チャプター5 あにはからんや、鉄面乙女の実相よ
筋肉が、きしむ音を、きいたことは、あるだろうか。したたる、汗、筋肉が、収縮と、伸張を、繰り返すたび、きしきしと、骨を伝って、鳴り響く、音は、至上の、囁き、自分が、まさに、鍛えられて、いると、感じ・・・。
「ちょっと、彩火。プールに来てまでスクワットやらないでよ。恥ずかしいでしょ。」
と横から私を注意するのは、望美だ。私はスクワットで伸び上がった体勢のまま言った。
「動きやすい格好すると、つい身体が勝手に動くんだ。止めないでくれ。」
セパレートの水着で上はタンクトップ、下はスパッツと、こんな格好で筋トレするなと言われても無理がある。
「そりゃ水着着てるんだから動きやすいのは確かだけど、だからってスクワットはないでしょう。さっきからそこいらの男子達に、色んな意味で注目されてるわよ。」
なぜか、望美は「色んな意味で」と口にするとき、ちょっと恥ずかしそうな表情を浮かべた。言われてみると、周囲の男子からの視線が、私の肉体の特定部位に集中している。私は、にやり、と笑って望美に言った。
「腹筋や大腿筋に注目が集まるのなら、それはそれで悪い気分じゃないさ。」
「腹筋? え、いや、あのね、それもあるかも知れないけど、注目されてるのは、どちらかってゆーと、その、胸とか、お尻とか・・・。」
望美はもにょもにょ言いながら、頬を染める。何が恥ずかしいのかよく分からない。
「見たいというなら、見させておけばいいじゃないか。減るものじゃないし。」
「そういう問題じゃなくて、恥じらい的な話よ。」
望美がそう言うのに対して、私の背後からツッコみが入った。
「何が恥じらいよ。あんた達二人とも、グレープフルーツみたいなのつけちゃってさ。水着を着ること自体を恥じらいなさいよ、むしろ。」
斑だ。私達の胸をにらみながら、なぜか機嫌が悪い。望美が胸を腕で隠しながら言った。
「ちょ、グレープフルーツって、そんなおっきくないわよ。」
「否定しても無駄よ。「ある」ものは「ある」んだから。」
「そこでからまないでよ、斑。私だってプールはあんまり来たくなかったのに・・・。それでも、珍しく斑が言い出しっぺだから来たんじゃない。」
そうだ。あろうことか、あの斑が、人のことなどまるで無関心で、自分から「みんなで」何かをやろうなんて言ったことのない斑が、突然、プールに行こうと言い出した。
この驚嘆すべき事柄は、ひとえにクダリの存在が端を発するものと思う。半分壊れた通信機から、発信はしているらしいのだけれど、応答がいつ来るのか、そもそも、母船とやらに届くものなのか、そこらへんはまったく分からないらしい。クダリがふさぎ込んでいるのを、斑はかなり気にしていた。いや、口に出して心配しているわけではなかったのだが、部室で時々クダリを見る視線に、心配の二文字が垣間見えるのだ。斑は、そんな素振りをまったく見せていないつもりみたいだったけれど、意外とその辺、斑は不器用だ。本人が気づかれていないと思うほどに、隠しおおせていない。落ち込むクダリを励ますため、プールにでも連れて行こう、という斑の意図を、部員全員が察したのは言うまでもない。
部のメンツでどこかに行くなんて、少なくとも私が入部して以来、初めてのことだ。部員同士で部活の帰りにご飯を食べたり、どこかに寄ったり、休日に集まったり、普通の部活で見られる当たり前の光景が、SF部にはなかった。まったくなかった。だから、こうして五人プラス1が、真夏の日差しを受けてプールサイドに立つという様子は、どこか現実離れしているようにすら見える。五人プラス1とは、望美、斑、北野、健吾君、私、そしてもちろんクダリだ。
クダリはクダリで、また注目を集めている。兎の着ぐるみがプールに入ろうとしているから、ではない。今のクダリは、外見上、人間に見える。というより、人間にしか見えない。
クダリ達兎星人にとって、毛の生え変わりは健康維持上、必要なものらしい。だから、毛生え薬ならぬ、毛生えぬ薬とでも呼べばいいのか、頭髪を残して全身の体毛を一時的に抜け落とす作用を持った、サプリのようなものがあるみたいだ。プールへ行くために彼はそれを使った。前日までいた兎の代わりに、緑眼のイケメン少年がジャージ姿で部室にいた時は、正直驚いた。
