河梁の吟
少年は、柑橘蜜煮をべったりと塗りつけたトーストを食んでいた。
「先生が、朝ごはんみたいな料理ばっかり準備するから、朝になっちゃったのかと思ったんだよ?」
必殺の上目遣いで、青年を恨めしげに見詰める。
「そんなに根に持たないでくださいよ、その調子だと、柑橘蜜煮に恨まれますよ?」
「そんなこと言われたって!」
少年は悲鳴を上げた。
「恥ずかしかったんだよ?!」
青年は吹き出した。人前ではあまり思考を表に出してはならないとは思っているのだが、この少年に関わることとなると、制御が難しいのだった。
ぴーぴーと喚く少年を放置して、彼は食事を済ませる。
藍色の髪を揺らして、食器を片付けようと立ち上がったとき、唐突に綺麗な高音が聴こえた。
からん、かららららん。
門の側に在る、来訪者の存在を告げる鈴の音であった。
その音は、意外なほどよく響く。来訪者が少ないからこそ、周辺に住む――あるいは、店を構える――人々の迷惑にもならずに取り付けることができた仕組みだ。
「『パンドラ』、ちゃんと食事は済ませていてくださいね?」
そう言って、彼は玄関へと向かった。
「――何故、ここにいらっしゃるのです?」
紅い髪だった。風が吹く。二人の髪が、さらわれる。
「通りかかったのでな?悪かったか?というか、食事中だったろう、邪魔したな」
「いや、帰る気ですか?」
「何も考えてなかったからな、邪魔なら帰るさ」
招かれざる客は、踵を返す。
「お待ちください!――――『パンドラ』に、会いにきたのでしょう」
振り返った男は、にやりと笑った。
「窓から見えるからな、十分なのだが」
「そう、ですか…………」
彼は、風に乱れた髪を掻き上げ、「全く、綺麗な髪だな。お前も、――あいつも」と言い残し、さっさと歩きはじめてしまった。
「な――――っ!」
カエルラが声を上げようとしたときには、路上に彼を見出だすことはできなかった。
カエルラは疲れたように室内に入る。どう歩いたかはあまり記憶になかったが、気づけば、食卓の上にデュアルが頬杖ついた姿を見ていた。
「くたくたな顔だよ?先生」
デュアルは上目遣いに問うた。聡い少年だ、とカエルラは微笑む。
少年はとうに食器を片付け終えていたようで、ただ、カエルラを待っていた。
「もう夜も遅いのに、待っていてくれたのですね?」
「さっきまで寝てたからね、全然眠くないんだ」
――失念していた。何故か少し感動していた自分が、虚しくなってきた。
「それなら、ひとつ“好いもの”をあげましょうか」
カエルラは、ほとんど無意識にそう言っていた。後から思い返しても、理由は全くわからない。何故だ。
少年は首を傾げる。
「ついてきなさい、きっと、役に立つものだから」
それで、彼は素直にカエルラの背を追った。
ある程度広い院内でも、デュアルが好んだ場所だった。
彼にとっては、首が折れそうと思うほど高い棚。整然と、本が並んでいた。
空気が本の経た年月を語る。それは、少年が生まれるずっと前の空気すら孕んでいる。
そんな空気を漂わせる本の中には、長い間手に取られることのなかった本もあった。薄く埃が積もりはじめていて、その姿が一層手に取ることを躊躇わせていた。
また、幅の広い背表紙に、古代のものと思われる難解な文字が書かれている物もあった。古文書は誰でも読めるものではなかったので、この孤児院の蔵書は国立図書館並みとも言えたのである。
「ここ?」
彼はつまらないと言いそうな表情である。
「『パンドラ』は、この場所が好きでしたね……」
カエルラは、本棚から本を取り出しては、引っ込めた。そうしていると、少年の視線が手元に刺さるのがはっきりとわかる。彼は少し、いらいらしているようだった。
その視線は、知り尽くした場所に、何があるのか?と言いそうな気がするものだった。
本と本とが擦れる音が単調に繰り返された。
そんな間が暫く続いて、そして。
「あ」
青年は一冊の分厚い本を取り出し、デュアルに手渡す。
「持っていてください、きっと役に立ちますから」
それから、二人は沈黙の中にいた。その上、彼らは書物を開かなかった。だから、書庫の中には、外の木々が立てた葉の擦れる微かな音しかない。そこは、非常に暗かった。
人によっては、気味が悪いと言い出すかもしれなかった。カエルラにとっても、デュアルにとっても、暗い書庫は好みの場所であったのだが。
「もう夜更けですから、自室に戻りなさい。お休み、『パンドラ』……」
彼が去って、カエルラは独り古文書を開く。難解な代物だったが、カエルラは淡々と読み進めていった。静寂の中に響く紙を繰る音は、青年にとって心地の良いものだった。
そして、積み上げた本の山が、左から右へと動いていく。
夜が、明ける。
誰も、いない。
そこには――――、虚ろに風が吹いていた。