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アイサンカタルチナ  作者: 桜田駱砂 (さくらだらくさ)
3/6

チャプター3 アイサンカタルチナ

 アニストンに向かう機体は空港に近づくにつれ、徐々にその高度を下げます。雲の間隙から地上の草原や森が見えるのですけれど、ここがもうアメリカの空という実感は、さっぱり湧いてきません。ゴトト、と音をたて、きれいに着陸した飛行機が完全にその動きを停止し、タラップに足を踏み出したその一歩、渇いた草と、土の匂いに包まれて、私はようやく、ここが異国と実感するのです。

 スーツケースを引っ張り上げて、空港のロビーできょろきょろしながら待つこと三十分。東洋の女の子が一人でうろうろしているのが珍しいのか、周囲の人たちが好奇の目で見てくるのを感じます。目的があって勢い込んで来たものの、さすがに不安になって電話をかけてみようかと思ったところに、ようやく来てくれました。

「ヘーイ、キタノ。待たせたな。ずいぶんおっきくなったじゃないか。」

正地しょうじおじさん! よかった。電話しようと思ってたの。」

「ああ、すまん。途中でタイヤがパンクしてな。修理してたら遅くなった。」

「いいの。急に来たりして、ごめんなさい。」

「ノープロブレムだ。かわいい姪がはるばるやって来るんだ。歓迎しないでなんとする。さあ、行こう。」

 正地おじさんはそう言って、私のスーツケースを軽々抱えると、大股で歩き出します。雨柄村正地うえむらしょうじ、お父さんのお兄さん。つまり、私の叔父さんです。生物学者をやっているのですけれど、大学や研究機関に属さない、在野の研究者です。地球の生命は火星からやって来た、という説を証明するため、日夜キャンピングカーでアメリカ中を渡り歩く、孤高の人です。髭を生やした大柄なその姿は、チェックのシャツとジーパンという出で立ちもあって、日本人には見えません。ちょっと変わってて、変人、なんて揶揄する人もいるのだけれど、私は正地おじさんが大好きです。自分の好きなことを、好きなように貫いているから。

 おじさんのキャンピングカーは、正確にはキャンピングカーと呼べないかも知れません。キャンピングカーと言っても、おじさんの車はことさら変わっています。ちゃんとした、バンやバスみたいな形をしてなくて、言うなればカタツムリ、でしょうか。トラックの荷台に木造の小屋がそのまま載っかっているのです。小屋にはちゃんと窓があって、なんと小さなテラスもついています。荷台から後ろにはみ出したそのテラスには、一人用のソファーなんかもあって、夜にはテラスの上からランタンを吊るして虫除けにします。

 おじさんは後ろの小屋の窓を開け、私のスーツケースを文字通り放り込むと、にっこり笑って言いました。

「腹、減ってないか?」

「うん。まだ、大丈夫。」

「そうか。じゃ、まずは移動するとしよう。飯は途中で、肉でも焼こうか。さ、乗った乗った。」

 私はおじさんに言われるまま、トラックの助手席に乗り込みます。ホットドックの匂いがしました。カントリーミュージックがラジオから鳴りっぱなしです。

 空港の駐車場から少し離れて幹線道路から外れると、他の車の数はあっと言う間に減りました。私達のトラック以外に、走る車のない道を、木々の間を縫うようにして進みます。

 おじさんはラジオの音をちょっと小さくして言いました。

「ハイスクールはもう夏休みか。」

「うん。ちょっと前に休みに入ったわ。」

「ジャパンは蒸し暑いだろう。」

「とっても。何もしないで外に立ってるだけで、汗だくになっちゃうのよ。」

「あの蒸し暑さには敵わない。こっちも暑いは暑いんだが、湿度がないから助かる。」

「ほんと。日陰に入るだけで、涼しいもの。」

 今も、トラックのエアコンはついていません。ちょっとだけ開いた窓から入ってくる風が、心地よいのです。道路に落ちた太めの枝を巧みなハンドルさばきで避けつつ、おじさんは言いました。

「向こうでは、楽しくやってるか。」

「向こうではって、日本はおじさんにとっても故郷じゃない。まるで外国みたいな言い方。」

「ははっ。そうだな。こっちに長くいると、日本が遠い国のように思えてくる。距離と時間に隔てられた、はるかな祖国。今の私にとっては、日本だろうとチベットだろうと、その遠さにおいては大差ない。つい、外国みたいな言い方になってしまうな。」

「楽しいわよ。何の問題もないわ。」

「・・・・・。」

 おじさんは何も言いません。まるで、私の言う「楽しい」という言葉の裏に、楽しいと言っておけばとりあえずおじさんが安心するだろうと、そう私が思っていることを、全部見透かしているような沈黙です。おじさんはしばらく黙って、ぼそっと言いました。

「そうか。楽しいか。そうであれば、いいんだがな。」

「ところで。」と調子を変えておじさんは言います。

「ふふふ。宿題もいっぱい出たんだろう。」

「いっぱいってほどでもないけれど、出たわ。一応持ってきたの。おじさんも手伝って。」

「私がやったら宿題の意味がないだろう。」

「やってもらうんじゃなくて、手伝ってほしいの。数学とか。数学とか・・・、数学とか。」

「キタノは数学が苦手か。」

「苦手。公式に納得ができないの。」

「ははっ。納得できないか。美しい学問なんだがなぁ、数学は。」

「ピタゴラ・・・、なんとかって、定理があるでしょう。」

「ス、だな。ピタゴラス。」

「直角三角形の斜辺の長さは、他の二辺各々の二乗の和の平方根。それを覚えましょう、なんて言われても、全然頭に入らないわ。覚える意味が分からないもの。」

「しっかり覚えているじゃないか。何も、原初のときから人類がそのことを知っていたわけじゃないさ。多くの技術者や学者が、そういう規則性があるんじゃないか、と気づいたところから始まって、証明がされてきたんだ。キタノ達は、長年かかって人類が得た知識の経緯をすっとばして、その結果を知ることができている。これはたいへんなことなんだよ。」

「そうかなぁ・・・。」

「そうなんだよ。人がたった一人でできることなんて、限られている。でも、多くの人間が、何世代もの時間を通して発見してきた知識や手段が積み重なると、それは大きな力を発揮する。一からニューゲームじゃなく、セープポイントから再開するようなもんだよ。毎日ゲームをやる度に最初からやってたんじゃ、いつまでたってもクリアできないだろう。人類にとってのゲームのクリアが何を意味するのか、私にはまだ分からないがね。」