クダリが衆目を集めるのは、銀に近い白髪の、西欧系美少年然とした姿と、愁いを帯びた緑色の瞳がために、他ならない。今も、通りがかった女子三人組が、ひそひそと嬉しそうに囁きながら、しきりにクダリの方を見ている。
北野はクダリの顔をまじまじと見つめ、首をかしげて言った。
「不思議ねぇ。毛が生えていたときはどう見たって兎だったのに、それがなくなると、人間みたいよね。」
「あまり人の顔をじろじろと見るな、キタノ。地球人類と我々の骨格上の相似は、月に到達する前から認識はしている。その要因については、まったく不明だがな。」
「ふーん。でも、こんなに人間そっくりに見えるなら、その姿でいればいいんじゃない? 兎の姿も、なんだかんだで目立っちゃうし。」
「毛はすぐにまた生えてきてしまうし、それに、かなり神経も使う。」
「神経を? なぜ?」
「耳だよ。」
「耳?」
「頭髪の中に耳を畳んで隠しているんだが、この状態を維持するのは結構疲れるんだ。」とクダリは自分の頭を指差して言った。
それを聞いて私は、
「ほう。つまり、空気椅子で微積分の勉強をするようなものか。想像するだに、タフな状況だな。」
と言った。その状況を想像したのか、北野が青ざめながら言った。
「ひぃ。彩火ちゃん、空気椅子で微積分とか、怖いこと言わないで。聞いただけでぷるぷるしてきそう。」
クダリは、
「空気椅子でビセキブンとは何のことか?」
と首をかしげるものだから、私は取り急ぎ、空気椅子を実演して見せた。
「こうだよ、クダリ。この状態で、難しい数学の勉強をするんだ。」
北野が、驚嘆の声を上げた。
「すごいわ、彩火ちゃん、本物の椅子に座ってるみたい。しかも、全然ぷるぷるしてない。」
「ふっふふふ。日頃のトレーニングの賜物さ。」
クダリも、私の空気椅子っぷりをしげしげと見て言った。
「ふむ。その体勢はなかなかきつそうだ。それほどまでとは言わないが、俺の耳隠しも普段使わない筋肉を使うから、長時間はつらい。」
そこへ、鎌倉が手を日よけにかざしながら、私に言った。
「坂井田先輩、何をやってるんですか。」
「空気椅子だよ。健吾君もどうだい、一緒に。なかなかクるぞ。」
「いや、この日差しで空気椅子とか、倒れちゃいますよ。それより、神崎先輩と設楽先輩、暑いからって、もう行っちゃいましたよ。坂井田先輩達も、行きましょうよ。」
その言葉に、北野とクダリはプールへと向かった。よくよく見ると、プール際で斑が振り返ったまま、じー、っとクダリを見ている。「クダリが」楽しめているのか、確認しているみたいだ。まったく、気になるのなら自分でクダリに声をかければいいのに、遠回しな気遣いが分かりやすい。
私は残った健吾君にさりげなく言った。
「じゃあ、健吾君も行って来るといい。私はここで荷物番をしながら、スクワットと腕立てをしているから。」
すると、健吾君は野生のハシビロコウでも目撃したみたいな顔をして、
「ええ? 坂井田先輩、泳がないんですか? スクワットと腕立て伏せって、プールでやる運動じゃないですよね。荷物番って言っても、貴重品は預けてあるから、タオルくらいしかないですよ。大丈夫ですから行きましょうよ。」
と大いに正論をぶちまけてくる。私はさらにさりげなさを装って言った。
「ああ、うん。いや、いいんだ。今日は泳ぐというより、スクワットな気分だから、気にしないでくれ。ほら、望美も早く来いと呼んでいる。」
「スクワットな気分て、どんな気分ですか。」
と健吾君は言いながらも、望美が呼んでいると言われ、ちらちらとプールの方を気にしている。健吾君は、楽し気に騒ぎ始めた望美や北野達の歓声に抗しきれず、
「じゃあ、先輩も後から来てくださいよ。こんな暑さでスクワットとか続けたら、熱射病になっちゃいますからね。」
と言い残し、プールに向かって足早に歩いて行った。
さて。私は、さすがに日差しを浴び続けるのもきついので、市民プールの敷地脇に立つ、大きな銀杏の木陰に入ってスクワットの続きを始めた。
さっきは八十二回目までやったから、次は、八十三、八十四、八十五、八十六、よし、いい感じだ、したたる、汗も、澱んだ、真夏の、熱気も、むしろ、心地よい!
