

 「とぼけないで。コンサートの日から二、三日、後藤君抜け殻だったじゃないの。煽った関さんにも責任あるんだからね」

 「煽るって、悪いことしてるみたいに言うなよ」

 「悪いことでしょう」吉岡の言い方に棘が出てきた。

 正治は自分のせいで場の空気が悪くなるのは避けたかった。

 「へへ、ふられちゃいました。いやー、いい感じだったんでいけると思ったんですけどね。世の中上手くいかねえや」敢えておどけてみせる。

 正治は営業スキルに伴って、演技が上手い方だった。道化師になって、お別れの日くらいは笑顔でいたかった。

 「後藤君…」吉岡が心配そうな、母親がわが子を見守るような目で正治を見る。

 その表情に、正治は一瞬の油断が出来た。道化師の化粧が崩れ落ちる。

 「好きだったん…ですけど…本気で…」声が震えた。

 悲しい気持ちをアルコールが助長して、涙が止まらない。言葉に出来ない正治を、二人はただ見ていた。

 店内では今の正治の気持ちを歌うかのような失恋バラードが、静かに流れている。

 正治がひとしきり泣いた後、頬杖をついていた関が唐突に口を開いた。

 「で、どうすんだ」

 「どうするって…」正治が聞き返す。

 「なんだ、お前一度ふられたくらいで諦めるのか」

 関が泡のついた口を拭いながら言う。どうやらからかっているわけではないようだ。目が真剣だ。

 「俺はな、今のかみさんには付き合うまでに五回ふられたよ。それでも六回目でようやくオーケーをもらえた。仕事終わりに待ち伏せてな。今じゃストーカーなんて言われるかもしれないが、後でかみさんに聞くと、あの時の俺の情熱が…」

 「いいよその話はもう、百万回聞きました」苦笑交じりで吉岡が遮る。「大事なのはそこじゃないんでしょ?」

「そうそう、とにかくだな」関が続ける。「俺は今のかみさんがそれほど大好きだった。諦めきれなかった。周りの声や体裁なんてどうでもよかった。お前は違うのか?」

 諦めきれるわけがない――祥子の優しさ、素直さ、純粋さ、笑うと目尻にしわが出来るところ――正治はたった一ヶ月だったが、祥子の全てを好きになっていた。

 「いいか」関は正治をじっと見る。

 「お前は仕事が早いわけでもないし、頭が切れるわけでもない。そのうえ…容姿も普通だ。男の俺が言うんだから間違いない」

 正治は苦笑した。この切れ味はいつもの関だ。

 「でもな、お前のいいところは、人の為に全力になれるところだ。今回のイベントだって、お前がクライアントやお客さんの為に全力で駆け回ってたことを俺たちは知ってる。それにお前、ここに来た時は生きる希望もねえみたいに死んだ目してたが、今じゃいきいきしてる。仕事を心から楽しめてるじゃないか」

 関は目を赤くしている。酔ってはいるが、今までにないくらい真剣だった。

 「いいか、社会人にとって仕事と恋愛ってのは表裏一体だ。二兎追うものだけが二兎を得られるんだ。だからお前は恋愛だって絶対に上手くいく」

 そしてテーブルをバンと叩いた。「この俺が言うんだから間違いない」

 吉岡は隣で静かに頷いている。

 「変わったよ、お前は。立派だ」最後にぽつりと関は言った。

 正治はまた、涙が出てきた。次から次へと頬を濡らしていく。

 「変わりたいんです」タイムトラベルする前に、村田に言ったことが正治の頭に甦った。

 関はその答えを今、くれた。

 「だから自信を持って行ってこい。またふられたら、そん時は朝までとことん話をきいてやる」関は豪快に笑った。

 「ありがとうございます」と言い残し、正治は店を飛び出した。

 吉岡が追いかけてきた。「ちょっと後藤君、祥子ちゃんの居場所、分かるの?」

 正治が黙ってかぶりをふる。

 「祥子ちゃん、今日は家にいるって言ってたわ」吉岡は苦笑しながら教えてくれた。

 「前に祥子ちゃんと二人で話したんだけどね。祥子ちゃん、後藤君ともう一度仲良くしたかったみたい。今も心のどこかでは後藤君のことを待ってるのかもしれない」

 正治は礼を言い、行こうとする。「じゃあね、元気でね」と吉岡は言った。

 鼻の奥がツンとした。正治にとって吉岡は姉のような、母のような存在だった。もう一度心から感謝の言葉を伝えると、吉岡は微笑んで店に戻っていった。

 正治は吉岡の言葉を聞いて、居ても立っても居られなくなった。タクシーに乗ろうと乗り場に行くと、そこには行列が出来ていた。走った方が早い。

 正治は駆けだした。すぐに息が切れるが、構わず足を進める。

 外は雪が降り出していた。

 走りながら正治は祥子のこと、これまでのことを思い出していた。

 「変わりたい」と言って正治はこの世界に来た。人と上手く付き合うと決めた。困難から逃げないと決めた。目的を、希望を持って生きると決めた。そしてイベントの成功という、一つの形となって現れた。