「ふーん。じゃあ、もうちょっと頑張ってみようかな、数学。」

「ははっ。頑張りなさい。」

 辺りは暗くなり始め、大きな木の影になっているところなんかは、黒々とした夕闇をたたえています。おじさんは、トラックのライトを点けて、どんどん道を進みます。

「キタノが電話で教えてくれた緯度と経度があるだろう。」

「ええ。」

 私は日本からおじさんに電話をかけたとき、知っているおじさんの番号の三つめで運良くつながったのですけれど、そのときマゼラ様のおっしゃった合流地点のことを、おじさんにも伝えてあるのです。おじさんへのそもそものお願いというのが、そこに連れて行ってほしい、ということなのですから。

「本当にそこでいいんだな? 地図上では、森がある以外これといったものは何もないぞ。」

「いいの。そこに来てくれって、マゼラ様がおっしゃるの。」

「マゼラ様って、電話で言ってた宇宙人のことか。」

「そう。声が聞こえたのよ。学校のトイレでね。」

「そうか、そうか。じゃあ、会いに行かんといけんなぁ。」

 おじさんは楽しそうに笑います。おじさんのこういうところが好きです。宇宙人に会いに行きたい、という子供のお願いをちゃんと聞いて、しかも真剣にそれを実行してくれるところ。もちろん、私がマゼラ様の声を聞いたのは事実なわけですけれど、そのことを伝えて、冗談やいたずらだと一蹴しない大人は少ないのです。お父さんに話しても、分かった、分かったとか言って、分かってないのに分かったとか言って、相手にはしてくれなかったでしょう。だから、ここに来ていることも、話していません。

「ところでキタノ。」

「何? おじさん。」

「こっちに来ていること、あいつには言ってあるんだよな。」

 あいつ、とはお父さんのこと。おじさんはいっつも、私のお父さんをあいつと呼びます。他の人をあいつとは呼ばないので、あいつ、といったらお父さんのことなのです。

「言ってないわ。」

 おじさんはトラックを静かに路肩へ寄せて止めると、私の方に向き直って言いました。

「キタノ。それはいけないよ。」

「え・・・、でも・・・。」

「でも、じゃない。」

 声を荒立てているわけじゃないのに、私は縮こまってしまいました。おじさんは怒っていました。ものすごく。

「宇宙人と言ったところで信じてもらえないから、何も言わずに出てきたってところだろうが、それじゃあキタノは今、行方不明になってるってことじゃないか。あいつも死ぬほど心配しているだろう。書き置きも何もしていないんだな。」

「な・・・何もしてない、です。」

 私はおじさんのまっすぐな視線を受けきれず、うなだれて下を見ました。キャンディーの包み紙が落ちています。

「ちょっと待ってなさい。」おじさんはそう言って、一度外に出ると、後ろのキャビンでごそごそ何かをやり始めました。

 それは確かに、何も言わずに出て来てしまったのはちょっと悪かったかも知れないですけど、でも、二週間や三週間も留守にするわけじゃなく、すぐに帰るつもりでいたし、どこに行く、何のために、でお父さんともめる時間が惜しかったのです。アメリカに行くの、宇宙人と会いに、では、お父さんもなかなか承諾しなかったことでしょう。そこで承諾を得るために、二日や三日もかける気にはなれなかったわけです。書き置きというのは思いつきませんでした。せめて、「宇宙人と会いに行きます。探さないでください。」くらいのことは書いておくべきだったかも知れません。

 おじさんが戻って来て言いました。

「あいつにメールしてきた。すぐに返事があったよ。徹夜で探したり、心当たりに電話してたそうだが、見つからないもんだから、警察に連絡するところだったみたいだ。キタノ。日をまたいで留守にするときは、そのことを絶対に伝えておかないとだめだ。」

「う・・・。はい・・・。ごめんなさい。」

「私じゃなく、あいつに謝る。」

「うん・・・。」

 怒られました。まさか、お父さん、警察に連絡するつもりだったなんて。これまで、夜、家に帰らなかったことなんてないものだから、そんな大事になるなんて思ってもみませんでした。

「あとで、あいつにメールでもしておきなさい。今から謝っておかないと、日本に帰ってからたいへんだぞ。」

 にやり、とおじさんは笑って言います。

 私がしょげて、うなだれているのをフォローしてくれてるみたいです。おじさんのこういうところも好きです。怒ると怖いんだけど、私に対して怒っているというより、私の行った過ちに対して怒るというか。そもそも、怒ってすらいないのかも知れません。おじさんは叱っているだけなのだから。そんなわけで、おじさんは叱った後もさっぱりしています。いつまでも、機嫌が悪くなるということはありません。

「よし。じゃあ車を止めたついでだ。ディナーにしようか。」

「うん!」

 ディナーと聞いて、急に私のお腹が鳴りました。叱られたばかりというのに、お腹は現金なものです。

 おじさんは手際よく、いくつかのレンガで囲った土台を作り、網を渡し、枯れ草と炭をその下に盛ると、新聞紙の切れ端につけた小さな火をきっかけに、瞬く間に火を起こしてしまいました。準備を初めてからまだ5分くらいしか経っていません。まさに野人、と言うとおじさんは、今度は本当に怒ってしまうので言いませんが、それは美しい川の流れみたいに、よどみなく、無駄のない動きなのです。

 ぱちぱちと、炭がはぜる静かな音に耳を傾けていると、おじさんはもうお肉の準備を始めています。牛肉を薄く切りながら、おじさんは私に言いました。

「キタノ、そこのナイフで野菜を切ってくれ。怪我しないようにな。」

「大丈夫よ、おじさん。家では結構、料理するのよ、私。」

「そうか。釈迦に説法だったな。はははっ。」

「私はお釈迦様ほど偉くないわ。」

「いや、偉い偉い。キタノは偉いぞ。あいつの分の飯も、作ってやるんだろう。」

「うん。それは、私一人分だと材料も余っちゃうし、お父さんの分も作るけど。」

「だから偉いんだ、キタノは。はははっ。」

 おじさんは楽しそうに笑います。まるで、赤ちゃん孫が歩くのを見ただけで、偉い偉いと喜ぶおじいちゃんです。

 お父さんの分のご飯も作ると聞いて、なぜおじさんはこんなに喜ぶのでしょうか。それは、きっとお母さんのことがあるからだと思います。お母さんが亡くなった後、おじさんは私に長い手紙をくれました。命は受け継がれるということ。死がすべての終わりではないということ。人類は凍える氷河や恐ろしい捕食獣の牙を、死に基づく淘汰と順応によってかいくぐってきたこと。それでもやっぱり、親しい人と話をすることができなくなるのは、とても寂しいということ。

 おじさんはお母さんがいなくなってしまった私のことを、一緒に住んでいないからなおのこと、私のお父さんよりも、と言っていいくらい、気にかけて、心配してくれたのです。

 だから、こうしてお肉を焼いたり、熊とにらめっこした話を面白おかしく喋っている間にも、やっぱり私のことを心配していることがうかがえるのです。おじさん本人は、私がこうして気づいていることに、まったく気づいていないですけど。