と、快調に大腿直筋とハムストリングスをいじめぬいているところ、いきなり、私の死角から脇腹を突っつくものがある。
「はぁふ!」
突然の奇襲に、恥ずかし気もなく嬌声を上げてしまった。見れば、いつの間に回り込んで来たのか、水をしたたらせた望美がいた。
「ちょっと、彩火。スクワットと腕立てって何よ。ここはプールよ。泳ぐところよ。行きましょ。楽しいわよ。」
望美はそう言いながら、ぐいぐいと私の腕を引っ張る。
「あ、いや、ちょっ、望美! 私はいいんだって。」
「何がいいのよ。斑が、「あの」斑が、みんなで外に出ようと言い出したのよ。部長の私がいくら呼びかけたって、みんなで一緒に遊びに出たことなんてないんだから。これは部の一体感を高める、千載一遇のチャンスなのよ。一人スクワットなんて認めないわ。」
スクワットの疲労が溜まりつつあった足が、言うことをきかない! 望美の胸の感触を腕に感じつつ引っ張られるまま、プールサイドまで連れて来られてしまった。真夏の太陽をぎらぎらと反射させ、水面は残酷な揺らめきをたたえていた。
「ほら、ざぶんと行っちゃいなさいって。」
ぽん、と望美が私の背中を押した。
「わ、ちょっと! わわ!」
どぶん、と音を立て、私はプールへと、奈落に等しい魔性の水底へと沈む・・・。
「わぷ、わぱ・・・・!」
ばちゃばちゃともがきつつ、言葉にならない悲鳴のような声を上げながら、私は水面上と水面下を行ったり来たり。いや、もうどっちが水面でどっちがプールの底かすらよく分からない。当然だ。目をつぶっているんだから。目を開けることすら忘れて、私はひたすらもがき続ける。スクワットの疲れがそんな状況に私を陥れた、わけではない。そう。私は、泳げないのだった。
突然、ぐい、と遠慮のない勢いで、私は抱きかかえられた。お姫様抱っこの状態で、抱きかかえたのは、クダリだ。華奢な外見とは裏腹に、意外と力強い。クダリはいつもの、一本調子な冷静さで言った。
「大丈夫か、サイカ。落ち着け。ここは足がつく。」
「あ・・・。え? あ、あの・・・。」
私がカナヅチであること、部のみんなにそれがばれたこと、クダリに水着のまま抱きかかえられていること、鼻から入った水がツンとして痛いこと、そんな諸々の事柄が脳裏に次々と去来する。
とん、とプールの底に足のついた感触がした。クダリが私を立たせてくれて、そして、予想通りのみんなの反応だ。私を見て、唖然とした表情を浮かべている。こんな顔で見られるのは、初めてじゃなかった。
私はスポーツができる女子に「見える」。スポーツ万能、球技からマラソンまで、何でもこなせるスポーツ少女と、勝手に思われていた。小学生の頃から、リレーのアンカーをやってほしいとか、地域のバスケチームに参加しないかとか、運動系の活動において、ひっきりなしに声をかけられた。体育の授業とかでは、なるべく隅の方でお茶を濁していたのだけれど、試合とか、競争とか、はっきりと勝負が決まる場所では、ごまかしようがない。いろいろ言い逃れて断っていたんだけれど、泣きつかれて、どうしても断れなくて、前向きに取り組めば少しは上達するかも知れないという、一縷の向上心もあって参加したバスケの試合、点を決められないどころか、味方のパスを受けるたんびに突き指をして、顔面でボールを受け止め鼻血を流し、テン、テン、と転がるボールを拾って見上げた周りの顔。失望と落胆と、自分達で参加を頼んだ手前、怒ることも笑うこともできず、同情したらいいのか、励ませばいいのか、どう反応したらいいのか困っている、引きつった笑みが、みんなの顔に張り付いていた。結局試合に負けて、後に残ったのは気まずさだけだった。私は私で申し訳なく思い、私を誘ったみんなの方でも、スポーツ少女という私の虚像と現実のギャップから、戸惑いながら私と距離を置くようになった。以来私は、クラスで孤立した。
中学に入ってからも似たようなことが起こって、それから私は筋トレを始めるようになった。筋トレは、運動神経とあまり関係がないし、同じ動作を反復するだけで効果が出るものだったから、私はのめり込んだ。筋トレして、筋肉をいくらつけたところで、バスケが上手くなるわけでも、足が速くなるわけでもない。それでも私は、努力に結果が伴うこの運動を、こよなく愛するようになった。筋トレの爽快感は筋肉への愛情に昇華され、至言すれば、運動音痴の私に対する、自らが課した罰でもあった。バスケの試合でみんなの期待に応えられなかった自分が情けないし、それゆえの罰。でも、それ以上に、勝手に私は運動が得意だと、そう思い込む周囲への全力の反発という意味合いの方が強かった。スクワットは罰であり、スクワットは反抗だ。いくら言っても、私は運動が苦手だと信じない、周囲によって作られた私の虚像を打ち壊す、無限の反復運動だ。皮肉にも、筋トレなんかして、筋肉がついて、ますます私は運動が得意だという、虚像の蔓延を助長する結果になってしまったけれど、私はやめられなかった。筋トレ中毒にかかったようなものだ。
走馬灯のごとくあふれ出る回想を中断させたのは、斑の言葉だった。
「彩火、あんた泳げないの?」
「うん・・・・。」
