休日、昼下がり、甘い香り
2
翌日の昼下がり、休日の大通りは久しぶり柔らかな陽光に人々で賑わっていた。
それは華やかで活気があり、俺は少し場違いな気がしてどうにも居心地が悪い空間になっていた。もとも学校への行き帰りでしか通らないせいか、三年近く住む街が全く見知らぬ土地のようだ。
俺の通る時間帯は大抵閉まっている喫茶店や雑貨店はどこも人でいっぱいで、道の向こうに止まったワゴンカーには一つ残らずごてごてにトッピングを施されたドーナツやクレープが目一杯並んでいる。智への手土産にでも、と思っているとあっと言う間に人だかりができ、甲高い歓声が響いた。
「コンビニ、寄るか…」
わざわざ手土産を用意するほど他人行儀な関係ではないつもりだが、いつものようにアポなしで押し掛けるわけではない分、抱いた違和感にやり場が欲しいのかもしれない。
賑やかな大通りを背に路地を一本入ると、淡色の住宅が建ち並ぶ中にライトブルーの看板が目を引く。
日が入らないせいか店の中は外より少し涼しく、外の暖かさを改めて実感する。街の喧騒と違って、ここはいつ来ても何処か気だるげで、どういうわけか居心地が良い。
勝手の分かる店内を見回し少し考えてから、滅多に向かうことのない洋菓子の陳列棚に向かう。スナック菓子よりもそれらしいと思われる大きめのシュークリームを二つ摘みあげ籠に入れる。それからワゴンカーの商品に比べれば圧倒的に大人しく飾られたケーキやらゼリーやらを適当に籠に放り込んでいく。いつもの習慣でつい缶チューハイも手に取ってしまったがレポートは夜まで終わらないだろうし、智も呑めないわけではないから問題無いだろう。
「いらっしゃせ」
相変わらず怠そうなアルバイターが、それでもこなれた手つきでレジを打つ。年季の入ったカルトンに小銭を落とすと、細い金属音が店内に響いた。
「ありがっざした」
滑舌とは裏腹に丁寧なお辞儀をするアルバイターに軽い会釈をして店から出る。
今度は確かな足取りで、真っ直ぐ智の家へ向かった。久しぶりに顔を見せた太陽が、俺の背に柔らかな光を投げかけていた。
大通りから一本路地を入ると、同じ街とは思えないほど景色が変わる。
休日の喧騒に背を向けて、静かな川沿いの道を歩くと智の部屋はそう遠くない。入り組んでいるわけでもないし天気のいい日は景色も良いので、この道を通るのが目的で智の部屋に転がり込んだことも少ない。五分に満たないこの時間に、俺は柄にもなく幸せというものを感じている気分に浸るのだ。
「あ、真」
「ひぃっ」
声と共に目の前を何かが、縦に通り過ぎ足元でじゅっと音を立てた。人に聞かれたら当分外を歩けなくなりそうな情けない声は、自分の喉が震えた音だと少し後で気づいた。それから仄かに甘い香りにも。見上げるとそこには、当然のように智がいた。
珍しく着替えた姿で、コンクリート打ちっぱなしのベランダに立っている。
「智、あぶねえな!」
「ごめんごめん」
全く悪びれない態度で、片手だけこちらに見せた智の口元には新たらしい煙草が、すでに咥えられていた。
「鍵、開けてるから」
そう言って返事も聞かずに、智は部屋の中へ消えていった。
「ったく」
足元ですでにゴミになったブラックストーンの残骸を、拾おうか少し迷ってから摘み上げて手に提げていたコンビニのビニール袋に放り込んだ。袋の中身も今日が終わるころには、この吸殻と同じように捨てられるのだから、深く気にしないことにした。
立ち上がり、すぐ脇のアパートを見上げた。
ベランダだけでなく、建物そのものがコンクリートむき出しで冷たい印象しかない、三階建ての殺風景なアパート。
一回のエントランスには日が届かずいつも薄暗いので、この時期はただでさえ冷たい空気がますます冷たく感じられる。
何処を見ても暗く冷たいこの建物が俺は何度来ても好きにはなれないが、智は気に入っているらしかった。
アパートの三階の角部屋が智の部屋だ。エレベーターなんて大げさなものは当然の如くなく、俺は陽の当たらない寂しげな階段を昇っていく。足音だけが寒々しく響く。廊下も踊り場も人気はないが、通り過ぎる部屋の内側には微かに温もりらしい気配がある。
三つ目の踊り場を過ぎて、木々の隙間からの木漏れ日がぽつぽつ落ちる廊下を行く。その突き当り、紺色の重々しい扉が智の部屋の扉だ。
コンコンコン
それ程古くないこのアパートにはどの部屋にもインターホンがついていないが、その代わりに無骨なノッカーが付いている。映画でみるような金色だのライオンだのの装飾はないが、蹄鉄を模った鉄製のそのノッカーを智はもちろんこれは俺も気に入っている。
コンコンコン
