チャプター2 Cat Meeting
SF部にようやく男子が増えた。鎌倉君。
ちょっとおとなしい感じだけれど、人は悪くなさそうだし、素直なところがかわいい。
廊下で見つけた掘り出し物、とは本人に言えないけれど、女子ばかりのこの部に、刺激をもたらしてくれることを祈るばかりだわ。
一見して男の子っぽい趣味の部活に思えるけれど、不思議と代々、この部には女子が多い。今年の部長は私。
いつ頃からある部なのか知らないけれど、少なくとも私が入学する以前からあったのは確かね。どの部にもだいたい、逸話というかレジェンドというか、甲子園出場のかかる試合で逆転負けしたとか、対外試合で一度も勝てない、筋金入りの弱小バスケ部とか、先輩が試合に負けて丸刈りにしたとか、誰が誰に部室で告白してつきあい始めたとか、そんな伝説があるものなのだけれど、この部にはそれがない。
活動記録とかも残っていないし、いつ、どんな先輩が、何をやっていたのか、それすらあやふやで、なんとなく行き場所のない生徒達が集まって、時間と場所だけを共有して、また去って行くという、存在の希薄な部なのよ、これが。
みんなで何かをしようと思っても、そもそも趣味が違うし、やることを人に強制されるのが嫌でここにいる連中ばかりだから、部会で活動目標やらを決めようにも、ちゃんと決まったためしがないわ。
みんなで種子島に行こう! 計画も、骨が、筋肉が、宇宙人がなんのかんのとごねられた挙げ句、実現しなかった。一人で射場見学は敢行したものの、部として、部長として、これでいいのかしらという疑問は、フェンス越しに見る夕陽の中の発射塔という燃えるシチュエーションにあっても、常に頭の片隅でひっかかっていた。
だからと言って、私が熱血部長を演じて熱くみんなを煽ろうにも、歯止めのきかない動輪みたいなモチベーションで、てんでバラバラにつき進むあの子達のこと。煽って焚きつく共通の火の気を探すことすら難しいわけで、私という人間は、今の部のあり方に対して、無力と言わざるをえないのよ。
「分かる? 鎌倉君。」と言って、私は手にした缶コーヒーを、ずず、とすすった。温かかったコーヒーも、すっかり生ぬるくなってる。私は夏でもコーヒーはホット派だ。
夏休みも間近な部室、おんぼろクーラーがゼイゼイいいながら冷風を吐き出す中、椅子に座って、ふんふんとうなずきながら話を聞いていた鎌倉君は言った。
「うーん、分かると言えば分かる気もしますけど、でも、今の部の状態が、憂慮すべきというか、そんなに問題なんでしょうか? というか、まだ入ってそんなに時間も経っていないし、部の状況がいまいち実感として理解できないんですけど、お互いゆるく集まって、好きなことに没頭できるわけですし、それはそれでいいんじゃないですか? もともと、何かの目的を達成するための部というわけでは、ないんですよね。」
「それはそうだけれど、やっぱり今のままじゃ、バラバラ感は否めないわけよ。もう少し、こう、達成感というか、せっかく部員として一緒にいるわけだから、共通の目的をもってもいいんじゃないかって思うわけ。」
「先輩は真面目なんですね。」
「真面目じゃないわよ。どうしたら、部の活動が盛り上がるかって考えてるだけよ。」
「でも、盛り上がらないのが、この部のよさとも言えるんじゃないですか。目標! とか目的! といってぎらぎらしてないからこそ、設楽先輩や東先輩も来ているんだと思いますけど。坂井田先輩は・・・・、好きそうですけどね。目標達成って、四字熟語とか。」
「目標達成って、熟語なの? まぁ、なんでもいいけど。彩火は彩火でマイペースなのよね。見た? あのダンベル。斑が両手で必死になって持ち上げながら、ドMの愛玩道具と揶揄したあれを、嬉々として上げ下げしてるわけよ。片手でね。」
「ああ、あの隅っこにあるやつですね。さっき足をぶつけたんですけど、びくともしませんでしたよ。」
「あの子、見た目は華奢なわりに筋肉質なのよ。運動系の部であれば、アレで鍛えた筋肉でもって、チームを勝利に導く! とか、一生懸命やることで、団結心も強まるものでしょうけど、彩火は自分のためだけにやってるから。そもそも、SF部に筋力はあまり必要ないしね。」
「あまりというか、ほとんど必要ないでしょうね。でも筋トレするなとは、言えませんよね。」
「そりゃそうよ。好きなことできるってのが、この部の特色でもあるわけだし。」
「じゃあ、やっぱり、共通の目的ってのは、難しいんじゃないですか。運動部なら甲子園とか、全国大会優勝とかって、シンプルで明快な目標を設定できますけど、好きなことができるSF部に、決まった目的を設定すること自体、存在意義を否定しているというか。」
「身も蓋もないこと言わないでよ。そこをどうにかしようって、考えてるところなんだから。」
「すいません。じゃあ、こういうのはどうです? 人体の神秘展みたいな催しと、プラネタリウムと科学博物館をはしごするとか。あ、そうすると宇宙人がいないのか。」
「宇宙人て、北野の趣味のこと、言ってる?」
「ええ。今日の昼休みですけど、見ちゃったんです。屋上で。」
「ああー。見ちゃったのね。あの、おいでませ、マゼラ様ってやつ。」
「はい。結構ショックだったんですけど、東先輩って、おしとやかで常識人というイメージがあったから。」
「そうねぇ。マゼラ様さえなければ、清楚系黒髪女子でとおるんだけど、あれがあるから、みんな引いちゃうのよね。」
「やっぱり、引いちゃいますか。」
