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氷の灯り  作者: 桜の樹
3/9

深夜の雫

 地下に特有の、湿っぽい臭い。それが、扉を一歩抜けた途端に消失する。白い光に部屋が満たされている。清浄に。床が真っ赤なタイル張りで、家具は丸椅子と大きめの机しかない。一見、趣味の良い部屋に見えなくもないが、雰囲気が異様であった。

 カエルラはその部屋に入り、扉を閉じる。昼間開いていた紙束を持ち込んでいた。泣きそうな表情(かお)をして。



   ***


 レティシア・ユリウスはデュアルの兄である。濃い目の金髪が印象的な少年であった。今日は黒一色の服、どこかセンスは光るものの、彼の纏う空気は夜の空気であったために、他人を寄せつけなかった。


 かつて、彼はデュアルに言った。

『お前は凄いやつなんだぜ?俺が死んでも、きっと、全然生きていける』

小柄な身体に夜を詰め込んだような彼が、“死”などと言うと本気に見えるから恐ろしい。その癖さらりと物騒なことを言うから厄介である。デュアルが幾度、本気にしたことか。


『お兄ちゃん、僕が嫌いなの?ねぇ、なんでそんなこと言うの?』


がくがくと兄を揺さぶる素振り――幼いデュアルがやっても裾を引く程度であったが――で問い詰めた。レティシアは声を立てて笑う。

『嫌いなわけねぇよ、デュアル、俺がお前を嫌うと思うか?俺は、お前を認めてるだけ。大丈夫、現実じゃないさ』


 金髪の少年は、弟の頭を軽く叩いた。『ほら、ここにいるから』、そう言って。西の太陽がゆっくりと落ちていくのを、眺めながら。




 夜の街。喧騒の溜まり場、裏の顔の現れる時間。ファレスティアの帝都も、夜になるとまた喧騒に包まれていく。都市特有の、綺羅びやかな灯と、眠らない店が並んでいる。薄い沙を纏った女が通りで客引きをし、市民とおぼしき男は酒場で酒を喰らう。


 少年は軽い足取りで、足音もさせず通りを歩いていた。喧騒の間を、静かに、しかし浮いているわけでもなく群衆に溶け込んで歩いていた。

 酔客をやり過ごして視線を向けた店先に、


 ――ふと、林檎が見える。


 紅い、灯りに照らされた林檎。

 帝都の店の値段と品質とは信用できるものだったので(そうでなければ帝都に店を開くことなどできないのだが)、それが上質なものであると知れた。

 そして彼は立ち止まると、ちらと視線を寄越した店主の女に微笑み、林檎を手に取り、脱兎のごとく逃げ去った。


『ちょっと!待ちな!!』


女の制止を無視して走る。レティシアの常套手段である。

 見えた路地を曲がり、また曲がり、騒ぎを聞きつけたらしい追手から逃れた。細い路地裏に、表通りの喧騒が聴こえる。そうして低い屋根に登り、その方角を向く。すると、


『あははははっ!!』


少年は高く笑った。夜の喧騒は、彼の好物であった。

『夜の街はこうじゃなきゃあ詰まらねぇよ……』

 じゅるり、と音を立てて溢れた果汁を吸い込んだ。口を離すと、林檎に歯形がついていた。路地裏の薄暗がりに光る、自己の存在証明。少年はきょとん、とそれを眺めていた。時間は流れていき、夜は更けていく。


 甘酸っぱい果実の後味が消えていった頃、彼は林檎を投げ棄てた。やがて、屋根の上の鴉が降りてくる。道端に転がった林檎をつつく。

 それを見ると、レティシアは路地裏を出た。再び、軽い足取りで表通りを歩く。人混みに紛れ、しかし彼等を軽蔑するような視線をばらまいて歩いていく。




 街外れ。木々が密になる森。帝都・カルトゥーナも、郊外に出れば暗闇に包まれ、人気は無くなる。

 暗い森の、その奥に少年の家はあった。窓枠を軽々飛び越えて、彼と弟との部屋に侵入する。掌から、林檎の爽やかな香りがして、彼は夜を思う。心地よさと少しの眠気がやってきた。