 原動力はいつも祥子だった――。

 真冬だというのに汗が噴き出てきた。雪は正治の体表で溶けて水に変わる。

 正治がようやく祥子の家の前に着いたのは夜の十時、タイムリミットまであと二時間だった。

 

 正治は祥子に電話を掛けた。掛けるのはこれが初めてだった。三コールで出た。「後藤君?」遠慮がちな声が聞こえる。

 「今どこにいますか」

 「今、家だけど…」祥子がか細い声で答える。

 「あなたに会って伝えたいことがあります。外まで出てきてくれませんか」正治は必死の思いだった。

 しばらく通話が途絶える。「ちょっと待ってて」祥子の声が聞こえた。

 正治にとって永遠とも思える五分間だった。祥子がアパートから出てくる。ジャージの上にコートを羽織り、スニーカーを突っかけただけの格好だ。おそらく化粧もしていない。

 「祥子さん」正治は改まって言った。

 「俺はあなたのことが大好きです。この一ヶ月、色々なことがあったけど、あなたと会えて毎日が充実していたし、何よりも成長することが出来ました。これで会うのが最後になるかもしれないと思って、どうしてももう一度だけ伝えたくて来ました」

 正治は汗とともに瞼からも温かいものが伝うのを感じた。走ったせいで髪はぼさぼさで、服もよれていた。だがそんなことは気にしていられない。

 「今まで本当にありがとう」

 それは正治の、心からの感謝の気持ちだった。

 祥子は涙を浮かべた。あの日と同じだと正治は思った。

 しかし、祥子の口から漏れたのは「違うの」という言葉だった。

 「私も正治君のことが好き。大好き」祥子の大きな瞳から涙がこぼれ落ちる。

 「でもね、私はあなたと一緒にはいられない。一緒にいてはいけない人間なの」

 正治はただじっと、祥子の方を見ていた。祥子は全てを話してくれた。

 祥子が小学生の頃、父親が借金を残したまま蒸発してしまったこと。母親は借金を返し、祥子を大学まで通わせるために、昼夜問わず必死で働き続けたこと。そして、長年の心労が祟って三年前からうつ病を発症し、一年前に自宅で首を吊り、還らぬ人になったこと。

 「その頃、お母さんは毎日ヒステリーを起こしてたの。お母さんが死ぬ前の日も、ヒステリーを起こして、私と喧嘩したの。私、二年間耐えてきたけどもう限界で、お母さんなんかいなくなればいいって言った。それが最後の言葉になったの…」

 祥子の涙に、正治は胸が押しつぶされそうになった。

 「だから、私は誰かと幸せになる権利なんてないの。あなたのことを好きだと思えば思うほど、苦しくなる…。私がまた不幸にさせてしまうから」

 正治は祥子の方へ歩み寄り、そっと手を取った。祥子の小さな手は、かじかんで震えていた。

 「俺さ、前の職場でいじめられて辞めて、その後しばらくフリーターしてたんだよね」正治は切り出した。

 「その上、好きだった人にもふられて、毎日が退屈でしょうがなかった。世界の誰にも必要とされていないんだなって思った。祥子さんほどじゃないかもしれないけど、辛くて苦しかった。夜になると、自分なんか死んだ方がいいんじゃないかって、本気で考えたりもした」苦しかった頃の自分が甦る。

 「でもね」正治は大きく深呼吸をした。肺に冷たい空気が入ってくる。

 「ある人が教えてくれたんだ。幸せになるために大事なのは、自分自身に変わる意志があるかどうかだって。それでここに来て、関さんや吉岡さんの優しさで、仕事が好きになったし、人間的に成長出来た。そして何より、大好きな人、あなたに出逢えて、これからの人生頑張っていこうって思えた。祥子さん、あなたは俺に生きる希望をくれたんだ。だから、あなたが幸せになる権利がないと言うのなら、俺があげるよ」正治は言葉を選びながら丁寧に、思いを伝えていく。