「そりゃ、引くわよ。前にね、物理の時間でケプラーの法則ってのが出てきて、そこで先生が脱線して、惑星の話を始めたわけよ。地球外に知性を持った生命がいるか、ってテーマでね。それで、先生は言うの。知的生命なんているかどうかもあやふやだし、そもそも、自分達が生きているうちに、彼らとコンタクトを取るのは、まあ無理でしょう、ってね。」
「なんか、オチが見えてきました。」
「でしょう。案の定、北野が食ってかかったわ。そんなはずはない。宇宙人は絶対にいるし、コンタクトを取るのは可能です。私は毎日試みています、ってね。最初は、北野が柄にもなく冗談を言ったとみんな勘違いしたみたいで、笑ってたんだけど、先生と真っ向から言い合う北野があまりに真剣なものだから、みんな笑顔がだんだん引きつって、その状況をどう受け止めたらいいものか、戸惑い始めたのよ。授業の終わるチャイムが鳴る頃には、みんなどん引きだったわ。」
「光景が目に浮かびますね。」
「それまで、おしとやかな和風美少女というイメージがあったものだから、男子からも女子からも人気があったんだけど、その一件以来、すっかり「痛い子」扱いよ。」
「ギャップがあまりに大きすぎますもんね。」
「今じゃ、クラスで北野と話をするのは私くらいのものよ。」
「そこまで浮いちゃったんですか。」
「そう。浮きまくりね。宇宙人とのコンタクトを連日試みている、という以外、北野は北野のままなんだけど、あまりに理解し難い部分を一点でも持っていることが分かってしまうと、みんな距離を置いちゃうのよ。かろうじて、いじめられてはいない、っていう程度の疎外感はあると思うわね。」
「東先輩も落ち込んじゃったんじゃないですか。自分の秘密をうっかりばらしてしまった、みたいに。」
「そうでもないみたい。北野本人は、あんまり気にしてなさそうだわ。それが救いっちゃ救いよね。宇宙人好きがばれて孤立して、本人がそれを気に病む、じゃあ目も当てられないから。でも、心配は心配なのよ。」
「心配って、何がです?」
ペットボトルの炭酸入りミネラルウォーターをぐびぐび飲みながら、鎌倉君は首を傾げる。
「それ、美味しいの?」
「美味しいですよ。硬度は高いんですけど、炭酸入りで飲みやすいですし。」
「ふーん。硬度の高い水って、私はちょっと苦手だわ。苦いし。」
「これはそうでもないんですよ。飲んでみます?」
「遠慮しとくわ。それで、北野の何が心配かって話よね。クラスで孤立しても、それを本人が気にしてない、というかあまりに気にしなさすぎるってところよ。」
「気にしなさすぎる、ですか。」
「そう。全然、まったく、これっぽっちも気にしてないのよ。それって、他人に対する関心が薄いってことの現れでもあると思うのよね。自分の好きな世界にこもって、高い城壁を建てて。もし私と話をしなかったら、あの子、学校に来て口を開く機会が、例の呪文を唱えるときだけってことになりかねないのよ。」
「呪文って、アイサン・・・、なんとかっていう、あれですか。」
「そう、あれ。」
「でも、部会はどうなんです? 設楽先輩も坂井田先輩もいるんですよね。」
「いるけど、あの二人はあの二人でマイワールドにこもるもんだから、ひとっことも言葉を交わさないことも、珍しくないのよ。」
「そうなんですか。いつもの雰囲気からすると、ちょっと想像できないですけど。」
「鎌倉君が想像できなくても、事実よ。」
「孤独、ってやつですか。なんだか信じられませんね。あんなにおしとやかで、礼儀正しい東先輩が、学校で独りって。」
「いってみれば、異端なのよ。常識から外れすぎちゃうと、みんなとの接点を失っちゃうの。」
「受け入れたり、理解したりできないものとは、距離を置いちゃいますもんね。ドーナツの中心を食べると自称する人に、中心の味で共感はできないのに似てますね。」
「変な例えを出すのね。でもそのとおりだわ。誰もドーナツの中心なんて食べられないのに、それを食べられると主張する人間を、理解なんてできないもの。理解できない以上、疎外するしかないわ。意図的にしろ、無意識的にしろね。」
「東先輩は、なんでかたくなに宇宙人と交信できるって、信じているんですか? 何かきっかけとなる体験でもあったんでしょうか。子供の頃にUF0を見たとか。神崎先輩は、東先輩のこと昔から知ってたんですか?」
「知ってるわ。幼なじみだもん。きっかけが何かは知らないけれど、いつの頃からか、宇宙人、宇宙人て言い始めたのよね。」
「神崎先輩はロケットがお好き、なんですよね。東先輩が宇宙人なら、宇宙つながりで話も合ったんじゃないですか?」
「私はロケットが好きなだけであって、地球人以外の知性に特別興味があるわけじゃないわ。この子、変わったことに興味持ち始めたんだな、程度にしか思わなかったわね。・・・・・。何? じっと見て。」
「あ、いえ、東先輩も同じこと思ったかも知れないですよね。ロケットの専門書を読みふける、同世代の友達を見て。」
「同世代の友達って、それは私のことを言ってる?」
「はい。」
「・・・・まあ、そうかも知れないわね。お互いの家に遊びに行っても、そこでお喋りして楽しい時間をすごした、なんて記憶、あんまりないし。」
「お互いの家で、何をしてたんですか?」
「本読んでた。」
「二人とも?」
「ええ。」
「ちょっとシュールな雰囲気だったんでしょうね。女の子二人が部屋でもくもくと、宇宙人はいる! とか、エンジン工学の本を読み耽って。」
「シュールもなにも、それが私達にとっての当たり前だったから、何も不自然な感じはしないわ。」