「へぇー、意外ね! 学校のプールの授業では、ビート板使ってものすごい勢いのバタ足やってるから、てっきりイルカ並に泳げるもんだと思ってた。」
「あれは、ビート板につかまって足を動かしていないと、沈んで行くものだから、必死になってバタ足をやってただけだ・・・・。」
「ああ、そう。すんごいトレーニング中、というより、溺れかけてただけ、と。」
「うん・・・。ちょっと、一人にさせてくれないか・・・。」
私は、みんなの目から逃げるようにしてプールサイドに上がると、何もないところでいったんつまずいて、それから、頭にタオルを被り、プールの隅っこの木陰に座った。
またやってしまった。SF部のみんなにも、運動ができる女子という私のイメージが、すっかり定着していたはずだ。別に私は運動ができると喧伝したわけではないし、むしろ、運動は不得手と言い続けてきたのだけれど、またまた、何言ってんのよ、という空気になって、信じてもらえた試しはなかった。それが、さっきみたいにド派手に溺れて、あきれられて、また居場所を失うのかと思うと、涙が出てきた。我ながら情けない顔をしているのかと思うと、ますます涙があふれてくる。
すると、頭上から無遠慮な声が落ちてきた。
「プールのはしっこで、随分分かりやすく落ち込んでるのね。」
慌てて涙を拭いて、ぱっ、と顔を上げる。逆光で顔が見えなかったけれど、その顔を見るまでもなかった。学校のプールでもないのにスクール水着を着て、胸には白布に海江田、と大書してある。海江田菊菜だ。学校では生徒会長として顔が通っているけれど、私個人にとっては、家が近いせいもあって、昔からの友達。友達というか、腐れ縁だ。
相手が菊菜と分かると、私はぶすっとしたまま視線を逸らして言った。
「菊菜か。落ち込んでなんかいない。ちょっと木陰で休憩してただけだ。」
「どうせ、プールで溺れて、みんなから白い目で見られたものだから、逃げて来たんでしょう。」
「う・・・・。」
図星を突かれて、私は言葉を失う。眠た気な菊菜のひとえは、その見た目に反して鋭い洞察力を誇る。まるで直接覗いたかのように人の心を見透かすものだから、私は昔から、菊菜が苦手だった。それでも、私が運動音痴だと認めている、数少ない理解者ではあるのだが。菊菜は、私の隣にとす、と座ると、ひとえの底から私を見つめて言った。
「気にすることないと思うわ。そんなの、彩火に対して勝手に幻想抱いて、現実を知って、勝手に幻滅しているだけなんだもの。むしろ、彩火自身が、運動のできる彩火、というイメージに依存している部分もあるんじゃないかしら。」
「何だって?」
「得意なことがあるって、人から思われる分には、悪い気しないじゃない。そこに彩火も甘えているって言ってるの。」
ずけずけと菊菜は言ってくる。こういうもの言いをしてくるところも、私が菊菜を苦手とする理由だ。しかも、言ってる内容がまったく間違っているというわけでもなく、むしろ、怒りたくなるほど真実だから、たちが悪い。私は菊菜に言った。
「甘えていたら何だって言うんだ。私は運動が得意だなんて、一言も言ったことはないし、みんなが勝手にそう思うんだから、仕方ないだろ。それで迷惑する方が、むしろ多いわけだし。」
「そうかも知れないけど、誤解を放置しているところもあるんでしょう。それで彩火が困るというなら、自業自得と言わざるをえないわ。」
私を励ましているのか、責めているのか分からない。私はうるさい蚊を追っ払うみたいにぱたぱた手を振って言った。
「分かった、分かった。もういいよ。で、何の用?」
菊菜は私に話しかける時、必ず最初の話題以外に何か用件を持っている。本題なのがその二つ目の話題、という場合が多くて、多いというか、ほぼそうなのだが、そこでもまた、菊菜をいけ好かないと思うわけだ。言いたいことがあれば、最初からそう言えばいいのに、必ず、別の話題を間に挟んでくる。しかも、その本題というのが、たいてい私にとって不都合な内容が多い。
「用ってほどでもないんだけれど、最近学内で妙な噂を耳にするのよ。」
「噂?」
「そう。夜な夜な、兎男が出るって噂。」
内心、ぎくっ、となったけど、努めて表には出さず、驚いた風に私は言った。
「兎男? 何だそれは?」
「夏休み中ということもあって、部活関係の生徒くらいしか学校に来てないけれど、その一部の生徒が言うのよ。兎の頭をした生き物が、夕方の薄暗がりの中、二本足で廊下を歩いてたって。それで思い出したのが、設楽さんよ、あなたの部の。」
「ま、斑のことを、何で思い出すんだ。」
「だって、設楽さんと東さん二人が、兎の着ぐるみを連れて歩いていたもの。罰ゲームとか言って。」
あの二人・・・! よりによって、菊菜にクダリを見られてたのか。他の生徒ならまだしも、菊菜はまずい。先生達の信頼も得ているし、何より、一度決断したら、菊菜の行動力は半端じゃない。部室にかくまっているクダリのことが知れたら、即追い出されることだって、ありうる。ここは、口裏を合わせるしか、ない。
「あ、ああー、罰ゲームね。そうそう、そんなこと、やってたなぁ。」
「彩火。」
と私の名を呼びながら、菊菜はじっ、と、私の瞳をのぞき込むように言う。