 ちょっと固かったけれど、お肉と野菜をお腹いっぱい食べ、金属カップに入った熱々のコーヒーをすすりながら、輝き始める星を仰ぐ私に向かって、おじさんは言います。

「キタノ。そのマゼラ様とかいう星人の声は、どんなだった? そもそも彼なのか、彼女なのか。」

「どんなと言われても、説明が難しいなぁ。頭の中に、わーん、て響くみたいに声が聞こえるの。子供のような、大人のような、男の子のような、女の子のような。」

「ふぅむ・・・。音を処理するのも最終的には人間の脳なわけだから、直接、特定個人のシナプスに作用するような、指向性の高い通信手段を持っているのかも知れないな。」

 おじさんは、あくまでも真面目にそんなことを言います。私の言っていることが、子供っぽい妄想のたわごとだ、とはつゆほども思っていないのです。いいえ、本当は思っているのかも知れないけれど、そんな素振りは見せません。

 もし、私が幽霊を見た、と言ったら、幽霊がいるかいないかは別として、おじさんは私が見た、という事実を信じてくれるのです。見たことを無条件に前提として、話を進めてくれるのです。そんなところから、ちょっと変わった人、というレッテルをおじさんは貼られやすいわけなのですが、当人はそんなこと全然気にしていません。

 おじさんはコーヒーをひとくちすすって、言いました。

「そのメッセージが来た時、何か変わったことはなかったか? 身体に電気が走るような感覚とか。」

「そういうのはなかった。トイレで何気なく手を洗ってたら、急に聞こえたの。」

「その声というのは、こちらの呼びかけには答えるのか? こっちから質問するとか。」

「日本にいるとき、一回だけ答えてくれたわ。どこに降りるんですか、って訊いたら、アラバマ、だって。緯度と経度もそのとき教えてくれたの。」

「ほほぅ・・・。今はどうなんだ? 会話できるのか?」

「その後、お好きな食べ物はなんですか、とかいろいろ訊いてみたけれど、聞こえなくなっちゃった。どうしてだか分からないけれど。」

「ふぅん。彼らには彼らの事情があるということなのかもな。指定の場所に、いるといいな。」

「いるわ。絶対。」

「そうか。絶対か。はははっ。それも見に行けば分かるというものだ。目的の場所は、ここからそんなに遠くはない。明日には着くだろう。楽しみだな、キタノ。」

「うん。」

 やっぱり、おじさんが私の妄想だと思っている素振りを見せない、というのは嘘でした。半信半疑、というところでしょうか。それでも、これが私の大掛かりな遊びとして、とことんつき合ってくれるおじさんの態度は嬉しいのです。もちろん、遊びじゃなく、私はどこまでも本気なのですけれど。

 時差のせいであんまり眠くないのですが、おじさんはちゃんと寝ておきなさいと言います。キャビン、トラックの荷台に載っている小屋のことですけれど、小屋と呼べばおじさんは必ず「キャビン」と訂正してくるので、キャビンと呼びます。そのキャビンのベッドを使わせてもらいました。小振りのベッドで、おじさんが寝たらきっと頭と足が両方とも壁にくっつくことでしょう。

 おじさんは寝袋を引っぱり出してきてすっぽり収まると、床にごろんと寝転がります。護身用に置かれた枕元のライフルが、いかにもワイルドです。銃は人を殺さない。人が人を殺すのだ、を実感します。本当に、ハサミや包丁みたいに、その器具をちらほら見かけるわけです。

 おじさんは寝袋の中から言います。

「キタノ。学校は楽しいか?」

「うん。それなりに。」

「友達はいるのか?」

「何人かは。」

「クラスになじんでいるか?」

「さぁ・・・・。」

「寂しくはないか?」

「・・・・・・。」

 おじさんの心配の仕方は、いつもこうです。不器用なのです。でも、不器用な言い方のほうが、守られているって感覚を、強く感じるのもまた事実です。おじさんはそんな効果を知ってか知らずか、私の沈黙を返事とみなして、言いました。

「変なことを訊いて悪かったな。おやすみ、キタノ。明日は日の出と共に出発だ。」

「おやすみなさい、正地おじさん。」

 おじさんはすぐに、ぐぅぐぅ寝息をたてて、寝てしまいました。寂しくはないか、と訊かれて、私はなんと答えればいいのでしょう。お母さんがいなくなって、寂しくないわけはありません。けれど、私が寂しいと言ったところで、お母さんは帰ってきません。寂しくないと言えば、嘘になります。だから私は沈黙するのです。

 子供の頃、お母さんやお父さんと一緒に、星空を眺めたことを思い出します。お母さんは私の手を握りながら言います。あのきらめきのどこかに、言葉の分かる、他の星の人々がいるんだわ。この広い宇宙で、私達が真の孤独じゃないとしたら、それはとても素敵なことじゃない、北野、と。そのとき、お母さんの柔らかな手は、ただ、温かくて、星がきれいで、お母さんが素敵だと言うその「事実」は、他の星に人々がいるというその確信は、私の心の深いところに、しっかりと根をはって残ったのです。

 クラスの中で壁を作って、宇宙人好きをアピールすれば、みんな引いてしまうことくらい、私にだって分かります。でもそうやって、みんなから距離を置いていた方が、静かで楽でした。悲しいときは、沈黙だけが、心の中でゼリーみたいに固まった、涙の塊を溶かしてくれるような気がして、だから、黙ってにこにこしている時間に浸りたかったのです。先生と、激論! 宇宙人はいるのか? でヒートアップしたのは、ある意味正解でした。周囲がとても静かになったから。同情や憐憫でかけられる声も、全然聞こえなくなりました。望美ちゃんは、そんな中でもいつも通り声をかけてくれたし、望美ちゃんから、私のお母さんのことをまったく話題に出さなかった、その優しい気遣いはもちろん嬉しかったのですが。

 私はクラスで孤独でした。いいえ。あえて孤独に浸ろうとしました。望美ちゃんはそれをよしとはしなかったようですし、今も私が一人きりになってしまうのを、必死になって防ごうとしてくれてるみたいです。私はそれを疎ましく感じることもありましたが、結局私は、望美ちゃんに甘えているだけなのかも知れません。本当に、一人きりになってしまったら、きっと私はどんどんどんどん小さくなって、やがてこの世界から消えてしまったり、消えてしまいたいと思うようになるでしょう。そんな予感があるにも関わらず、一人に一人になろうとして、そうはさせまいとする望美ちゃんに心配ばかりをかけて。