「僕がお二人のお兄さんだったら、絶対、この妹達、変わってんな、って思ってますよ。」
「なんで鎌倉君が私達のお兄ちゃんなのよ。」
「いえ、仮定の話ですよ。」
「兄妹ということなら家庭の話なのはそうなんでしょうけれど、その家庭、ちょっと想像できないわよ。」
「まあ、仮の話なんで。」
「ああ、家庭といえば、北野の・・・・。」
「東先輩の?」
「・・・・やっぱり、何でもないわ。」
「言いかけた途中でやめないでくださいよ。」
「鎌倉君話しやすいから、つい何でも喋っちゃいそうになるけど、ちょっと自粛したのよ。」
「話しやすいって、ええー、そうですかねぇ。いやぁー、そうなのかなぁ。」
「・・・・嬉しそうね。」
「そんなことないですよー。」口ではそう言いながら、鎌倉君はにやにやと、気味が悪いほど嬉しがってる。
缶に残ったコーヒーを仰ぐようにして飲み干しながら、壁の時計を見た。斑達、今日はちょっと遅いかしら。掃除当番か、それとも、補習でも受けているのかな。三人とも得意科目はすごい点を、すごいというのは高いという意味でだけれど、学年三位とか二位とか、取るのに、それ以外の科目は赤点付近を行ったり来たりだから、しょっちゅう補習を受けている。今日もその居残りで、遅くなっているのかも。
結局、ずいぶん遅くなってから斑と彩火、北野が顔を見せた。
斑は最近、お気に入りの本を発見したらしく、全ページいろんな動物の骨格写真で埋まってて、黒一色の背景に骨が白々と浮かぶその本を、くしゃみひとつせず読んでいたわね。
彩火は延々とダンベルを上下させ、二十四回目まで私も数えていたけど、それ以降数えるのをやめた。
北野はネットで拾ってきたUFOの目撃事例をプリントアウトした紙を一枚一枚、丹念に読みめくっていた。几帳面にも、項目ごとにファイリングして、レポート集みたいなのを北野が作っていることを、私は知っている。
例によって各自好きなことをやるだけやって、時間になるとめいめい帰って行った。鎌倉君はトイレにでも行きたいのか、そわそわとしながらいつまでも部室に残っているものだから、
「トイレ? 行くなら早めに行ってくれば? 消灯しちゃうと、結構怖いのよ、この学校の校舎って。」と私が言うと、
「あ、いや、トイレというわけじゃないんですけど・・・。」
そう言って、言葉を濁す。
「そう? 部室の鍵は私が閉めとくから、もう帰っていいわよ。」
「あの・・・・、はい。じゃあ、お疲れさまです。」
「うん。お疲れー。」私はひらひらと手を振って鎌倉君を見送り、埃だらけでかすむ窓ごしに外を見やった。
だいぶ暗くなって、自分の顔がうっすらと窓に映っている。窓に浮かぶ自分の姿を見て無意識に前髪を整え眼鏡をかけ直しながら、部室のゴミ箱にぱこん、と空き缶を捨てた。
私は椅子に座って頭の後ろで手を組み、天井を見上げた。蛍光灯がちりちりと明滅し、現在地の分からない地図みたいな汚れが、あちこちについている。
相変わらず、今日の部活もみんな好きなことを好きなだけやって終わった、という感じで、充実感というか、まとまりというか、そういうものがないのよね。鎌倉君も、斑や彩火に話しかけていたけど、二、三往復の会話で終わっちゃって、あとは所在なげに机の木目を数えていたみたい。
SF部の、部会と称しているこの集まりを見てると、なんだか猫の集会というやつを思い出す。集まって何かを話し合ったり、猫に会話という概念があれば、だけれど、物事を決めたりするわけじゃなく、お互いの顔見せというか、その地域に自分がいますよー、という確認が、集会の目的じゃないかって聞いたことがある。私達のやっていることは、まさにそれと同じかも知れない。集まって一緒に何かをやるわけじゃなく、ただ、自分がこの世界にいるんだと、ああ、今日もあなたはこの地上にいるんですねと、お互いの存在を確認し合う。それが唯一の目的である気さえする。
鎌倉君の言うとおり、部の存在意義が自由に好きなことをやれる、一点に尽きるなら、この状況を問題とする意味なんてないのかも知れない。
でも、私はやっぱり、寂しい気がするのよね。一緒にいながら、心は一緒じゃないっていうか。
特に、北野。鎌倉君には結局言わなかったのだけれど、北野は高校に入ってからすぐ、お母さんを病気でなくしている。北野のお母さんとは私も幾度となく会ったことがあるし、ごわごわのアップルパイを作ってくれる、優しい人だった。私も北野と一緒に泣いた。
今はお父さんとの二人暮らしで、いわゆる父子家庭というやつだ。北野のマゼラ様に対する執心は、明らかにその頃から強くなった。それまでだって、宇宙人との交流というか、チャネリング、とかいうやつをやってみようとかで、面白半分に私もつきあっていたけど、北野が本気で宇宙人と会話できると思っているようには見えなかった。まぁ、そんな不思議な話もあったらいいね、くらいの希望的願望というやつだ。
ところが、北野のお母さんが亡くなってから、様子が違ってきた。本気度が違うというか、本当に、宇宙人と会話ができると考えているようにしか見えない、真剣な態度で空を仰ぐ北野。この世界で生じた辛い事実を、宇宙から吹き下ろす風で吹き飛ばそうとしているかのような、異常とも呼べる没入をし始めた。
一緒にいながら同じ場所にいないという感覚を北野に感じ始めたのもその頃で、SF部に入ろうと誘って二つ返事で一緒に入部したにも関わらず、北野に疎外されている感は強くなる一方だった。