「あなた達、何か隠しているんじゃないでしょうね。」
「か、隠す? 何も隠すことなんてないさ。ば、罰ゲームはもう終わったから、着ぐるみは返しちゃったし、何も隠してない。」
「着ぐるみを、誰に返したの?」
「え? あー、商店街の知り合いのおじさん・・・。」
「そう。じゃ、裏を取るからその人の名前、教えて。」
「・・の、お兄さんの友達のいとこっていう人が、た、たまたま貸してくれてさ。イベントで使う予定だったけど、急遽余って転がっていたのを見つけて、ちょっと貸してもらったんだ。そのいとこの人は、名前なんて言ったかな。覚えてないな。う、うーん、残念ながら、忘れてしまった。」
「・・・ふーん。」
まずい。菊菜は完全に、疑っている。クダリの存在が公になって、騒ぎになるのは避けたい。本人がまず、そうなることを望んでいない。
菊菜は私の顔をじーっと見たまま、微動だにしない。こうなった時、菊菜がいったい何を考えているのか、まったく見当がつかなくなる。私のウソを信じたのか、ウソを信じる振りをして、私を泳がせるつもりなのか。
これ以上追及されようものなら、あっと言う間にぼろを出しそうだと思った矢先、おかしなことが起こった。おかしな、というか、意外な、というか。
菊菜がふと私から視線を逸らしたかと思うと、不意に、眉間にしわを寄せて、ものすっごい目力で一点を睨み始めたのだ。視線の先を見ると、当のクダリだ。ぽたぽた水をしたたらせながら、こっちにやって来る。菊菜は明らかに、クダリを睨んでいる。
いや、睨んでいるように見えるが、実際睨んでいるわけじゃない。私は一度だけ、菊菜のこの表情を見たことがある。小学生の頃、隣のクラスの高山君を、菊菜はちょうど今みたいな顔で睨むのだ。睨まれまくった高山君は、いわれのないその拒絶に怯え、菊菜を避けるようになったわけだけれど、後々、風の噂で聞く限り、どうやら菊菜は、高山君のことが好きだったらしい。好きになった相手を睨みつけるという難儀な習性故か知らないけれど、菊菜の浮いた話を聞いた試しがない。
クダリを睨む、いや、見つめる菊菜の横顔は、高山君を見ていた時とそっくりだ。ずんずんとクダリが近づくにつれ、菊菜の睨みも鋭くなる。クダリは、激しく自分を睨む菊菜を不思議そうに見ながら、腕組をして仁王立ちになり、私に言った。
「サイカ。皆はしばらく放っておけと言っていたが、どうしたんだ。さっき溺れて、具合でも悪くなったのか。」
「い、いや、具合は、悪くない。心配してくれるのか。」
「心配というほどではないが、気になっただけだ。問題がないと言うなら、確認したかったのはそれだけだ。もう行くが・・・、ところで、こちらの御仁は?」
もはや、憎悪と呼んでもおかしくない睨みっぷりでクダリを見る菊菜を、目線で指して聞いてきた。
「ああ、この子は菊菜だよ。海江田菊菜。うちらの学校の生徒会長。」
「キクナというのか。よろしく、キクナ。俺はクダリという。」
そう言いながら、にこりともしない仏頂面で、クダリは菊菜に手を差し伸べる。菊菜は管ダリを睨んだまま、無言でその手を握り返した。菊菜の眉間のしわは、さらに深まって行った。
私は、早口でクダリの紹介をする。
「クダリは、北野のおじさんの親戚の子で、しばらくこっちに住むことになったんだ。だから、部のみんなも呼んで遊ぶことになったわけだ。髪の色が白いのはクダリの母方のおじいさんがヨーロッパ系で、隔世遺伝ってやつ。染めてるわけじゃないんだぞ。」
一生懸命、クダリの急造設定を説明してるのだが、菊菜はそんな私の話を聞いているのかいないのか、クダリを睨んだ視線を動かさない。さすがのクダリも睨まれっぱなしなのに機嫌を損ねたのか、
「じゃあ、俺は行くからな。皆が心配するから、サイカも早く戻れ。」
とそっけなく言って、回れ右をするとプールの方に行ってしまった。クダリが遠ざかるにつれて、菊菜の眉間のしわも、浅くなって行く。
「・・・・菊菜。」
「何よ。」
「もしかして、クダリって「ド」ストライクな感じか?」
「・・・・・。」
無言の菊菜の頬に、ほんのり朱がさす。当たりだ。よし。どさくさに紛れただけではあるが、校舎をうろつく怪人、兎男の件は、うやむやにできそうだ。菊菜は、はっ、と我に返って言った。
「そんなことより、兎・・・。」
「クダリってさ、ちょっとかっこいいよな。」菊菜の言葉を遮るように私は言った。
「え? ああ、まぁまぁじゃないの。でも別に、特別かっこいいというわけじゃ・・・。」
「彼女とか。いるのかなぁ、いないのかなぁ。気にならないか?」
私は、ずい、と菊菜に顔を近づけて言った。
「・・・・気にならないわ。」
「本当に?」
「本当。」そう言いながらも、菊菜の目が一瞬泳いだのを、私は見逃さなかった。
「じゃあ、私がクダリに、彼女がいるかいないか、聞き出しても、それを知りたくはない、そう言うんだな、菊菜。」
「そうは言ってないけど・・・。」
いつも歯切れのいいもの言いをする菊菜なのに、珍しくもにょもにょと言葉尻を濁した。もう少しだ。兎男の件は、このまま、うやむやの霧中へと葬り去ってやる。