 終業式の日、手紙を読まずに捨てようとした私の姿を見る、悲しそうな望美ちゃんの顔をいまさらながら、思い出します。望美ちゃん自身は気づいていないようでしたけど、本当に、泣いてしまいそうなくらい悲しい顔をするのです。周りの人とのつながりを全部切って、糸の切れた凧みたいに、もやいを外したボートみたいに、ふらふら、ぷかぷか、私がどこかに行ってしまうんじゃないか。そんな思いで、望美ちゃんは私を見ていたような気がします。

 私はマゼラ様に会いに行きます。ひょっとしたら、私は幻聴を聞いたんじゃないか。聞きたい聞きたいと思っているうちに、声が聞こえたような気になった、それだけなんじゃないかって。そんな疑いがまったくないわけじゃありません。でも、それは結局、どちらでもよいのです。おじさんの言葉を借りれば、見に行けば分かる、なのです。マゼラ様に会ったら、それとも、マゼラ様に会えなくとも、望美ちゃんにはきちんと結果を報告しなければなりません。手紙のことも謝らなければなりません。いろいろと心配してくれてありがとうと、お礼を言わなければなりません。

 急にやらなければいけないことが増えて、私はちょっと嬉しくなりました。おじさんの寝息につられるように、私もいつしか、夢に落ちたのです。


 トラックは、朝日を背に西へと向かいます。所々朝もやが残って、木々の間を白い霞と日の光が満たすその様子は、神秘的ですらありました。私とおじさんは、朝ご飯にと手早く作ったピーナッツバターサンドをかじりながら、トラックでの移動を続けています。ポットに入れたコーヒーを、こぼれないよう、金属カップに半分くらい入れて、運転しているおじさんに手渡しました。

「ああ、ありがとう、キタノ。ピーナッツバターサンドとコーヒー。これほどしみるブレックファストはないな。もちろん、白米に焼鮭も捨てがたいが。」

「うん。美味しいよね。食べ過ぎると、太っちゃいそうだけど。」

「気にするな、育ち盛りなんだから。もりもり食べて、大きくなれよ。」

「そんなに大きくはなりたくないわ。」

「そうか? 大きいことは、いいことなんだぞ。はははっ。」

 おじさんは朝から上機嫌です。相変わらず道は閑散としていて、大きな丸太を何本も積んだ、たいへん大きなトレーラー一台とすれ違って以来、他の車とは出会っていません。

 おじさんはラジオをつけ、カントリーミュージックに合わせながら鼻歌を歌い、ちょっと開けた窓から入り込む朝の空気が、ひんやりと心地よいです。

 三十分くらい走ったでしょうか。おじさんは地図を片手に、脇道へとトラックを進めます。舗装すらされていない、土がむき出しの道で、がたがたと地面の凹凸を乗り越える度に、後ろの小屋・・、キャビンが、ばたん、どすん、と音をたてて揺さぶられます。小屋が荷台から落ちてしまわないか、ちょっと心配です。

「近いな。この辺りか・・・。」とおじさんは言って、トラックを止めました。そこはちょうどくぼんだ盆地の底みたいになっていて、まだ靄が残っています。乳白色のカーテンが幾重も揺れているようで、十メートル先も見えないくらいです。しんとして、鳥のさえずりすら聞こえません。

 私は待ちきれずに、外へ出ます。いよいよ、マゼラ様と会える。そう思うと、いてもたってもいられなくなるのです。

 おじさんが背後から鋭く呼びかけました。

「待ちなさい! キタノ。一人で行くんじゃない。おじさんから離れちゃいけない。」

「でも・・・。」

「でもじゃない。トラックの近くから動いちゃだめだ。」

 おじさんの剣幕に、私はしぶしぶ、その場に留まりました。考えてみたら、地図とコンパスでもない限り、緯度と経度の示す正確な位置が分かりません。おじさんはキャピンからライフルを取り出してきて肩に担ぎながら、ふと立ち止まってなにごとか考えています。

「どうしたの? おじさん。」

「いや。こいつはいらないかと思ってな。むしろ、持って行かない方がいいかも知れん。」

 おじさんはそう言って、わざわざ取り出したライフルをまたキャピンの奥にしまってしまいます。

「持って行かない方がいいって、なぜ? 熊とかいるんじゃない?」私がおじさんに訊くと、おじさんはとても真面目な顔で言います。

「これから会うんだろう、そのマゼラ様と。熊に出くわす危険も確かにあるが、おじさんはそのマゼラ様達に、敵意のないことをなるべく分かりやすく伝えたいんだよ。銃を構えながら、友達になりましょうもないもんだ。あくまでも、彼らが友好的な態度でもって接してくることが、前提だがな。」

 おじさんはもう完全に、マゼラ様と対面するつもりでいます。本当に今さら、という感じなのですが、私は小さな声で言いました。

「おじさん、本当にマゼラ様がいると思ってる?」

「思っているさ。」

 おじさんは、バナナって黄色い? と訊かれたみたいにきょとんとしながら、続けました。

「キタノがいると言うんだ。いるんだろう。もし彼らの姿が影も形も見えなくなって、おじさんはそれでいいと思ってる。そこにはいない、ということが分かるんだから。嘘をついているわけじゃないんだろ、キタノ。」

 おじさんは、子供みたいに輝く目で、私を真っすぐに見つめます。

「嘘なんかついてないわ。ほんとのことを言ってるのよ。」

「そうだろう。じゃあ、何も問題ない。」

 おじさんはそう言うと、地図をルーペで拡大して見ながら、コンパスで方位を確認します。目的の場所には、赤いばってんが書き込んであります。

 歩き出すおじさんについて行きながら、私は急に、おじさんに対して申し訳ない気持ちがこみ上げて来ました。マゼラ様の声を聞いたのは確かです。確かなんですけど、聞いたと思っているのは私だけで、彼からの、あるいは彼女からの声が、本当に聞こえていたのかどうか、私自身の記憶と自覚以外に、確かめるすべがないのです。やっぱりすべては幻聴で、私が幻の声を聞いただけだったとしたら、ここにマゼラ様なんているはずがありません。おじさんをこんなところにまで引っ張り出して、私の聞き間違いでした、なんてことになったら、泣き出したくなるくらいごめんなさい、なのです。