いいえ。疎外というか、距離を置いてしまったのはむしろ私の方かも知れない。悲しみをマゼラ様とのつながりに置換してしまった北野に対して、私はかける言葉を見つけられなかった。そんなことしてもお母さんは戻って来ないし、不毛なことはよしなよ、なんて、そんなこと言えるはずがなかった。
私の沈黙はそのまま、私達の間の隔たりとなって、その長さと深さを増した。
いい加減、校舎の鍵も閉まる時刻になった。私は頭の中で開いていた回想ノートをぱたりと閉じて、鞄を持つと部室の出口へと向かった。ぱちっ、と部室の電気を消し、暗い室内に息苦しさを感じたものだから、私は慌てて、外に出る。あいにく、星は見えない。
夏休み前日。初夏に訪れた切れ長の晴れ、とでも呼んだらいいかしら。薄い雲の所々が切れて、青空がのぞいている。久々にしっとりとして、いくぶん涼し気な朝の空気が気持ちよく、足早に学校へ向かっていると、北野の後ろ姿が見えた。しずしずと、しとやかに歩を進めるその後ろ姿は、やっぱりお嬢様なのよね。家がお金持ちとか、そういうんじゃないんだけど、やっぱり、ナチュラルボーンお嬢様よ、北野は。
「おはよっ、お嬢。」
「あら、望美ちゃん、おはよう。なぁに? お嬢って。私はかたぎよ。」
「それは知ってるわよ。後ろ姿があまりにもお嬢様だったから、言ってみただけ。」
「あまりにもお嬢様って、どういうこと?」
「うーん、おしとやかというか、背筋がぴんとしてるもんだから、森厳としておごそか、みたいな。」
「森厳もおごそかも同じ意味よ。それじゃあ、おごそかとしておごそか、になっちゃうわ。それにね、望美ちゃん。」
「何?」
「私、そんなに言われるほど、おごそかじゃないわよ。」
「そうかしら?」
「そうよ。普通よ。」真剣な目で言う北野。
「普通・・・かな?」宇宙人と交信中の北野の姿が脳裏をよぎった。
「普通よ。」もう一度言う北野。北野は続けて言った。
「背筋を伸ばすのだって、昔、お母さんに言われたからそうしているだけよ。背筋をぴんとして、前を見てないと転んでしまうのよ、人生って、そう言ってたわ。」
「そう。」
お母さんの話が出て、一瞬、私の方がびくっとしてしまったけれど、北野はそれを気にかけるでもなく、空を見て言った。
「雨、降らなくてよかったわね。そんなに暑くないし、今日はいい日。」
「そうね。今朝はご飯が美味しかったわ。ミニ目玉焼き丼、サイコー。」
「ふふ。雲もそんなに厚くないみたいだし、マゼラ様からの発信もきっと受け取りやすいわ。」
「あ、ああ。うん。・・・そうよね。ところでさ。」
「何?」
「新しく入った鎌倉君。どうかしら?」
「おとなしそうな感じだけれど、言うことは言うみたいだし、それに、いい子だと思うわ。」
「うんうん。私もこの前さ、半分愚痴も入ってたんだけど色々相談しちゃったわ。」
「相談て、何を? 恋の悩み?」
「ちっがーわよ。今の部の雰囲気とか、みんなのバラバラ感が半端ないとか、そういう話。」
「そう。健吾君、なんて?」
「今の部の状況も、別に悪くはないんじゃないか、って。みんな好きなことやってられるし、ゆるい連帯ってやつも必要、とか。あ、そうは言ってないのか。ま、現状に対しておおむね肯定的な意見ではあったわね。」
「私も健吾君に同感よ。無理に目標とか、達成とか頑張る必要ないと思うわ。そもそも、SF部って、そういう部じゃないでしょう。」
「北野もそう言うかぁ。まぁ、そうなんだけどね。そうなんだけどさ。ちょっとばらばらすぎて、私は寂しいと思うわけよ。」
「・・・・なんで? みんな一緒に部室に集まって、特にひどい喧嘩もせずやっているわけじゃない。それが寂しいの?」
「喧嘩をしてないから寂しくない、とはならないと思うのよねー、私は。むしろ、たまには本気で喧嘩するくらいでもいいというか。近いからぶつかるわけじゃない、人って。」
「ぶつかり合うくらいなら、近づかなければいいだけの話よ。どうせみんな、卒業したら散り散りになって、いなくなってしまうんだし。」
「・・・・それはまあ、そうかも知れないけど! でも、だからこそ、ぶつかれるときにぶつかっておくというか。って、私は何を言ってるんだろ。」
「望美ちゃんは真面目なのよ。そんなに頑張りすぎないで。」
ぽん、と私の背中に手を置く北野の笑みは、あくまでも優しかった。けれども、散り散りになっていなくなる、そう平然と言ってのけてしまう北野のドライな態度に、私はとけきったカップアイスみたいなうら寂しさを感じた。北野に真面目と言われるほど真面目なことを言ってるつもりは、私にはなかった。むしろ、当たり前のことを言っているだけなのに。
学校の昇降口に着いたところで、事件は起きた。事件、と呼ぶほど大仰なものではないのかも知れない。けれど、私と北野にとって、というより、私から見た東北野という子について、私は驚愕とも、落胆とも、心配ともつかない、ほの暗い印象を新たに持ったのは確かだった。
北野が下駄箱の蓋を開けると、ぱらり、と白い封筒がすべり出して、私の足下に落ちた。はがき大の、横に長い白封筒だ。
「あら。何か落ちたよ、北野・・・・って、こ、これは・・・!」
「え? 何?」
「こ、ここれはいわゆるラブレター、なのかしら。」
「ラブレター?」
「恋文というやつよ。」
「それは分かるけれど。」北野は驚くでもなく、冷静だ。
当人よりも、むしろ私の方が動揺している。だって、ラブレター、って。ラブレターってさぁ。まだ封を開けてないから確定したわけではないけれど、下駄箱に入れてある手紙といったら、古典的常識として、恋文以外のなにものでもないわ。果たし状、という可能性は百万分の一の確率であるかも知れないけれど、北野に果たし状を送る輩の気が知れない。というか、まずありえない。
