チャプター6 兎昇天
十六月三十五日
恒星一つを中心とする、公転系の重力圏に入った。主要な惑星は八。その内、液体の水が存在しうる、ハビタブルゾーン内にある惑星が一。微弱ではあるが、有意の電波も受信し始めている。先住の知的生命が存在することは、ほぼ間違いない。俺も含め、チームのメンバーは興奮と歓喜に包まれている。観測班の推測は間違っていなかった。
十六月三十六日
惑星上着陸地点の選定を始める。同時に、指向性脳波通信で一部の個人にコンタクトを図り、成功した。先住生命体は国家と呼べる大規模集団を組織しているようだが、その中枢にいきなりコンタクトするのは避けた。特定集団へ限定的に接触した場合、今後俺達との交渉時、他集団に対するアドバンテージを固守することが考えられる。思わぬ闘争の火種ともなりかねないし、俺達自身の身の安全が保障されるとも限らない。一般個人との接触が、妥当と判断した。
言語、文化、歴史、彼らの思想背景についても情報収集を開始。整理済みデータから、メンバーへのインプットを進める。
十六月三十八日
赤色の地表面を持つ惑星に到達。ここには液体の水が存在しないが、採掘したいくつかのサンプルから、生命の痕跡を発見した。かつて、この惑星にも水があり、生物が存在したのだろう。今はもう、生存には適さない環境と化している。水や資源の存在を期待したが、期待したほどのものは出てこなかった。大気も酸素濃度が低過ぎる。つまり、俺達の目的地はここではない。早々に調査を切り上げ、水のある惑星に向かう。
十六月四十日
生命体の存在が確認されている惑星の周回軌道上にある、小型の衛星付近に到達した。幸い、一般的な衛星と同様に、自転周期と公転周期が同期している。裏側にいる限り、少なくとも惑星からの光学的観測により、発見される可能性はない。
十六月四十一日
衛星への着陸に失敗した。大気もなく、重力も弱い。着陸難度は決して高くなく、むしろ低いはずだった。原因は不明だが、着陸直前、姿勢制御系システムのコントロールが、完全に失われていた。ほぼ最大加速で、衛星面に衝突した。チームメンバーは、俺を残し全員死んだ。ヘレニコも死んだ。
十六月四十二日
生命維持系のシステムが致命的に破損している。先ほどから何度も自動再起動を繰り返している。もはや、ここには留まることができない。上陸艇が稼働可能であることは、既に確認した。俺達の存在を示す痕跡を、裏側とはいえ、衛星面上に残すわけにはいかない。爆破する。すまない、ヘレニコ。ここでお別れだ。すまない。
十六月四十三日
惑星に着陸。大気組成は俺達の活動に支障をきたさない範囲だ。森と土の匂い。我らが星に、わずかに残った大地の匂いとどこか似ている。懐かしい。土を踏んだのは数年ぶりだ。ここならば、俺達の生存の可能性を見出せるだろう。
十六月四十七日
キタノ、と名乗る少女が現れた。事前にコンタクトをはかった相手だ。この惑星では、異星の生命体が稀少であるらしい。しきりと、俺に対して感動していたようだが、警戒心はまったく抱かれなかった。その叔父、ショウジもまた同様だ。彼らの呼ぶ、火星、という惑星で採取した化石は、ショウジの興味を強く引くものだったらしい。母船との通信ロケーションに適した場所へと移動する。
この惑星の人間は、概して好意的で、危害を加える意図というものをおよそ感じない。ごく一部の、限られた人物から受けた印象を、惑星全体の印象として総括するのはあまりに性急であるが、ある程度発達した情報ネットワークをバックボーンとして、共有された倫理的、道徳的価値観には、それなりの普遍性が見て取れる。無論、全惑星的に争いがなく、平和であるとは言えないものの、お互いに憎みあい、いがみ合い続けるという極度の憎悪が、個人にまで広く蔓延していないという程度には、平和であるとも言える。少なくとも、同じ種を生命の危険を脅かすものと、おおむね認識せずに済んでいる、というレベルだが。