 靄はますます濃くなって、私達の草を踏んで歩く音と息遣い以外、何の音も聞こえてきません。

 突然、ぴた、とおじさんが歩みを止めました。私は勢い余っておじさんの背中にぶつかります。

「おっと、悪い。大丈夫か、キタノ。」

「平気。どうしたの? 急に立ち止まって。」

「このあたりなんだ。そのランデブーポイントは。」

 おじさんは、靄の白幕で見通しが悪い森の中を見回しながら、言います。しっとりと冷たい靄を頬に感じながら、私はまた不安になります。いるんでしょうか、本当に。

「もう少し、歩いてみよう。」おじさんは再び歩き始めます。

「うん。」

 私もおじさんについて行くのですが、視界の端に一瞬、靄の隙間から黒い何かが現れ、すぐに消えたような気がしました。私は立ち止まって、目をこらします。

「どうした? キタノ。」

「今、何かが見えたような・・・。」

「熊か?」

 おじさんは緊張した面持ちで、周囲の気配に集中しています。

「ううん、違う。何かもっと大きい感じの・・・。」

 私はそれが見えた方へ、引き寄せられるみたいにゆらゆらと、歩き始めます。すると、密集した木々が突然なくなり、広場のようなちょっと開けた場所に出ました。柔らかく湿った芝生の上を進むと、黒っぽい、つやつやした壁のようなものに突き当たりました。

 つやつや、というより、ぬめぬめ、と形容した方が正確でしょうか。岩とか崖というより、もっと有機質な。

「何かしら、これ。」

 私はおじさんの方を振り返って言いながら、ぎくりとしました。おじさんがいません。

「おじさん? どこ?」

 さっきまで、すぐ後ろを歩いていたと思ったのに、おじさんの姿が見えないのです。

「おーい。正地おじさん、どこー?」

 靄に阻まれるかのように、私の声がどこにも、誰にも届いていないという感覚にとらわれます。私は不安になります。さっきとは別の不安。靄の中で一人、自分がどこにいるのかさえ、よく分からないのです。

「おじさーん・・・。」

 やっぱり返事はありません。

「どうしよう・・・。」

 私はぬめぬめした壁のそばに立ち尽く、途方にくれました。急に一人です。自分が望んでなる孤独はまだいいのです。一人になりたかったのだから。でも、予測したり、防いだりすることができない出来事で、突然、突き落とされるように陥る孤独には堪えがたい不安と、寂しさと、焦りを感じます。

 私は全身を耳のようにしておじさんの足音や気配が聞こえないか、神経を集中するのですが、やっぱり何も聞こえません。闇雲に歩いても、おじさんを見つけられそうにもないので、私は靄が晴れるのを待つことにしました。

 幸いなことに、太陽の光が靄を溶かすように、差し込み始めました。少しずつ視界が開けます。それにしても、この壁、いったい何なのでしょう。恐る恐る触れ、じっとり湿った感触を手のひらに感じた瞬間、ちょっと先のところで、どさっ、と何かが地面に落ちた音がします。 

 私はびくりと身体を強ばらせ、音のした方を向きます。何でしょうか? 鳥? 熊?

 靄が晴れます。黒い壁は左右に伸び、高さは5、6メートルもあるでしょうか。私はちょっと距離を置いて、見てみることにしました。壁がどれくらいの長さなのか、気になったからです。

 一歩一歩、私は壁を見ながら下がります。靄はどんどん晴れて、芝生の水滴がきらきらと輝き始めました。

 壁の端から端が見渡せるようになったところで、私は言葉を失いました。「それ」は壁なんかじゃありませんでした。どうしてでしょう。なんでこんなところに・・・。

「なんで・・・?」

 言葉を失ったというのは嘘です。私の口は、感じた疑問をそのまま呟きとして発したのです。

 美しい流線型を描くライン。堂々たる体躯。それは、ほ乳類最大と呼ぶにふさわしいものです。クジラでした。壁と見まごう黒いぬめぬめは、クジラのお腹だったのです。昔、博物館で模型を見たことのある、シロナガスクジラというやつでしょうか。でもこれは、模型なんかじゃなさそうです。あの触った感触。何かが地面に落ちた音がしたのは、ちょうどクジラの尻尾のあたりです。今思えば、尻尾で地面を叩いたような音でした。

 どうしてでしょう。私はまた同じ疑問を繰り返しました。クジラは海の生き物です。森の生き物ではありません。おじさんなら、何か素敵で合理的な説明をしてくれると思うのですが、おじさんの姿はまだ見当たりません。

 私は再びクジラに近づこうと、何歩か進んだのですが、ぴたりと足を止めました。ぷしゅっ、とクジラの背中あたりから、潮吹きみたいな音が聞こえたからです。

 そして。

 ピョコ、と二本のふさふさしたものが、クジラの背中から突き出て来ました。一瞬、間を置いて姿を現したのは、兎です。いえ、兎と言ってしまうと語弊があります。兎の顔をした人、兎人間と呼んでさしつかえのないその生き物は、戦争映画に出てくるドイツの将校みたいな制服を着ています。

 ぴたりと私に視線を向けると、兎人間は話し始めました。というか、私には話しかけているように見えました。

「ア、ミエラガラセラマニキテク、レタ。レイヲ。」

 何を言っているのでしょうか。私がぽかんと口を開けながら、兎人間を見つめていると、兎人間の方でも首をかしげます。それから、ひらりとクジラの背中に立ち上がり、きれいにその背中から滑り降りて来ました。なんの躊躇もなく近づいてくるその兎に、私は思わず後ずさりします。

 近くで見るその顔は、兎と人の中間とでも言いましょうか、白いふさふさとした毛に覆われてはいるものの、どことなく人である面影もあります。何より、その目は明らかに、ものを考える者の目です。動物の方の兎にはない、たおやかな思考の響きを感じるわけです。

 ここで、私はようやく気がつきました。森のクジラ。二本の足で歩く兎。どう考えても、おかしな状況です。つまり、この人が。この人がマゼラ様なのではないでしょうか。

「も、もしかして、あなたがマゼラ様・・・?」と私は恐る恐る訊きます。緊張で、足が震えます。

 兎マゼラ様は、首についている輪っか、首輪みたいなものをちょっといじって、それからまた私に話しかけました。

「あ。あー。俺の言っていること、分かるか?」

 私はこくこくこく、と何度もうなずきました。

「よし。呼び出してすまない。受信できる限りの電波をあらかじめ解析はしていたが、文化、習俗を体得するにはまだ不十分と判断した。この惑星の支配種とは外見上の相違もある。まずは、限られた特定個体と、非公式に接触するのが妥当だ。我々はそもそも、先遣隊としてやってきている。個体間の思考的、思想的差異は当然あるだろうが、まずは相互理解のきっかけをつかみたい。」