封筒の表には、ぎこちないけど一生懸命、丁寧な筆跡で、東北野様、と書かれている。送り主の名前はどこにも書かれていない。私はつい、天井の蛍光灯で透かして中を見ようとした。
やめてよー、とか言って、北野が照れながら手紙を取り上げようとする、そんなリアクションを予測しながら、私はによによして北野を見るのだけれど・・・、あれ? 北野は照れるでもなく、私の行動をぼんやり眺めている。
私はさらに、
「おやぁ、北野サンに惚れこんでいるのは、どのクラスの男子かしら。同じ学年か、あるいは年下ということも・・・。」
と、北野の恥ずかしさをあおってみるのだけれど、北野はまったく動じていない。私は、ひとりはしゃぐ自分が恥ずかしくなって、
「あの・・・、こほん。はい。東北野様、だって。」と言いながら手紙を渡す。
「ありがとう。」
北野はそう言って、手紙を受け取りながら歩き出す。さては、人のいない場所でこっそりと読む気ね。表情には出さないけれど、やっぱり、照れてるのよ。かわいい子。
手紙の差出人が誰だか、気になって気になって仕方のない私は、北野の後ろについて行くわけだけれど、そこで私は、自分の目を疑わずにはいられない、信じられない光景を目にした。
昇降口の隅っこにあるゴミ箱に、北野はそのまま手紙を捨てた。興味のないダイレクトメールを捨てるみたいに。むいた後のミカンの皮を捨てるみたいに。飴の包み紙を捨てるみたいに。自分の世界にとって、それはこの先永久に不要であると、断定されたものたちが集まる、離別の箱へ。
それがあまりにも自然な動作だったものだから、私は一瞬、北野が何を捨てたのか、分からなかった。慌ててゴミ箱をのぞき、捨てられたのがさっきの手紙であることを確かめた私は、腕をつっこんで手紙を拾い上げ、北野に言った。
「ちょ、ちょっと、北野! なんで捨てちゃうのよ。」
「なんでって、私には必要ないもの、ラブレターなんて。」
「必要ないって、でも、誰からの手紙なのか分からないし、そもそもラブレターじゃないかも知れないわ。」
「ラブレターであってもなくても、知らないわ、そんなこと。」
「知らないって・・・。でも宛名は北野になってるし、何か伝えたいことがあるから、こうして手紙にしたんでしょう。字は下手だけど、丁寧に書いたみたいだし、そんな読みもせずに、ゴミ箱に捨てちゃうなんて・・・。」
「想いを伝えるラブレターであっても、過去の過ちを謝まる謝罪文であっても、私を脅かす脅迫文であっても、からかうためだけに書かれた偽文であっても、読む意味なんてないのよ、望美ちゃん。手紙はこうしてお話しするのと違って、その内容がどう解釈されるか、読むか読まないかもすべて含めて、受け取った側に委ねるってことなのよ。だから私は捨てるの。せっかく私の判断に委ねてくれたのだもの。あれを書いた人は、私に敬意を払ってくれたのよ。あなたの判断にすべてを委ねますって。だから、私はその敬意に応えただけ。何も、ひどいことをしたなんて思わないわ。」
私は、そうやって静かに話す北野が、なんだか水槽のガラス越しに喋る人魚みたいに見えた。幼なじみの北野は、少なくとも、私が知っている東北野は、自分宛に書かれた手紙をそのまま捨てるような人間じゃなかった。
受け取る者の判断に委ねた。それは確かにそうなんだけど、でも、それは読んでほしいという期待や、想いのたけがこめにこめられた上で、委ねたもののはずだった。脅迫文やいたずらなら読む価値なんてないかも知れない。でも、伝えたい想いがあるから書かれた、その可能性がある限り、
「北野。あなたはこの手紙を読むべきだと、私は思う。自分に興味のないことが書かれてあるとしても、それは読んだ後で判断することよ。読まずに捨てちゃうなんて、人としてどうかと思う。」そう言って、私は手紙を北野につきつけた。
私の剣幕にちょっと驚いたような顔をして、北野はじっと、私の手にある手紙を見た。
「・・・・分かった。望美ちゃんがそうまで言うなら読むけれど、私の考えは変わらないのよ。望美ちゃんが読むべきだという想いに応えて読むのだから。」
「それでいいわ。ほら。」
「うん。」北野は私によって再びその手に戻った封筒を開くと、手紙を取り出した。文章は短かかったみたいで、北野はさっと一読して、またすぐに手紙を封筒の中に戻した。
「・・・・で、何て書いてあったの?」
「終業式後屋上で待ちます。伝えたいことがあるから、だって。」
北野は回覧板に書かれた町内の会合を伝えるみたいに、そっけなく言った。そのシチュエーション、おそらくは告白、という結構重大な事柄だと思うのだけれど、北野の冷静さに私はひやかすきっかけすら得られなかった。
「そ、そう・・・・。それで、行くの? 」
「行かない。」
「・・・行かないんだ。」
「だって、好きだ、と言われたところで、私はそれに応える言葉がないもの。ああ、そうなんですね、と言ったきり沈黙するだけだと思うわ。」
「でも、真剣に好きだ、って言われたら、ちょっとは気持ちも動くかも。だって、嬉しいじゃない? 好きって言われて。」
「嬉しくはないわ、別に。」
即答する北野に、私は続ける言葉を失った。好き、という好意をストレートに受けたとして、それをなんとも思わないと言う北野が、私には理解できなかった。北野は丁寧に封筒を閉め直すと、再び、手紙をゴミ箱に捨てた。内容を読んだのだから、もうその手紙は用済み、といわんばかりに、ぽいっ、と、何の未練もなく、捨ててしまった。