キタノの属する教育機関内で、有志の者が集まって行う活動、ブカツと彼らは呼んでいるが、その活動単位の一つである、SF部というものに、俺は匿われることとなった。彼ら部員達は、この地域一般の人間と比べて、それぞれが変わり者であるようだが、共通して言える項目が一つあった。
彼らは皆、孤独だった。共に時間と場所を共有しても、その意識、精神において、共栄、融合といった何らの一体感も持っていない。いや、いなかった、と言うべきだろうか。ノゾミ曰く、彼らは変わったのだと。互いに関心を払わなかった者同士であるはずなのに、いつの間にか、人のことを気にかけるようになったのだと、ノゾミは嬉しそうに語った。その中心にいるのが、俺だと言う。セイテンのヘキレキ、とノゾミが称する俺の存在は、部の空気を、部員の表情までをも、大きく変えたらしい。俺にとっては、彼らが変わろうが変わるまいが、それはどうでもいいことだったが、それでも、彼らが生き生きとしている様子は、悪い光景ではなかった。
俺が日課の通信待ちをしているところへ、マダラが言うには、「よく飽きもせず、毎日毎日カメレオンとにらめっこができるわね。」カメレオンとは、俺の携帯型通信器を指して言っている。何の因果か、この惑星の小型爬虫類と形状が似ているから彼らはそう呼ぶのだが、なぜその爬虫類と通信器が似たような形を取るのか、それはこの宇宙の大いなる謎だ。マダラは、睨んだところで連絡が来るわけじゃない。暑苦しいのもあるし、やめろと言い張るが、俺もまた、この日課をやめるつもりはなかった。今はもう、待つことが俺の任務だ。ひたすらに待つ、いつ来るとも知れない応答を待ち続ける。これをやめるということは、大げさではなく、俺の存在意義を失うことと同じだ。そう言ってマダラの要求をはねのけると、マダラもそれ以上は言わなかった。マダラは、口調や態度こそ無遠慮で刺があるのだが、その実、気遣いの深い人間だった。自身は気遣いなどしていないフリをするのだが、それが照れ隠しであることなど、とっくに部員へ知れ渡っていた。
彼らが学校と呼ばれる教育機関に属しているにも関わらず、日がな一日部室に入り浸っているのはなぜかと問えば、今は夏休みだと言う。この地域は、惑星の公転周期に合わせて変化する気候を便宜上四つに区分しており、現在はその内、もっとも暑い時期だった。「太陽」と彼らが呼ぶ恒星からの輻射熱は確かに強烈であったし、加えて高い湿度が、体感温度を上げていた。この時期を学習の休業期間とするのは、室温を下げる空調システムのない時代の名残(信じられないことに、数十年前までこの単純な空調システムすら一般に普及していなかったらしい)ということだが、制度上、そうした配慮をしたことには同意を禁じえない。それくらい、暑いのだ。我が母なる星の、恒星終末期までとは言わなくとも、ケンゴの言うように、毎年何人もの人間が暑さで倒れるのもうなずける。
サイカは例のごとく、この暑さにも関わらず筋力トレーニングのためと金属製ダンベルの上下動を繰り返していた。したたる汗は、見ている者へも暑さが伝わる。マダラはサイカにこそ、そのトレーニングをやめさせるべきであったし、現に、日に三度は必ず、どこか他所でやれとマダラは言うのだが、それが無駄な要求だと、お互いに分かってもいるようだった。サイカは決まって、部室以外でトレーニングするつもりはないと言うし、マダラもまた、その返事を当然のこととしながら、なお、やめろと言う。いつもの応酬をサイカと繰り広げた後、マダラはあきらめたように向き直ると、ケンゴと協力して作った人体骨格模型をうっとりと眺め始める。キタノとノゾミは、航海日誌とも呼べる、母星出発以来記し続けた俺の手記の翻訳版を、食い入るように読み耽っていた。
時計の針が、律儀に時間の経過を告げ、通信器はいつものごとく、無言だった。微動だにしない机上の通信器を睨んでいると、突然、着信を知らせる明滅と鳴動が始まった。そのあまりに突然な出来事に、俺は不覚にも、椅子から転げ落ちそうなほどに驚いた。部室にいた全員が、いっせいに俺の方へと目を向ける。母船からのメッセージは、ごく短い一文で「イチカクニン、コレヨリムカウ。」キタノは慌てて俺のところへ来ると、メッセージの内容を聞きたがる。俺はしばらく、茫然としながら、三度、四度とメッセージを読み返した。何度読んでも、その意味するところは一つだった。母船が俺の位置を確認したのだ。発信自体はメッセージがここへ到達するずっと以前のはずだ。つまり、コレヨリムカウ、とは、既にここへ向かっているということ。俺は、着信した内容をそのまま読み上げた。おお、という皆の驚愕の声に続き、ノゾミは言った。