返事がない。ノッカー自体は大げさな造りではないが、部屋の構造上浴室以外なら大抵聞こえると言っていたのだが。
コンコンコンコン
もう一度鳴らしてみるがやはり反応はない。少し迷ってからドアノブに手を伸ばした。ひんやりした金属の感触がやけに明瞭に感じられる。智の言った通りドアノブはすんなり回り、軋んだ音を立ててドアが開く。
ドアの向こう、廊下の奥から白い光が差し込み、一瞬目が眩んだ。
狭い玄関に靴を脱ぎ部屋に上がると、自分が強盗にでもなったような嫌な気分で廊下を行く。リビングに通じる突き当りのドアは開けられていてベランダからの風が廊下にも吹き抜けている。
「智」
白いレースのカーテンの向こうに、智の後ろ姿が浮かび上がっている。下から見たときと変わらず、柵に身を
もたげて煙を燻らせている。
「鳴らしすぎ」
振り返らないまま、煙と共に智が吐き出す。カーテン越しの影だけで、その仕草は嫌味なくらい絵になる。
「お前が応えないからだろう」
廊下から引きずり智の態度に拍車をかけられた俺の不機嫌が、声色に滲み出ているのが自分でもわかった。がしかし、相手は智だ。
今更遠慮も恰好つける必要もない。
「開けてるって言ったから、勝手に入ってきてよかったのに」
しれっと言ってようやく、智が俺を振り返る。少し伸びたショートヘアが靡き黒い瞳が煌めいた。美形というのはどうしてこうもいちいち目を奪おうとするのだろう。見慣れたその姿は腹立たしいほど美しい。
「……、いやお前勝手にって…。いくら付き合い長いとは言え、ほら言うだろ、親しき仲にも礼儀あり、てさ」
「実家にさえ頻繁に顔だしてたやつがよく言うよ」
智の薄い唇が三日月型に歪んだ。いかにも意地悪そうな、それでいて何か魅力的な智の笑顔。
「それ、手土産?真にしては気が利いてるね、どうしたの」
いつの間にかカーテンのこちら側にいた智が、俺の提げたビニール袋を指さす。
「ああ、そう。お菓子とか酒とか」
俺が差し出すと、細く血の気のない智の腕がそれを抱え込んだ。
「酒?レポートするんじゃなかったの」
袋を覗き込みながら皮肉を吐く智は、シュークリームを摘み上げて満足げに見つめた。食の好みはあまりないと思っていたが、甘味尽くしの手土産はどうやら気に入ってもらえたらしかった。
「どうせ夜までかかるだろう。徹夜になったら素面じゃ眠れない」
「真って、自覚ないだろうけど変な気遣いするよね」
智はキッチンの冷蔵庫に、袋の中身を仕舞い始める。
「お前に変だなんて言われたくねえよ」
その時ふと、部屋に甘いような苦いような何とも言えない香りが漂っていることに気付いた。智が愛用している煙草の香りだが、部屋に香りが着くほど愛煙家だっただろうか。そう思って観ると部屋も少し荒れているような気がする。と言っても書類と本で散乱しているのはいつもの事だが。
「引越しの荷物、まだ解いてなかったのか」
一か月前、ここに越して来た時から積み上がったままらしい段ボールを指さすと、智はバツが悪そうにシュークリームに齧り付いた。
「そこは要らない物しかない」
不貞腐れたような智の言葉通り、少し覗きこむと段ボールの中にはCDや写真立てが乱雑に詰め込まれていた。
「本以外は、まとめて処分するつもり」
「本が一番嵩張っているように思うけど?」
俺が言うと深いため息と共に沈んだ声で、本当に、と呟いた。レポートや論文作成のための資料を智は図書館に頼らず自費で購入しているのだ、そのせいか友達はできないものの教授とは良く話すらしい。
「じゃあ始めようか、レポート」
やけにはっきりと言葉にした通り、智はパソコンを足元の座卓に運び始めた。延長コードが段ボールの谷間を縫うように床を這う。
「真のもこっちに繋いで」
と差し出された白く繊細な造りの掌に、慌てて取りだしたコードを渡す。
「あ、鞄も下ろしてなかったね」
延長コードの差込口を差し出した智が言った。
「出来ればなにか飲み物も頂きたい」
「仕方ないね、ついでに淹れてあげるよ」
コードを繋いだ智はおどけるようにため息を吐いて、再びその足をキッチンに向けた。俺も鞄からパソコンと資料を取り出し、二人でレポートをするにはやや手狭な座卓の上に広げる。智はあの本棚から溢れた本たちの中から資料を探すのだろうか、ふと疑問に思ったが不毛な考えは止めて作業に集中する。キッチンから柔らかい香りと共に智が戻った。
「どうぞ」
手元のマグカップに紅茶がたっぷり注がれていた。ミルクも砂糖も入れないのは智の好みで、俺好みに砂糖を入れてくれたことは一度もない。俺には少し渋い紅茶を啜りあげる。対面に座った智はやたらと分厚い本を片手に自分の世界に潜りつつあった。