「望美ちゃん、行きましょ。遅刻ちゃうわ。」
「あ、うん・・・。先行ってて。私ちょっと・・・、トイレ。」
「うん。じゃあ、先に行ってるね。」
そう言ってにっこりと微笑む北野と、手紙を捨てた北野がどうしても一致しなくて、私はなんだか、幻を見てるような、おかしな気分で、教室に向かう北野の背中を眺めていた。
トイレなんて、別に行きたくはなかった。北野の姿が見えなくなってから、私はまた、手紙をゴミ箱から救い出し、鞄の中に放り込んだ。
自分でも何でそんなことをしたのかよく分からない。北野にラブレターを書いた相手が誰だか確かめるため、なんかじゃない。今となっては、相手が誰かなんて、どうでもいいことだった。ただ、北野に向けられた一途な想いが、ゴミ箱に捨てられてしまうのは見るに耐えなかったし、それ以上に、北野の冷たさを認めたくない自分がいた。ゴミ箱の底の方に、ぽそっと捨てられた手紙を見ていると、なんだか北野が自分の心をそこに捨ててしまったみたいで、私はとても悲しくなった。手紙を拾わずにはいられなかった。手紙を私の鞄に入れている限り、北野の冷淡な態度が一旦は保留というか、据え置きみたいになるんじゃないか。そんな気がした。
「望美。そんなとこでつっ立って、何してんの?」
急に声をかけられ、びっくりしてふり向くと、斑だった。何してる、と訊いてくる割に、私が実際何をしてるかなんてまったく興味ないみたいに、前髪をくるくると指でいじっている。
「斑か。いやちょっと・・・。」
「ちょっと、何? なんか大事なものでも捨てちゃった? ゴミ箱あさってたみたいだけど。」
「み、見てたの?」
こく、と斑はうなずいた。
「捨てちゃったというか、捨てられたというか、大事なもの、は大事なものかな。たぶん。」
「何それ?」
「うん。いや、実はさ。」
私は斑に、さっきの出来事を話した。北野が手紙を受け取ったこと。それを読まずに捨てちゃったこと。
「ふーん。でも、北野の取った行動が特別おかしいってわけでもないんじゃないの? 手紙とか一方的に下駄箱に入れられても、扱いに困るだけだし。読んだら読んだで、相手が自分のこと、気にしてることを気にしなきゃいけないわけだし。面倒じゃん。読まずに捨てる、ってのはありだと思うよ。」
「そうかなぁ。私はそうは思わないんだけど・・・。」
「望美は真面目だよ。真面目すぎ。受け取れない気持ちは、渡される前になかったことにする、ってのも必要なことだと思うよ。」
「斑も北野も、ドライなこと言うのね。」
「ドライっつーか、普通でしょ。」
「普通・・・ね。」自分のことを普通と主張する本日二人目の人間だ。
「それで、手紙には何て書いてあったのよ。」
「屋上で待つって。伝えたいことがあるから、だって。」
「それで?」
「それでって、何が?」
「北野は行くつもりなの?」
「行かないって。」
「ああ、やっぱね。あの子、そういうの興味なさそうだもん。」
「興味なさそうなのは分かるけどさ、ちょっと、興味なさすぎじゃないかしら。」
興味なさすぎ。そうだ。北野の他人に対する無関心は、以前からその気はあったものの、最近、特にそれがひどくなっている。私はそれが心配だった。斑はどう思ってるんだろう。私は斑に言った。
「最近、北野さ。内にこもりすぎっていうか、ちょっと心配じゃない?」
「心配?」と、斑は首をかしげて続けた。
「心配って、何が。」
「内にこもって壁を作って、周囲の人に対する興味もなにもないみたいじゃない。クラスで宇宙人好きなことカミングアウトしちゃってからは、完全に浮いてるし。学校で、私ら以外とほとんど喋んないのよ、あの子。」
「それをうちらが心配したって、どうなるものでもないじゃん。それに、少なくとも望美や私達とは喋ってるわけでしょ。喋る相手が多けりゃいいってもんでもないでしょーが。」
「それはそうだけど・・・。でも、以前はあんなに冷たい感じじゃなかったんだけど。」
「手紙を捨てちゃうとか?」
「そう。前の北野だったら、少なくとも手紙を開けて読んだだろうし、呼び出されたのなら、とりあえず行くだけ行ったはずよ。そこでどう答えるかは別の話として。」
「ふーん。まぁ、その変化は確かに気になるけど、じゃあ、どうするっていうの。渡された手紙は捨てずに読みましょー、とか、呼び出されたらとりあえず顔は出しましょーとか、そういうこと言うわけ? 無駄でしょ。根本的な原因はそこにないんだから。」
「それはそうよ。そういう話じゃなくて、なんというか、もっと心を開いてほしいというか、つらいなら、つらいって言ってほしいというか。」
「お母さんのことでしょ。」と斑は言った。斑も、北野がお母さんをなくしていることを知っている。
「うん。」
「確かに、北野のお母さんがなくなったあと、元気がなかったし、それ以上に変わったよ。笑っているのに、心の底では笑ってないっていうか。それは私も気づいてはいたけど。」
北野について、こうして斑と話すのは、初めての気がする。なんだかんだで、斑も結構人のこと、見てるのよね。斑は言った。
「でも、そこは私達の解決できる部分じゃない。手に負えないことだって世の中にはある。時間だけが、解決することだってあるんだよ。私だって、北野には元気になってもらいたいけどさ。元気出せって言って、元気出るような事柄じゃないでしょ。」
「・・・・うん。斑も結構、優しいとこあるよね。なんか大人だし。」