「それって、クダリの居場所を、ここを見つけてもらったってことでしょ。いつ? いつ頃迎えが来そうなの?」
「正確な時期は分からないが、こちらからの電文送信から返信までの経過時間から考えて、それほど時間はかからないだろう。恐らく、数週間程度だ。」
と俺が、震える手を抑えながら平静を装って言うと、マダラが珍しく嬉しそうにして、
「よかったじゃない。仲間が来てくれるなら、もう一人ぼっちじゃないってことだし。」
と言った。そうだ。この着信、この一言によって、俺は孤独から解放されたのだ。この宇宙にあって、一人きりという孤独からだ。いや、孤独だったのは俺と同種の仲間から隔絶されていたから、という一面のみで考えた場合であり、ここに、この部室の中にいる限り、俺は既に孤独ではなかったのかも知れない。周りにいる相手が誰であれ、そこに互いへの理解と親和が存在する以上、「一人」宇宙の片隅で、という状況など、端からありえなかったのではないか。
喜ぶ皆の中にあって、キタノだけが浮かない顔をしていた。俺はそんなキタノへ言った。
「どうしたキタノ。浮かない顔をしているが。」
「え? そう? ・・・あのね、クダリが母船と連絡が取れて、嬉しくないわけじゃないのよ。母船のみんなが無事そうだってことも分かったし、クダリもこれで寂しくはなくなるわ。あなたの使命というものも果たせたわけだし。でも・・・・。」
「でも?」
「もう、クダリと一緒にここで過ごすことは、できなくなるんじゃないかって。だって、母船が地球へ来て、あなたの星のみんなと合流すれば、ここに隠れている意味もなくなるのでしょう。」
「・・・そうだな。いつまでもここで過ごすというわけにもいかない。恐らく、母船へいったん帰ることになるだろう。」
いつの間にか、部の全員が、俺とキタノの会話に聞き入っていた。キタノはさらに、つぶやくような声で言った。
「また、戻ってくるのかしら、ここへ。」
「なぜそんなことを聞く。」
「だって、ここを出てクダリがあなたの星の人たちと一緒になってしまったら、もうここへ戻ってくる必要なんてないじゃない。戻って来るつもりもないんでしょう。」
ここを捨てるのね。そんな風にすら聞こえるキタノの言葉に対し、俺は静かに首を振った。
「戻って来ないと勝手に決めるな、キタノ。君は、君達は、我々とのファーストコンタクトを果たした相手だ。なにより。」
俺は言葉を少し区切って、それから続けた。
「友達だから─。」
と言いかけたところで、マダラが思いっきり、俺の背中を叩いた。
「ぐぁはっ! な、何をするマダラ!」
「歯の浮くようなセリフ言ってんじゃないわよ、照れくさいわね。必ず戻って来る、なぜなら、友達だから、って、陳腐よ。チンプすぎるわ。戻って来たければ、黙って戻って来ればいいのよ。どうせあんた達、地球のどこかに住み着くつもりなんでしょう。」
「人を寄生虫のように言うな。・・・まあ、その通りではあるが。いったん母船に戻って、態勢を整えるだけだ。母船にある食料や水、酸素の自給システムもそう長くは持たない。準備ができ次第、俺達の存在を公表することになるだろう。さしあたっては、どこに住むか、が問題になるだろうな。」
ノゾミが顎に手をやって、うなずきながら言った。
「それはそうよねぇ。宇宙人がお隣さんになる、なんて、やっぱり大騒ぎになるだろうし、それに、クダリ達の持ってる技術、地球のものよりはるかに進んでるんでしょう。」
「それは言うまでもなくそうだ。通信、工学、高効率のエネルギー源、計算システム、どれをとっても、この惑星の技術水準より、千年は先を行くものだからな。」