 マゼラ様は流暢な日本語できびきびと話します。彼の言いたいことを要約し、そして私が次に取るべき行動は、

「・・・・ようこそ、地球へ。」

 そう言って、私は手を差し出しました。不思議そうに私の右手を見つめるマゼラ様に、私は言います。

「手を。握るのよ。多くの人がする、初対面の挨拶よ。」

「そうか。では、よろしく。アズマキタノ君。」

 マゼラ様の手はふかふかで、しかも、たいへん大きいのです。私の手がすっぽりとくるまってしまうような握手でした。

「私の名前、知ってるの?」

「ああ。失礼ながら、君と通信した際、思考の一部を読み取らせてもらった。プライバシーの秘匿には配慮している。」

 ・・・・・。言葉を交わし、握手をすることで、私自身が安心したからでしょう。むずむずと喉元まで出かかっていた疑問が、堰をきるようにして溢れてきました。

「あ、あなたは、あにゃ、けふっ、こふっ。」

 焦りすぎてむせました。

「こほん。あなたは、マゼラ様、ということでいいのかしら? どうして地球へ? このクジラはあなたの乗り物? なぜ、最初に私へ話しかけたの? どこから来たの? まさかこのクジラに乗って? 何のために? 好きな食べ物は? お寿司も食べられるの? 人参が好きとか? 一人で来たの? 他の人たちは? それから・・・。」

 質問をまくしたてる私に向かって、推定マゼラ様は、手で静かにストップのジェスチャーをかけ、私の言葉を遮ります。

「落ち着け、キタノ君。一度に訊かれても答えられない。まず、最初の質問についてだ。俺がマゼラ様か。君が俺達のことを総称して、マゼラ様と呼んでいたことは知っている。俺達は自らをマゼラという固有名詞で呼んだことはないが、君が近年、意志の疎通を試みていた相手であることは確かだ。」

 つ、つまり、

「マゼラ様は、本当に、いた・・・。」

「もちろんだ。君も今、俺の身体の一部に触れただろう。これは人為的に形成された三次映像ではない。そして、このクジラは乗り物か。その答えもはい、だ。目立たないよう、この惑星上のほ乳類に擬態している。」

「目立たないようにって・・・。こんな大きなクジラが森の中にいたら、大騒ぎになると思うんだけど・・・。」

「・・・・え? なぜ?」

 マゼラ様は、きょとんとした顔で私は見つめます。小首をかしげるその顔を見て思ったのですが、マゼラ様って、いったい何歳なのでしょうか。喋り方はなんだか固い感じなのですけど、片方の耳を時折ぴこりと動かしながら、不思議そうに私を見るそのかわいらしい姿から、かなり若いのでは、という印象をもつのです。私よりも年下くらいの。

 私は、疑問形そのものみたいな表情をしたマゼラ様に言いました。

「だってクジラは海の生き物よ。陸の生き物じゃないわ。」

「え・・・、え? 海? で、でも、地表で呼吸をしてるようだし、水中での呼吸に必要な器官がない。」

「そうよ。だから、水面上で呼吸をして、また海に潜るのよ。」

 私はジェスチャーで、呼吸をしてまた潜るクジラの動きを説明します。

「そ、そうなのか? ど、どうしよう。目立って騒ぎになると、収集がつかなくなる。と、とりあえず隠さないと。君も手伝ってくれ。小枝で隠すんだ。」

 ・・・・。かなりテンパっています。どうやらマゼラ様は、テンパり屋さんのようです。さっきまでの固い雰囲気が嘘のように、足下に落ちていた小枝を手に、右へ左へとうろうろしています。こうなってしまうと、テーマパークで風船をくばる、着ぐるみみたいに見えてきます。

「小枝と言ったって、こんな大きなクジラを隠そうと思ったら、何日もかかっちゃうわ。何か、シートみたいなもので覆えないかしら。」

「シート・・。そ、そうか。光学式擬態がある。」

 マゼラ様はそう言って、ポケットからスマホみたいな機械を取り出すと、もふもふの指で器用に操作します。ぽち、と何かのボタンを押したところで、すぅ、と、クジラは見る間にその姿を消し、

「すごい、消えた・・・。」

 と感嘆の声を上げた私の目の前で、今度は高さが三メートルくらいもありそうな、カンガルーが現れました。

「マゼラ様・・・。これは、なに?」

「プロコプトドン、と君達は呼んでいるようだ。」

「プロコ・・・? 私には、大きすぎるカンガルーにしか見えないのだけれど・・・。」

「この惑星を光学観測した際に地上をうろうろしていたぞ。まだ、数万光年の距離があったから、タイムラグはあるが。」

「これって、ずーっと昔に絶滅した生き物じゃないかしら。これでもやっぱり、大騒ぎになる気がする・・・。」

「何? これでもだめなのか。だったら、いったい、何に擬態させればいい。」

「擬態というか、クジラからこのカンガルーに変わる間に、姿が見えなくなったでしょう。あの状態が一番いいんじゃないかしら。」

「・・・・。なるほど。キタノ。君は頭がいいな。」と言って、マゼラ様は、カンガルーの姿を見えなくしました。

 頭がいい、と言われるほどの提案をしたつもりはまったくないのですけれど、とにかく、クジラやカンガルーで遮られて見えなかった、向こう側の木々が今でははっきりと見えます。いったいどんな原理なのでしょう。というか、こんなすごい機能があるなら、最初から使えばいいのに。森に巨大なクジラがこつ然と現れて、今まで騒ぎにならなかったのが不思議なくらいです。マゼラ様は、ふぅ、と息をつきながら言います。

「これでよし。危ないところ、的確な助言を感謝する、キタノ。」

「あ、いいえ・・・。ところで、あなたの名前をまだ訊いていなかったわ。」

「そういえばそうだな。私の名はハラクダリ・ダルマヤスカ。」

「ハラクダリ・・・。」

 なんだか、お腹を壊しそうな名前です。

「じゃあ、クダリ、と呼んでもいいかしら。」

「構わない。」

 マゼラ様あらため、クダリはそう言って、にこり、と笑います。笑った口からのぞく、二本の前歯がかわいらしいのです。

 遠くから、誰かが駆け寄って来ます。正地おじさんです。

「おーい、キタノ、そこにいたか。心配したぞ。」

 と、おじさんは走りながら言うのですが、その視線は私を見て、クダリを見て、私、クダリ、私、クダリ、クダリ、クダリ、と素早く交互に見てから、クダリに釘付けです。

 それはそうです。森の中で、兎の頭をした人と立ち話をしているのですから、おじさんでなくともガン見しちゃいます。

「キタノ、こちらは・・? もしかして・・・?」

 おじさんは、肩でふぅふぅ息をつきながら、クダリを穴が開くほど見つめています。

「ええ。マゼラ様。他の星からやって来た人よ。ハラクダリさんだから、クダリと呼んでもいいって。クダリ、この人は私のお父さんのお兄さんで、正地おじさん。火星の生命について研究しているのよ。」