「は、はぁ? 別に優しくなんてないし。部に暗い人間がいると、盛り下がるだけだから気になっただけよ。」急に優しいだなんて言われたものだから、斑の顔が赤くなる。斑は普段そっけないくせして、ほめられると慌てるところがかわいい。
「暗いって、斑も人のこと言えないでしょ。いっつも骨ばっかりの本をもくもくと読みふけってるんだから。」
「それは暗いんじゃなくて、集中してんのよ。笑っていながら暗い北野とは、質が違うわ。」
「同じようなものだと思うけど。ほら、行こ。もう時間。」
始業のチャイムが鳴る時間だった。私は急いで教室に向かう。斑は、別に優しくなんてないし、とまだぶつぶつ言いながら、後ろからついて来る。私は手紙の入った鞄をぎゅっ、とつかみながら、さて、どうしたもんだろう、と考えた。手紙のこと。差出人の相手のこと。
終業式後。私は我ながら怪しいと思えるくらい、こそこそと、人目を避けて屋上へと向かった。どうしても、北野宛に手紙を書いた相手のことが気になったのよ。それが誰か気になる、という意味じゃなくて、想いを伝えて断られるならまだしも、相手が姿を見せすらしないなんて、手紙の主がちょっとかわいそうなんじゃないかって。
私はそう思ったものだから、せめて、北野は来ないよ、ってことを相手に伝えようと、屋上に向かっている。ちなみに、手紙の差出人の名前は見ていない。手紙を勝手に読むのは気が引けたから。
なるべく早足で階段を登ると、私はこっそり屋上に続く扉に身体を押しつけ、そっと、外の様子をうかがった。屋上に人の姿は見えない。まだ来てないのかしら。屋上に出て物陰にでも隠れていようかとドアノブを回しながら、ふと、私は思った。
これって、ちょっと、おせっかいすぎる? 北野は私に言われたからにしろ、手紙を読んだ。そして、ここには来ないと決めた。なのに私は、北野に頼まれたわけでもないのに、北野の拒絶を相手に伝えようとしている。この場に北野が姿を見せないというだけで、それが一つの答えになっているわけだし、私がしゃしゃり出て、北野はあなたに興味なんてありませんよ、と言うのって、どうよ?
私は朝から、北野の冷徹を一生懸命否定するために、手紙を拾ったり、相手に北野の返事を伝えようとしたりしているだけなんじゃ・・・。それは結局、自分勝手な空回りで、昔の北野に戻ってほしい、冷たい北野であってほしくないというエゴにしかならないのかも。北野も、手紙の主も、私のこんなおせっかい、望んでいないんじゃないかしら。扉の窓にうっすらと映る自分の顔を間近に見ていると、急に自分が恥ずかしいことをしているようが気がして、私は、はぁ、とため息をついた。窓はちょっと曇って、すぐに透明になった。
やめよう。私がこんなこと勝手にやってるって知れたら、北野も、手紙の主もいい気はしないわよね、きっと。私は手紙の送り主に会うのをやめ、そうと決まれば、こんなところにぐずぐずしてはいられない。もう一度だけ、屋上に誰の姿も見えないのを確認してから勢いよく扉を離れたところで、どふっ、と何かにぶつかった。
「ぅぎゃっ!」
と、我ながら奇怪な叫び声をあげてしまった。何となく後ろめたい気分で、こそこそ撤退しようとした矢先、まったく予期しないものに正面からぶつかったわけで、その驚きは半端ない。人間、後ろめたいことをしているとき、予想しないことに出くわすと、とんでもなく驚くのね。
いきなり襟首へ氷塊を入れられたみたいに、私は動転しながら正面を見ると、鼻の当たりを抑えながら、心なし顔を赤くした鎌倉君がよろめいていた。
「鎌倉君! なにやってんのよ。」
「あ痛ー・・・。きゅ、急に振り向かないでくださいよ、神崎先輩。なにやってるはこっちのせりふですって。こそこそと人目を気にして屋上に行っちゃうもんだから、気になって来てみたんですよ。なにをやってるんですか?」
「え、あ、ええと、えー、なにって、ほら、その、あれよ。衛星! 人口衛星が見えるかと思って来たんだけど、だめね。今日は雲が多すぎて見えないわ。」
「人口衛星? 雲が? 今日は晴れてますよ。人工衛星が上空を通過するんですか?」
「急に雲が増えてきたのよ。光学13号機が見えるかと思って屋上に来たんだけど、見えなかったわ。ああー、残念だわー。」
「え? 屋上にって、もう見て来たんですか? タイミング的に、先輩まだ屋上に出てないと思ったんですけど。」
「もう出たのよ。さぁ、部室にいくわよ。」
「ちょ、先輩押さないでくださいよ。」
「ほらほら。早くしないと来ちゃうじゃない。」
「来ちゃうって、何がですか?」
「あう。早くー、しないとー、記帳ができない、でしょ。」
「き、記帳? 何かに記帳するんですか?」
「つべこべ言わないで、ほら、さっさと階段を降りる!」
「わぁ! だから、押さないでくださいってば、危ない。」
私は鎌倉君の両肩をしっかりと押え込み、ぐいぐいと前に押し続けた。手紙の主にばったり出くわしても、知らん顔してればいいだけなんだけど、なんとなく、私が屋上のあたりをうろうろしてたということ自体、なかったことにしたかった。
幸い、手紙の主に出会うことはなく、教室へ鞄を取りに寄った後、私達は部室へと向かった。
部室にはすでに斑と彩火がいた。斑は一生懸命、人体骨格模型を机の上に組んでいて、台座の上では、早くも大腿骨あたりまでが組み上がっている。
彩火はスカートのまま上半身だけティーシャツ姿で、ベンチプレスの台にまたがり、ダンベルを上下させていた。ティーシャツの胸には、IラブMuscleの文字が。ああいうのって、どこに売ってるのかしらね。