 深夜である。


 そして、ベッドで眠る弟を見やって、微笑した。

『お前もいつか、“夜”を知るんだろうな……』

 黒い服が、夜の闇に溶けていく――。



   ***


 孤児院には、もうほとんど人は残っていなかった。院長であるカエルラと、デュアルと――。他の大人はもう、そこから出ていったのである。広い院内には、最早二人しかいない。


 しん、と張った空気が肌を刺す。帝都の表通りからもそう遠くないこの場所だが、音は不思議と無かった。


 深夜、幼い少年は目を覚ます。覚醒した少年は、唐突に負の感情に襲われた。闇が満たす居室で、彼はぽつりと呟く。


「僕は、『パンドラ』なんて名前じゃないのに……。僕は、デュアル。デュアル・ユリウス。きっと、そう、そのはずなのに……。」

焦点の合わない景色を眺めて、声を震わしていた。

「お兄ちゃん……。お兄ちゃんだけは、本当だよね?」

負の感情から逃れたかったが故に、少年は夜を求めた。兄が好んだ、夜を。


 部屋を出ると、隠れて正面玄関へ走る。カエルラの居室は正面玄関と逆方向にあるから、気付かれない自信があったのである。きちんと靴を履いて、そっと扉を開けた。帝都の夜である。彼は、兄がそうしていたように、通りの雑踏へ身を踊らせた。



 少年は、夜歩きに空を飛ぶことはしないと決めていた。元々は(裸足で廊下を歩き回った結果、足跡によって)カエルラに脱走を見つからないようにするために履いていた靴だが、折角なら本来の用途で使う気になったのである。ぱたぱたと石畳の上を歩く、走る。


 彼は酒場に足を向けた。何をするでもなく、通りに佇んでいた。酔客やら女やらの声が絶え間無く聴こえてくる。昼よりも寧ろ、夜の方が活気があるように彼には思えた。


 目が眩みそうな灯り。


 異様な熱気を帯びた喧騒、雑踏。


 酒場の看板も例外でなく眩しく、橙色した光に照らされ、文字が踊っていた。店の中からは一際大きな騒ぎ声がした。

 テーブルの間を縫って、彼は進んでいく。初めは幼いデュアルに目を大きくしていた店主も、そろそろ諦めたように彼を受け入れていた。少年は当然のようにカウンターに座る。デュアルの文字どおりテーブルに腰掛ける無作法も、もう店主は諦めていた。初めてこの酒場に来たときから、この調子なのである。





「やぁ、デュアルじゃないか」



後ろから声が飛んできた。振り返ると、デュアルとは対照的な漆黒の短髪に長身の青年が立っている。均整のとれた体つきである。ジャケットを引っ掛けただけのラフな服装。しかし、彼の特徴はどこか彼が人嫌いであることを感じさせることにあった。


「何しに来たんだ?目的も無しにそう何度も来るもんじゃあねえだろう?」

にやりと笑いながら、挑発的な口調で言う。

「こんばんは、イラさん」

 デュアルの隣に座り、イラと呼ばれた男は苦笑する。

「イーラだ。まぁ呼ばれ方なんざ何でもいいんだがな……。それで、何しに来たって?」


「ラプカを呑みに」


 ラプカと聞いて、イーラは呆れた顔をした。幼いくせに、かなり強い酒を呑もうとするからである。そもそもまだ10歳にも満たないのではないだろうか、この少年は?と心の中で呟く。毎度のことである。

 ラプカは澄んだ緋色の酒である。そして味は良いが、悪酔いしやすい。カウンターに座らなければ、イーラの前に出されるのがわかりきっている代物だった。あまりにも幼いデュアルが酒場にいるという不思議はひとまず置いての話だが。


 デュアルに関してはほとんどのことを諦めた店主が、ラプカをその前に置いた。


「ねぇ」


と酒杯を弄びながらデュアルは声を発した。

「イラさんは、普段何の仕事をしてるの?」

 単純な質問だった。単純に、イーラの容姿から見当がつかなかったから訊いたのである。しかし、イーラの目がほんの僅かに大きくなったのに、少年は気づいた。そして、何も言わずに答えを待った。