 私の紹介に、おじさんは、おお、と声にもならないようなうめき声を出して、クダリに近づきます。クダリは右手を差し出して言いました。

「ハラクダリだ。」

 おじさんは、ふるえる両手でがっしとクダリの手を握り、それはもう、きらきらした星がほとばしっているんじゃないかというほどに、両目を輝かせて言いました。

「ようこそ、地球へ! す、すごい・・・。私は今、人類史上始まって以来の、歴史的瞬間に立ち会っているんじゃないか。ファーストコンタクト・・・!」

 おじさんはもう興奮しすぎて、きっと頭の中では聞きたいこととか、言いたいことが、もの凄い勢いであふれかえっているのでしょうけれど、あんまりその量が多すぎるものだから、言葉にならないようです。クダリの手を握ったまま、硬直しています。

「・・・・。この挨拶は、いつまで続くものなんだ、キタノ。」とクダリは少し困ったように、小声で私に言います。クダリの片耳が、ぴこぴこと小さく二回、動きました。

「もう十分よ。おじさん。正地おじさん! クダリの手を離してあげて。」

 おじさんは、はっ、と我に返って言います。

「あ、ああ、これは失礼した。もう、何と言ったらいいやら・・・。あなたは、本当に地球外から・・・?」

「本当だ。諸々の事情があって、この恒星系に到達した。」

「いったい、どこから・・・?」

「母星のことを、ウニヤラ、と俺達は呼んでいた。」

 呼んで、いた? なぜに過去形なのでしょう。

「あなた一人で?」とおじさんは続けます。

「今はもう、一人だ。」

 今はもう? ちょっと前まで、一人ではなかったような言い回しです。

 おじさんは少しずつ落ち着きを取り戻してきたみたいで、思い出したように言いました。

「ここで立ち話というのもなんですから、とりあえず、私のキャビンに行きましょう。なに、ちょっとぼろいですが、屋根があります。」

 お客さんを招待するときのアピールポイントに、屋根があることを挙げるのも珍しいです。

おじさんの誘いに、しかし、クダリは丁寧に言いました。

「誘っていただいたところ申し訳ないが、実は早急に行かなければならないところがある。」

「行かなければならないところ?」と私は聞き返します。

「ああ。君がこちらからの指向性波状脳波通信を受信したポイントだ。」

「シコーセイ・・・?」

「つまり、君が私の声を聞いた場所だ。」

「それって、私の学校ってこと?」

「ガッコウ、というのがどんな場所を示すのか私には分からないが、私の声を聞いた場所をそう呼んでいるのなら、それのことだ。」

「でも、なぜ?」

「母船との通信のためだ。私は先遣隊としてここに来ている。現状報告やこちらの正確な位置を伝えるためにも、母星とコンタクトを取らねばならないのだが、通信感度の良好なポイントがかなり限定されている。私はそこに行かなければならない。」

「そうなんだ。」と、そこまで聞いて、おじさんの方を見ると、なんだかひどくがっかりして言います。

「せっかく出会えたのに、もう行かなければならんですか。色々とお話を聞きたかったが・・・。」

 私は、落胆するおじさんに言いました。

「だったら、おじさんも行く? 日本に。」

「・・・・・・・・・・・・・・・。いや、やめておく。」

 あら? ファーストコンタクトした異星人と一緒にいられるのなら、月までだって行きかねないおじさんなのに、長い沈黙の後、日本には行かないと言います。なんででしょう。おじさんは、なんだか遠い目をして言います。

「あいつとのこともあるし、色々思い出してしまうからな。帰らない。」

 おじさんは寂しそうです。最後に、帰「ら」ないと言ったのか、帰「れ」ないと言ったのか、よく聞き取れませんでした。クダリの話を聞けるという、これほど大きな理由があるにも関わらず、日本に帰らないおじさん。このまま、日本には一生帰らない、そんな風にも聞こえたのです。

 昔、おじさんからの手紙の中で、お父さんがお母さんと結婚する前、おじさんもまたお母さんに好意を寄せていた、と読み取れなくもないことが書いてありました。好きだった、とは書いていなかったと思います。ただ、まぶしかった、と。おじさんの帰らない理由は、そのあたりにありそうでしたが、今、ここがそのことを訊く場ではないような気がして、私は、

「分かった。」

 とだけ言って、うなずきます。

 クダリは、そんなおじさんの様子を、翡翠のように澄んだ緑の目で見つめていたのですが、おもむろにポケットから拳大の石ころを取り出して、おじさんへ渡しました。

「この地で出会えたこと、そして歓迎の意を表してくれたこと、嬉しく思う。これをあなたに贈りたい。喜んでもらえるか分からないが・・・。」

「これは・・・?」と言いながら、おじさんは息をするのも忘れたように、石ころを見つめます。

 私も横からのぞいて見ると、石の中に螺旋状の何かが埋まっているようです。化石、でしょうか。明らかに、有機物的な形をしています。クダリは言います。

「この惑星の一つ外側を公転する、赤い星に寄った際、採掘したものだ。地表下、三メートルほどの場所に埋まっていた。」

「赤い星って、火星ってこと?」と私は訊きます。

「君達があの星をそう呼んでいると認識している。」

「え・・・、それじゃあ、これって、火星の化石・・・?」

 手元の化石から、おじさんの顔に目を移したところで、私は驚きました。おじさんはもう興奮しすぎて、涙まで浮かべているのです。

 コセーダイシルルキに見られるシェルのタイスーラセンに酷似がどうとか、おじさんは完全に棒立ちで、色んな角度からその化石を見ながら、ぶつぶつと独り言を言っています。すっかりスイッチの入ってしまったおじさんは、しばらく自分の世界から帰ってこないでしょう。

 クダリは不安気におじさんを見ながら、私に言いました。

「喜んで・・・・くれたのだろうか?」

「うん。すごく喜んでると思う。喜びすぎて、我を忘れるくらい喜んでいるのよ。」

「そうか。良かった。」

「・・・クダリは優しいのね。」

「・・・え?」

「だって、おじさんが一緒に日本へ来れないから、火星の研究をしているおじさんの、一番喜びそうなものを贈ったんでしょう。」

「いや、俺はただ、友愛の証を贈っただけで、その、儀礼的な意味以上に、優しいなどと・・・。」

 クダリのほっぺたの、白くてふさふさした毛がほんのり赤く染まったような、それくらいの照れようです。クダリはテンパり屋さんにして、照れ屋さんでもあるようです。

 完全にイン・マイ・ワールドなおじさんはとりあえず放っておいて、私はクダリに言いました。

「日本にはどうやって行くの? あのクジラで?」

「ああ。あの揚陸船を使う。まさか、この惑星の交通機関を俺がそのまま使うわけにもいかないだろう。」

「それはそうよね。空港とかで、そのかぶりものを取りなさい、とか絶対言われそう。でも、これって飛ぶの?」

「飛ぶ。飛ばずにして、どうやってここに来たというんだ。」

「あ。それもそうね。でも飛んで行くとしても、どうなのかしら? レーダー? とかで、見つかっちゃいそうな気もするけど。」

「だったら水中を行くまでだ。気泡を使った高速航行も可能だからな。」

「気泡を? ふーん。よく分からないけど、乗るのはちょっと楽しみかも。クジラのお腹に入って太平洋を渡れるんだもの。」

 私がそう言いながら、見えないクジラのボディラインを想像しつつワクワクしていると、おじさんが我に返って言います。火星の化石に対する初見上の見解が頭の中で、ひととおりまとまったのでしょう。