 「私…幸せになってもいいのかな」祥子が涙で腫れた目をこする。

 正治は大きく頷いた。「二人で変えよう、未来を」

 真剣に言葉を紡いでいく正治は一方で、まだ言うべきことがあるような気がしていた。それは大きな意味のある、そして同時にとても危険を孕んだ言葉でもあった。

 「永久に現在に帰ってこられなくなります」村田の言葉が脳にこだまする。

 それでも――正治は祥子と一緒にいたいと思った。守りたいと思った。幸せになりたいと思った――そして、とうとう言った。

 「俺、実はタイムトラベラーなんです」

 この言葉は正治にとって、プロポーズと同義であった。

 祥子は口を大きく開けている。目は何かを考えているのか、せわしなく動き回る。

 その反応はおよそ正治が予想していたものではなかった。そして、返事はさらに予想だにしていないものだった。

 「実は私もタイムトラベラーなの」

 今度は正治が同じ表情をする番だった。必死に脳をフル回転させる。

 すると、正治は突然、村田のある言葉が脳裏をよぎった。

 「ですから、そういった条件が今回の応募条件を満たしていたため、ご参加をお願いしました」

 刹那、二人は全てを悟った。

 時を超えた二人の愛に、言葉などもはや必要なかった。

 正治は祥子の肩に手を回し、口づけを交わした。

 二人はこれで、もう「現在」には戻れなくなった。しかしそれは、二人が「過去」で永遠に結ばれるということでもあった。

 唇を離し、見つめ合う。永遠に時が止まればいいと、正治は思った。もっとも時を超えてなお時を止めたいというのは、虫がよすぎるかもしれない。

 「村田さん、怒るかなぁ」

 祥子はおそらく二度と逢うことの出来ない人のことを思いながら、正治にいたずらっぽく笑いかけた。

 粉雪が二人を祝福するかのように頭上を舞っていた。


20XX年から三年後 東京


 エレベーターが止まり、人が吐き出された。

 村田佳澄は長い髪をなびかせて廊下を進む。コツコツというヒールの音がフロアに小気味よく響いた。一番奥の部屋の前に立ち、ノックをする。「どうぞ」の声が聞こえた。

 「局長、今回のインターン参加者二名の報告書をデータにまとめました」

 「おお、ご苦労さん」局長と呼ばれた大下が、村田からタブレット端末を受け取る。

 「で、どうだった今回は」顎鬚に手を当てながら大下が尋ねる。

 「二名とも成功です」村田が眼鏡を押し上げ、タブレットの画面を指差した。「一人目、彼は商社での二ヶ月のインターンの後、三ツ星商事に内定。もう一人は出版社でのインターンの後、学習館への内定となりました」

 「よくやった」大下は部下の成果を褒めた。「君もこの仕事に慣れてきたようだな」

 「はい、おかげさまで」村田はしおらしく頭を下げる。

 「三年前の第一回のときは、村田君の担当だけ被験者二人とも帰ってこなくなっちゃって、どうしようかと思ったけどな」大下が豪快に笑う。

 「あれから私も成長しましたから」村田が苦笑する。

 大下の言う通り、初めてこのタイムトラベル・インターンが行われた時、村田が担当した二人は、その時代から帰ってこなかった。

 しかも村田は、その二人の名前を思い出すことも出来なくなってしまった。そして記憶と共に、彼らに関連する全てのデータが消失した。おそらく、過去が著しく改変されたことによる代償、過去と未来の整合性を保持するためだろう。

 「確か第一回は…全員二十五~七歳を対象に、二〇一八年の世界に飛ばしたんだったよな。そうなると今は何歳くらいだ…」大下は顎鬚をさすりながら考える。「ちょうど今の俺くらいか」

 「はい、私の親世代ですね」村田は関係ないはずの自分の両親のことを思い浮かべる。自分をここまで育ててくれた、大好きな両親だ。

 「彼らは今頃どうしてるんだろうな」と大下。同世代のタイムトラベラーと気付いて興味がわいたようだった。

 「幸せに暮らしてますよ」と答えながら村田は、確信的な言い方をする自分をどこか不思議に感じた。

 そう、幸せに生きていればいい――村田は、名前も顔も思い出せなくなってしまった二人に思いを馳せた。

 案外今の世界でも近くにいて、気付かないうちに逢っているかもしれない。

 「とにかく今回はご苦労さん」大下はもう一度労った。「そういえば、明後日から三日間、有給とるんだってな」

 「はい、そうなんです」

 「旅行でも行くのか」

 「結婚記念日なんで」村田が微笑む。「夫婦水入らず、北海道まで行ってきます」

 「そうか、何年目だったかな」大下が尋ねる。

 「二十六で結婚したので、五年目ですね」

 「そうか、おめでとう」

 「ありがとうございます」そう言って、村田は部屋を後にしようと踵を返した。

 大下がそういえばといった体で「村田君、旧姓はなんだったかな」と聞いた。

 村田は振り返ると、にっこりと笑った。自慢の名字だ。

 「後藤、ですよ」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 読みやすく安定した文体で、話もコンパクト。読んでほっこりさせられました。 [気になる点] 分かって書いてる「夢物語」にしても、ちょっと都合良すぎるような。なんか、こう波乱万丈的な何かが、も…
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