「用心棒さ。流れのな」


イーラはそう言った。デュアルはラプカをほとんど一気に呑み干した。


「……そっか」


急に興味が失せたようにデュアルは返す。ややあって、イーラが問うた。

「――デュアル、目的はラプカだけじゃないだろ?」

「そんなことないよ?本当に、ラプカを呑みにきたんだ」

「その割には呑んでないだろうが。この間は確か……ヴェッカを数杯空けたよな」

 ヴェッカは安いが、ラプカと同等以上に“酷い”酒である。しかし、ラプカと違うのは、その味も悪いところである。とりあえず液体ならなんでもいい――そんな酒であった。


「そう?イラさんの思い違いじゃない?僕、そんなに呑めないから」


そもそも彼は明らかに酒を呑める年齢――厳密な決まりは無いのだが――ではない。イーラからすれば、少年は、知り合いの中でも屈指の「将来が心配な奴」なのである。


「僕さ、イラさんに自己紹介なんてしたっけ?」


ふいにデュアルが不思議そうに訊いた。

「したさ。酔って忘れたのか?」

「覚えがないんだけどなぁ……。どうして僕の名前を知ってたんだろうと思ったんだ」

「“お子様”だな」

と軽くイーラは嘲笑する。そして大真面目に言った。


「そう言われたくないからと背伸びして酒を呑むのは止めておけ」


「――わかったよ」

デュアルは少しムッとして、

「じゃあ今日は帰る。ラプカが呑めたからいいんだ」

と席を(正確にはテーブルを)立った。そのまますたすたと店を出ていく。

「勝手な奴だな」

彼の幼さに苦笑しつつ、イーラは勘定を済ませる。デュアルは気紛れに酒場に来ては、店主にツケさせ、顔見知りに払わせ、一度も自分で勘定を済ませたことがないようだった。金も持たずに酒場に来やがって……とは、彼の内心である。


 深夜の酒場の床はあまり綺麗とは言えない。喧騒の代名詞とも言えるこの場所の床には、零れた酒やら、そしてこれも零れた水やら、果てには痰さえもが散っている。

 デュアルは、普段は裸足で(泥の上だろうと構わずに)ぺたぺたと音を立てて歩く、「変な歩き方」をする。そのせいで泥まみれになってしまうので、彼は足が汚れることをあまり厭わなかった。だから、酒が零れているその上も、平気で靴で歩いてしまうのである。おかげで、靴は日に日に汚れていく。酒場の“綺麗な部分の”床にさえ、酒を踏んだデュアルの足跡がくっきりと残ってしまうのだった。小さな、可愛らしい足跡である。イーラは再び苦笑し、少年を追った。



 店を出ると、デュアルはくるりと振り向いた。にこりとして、

「イラさん、ごちそうさま!」

と言い残し、ぱたぱたと走り去っていく。イーラは盛大な溜め息を吐いた。勿論、わかりきっていたことではあったのだが。

「どうしてこの俺に奢らせなんざできるんだかな……」

 黒髪の青年は、軽やかな足音を追おうとはしなかった。代わりに左手の路地に入り、夜闇の中に姿を消した。



 夜の街を走る、デュアルの靴は、赤かった。彼の瞳のように、紅く鮮やかに燃えていた。少年はぱたぱたと走る。いつものように門の下を潜り、庭を突っ切り、玄関に立つ。そこでやっと気がついて靴の汚れを払おうと爪先を立て、そうしてやっと、そっと扉を開けた。元在ったように靴を揃え、最小限の足音しか立てないように気を払って自室に戻る。


 この少年が足音を立てずに歩く姿は、カエルラには違和感の塊にしか映らないであろう。

 寝台に飛び込んで、紅潮気味の頬が幸せそうに緩む。帝都の灯りは窓の外に煌めいて、室内をほんのりと照らしていた。少年はゆっくりと眠りに落ち、全てに気づくこともなく、深く深く眠る。

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