Her Tracs
4
智がこのアパートで独り暮らしを始めて二年になるが、段ボールが片付く気配は今まで一度もない。
日常使うものは一通り片付けて部屋の中に置かれているらしいが、他の荷物―膨大な量の本は本棚に収まらず、未だに段ボールで息を潜めているらしい。頻繁に取り出されてはいるようだが、戻されるのが引っ越し屋の段ボールというのは切ない。
実家から持ってきたものだけでもかなりの量で入居した時に置かれていた文庫本用の本棚に収まりきらず、俺が新しい本棚を買いに行く羽目に遭ったのだが、教授と親しくなった関係で心理学関係の資料が加わり更に収集がつかなくなっているらしい。
十箱以上はある段ボールを見回し、よくまあこんなに、と思っていると、ふと見慣れない背表紙が目に付いた。
ハードカバーや漫画のカバーに紛れて、質感の違う、鮮やかな紫色の縮緬生地の背表紙。荘厳な金色の活字が躍っているが、照明の照り返しでよく見えない。
何気なく手を伸ばし引っ張り出してみると、他の書物に紛れないのもすぐに頷けた。
表紙には同じように金色の活字で、卒業アルバム、と刻まれていた。俺には見覚えがないから、中学校か小学校の物だろう。
こんなものは初めて見たが、そう言えば智も義務教育課程を修了しているのだ、あって不自然なものではない。
「智、なあ智」
なにやら香ばしい香りが漂うキッチンに向けて呼びかけるが、換気扇と玉ねぎの嬌声が遮っているらしく智に届いた感触がない。
勝手に見ればまず間違いなく機嫌を損ねるだろう。必要以上に自分の内側に踏み込まれることを、智は過敏なほど嫌う。しかしならばこんな目のつくところに置かなければいい。これは智の手抜かりだ。
言い聞かせて俺はアルバムの表紙に手をかけた。
中身は何の変哲もないありふれたアルバムだった。同じ制服とよく似た髪形のあどけない笑顔がずらりと並んでいて、その中に幾つか見知った顔もあった。多分高校で見たのだろう、話したことはないな、と思いながらページを進めていくと智を見つけた。
短く切りそろえた髪や色素の抜け落ちたような白い肌は相変わらずだが、今よりも肉付きがよく作り笑いが心持ちあどけなく見えた。なにより制服姿が新鮮だ。高校のモダンな制服と違って、堅苦しく窮屈そうな制服はそれでも智に良く似合っていた。
見ようによっては可愛げも見受けられるその姿がなんだか可笑しいな、と笑いをこらえながら、俺は更にページを進める。
野外活動や職場体験、なにやら活気に溢れたページだった。その中で見つける智は仏頂面ばかりでもなく、楽しげにピースサインをカメラに向けているものもあり、正直驚いた。
なんだか微妙な気持ちでページをめくろうとした時、何かが足元に舞い落ちた。アルバムの間に写真が挟まっていたようだ。何気なく拾い上げようと屈みこむ。写真の輪郭が次第に鮮明に浮かび上がる。
少し緊張の見える笑顔が二つ。一つは智。もう一つには見覚えがない。
ほんのり茶けた髪を短く切り揃え、智と並んでも見劣りしないはっきりと整った顔立ちの人物が、親しげに映っていた。
友達、のように見えた。とても親しい友達のように。写真が指の間を通り過ぎていくのが分かった。
見てはいけないものだと、俺は直感した。智が見られたくなかったのはもちろん、それ以上に俺が見てはいけないものだと思った。智の過去への厭な好奇心が湧き上がった瞬間、後悔したが遅かった。俺は写真から目を逸らせずにいた。
「真、何しているの」
突然かかった声にゆっくり振り返ると湯気の立つ大皿を片手にぽかんとしている智がいた。
「ご飯できたよ、って言っても大したものじゃないけれど」
言って智の視線は大皿に盛られたパスタに向けられる。野菜とシーフードの具がやけに鮮やかに皿を彩っている。
「何か見てたの」
返事をしない俺に、智の声は少し刺を帯びる。一葉の写真に刺激され動き出そうとする性を、なけなしの罪悪感がぎりぎりで塞き止め、俺は返事などできなかった。
「何それ、アルバム…?勝手に本棚触るなって」