「クダリは今、北野のとこにいるらしいから、結構会う機会はあるんだ。聞き出したら、教えてあげよう。」
「・・・・。」
否定しない菊菜の沈黙を、私は肯定と受け取った。真面目一辺倒で冷血感漂う菊菜であるのだが、以外と乙女チックな部分もある。菊菜の部屋なんて、少女趣味全開の、ピンクでぬいぐるみなところなのだが、学校ではそんな素振り、ちっとも見せない。何だか久々に、菊菜の地を私は垣間見た気がした。
泳げないことがばれて、落ち込んでいたことを、今になって思い出した私は、再び落ち込みかけたけれど、気にすることない、と言った菊菜の言葉が頭に浮かんだ。沈みかけた気分をどうにかもちなおす。無遠慮に思ったことを言う菊菜だけれど、その言葉に私が救われることも結構あって、それがまた、菊菜をいけ好かない、理由のひとつになっていた。だって、菊菜は自分の言葉で私の気持ちが楽になるであろうことを計算に入れて、冷笑を織り交ぜてくるのだから。これで、素直に人を励ましてくれる、十パーセントの要素でもあれば、すごくいい子となるのだが。
私は立ち上がって伸びをした。みんなのところに戻りたいのだが、どんな顔して行けばいいのだろう。さっきの溺れっぷりに加え、カナヅチがばれたことを気に病む私、というものを見られた以上、何食わぬ顔で戻るには骨が折れそうだった。
無言で思案しているところに、菊菜が奥の建物を指さして言った。
「あそこ。浮き輪貸し出してるから、借りてくれば?」
「あ・・、うん。」
またまたいけ好かない。私の考えを見透かしたように言う。浮き輪を使えば水に入ってみんなと遊べる。それは確かに、いいアイデアだったものだから、私はなるべく、恩に着ない風を装って菊菜に言った。
「あって邪魔になるもんでもないし、仕方ない、借りてくるとしようか。じゃ、菊菜、また。ああ、ところで、今日は誰と来てるんだ?」
私はきょろきょろと、辺りを見回しながら言った。さっきから、菊菜の連れが見当たらない。どうせ、生徒会の連中と一緒に来ているんだろうと思っていると、
「一人よ。」
と、意外な言葉が返って来る。夏休み中の市民プールに、一人で来るか・・・。菊菜は、
「浮き輪を借りたからといって、安心しないことね。浮き輪につかまって、なお溺れるのが彩火なんだから。」
と捨て台詞を残すと、人ごみの中に消えて行った。学校では、耶麻田や須津城といった、生徒会連中を取り巻きさながらで連れているけれど、考えてみれば、菊菜の友達らしい友達って、私くらいのものなんじゃないか。一緒に遊ぼうと誘えばよかったか・・・?そんな考えが頭をよぎったが、菊菜のことだ、あっさり断りそうな気もする。
頭上の木にとまった蝉が盛大に鳴き始めたせいもあって、私は考えるのをやめた。
「さて、じゃあ浮き輪だな。」
中天の太陽が肌に痛い。
部のみんなでプールに行くという、望美曰く、SF部始まって以来の快挙から数日後、クダリは相変わらず、カメレオンみたいな通信器と、日課のにらめっこをしている。斑の気遣い、斑本人は、絶対に気遣いということを認めず、クダリが暑さで死にそうだったからプールに連れて行っただけ、という主張を崩さないのだけれど、その気遣いもあってか、クダリは少し、元気になったみたいだ。
それでも、日課となっているこのにらめっこは、毎日決まった時間、午後二時三十二分になると、必ず始まる。望美や鎌倉君、他のみんなは、午前中で早々に引き上げ、今は私とクダリしか、部室にいない。私は腹筋を繰り返しながら、起き上がる度に同じ格好で、机の上のカメレオンを見つめるクダリを目にしていた。私は、ぎゅうぎゅうと収縮する腹筋のリズムに合わせながら言った。
「なあ、クダリ。」
「何だ、サイカ。」
「そうやって、カメレオンと、にらめっこ、するのは、やっぱり、連絡を、待ってる、からなのか?」
「そうだ。」
私は腹直筋トレーニングに一息入れ、ベンプレ台にまたがって座りながら、汗を拭いて言った。
「何でいっつも同じ時間帯にそうするんだ?」
「この時刻が、惑星自転上、もっとも受信しやすい方向を向くからだ。」
「ふーん。でも、そんなに気合い入れてにらめっこしてなくてもいんじゃないか? 受信すれば、何か反応するんだろう、その機械。」
「無論反応はするし、履歴にも残るが、受信の瞬間を逃したくない。なるべく早急に対応したいからな。」
相変わらずクダリは、無駄のない、張りつめた後背筋みたいな喋り方をする。
「クダリは、軍人なのか?」
私は、前々から訊いてみたかったことを言った。
「ああ、軍属といえばそうなる。だが、船内の皆は老人から子供まで、何らかの役割をもって活動しているし、軍というより、単純に小型艇の操縦スキル等を持った、技能集団と呼べなくもない。」
クダリはカメレオンから目を離さずに続けた。
「大規模な戦闘も、母星を経って以来、発生はしていない。」
「戦闘? 誰かと戦っていたのか。」
「惑星をほぼ二分する勢力間の争いだよ。急変する環境、枯渇する資源。自らの生存に関わる要素をそれぞれが求めるんだ。戦争は必然だった。数十年続く、果てのない戦いだった。」
「そうか・・・。大変だったんだな。」