俺はこのとき初めて、自分の星の優位性を、この惑星の住人、つまり地球人に対し、自慢した。母船と連絡がついたことで、気が大きくなっていたせいもあるだろう。ケンゴがつぶやくように言った。
「千年・・・。」
マダラが、にやりと笑みを浮かべながら、よからぬことを考えているような顔つきにある。元々、よからぬことを考え顔なマダラであるが、浮かべた笑みが、よからぬ具合を強めていた。
「ということは、あんたの持ってる通信器とか、ちょっとしたデバイス一つでもあれば、億万長者も夢じゃない、と。」
サイカが白い目でマダラを見て言う。
「億万長者という言葉、久々に聞いたぞ、斑。下世話なことを言うな。この広大な宇宙にあって、異星からの友人ができた。この素敵な事実一つで、十分じゃないか。」
「何をきれいごと言ってんのよ。そんな素敵な友達がいるなら、利用しない手はないのよ。だいたい、地球で一人ぼっちのクダリを匿ったのは私達よ。「お礼」の一つや二つ、あってしかるべきじゃあないの。」
マダラは楽し気にそう言った。お礼、お礼と騒いではいるが、母船との連絡がついたこと、俺がこの星で一人きりのまま、という状況から脱することができたことを、暗に喜んでいるふしがあるようで、マダラのはしゃぎ様を見ていると、そう思えてならない。俺はそんなマダラに言った。
「もちろん、礼については考える。俺達でできる範囲で、ということになるが。」
「それでいいわ。楽しみにしてるわよ。」マダラはそう言って、再び嬉しそうににやりと笑った。
一週間後、予想よりもかなり早く、母船が地球公転軌道近くに到達した。地上からの観測網に引っかからないよう、月の裏側に潜んでいるらしい。俺は近海を泳がせておいた上陸艇を呼び寄せると、夜の校庭へと着地させた。
キタノ、マダラ、ノゾミ、サイカ、ケンゴの全員が校庭の端まで見送りに来てくれた。ケンゴが少し寂しそうに言った。
「もう行っちゃうんだね。次はいつ会えるだろう。」
「いつになるか、正確な時期は分からないが、遠くはない未来と言っておく。」
キタノがほとんど涙を流しそうになりながら言う。
「絶対に、また来てね。約束よ。」
「分かっている。約束する。」
ノゾミは、姿を消している上陸艇の方へ、さかんに目をこらしながら、
「船に乗せてもらいそびれたわ。今度来た時、乗せてよね。」と言うし、サイカは、
「筋トレ、また一緒にやろう。それから、クダリが船の皆からかけられた期待、果たせてよかった。」
と言って、俺の手を固く握った。出会った時だけでなく、別れる時もまた、手を握り合う習慣があるそうだ。
マダラは、さっきから黙ってうつむいたまま、俺の方を見もしない。俺はマダラに言った。
「どうした、マダラ。機嫌が悪いようだが。」
「別に、機嫌は、悪くない・・・・。」
マダラは口を開いた途端、ぽろぽろと涙を流し始め、自分の流した涙に、俺や他の皆以上に、マダラ自身がもっとも驚いたみたいだ。マダラは顔を赤くしながら、腕で涙を乱暴に拭うと、俺を膝で軽く小突いて言った。
「早く行きなさいよ。夜風が目にしみるんだから。」
別れが寂しいから泣いた、とは絶対に言わない。そんなマダラを見て、ノゾミも、ケンゴも、サイカもキタノも、みんな笑った。俺は皆に向かって、
「では、行く。しばらく連絡は取れなくなるが、必ず戻って来る。」
それだけ言って上陸艇に駆け上がり、船内に入ると、機首を衛星、月へと向ける。一気に加速を始めると、地上の光が、見る間に遠ざかって行った。
北野が、音もなく飛び去った船を夜空に見上げながら、一人ごとのように言った。
「行っちゃったわ。兎の昇天ね・・・。」
望美は、北野の顔を覗き込みながら言う。
「月の兎がソラに帰ったから。」
「うん。」
見上げた空から望美に視線を向けて、笑った北野の顔には、人を遠ざけるような冷たさなんて、まったくなかった。北野は変わった、と望美は思う。北野だけじゃない。他人に無関心だった斑も、なんだかんだで自分のテリトリーから出てこようとしなかった彩火も、寂し気にうつむいていることが多かった鎌倉君も、みんな、変わった。一言で言って、明るくなった、というか。望美はそんな部員達を見ていると、幸せな気分になる。