俺の手元に目を留めた智がとげのある声と共に俺を睨んだ、がその言葉は最後まで続かなかった。あの写真が智の瞳に映った。智は黙ったまま卒業アルバムのページを見つめている。
「この写真…」
ページの上をなぞっていた智の視線があの一葉の写真に行きつく。俺は言い知れない居た堪れなさを感じた。
「こんなところに有ったのか…」
智はにわかに狼狽した。目を見開いて写真に伸ばした指先は、写真に触れる前に引き戻された。
「座って、真。食べよう」
見慣れない複雑な表情を写真から引き剥がした智は、何事もなかったかのように俺に言った。
動揺していたのは俺も同じだった。俺はこの感覚を知っている、この動揺の原因を知っている。智も薄々は分かっているはずだ。
「怒らないのか」
自分の声が耳慣れない、智とは違った冷たさをまとっている事に少し後で気付いた。
「何に対して?」
焦らすような口ぶりだが、いつもの嫌味とは少し違う。智も俺と同じように躊躇っているのが分かった。
この数年で築き上げてきた俺と智の間の心地良い空間に、俺たちは今、刃を突き付けているのだ。思い返せばこうなる予兆はいつもあったことに、今更気づいた。いや、俺たちはわざと気づかないようにしていたのかもしれない。
「お前から連絡がくるなんて滅多にないだろう。本棚、前に触った時は随分機嫌を損ねた」
俺はゆっくりと刃を埋め込むように、智に言う。智の顔が苦痛にも似た不快さに歪んでゆく。
「何がしたい?提出期限のないレポートに付き合わせたかった訳じゃないはずだ」
智がびくりと震える。智の脆さはよく知っている、というより本来のこいつの弱さを知っている。
「何を…」
机の中央を陣取るパスタの大皿、それに追いやられて床に転がったパソコン、壁伝いに積み並べられた資料の山。
どこにだって逃れられるのに、智はどこにもいけない。そしてこの状況は智自身がつくりだしたものだ。
「真、何を怒って…」
「怒ってない、だから教えろよ。そのために呼んだんだろう」
小さく震え動揺を隠そうともしない智を、俺はじっと見つめた。予兆は確信を導く。
気恥ずかしさなど、今はもう感じない。智が吐き出そうとしているものへの期待と言い訳程度の使命感に駆られた俺は、智の眼にはさぞ恐ろしく猛々しく映っているだろう。
「智」
出来るだけ静かに柔らかく、と心掛けたが、思ったよりも冷たい響きの声になる。
智はまだ俺を見ず、その視線をふらふらと彷徨わせている。
やがて冷たい沈黙のなかで智の視線が一点に留まり、その先を繊細な指先がなぞった。行きついた先には鮮やかな紫の表紙。
一瞬、俺は後悔した。今からでも智の薄い肩を掴んで引きとめれば、それでもまた変わらない日々が続いていく。
それで良いんじゃないか、と誰かが背後で囁いた。隠されたものなら、わざわざ暴く必要などどこにもない。智の過去がどんなものでも、これからどうなっても、俺が知る五年間は揺るがない。今俺がしていることは、今までを同じように日々を積み重ねていくために必要ない事で、それどころかそれを危ぶませる行為だ。失い続けた
過去の記憶の中の俺自身の声が、か細く言うのが聞こえなかったわけではない。けれど、ここにあるのは俺だけの意思ではなく、智の意図もまた存在するのだ。
アルバムに顔を向けたままで、智の表情は歪んでいた。それが痛みなのか、悲しみなのか俺は知らない。
ただそれを見て痛むだけの良心はあるのだ、湧き上がる好奇心を抑えるのに力不足なものだが。
苦痛に歪められた智の口が綻び解け、嗚咽に近いつぶやきが漏れる。
「同じだ…、真も、央も」
掠れて少し震えた智の声が、聞き慣れない名前を呼ぶ。
「央?」
「話すよ、だから逃げずにちゃんと聴いて」
今まで通りの日々はもう来ない。そう告げるように智の声は強い響きをもって迫ってきた。
「央、央という名前の人だよ。中学の同級生で、唯一の友達だった。誰よりも何よりも、大切な人だ」
一つ一つ確かめるように智は言う。
「大切な人だった」