「だが、我々が直面したのは、そもそも争いで解決する事柄じゃない。自分達の星そのものに、住めなくなりつつあったんだからな。互いの勢力内でも、主戦派、非戦派入り乱れ、混乱の極致だった。一部の者達は、他惑星への移住を目指した。だがその行為は、「希望」という言葉だけでは美化しきれないものだ。行った先の星が本当に居住可能かなど分からなかったし、そもそもたどり着けない可能性、行き先を見失う可能性、船の致命的な障害、方針の対立による船内暴動、考えられる困難からして、成功率はゼロではない、という程度のものだった。片道切符の宇宙旅行だよ。出発をためらう者も多かった。」
「片道切符・・・。」
私は、暗い宇宙へ向かって、定かではない行き先へ、帰って来る手段を持たずに出発する時を想像して、思わずぞっとした。それでもなお星を発った、クダリ達は、それこそ必死だったに違いない。
私はミネラルウォーターを一気にペットボトル半分くらい飲み干してから、クダリに言った。
「そんなぎりぎりの状況で、自分たちが生きられる星を探して先行したんだ、クダリ達は。」
「ああ。母船の皆の期待、希望、生存への活路、それらすべてが、俺達の双肩にかかっていた。」
期待・・・。私はその言葉に、ぎくりとした。苦境を覆してくれるだろうという期待。この人間にならやれるだろうという期待。私は、運動ができるに違いないという期待に、押しつぶされてきた人間だ。思わず、クダリへ訊いた。
「そんな重い期待をかけられて、プレッシャーはなかったのか?」
「プレッシャー?」
「そう。成功させなければならないというプレッシャー。」
「そうした感情はなかった。俺達は課された使命に細心の注意を払い、全力を尽くすのみだったからな。そもそも、失敗するかも知れない、などと考えるのは、集中力の散漫の証だ。ひたすら成功を見つめる限り、プレッシャーなどというものを感じる余地はない。」
言い切った。プレッシャーを感じる余地はない、か。菊菜は、私が運動できる私というイメージに、依存してるんじゃないかと言った。それは結局、その通りなのかも知れない。バレーが、バスケが、水泳ができようとするから、期待される私像に無理矢理自分を合わせようとするから、苦しむんだ。
失敗という概念すら頭にないクダリを見ていると、私もまた、開き直っていいような気になってくる。できないものは、できないんだ。過度に期待されても困る。勝手に期待するのは構わないが、幻滅するのも勝手にやってくれ、と。
クダリがカメレオンから目を離して、ふ、と息をついた。
「通信、今日もなかったのか。」と私はクダリに言った。
「ああ。そう簡単に受信できるものと、思ってはいないがな。」
クダリの声には落胆の色を感じないでもなかったけれど、かといって、諦めた様子はまったくない。きっとクダリは、明日も、明後日も、一年だろうが、十年だろうが、こうやって母船からの応答を待ち続けるのだろう。緑色の瞳には、そんな不動の意志が、静かに燃えているようだった。
突然、部室の扉を叩く音がして、はっとした私は、見つめていたクダリの横顔から、扉へと視線を移した。
「生徒会よ。抜き打ちの検査を行うから、開けなさい。」
菊菜の声だ。まずい。クダリは今、素のままの姿、兎星人状態だ。
「何の用だ。」
あっ、と思った時には、クダリが扉の外へ声を掛けてしまっていた。私は慌てて立ち上がると、小声でクダリに言った。
「声を出しちゃだめだろう! 生徒会長の菊菜だよ。君を、学内に出没する兎男を探しているんだよ。こっち! こっち来て、早く!」
クダリのジャージの袖をぐいぐいと引いて、私は部室の奥の、ごちゃごちゃと積み上がった私物や備品の裏側へ、クダリと一緒に身を潜めた。
「クダリ君? いるの? 入るわよ。」
建て付けの悪い扉をがたがたと開き、菊菜が入って来た。せわしない蝉の鳴き声と共に、熱く湿った外の空気が、むっと部室内になだれ込む。荷物の隙間からそっと覗くと、菊菜一人のようだ。部室の真ん中で、険しい視線をこっちに向けている。さらに足を踏み出そうとする菊菜へ、クダリが言った。
「キクナと言ったか。今着替えている最中だ。そこで止まれ。」
侵入を阻止する横柄な警備員みたいな言い方だったけれど、効果はあった。ぴた、と菊菜は足を止める。菊菜の眉間の皺が、ますます深くなるのが見えた。
「クダリ君、ちょうどいいわ。そのままでいいから、ちょっと話、いいかしら。」
「話とはなんだ。手短にしてくれ。」
「ええ・・・。」
様子をうかがっていた私は、はっとなって気がついた。菊菜の視線が険しいのは、兎男との関係が疑われるSF部を、強制捜査しに来たから、ではない。例の、アレだ。好きな相手を睨んでしまうという、菊菜の習性。こっちを睨みながらも、菊菜の頬がほんのり赤く染まっている。下ろした両腕の先で、固く拳が握られている。話とは、まさか? 菊菜が切り出した。
「ちょっといきなりで訊きにくいことではあるんだけど、クダリ君て、彼女とか、いるの?」
おいおいおいおい。いきなりか。まずい。この状況では、私が顔を出せなくなった。いくらなんでもここで、私もいるぞ、とか言って姿を見せたら、菊菜がかわいそうだ。それに、クダリは着替え中だと言ってしまった。そこに私が一緒にいるとばれれば、部室でいったい何をやっていたんだ、お前達は、ということになる。