「二人とも、ほいっす。」私がいつもの挨拶をすると、
「ああ、望美、健吾君、お疲れ、さま。」と彩火はダンベルの上下ごとに言葉を区切って挨拶を返し、ちらりと私達を一瞥した斑は、
「・・・・うん。」と小さく言って、再び骨との格闘を再開した。ピンセットでつまんだ骨の先が、ぷるぷると震えている。
鎌倉君は律儀に、
「坂井田先輩、設楽先輩、お疲れさまです。」と言いながら、ぺこりと挨拶をしてまわった。そんなしゃちほこばらなくてもいいのに、なんて思っていると、斑に挨拶をした拍子に、鎌倉君の足が、ごん、と斑の椅子にぶつかった。
斑の手にしたピンセットの先っちょが模型に触れて、ぱら、かたり、と渇いた音を立てながら、右足部分が崩壊する。
「あ、ご、ごめ・・・。」
鎌倉君が謝ろうとするその言葉は、すでに斑のグーで遮られた。ぐりぐりと拳を鎌倉君の左頬に押し付けながら、斑は言った。
「何をするか、鎌倉。お前、その骨で罪をあがなうと、そう言うんだな。ぇえ?」
「い、いひえ、そょんなひゃほほは、ひっへまへん。」
「何を言っているか分からないぞ。はっきりと言え。」
「む、むぅふひへふひょ。」
さらに拳をぐりぐりする斑へ、彩火が言った。
「斑。それくらいに、したら、どうだ。健吾君も、悪気が、あって、やったんじゃ、ないんだから。」
「彩火は黙ってなよ。これは私と鎌倉の問題だよ。落とし前はきっちりつけるものだよ。」と斑はゆずる気配がない。私は見かねて、斑に言った。
「まぁ、許してあげなさいよ、斑。鎌倉君にも手伝ってもらったらどう? その模型作るの。」
ぐりぐりぐりぐ・・・、と拳が止まり、斑は席に戻って鎌倉君に言った。
「今日一日手伝うなら許さないでもない。」
「あ、ありがとうございます。手伝います。」頬をさすりながら、鎌倉君は斑の机の反対側に椅子を持ってきて座った。
ふっ、ふっ、と規則正しい彩火の呼吸が続き、斑、鎌倉君の組み立てる模型が、かちゃかちゃと静かな音を立て、部室に沈黙が下りる。私はこの沈黙が嫌いだった。
私は棚から、多段式液体燃料ロケットの模型を取ってくると、机の上に乗っけて眺めて見る。そういえば、北野はまだ来てない。
朝、手紙の件でちょっともめたものだから、今日はなんとなく、ぎこちない雰囲気だった。北野との付き合いは長いし、何かあってもお互い根に持たないのは知ってるから、あんまり気にはしてないんだけど、それでも、部室に来る北野の顔を見て、私は安心したかった。
冷たい机にほっぺたをつけて、ロケットの一段目から三段目までを、なめるように眺めていると、建て付けの悪い部室の扉が無理矢理開かれ、北野が勢いよく中に入って来た。北野には珍しく、なんだかひどく興奮した顔をしている。まるで、失くしたと思ってた携帯が見つかったみたいな。
「来たのよ!」と、部室に入るなり北野は叫んだ。
「・・・・・何が?」と、模型から目を離さないまま斑が訊く。
「ついに来たの! マゼラ様からの声が!」
「は?」
彩火も、鎌倉君も、斑も、そして私も、その異常な熱気に、思わず北野を見た。
北野。とうとう・・・・。
これまでも、宇宙人と交信とか、マゼラ様との会話とか、散々怪し気なことを言って奇行に走ってきた北野なわけだけれど、それはあくまでも、マゼラ様とお話しできるだろう、できるに違いない、という確信的未来形で語られるに留まっていた。未来形であって、過去形ではなかった。
それが今、北野はマゼラ様からの声が来たと、そう言っている。未来形で語られる分には、ぎりぎり妄想と現実の境界が存在していたわけだけど、過去形で語られるそれは、すでの妄想の域を抜けていた。
ありもしないことを、あったかのごとく言うのは、幻聴か、あるいは、本人がそれは事実だと、「思いこみたかった」結果。頭の中の空想が、北野の現実をも浸食しているように見えて、今朝のこともある、私は急に、北野のことが心配になって言った。
「マゼラ様の声って、空耳か何かじゃない?」
「いいえ! 違うのよ、望美ちゃん。トイレで手を洗いながら、私、確かに聞いたの! 思わずハンカチを落っことしそうになっちゃったけど、これから行く、迎えてほしいって!」
「行くって、誰が?」
「マゼラ様よ。」
「そう名乗ったの?」
「名乗ったわけじゃないけれど、頭の中に声が響いたの。空気を伝わった声でないのは、確かだったわ。」
「そ、それで、マゼラ様はどこに行くって?」
「地球に決まっているじゃない、望美ちゃん。」
「地球って言っても、南極からタクラマカン砂漠まで、全部含んで地球よ。地球のいったいどこってこと。」
「それは・・・。ちょっと待って、訊いてみるから。」
「ええ?」
訊くって・・・。お互い顔を見合わせる斑や彩火、鎌倉君にはまったく構わず、北野は両腕を天に突き上げ、空、というか、部室の汚れた天井を見つめた。
「マゼラ様。地球のどこに降り立つおつもりでしょうか。お答えください、マゼラ様。」
あっけに取られる私達の視線をあびながら、北野は真剣そのもので、いわゆる、交信、ってやつを続けている。
・・・・・。北野が微動だにしなくなったものだから、私がその肩に手を触れようとすると、いきなり、
「分かったわ!」と北野が叫んだ。
「わぁ! びっくりした。分かったって、マゼラ様がどこに降りるのか、分かったの?」
「ええ。」
「ど、どこに降りるって?」
「アラバマ。私ちょっと、迎えに行ってくる!」
アラバマ・・・。近所のコンビニでアイス買ってくる、くらいの軽さで言って、北野は慌てて部室を出て行った。