斑が、誰にともなくぼそっと言う。
「明日、またプール行くわよ。」
彩火が即答で言った。
「いいぞ。私はプールに対して復讐をしなければならない。手始めに、水中で5秒間目を開ける。」
「そこからですか。」
健吾はさっそく彩火にツッコミを入れ、それを聞いた北野は笑った。望美は、これまで再三断られてきた提案をしてみた。
「みんなでさ、花火やらない? まだ時間も遅くないし、せっかくみんな集まってるんだし。」
「やる。」
と、北野が真っ先に賛成してくれたのが、望美には嬉しかった。別に、いいんじゃない、やっても、といつもの調子ながら斑が続き、彩火も健吾も乗り気だった。
みんなで手分けして、花火買い出し係、バケツ係、ライター係に分かれて、準備をすることになった。近くの河原に四十分後に集合ということで、それぞれの準備にかかる。ライター係になった斑も、結局はコンビニかどこかでライターを買う必要があるものだから、花火を買いに向かう望美と北野の後ろからついて歩く。二人とも、ねずみ花火と線香花火、どちらが花火らしいかで譲らない議論を交わし、両方やっとけばそれでいいんじゃないの、と斑は冷めた目で見て思うのだが、口には出さないでいた。
頭の後ろで両手を組んで、黄色く輝く満月を見上げながら、斑の顔に、知らず知らず、笑みが浮かんだ。クダリと、船の仲間との再会を喜び合うシーンを想像したからだ。
地球までの先導を果たしたクダリの労をねぎらう上官、涙を浮かべて出迎える同僚。先遣隊の他のメンバーは、事故で死んだことをクダリは静かに報告し、一瞬、その場は痛ましい沈黙とすすり泣きに包まれるが、それでも、明日への希望に対する喜びは消しがたい。再び、安堵と笑いがどこからともなく起こって、クダリはその中心で、時々耳をぴこりと動かすのだ。
月を見ながらにやにやする自分に気付き、はっとなった斑は慌てて真顔に戻るが、前を行く望美と北野はいつのまにか、花火論議を中断して、斑の方を振り返りつつ、ひそひそ、にやにやしている。
「何よ。」と斑は恥ずかしさをごまかすみたいに言った。
「別に。」と二人は声をそろえて言う。それから、望美は続けた。
「斑が嬉しそうにしてるから、私も嬉しいのよ。クダリが船のみんなと再会できて、安心したんでしょう。」
「べ、別に安心なんかしてないし。あの兎野郎がどうなろうと、私の知ったことじゃあないわ。」
「またまた。」
北野も、
「またまたー。」
と言って、斑の反応が照れ隠し以外のなんでもないと言わんばかりだ。斑はこれ以上何かを言えば、自分の本心、クダリが一人ぼっちでなくなったのが、嬉しくてしかたがない、という気持ちを見破られそうな気がして、というより、ほぼ見破られているのだけれど、前の二人を急いで追い越して、早足で歩き出した。
「待ちなさいよ、斑。一緒に行こ。」
望美は斑に追いついて、半袖の裾を引っ張る。斑は、
「私が一人で先に行こうと、私の勝手でしょ。」
と、ぶっきらぼうに言うのだけれど、それでも、口とは裏腹に嫌がっているようには見えなかった。北野も追いついて、三人は月明かりに照る道を、一緒になって歩いた。
部室の脇に転がっていたバケツを調達した彩火は、健吾と共に河原へ向かっている。
「坂井田先輩、僕もバケツ、持ちますよ。」
と健吾はしきりにバケツを持とうとするのだけれど、彩火は、
「いや、これもトレーニングの一環だよ。それには及ばない。気を使ってもらって嬉しいが、むしろ私に持たせてくれないか。」
と、バケツを譲る気配はない。水を満たしたバケツは、かなり重いはずだったが、彩火は豆腐しか入ってないスーバーのビニール袋を持つみたいに、軽々とそれを運んでいる。ちゃぷちゃぷと、歩くに合わせてリズミカルな音をバケツの水は立てる。
健吾は、隣を歩く彩火を見て言いかけた。
「坂井田先輩って・・・。」
「何だい?」
「あ、いや、やっぱりいいです。」
「言いかけてやめるのは男らしくない。ははっ、男らしい、ってなんだというのもあるけれどね。」