私は息を潜めて、見守るしかなくなった。
「彼女、とは親密な異性のことか。その意味で言うならば、俺にはいない。」とクダリが静かに返す。彼女、いないのか。母船に恋人を置いてきた、とか、あっても不思議じゃなかったのだが。
「そ、そう。へ、へぇー。」
菊菜が珍しく動揺しているみたいだ。口元は笑みにほころびながらも、睨みは極致に達していて、壮絶な表情を浮かべている。憎い仇に出会い、憎悪と、復讐を果たせる喜びが入り交じったような顔をして、つまり、菊菜に彼氏ができない理由の最たるものが、そこにはあった。こんな顔をされたら、たいていの男子は引くだろう。
菊菜は続けた。
「ま、まだ、クダリ君とは全然話とかしていないけれど、そ、その、よければ、お友達から始めて、お、おつきあいとかできたら、嬉しい。」
! なんて積極的な。菊菜には行動力があるとは思っていたけれど、まさかこれほどとは。友達の知り合いとして一回言葉を交わしただけなのに、いや、正確には、菊菜が何も言わなかったから、言葉すら交わしていないのに、おつきあいとか言い出すなんて・・・。
端で見ているだけの私が、思わずごくりと生唾を吞むほど緊張して、クダリの返事を待った。
「・・・・残念だが、君と付き合うことはできない。俺にはやらなければならないことがある。君を嫌ってのことでは決してないが、すまない。」
きっぱりと、思わせぶりな言葉なんて一文字たりとも含まないセリフで、クダリは断った。菊菜の眉間から皺が消え、見る間に、いつもの眠た気な表情に戻った。ショックを受けるでも、涙を流すでもなく、ただ、いつもの表情に戻っただけなのに、私は菊菜を見ながら、胸をぎゅっとつかまれたような痛みを感じた。
「・・・うん。分かったわ。突然変なことを言って、ごめんなさい。このことは忘れて。それじゃ・・・。」
そう言って菊菜は背中を向け、その肩がほんの少し震えているように見えた気がして、私はまた、胸が苦しくなる。それから菊菜はすぐに、抜き打ち検査で収穫なし、という事務的な態度に戻って、部室を後にした。この後、菊菜にどう声をかけていいか思いつかないのだけれど、何となく、あのいけ好かない菊菜を、さりげなく励ましてあげたくなったのが、自分でも不思議だった。
菊菜が去って、古びたクーラーの音がごうごうと部室に響いている。私は、息をするのを思い出したかのように、大きく息を吸って、吐いてから、クダリに言った。
「断ったね。」
「ああ、断った。」
「船にはいなかったのか? 好きな相手。」
「過去形で言うなら、いた、ということになる。月での事故で、死んだんだ。」
私は、口をつぐんで、黙った。淡々と、死んだ、と言うクダリのそっけなさの裏には、後悔や悲しみを乗り越えた後に残る、死んでしまったという事実だけが、曇りのない結晶みたいに残されて、いつまでも消えることがない、私はそう思えてならなかった。私はそんなクダリにかける言葉を持たない。
クダリは、私が黙ってしまったのを受けて、にやりと笑いながら言った。
「それに、この毛深さではかなり難儀するだろう。君ら人類のパートナーとしてはな。」
私もつられて笑って言った。
「ふふ。そうだな。だが、慣れれば、これはこれでかわいいと思うが。」
「俺に向かってかわいいと言うな。ウニヤラの戦士にかわいいとは、侮辱以外のなにものでもない。」
「戦士・・・。こんなかわいい戦士となら、いくらでも戦いたいものだね。そうだ、クダリも筋トレしないか。部室にこもってばかりでは、身体がなまるだろう。」
「いいだろう。」
「よし。じゃあ、どれから使う? ダンベル? ペンプレ? シンプルに、スクワットから?」
私は、部内に筋トレ仲間の増えたことが嬉しくなって、いそいそとダンベルを持ち出す。
ダンベルをクダリの前に並べながら、私は思う。みんな孤独なんだと。クダリは好きな相手を失くし、母船からの連絡も途絶えて地球でひとりぼっち。私は期待される私のイメージから置き去りにされ、菊菜はまた、自らの好意を相手に受け入れられなかった。それでも、他者とのすべての関係から隔絶されたわけじゃない。別れがあるから出会いがあるなんて、陳腐に聞こえるけれども、陳腐であるのは、それが真実だから。誰かと一緒にいる限り、人も兎も、孤独になんてなりきれない。一人じゃない、という感覚は、時折、何の前触れもなく湧き起こって、自分を奮い立たせてくれるのだ。今もまた、そんな感覚が自分の中に生まれるのを感じる。それは強固で、強靭で、温かい、勇気そのものだった。
「嬉しそうだな、サイカ。」とクダリが言う。
「そう見えるか? ほら、まずは片腕3キロくらいから始めたらどうだ。」
「軽過ぎる。5キロでウォーミングアップだ。」
「おお、いけるね。いいぞ。じゃあ5キロ。」
クダリは軽々と5キロのダンベルを持つと、腕の屈伸を始めた。腕を折り曲げる度に、ジャージの上からでも分かる、盛り上がった筋肉が美しかった。私は、リズミカルに上下するダンベルとクダリの上腕三頭筋を、飽きることなく、いつまでも眺め続けた。