「キタノ。クジラのお腹って、なんのことだ?」

「ああ、おじさんはまだ見ていないのね。ここにでっかいクジラ型の船があるのよ。クダリはそれに乗ってきたの。」

「クジラ型の船が! ど、どこに?」

 おじさんはきょろきょろと周囲を見回し、クダリの宇宙船を細大もらさず観察してやろうと、目をお皿のようにしています。そんなおじさんとは対照的に、クダリは落ち着き払って言いました。

「今は外部から見えないよう、光学的に偽装している。」

「光学的に・・・。じゃ、じゃあ、すぐそこに、ある、というのか?」

「ある。あなたから、数メートル先のところだ。」

「そんな近くに・・・!」

 おじさんはそう言いながら、化石を大事そうにポケットへしまい込むと、両手を前に突き出して、恐る恐る前に進みます。ちょっと行ったところで、クジラのお腹に突き当たったのでしょう。おお、とか、これは・・・すごい、とか、感嘆の声を上げながら、おじさんはそこら中を撫で回します。端から見てると、草原のど真ん中でおじさんが一人、パントマイムをしてるみたいです。

 ひとしきり撫でたところで、少し落ち着いたのでしょう。おじさんは振り返って私に言いました。

「キタノ。これに乗って帰る、とさっき言ったか?」

「うん。」

「その気持ちは分かるが、いや、十分に分かるんだが、飛行機で帰った方がいいだろう。」

「え? なんで?」

 おじさんから、まったく予想外の発言です。

「出入国管理上、お前は今、この国にいることになっている。これに乗って日本に帰ってしまうと、アメリカから日本に帰ったという記録が残らない。後々面倒なことにもなりかねないから、ちゃんと飛行機で帰りなさい。乗りたい気持ちはよく分かるんだが・・・・。」

 私に飛行機で帰れと言いながら、おじさん自身は、この船に乗りたくて乗りたくてたまらない、という表情を隠しもせず、片手でクジラのお腹、つまり宇宙船の船体をなでなでしているのです。

 クダリは私達に向かって言います。

「話はまとまったか、キタノ。君はこの星の一般的な交通機関、ヒコーキというもので帰るんだな。」

「ええ。私もクジラに乗ってみたかったけど、しょうがないわ。飛行機で帰ることにする。」

「分かった。では、合流地点は君が最初に我々と交信を行った場所だ。恐らく俺の方が先に着く可能性が高いが、そこで待つ。ショージ。あなたに会えて光栄だ。またいつの日か、再会できることを期待する。」

 クダリはそこまで言って、おじさんが何か言うのも待たずに、ひらり、とクジラの背中に飛び乗りました。かなりの高さがあるのですけれど、軽々とジャンプして乗ってしまいます。そして、あっと言う間に姿が見えなくなりました。船内に入ったようです。

 どすっ、と大きな音が、クジラの尻尾のあたりから聞こえました。尻尾が地面を叩いたのでしょうか。それから、草がさわさわと音を立て、船体の下になっていた草むらが、静かに波打ち始めます。どうやら、船が離陸したみたいです。

 ふわりとそよ風が吹いたような気がしました。それと同時に、浮かんでいた船のかすかな気配が、急に遠のくのを感じます。

「行ってしまったか・・・。」

 おじさんは、青く澄んだ空を見上げながら、寂しそうに言いました。

 空を見つめるおじさんの横顔を見ていると、不意に、おじさんはいっつもどんな気持ちでこの広い大陸を走り回っているんだろうと、そんな疑問が浮かんできました。

 一人でトラックを運転し、一人でご飯を作り、一人で化石を調査し、そして一人で眠るのです。少し寂しいような気もしましたが、おじさんの浸るその沈黙こそ、孤高と呼ぶにふさわしいのかも知れません。

 おじさんは、あまねく大地や星々と、日々会話を続けているのでしょう。おじさんには、普通の人が石ころとしか見ていないものに対しても、その組成と形成に至る歴史や兆候を読み取り、声を聞くための知識が備わっているのです。

 それでも、自分の話を聞いてくれる人が傍にいないのは、寂しいんじゃないでしょうか。一緒に笑ったり、流れ星の数を数えたり、お肉がよく焼けてるよと話しかける人がいないのは、時々ひどく寂しいと、思ったりしているんじゃないでしょうか。おじさんの横顔を見ていると、私はそんな気がするのです。

 なんだか、変な話です。一人になりたいと、散々思ってきた私なのに、おじさんが一人きりでいることを気にしているのですから。私は、おじさんのいる世界を、孤独とは呼びたくありませんでした。そこには目的があって、やろうとしていることがあって、意志が存在するのです。だから、孤独ではなく、孤高です。寂しさをも、モチベーションに昇華させてしまう、深遠にして崇高なフィールドなのです。時々、一人であることを思い出してしまう、どうしようもなくせつない瞬間を例外とした。

「どうした、キタノ。人の顔を見つめて。むさ苦しいのは顔を洗ってないせいだぞ。」

「洗って落ちるほど、軽度のむさ苦しさかしら。」

「ははは。洗っても落ちやしないか。」おじさんは、いつものおじさんに戻って豪快に笑います。

 私はおじさんの手を取ると、芝生の上を歩き出しました。

「帰ろう。おじさん、私また、日本から手紙を書くわ。」

「そうか。楽しみにしてるぞ。クダリ、と言ったな。あの人のこと、いろいろ教えてくれ。もちろん、キタノの身近に起こったこともだ。楽しかったこと、腹の立ったこと、何でも書いていいんだぞ。」

 つらかったこと、と言うのを避けたのは、おじさん流の気遣いでしょうか。きっと、つらいことや悲しいことこそ、丸ごと手紙に込めて、糊で封をして、遠い国へ送ってしまいなさい、と。何でも書いていいんだぞ、の裏には、そんなおじさんの気持ちが含まれているのを、私は感じるのでした。

 おじさんの手は、焼いた干し芋みたいにゴワゴワして、けれども少し柔らかくて、大きくて、とても優しいのです。私は前を向いたまま、言いました。

「手紙、郵便局に取りに行くの、忘れないでね。」

「忘れないさ。忘れるわけがない。きっと取りに行くよ。」

「うん。」

 私は日本に帰ります。日が昇るにつれ、ようやく暑さを取り戻したこの大地は、やっぱり夏なのでした。

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