「・・・。先輩って、前と雰囲気変わりましたよね。」
「変わった? そうかい?」
「ええ。」
「どう変わったのかな?」
「何と言うか、話しかけやすくなったというか。」
「以前は、話しかけづらかった、ということか?」
「あ、すいません。別に悪い意味で言ってるんじゃないですけど・・・。」
「いいんだよ、謝らなくて。健吾君がそう思うのなら、それは一つの真実だからね。それで?」
彩火は続きを聞きたがった。
「はい・・・。坂井田先輩、部室の筋トレもそうですけど、何事にもストイックで、一つのことに没頭してますけど、その空気が人を寄せ付けなかったというか。腹筋やってる坂井田先輩って、あの単純な反復運動に頭の先からつま先まで、全身が没入している感じがしてたんですよ。先輩が腹筋やってるって言うより、腹筋が先輩やってるというか、僕にはそう見えたんです。」
「腹筋が私をやってるって、脳みそまで筋肉でできてるみたいな言い方だなぁ。」
「そうそ・・・。あ、いえ、いえいえ、違いますよ。そうは言ってないですよ。」
「今、君の本音が垣間見えたが。」
「違います、違います。そうじゃなくて、集中し過ぎて、怖いくらいだったのが、最近はそうでもないってことを、言いたかったんですよ。怒らないでくださいね。」
「ふふふ。怒ってはいないよ。私が怒ったところ、見たことないだろう。片手でカボチャを砕く握力で、君の顔面にアイアンクローを発動してもいいのだけれど、それはやらない。」
「先輩、ほんとに怒ってないですよね・・・。」
「怒っていないよ?」
「なぜ疑問符がつくんです。」
「ふふふ。冗談だよ。」
「ほら、こういうところがですよ。」
「何が?」
「だって、ちょっと前までの先輩、質問したらちゃんとそれに答えてくれましたけど、質問に対する答え以外はあまり喋ってくれませんでしたよ。」
「そうかな?」
「そうなんですよ。ストイックはストイックでも、肩の力が抜けた感じというか。すごく、いいと思いますよ、その雰囲気。」
「おやぁ? 健吾君は、私にほの字なのかな?」
「ほの字って、古いですよ言い方が。いや、好きとかそういうんじゃなくて、いい感じのオーラが出てるって言ってるんです。」
「ふぅん。いい感じのオーラねぇ。自分ではあまり意識していないのだが、まぁ、変化というのは概してそういうものか。変わり続ける本人が、その変化に気づいていないと。」
「端から見てるとすぐに分かるんですけどね。自分のことって、意外と分かんないですよ。」
「そうかも知れないね。」
彩火はそう言いながら、月を見て思う。もし自分が変わったというのであれば、それはクダリの存在があったからではないのか。期待される自分と現実の自分のギャップにいじけていた彩火にとって、期待を期待として全身で受け止めるクダリの考え方、なんというか、生き方は、衝撃ですらあった。期待されるのであれば、期待させておけばいい、その試行の正否に関わらず、というある意味開きなおった率直さは、彩火の態度にも大きな変化をもたらした気がする。クダリの鷹揚にして誇り高い姿勢は、見習うべきあり方として、大げさにいえば人生の指針として、彩火の目に映ったのである。
健吾は、月を見上げて黙った彩火の心の内を見透かすように、言った。
「クダリは、無事に仲間と再会できたんですかね。」
「できたろうさ。彼なら大丈夫だよ。多少テンパり屋なところがあったけどな。」
「そうですね。」
健吾は笑いながら答えた。
河原に着くと、既に望美達が先にいて、遅いわよ鎌倉ぁ、と斑の声が飛ぶのだけれど、その顔には笑みが浮かんでいる。
火のついた花火の閃光に揺らぐ、望美と、彩火と、北野と、斑と、健吾、みんなお互いの顔が見えるよう、何となく環になって、それでいてやっぱり面と向かって顔を見るのが恥ずかしくもなって、赤や黄色に美しく飛ぶ火花を使い、丸や四角い残像の絵を、誰ともなく暗闇に描き始めた。光によった一瞬の絵が、次々に生まれ消えて行く、その絵を作っているうち、それぞれの花火から出る五筋の煙がまざり合い、一緒になって、深くどこまでも、夜空にたなびいた。