チャプター1 振り返れば痛女
こころの友、って言うだろ。そう、お前のものも俺のものだと広言してはばからない彼が、時々口にする最上位の友情表現。その、こころの友ってやつさ、いったいどうやって作るんだろう。大きな失敗をやらかしても見捨てない、うわべだけの同情ではなく、優しさに基づく理解と共感をして、こころの友と言わしめる関係が築かれるものと考えてみたけれど、具体的に何をどうすればそんな関係になるのか、さっぱり思いつかない。相手の趣味信条が多少変わっていて、言っていることも、趣味を理解されない孤独も、全部ひっくるめて、分かる、の一言で、こころの友よ! となるのだろうか。人から理解を示されるのは嬉しいものだと思うけれど、分かってもいないのに分かると口にしても、そこから生まれる友情はない気がする。
六月の、しのつく雨を放課後の窓から眺める。なぜ僕がそんなことを考えているのか。正直言って、僕には友達がいないからだ。いない、と言ったって、それでも学校にいれば何となく気の合う相手とか、隣の席同士、やべ、宿題写さしてくれー、とか友達っぽい一人や二人、できそうなものだけれど、僕にはそうした相手が一人もいない。何も、消しゴムを拾ってくれた相手にマジ切れしたとか、話しかけられても無視し続けたとか、お弁当のおかずを盗み食いしたとか、そういう過度な行動を取った結果、友達がいなくなったわけじゃない。小学生の頃から父親の仕事柄、転校続きで、せっかくできた友達とすぐに離れなければならなかった。小学生の活動圏内なんて、学校を中心としてせいぜい3キロ程度なものだから、転校した途端、疎遠になってしまう。学年が変わり、クラス替えが行われるタイミングならまだしも、学期中の中途半端な時期に見知らぬクラスへ飛び込むのは、中学生になってからも、かなりつらかった。嫌われないようにと、早く友達ができるようにと、にこにこしながら、誰の言うことにも分かったようなふりをしてうなずいて、気がついたら友達と呼べる相手が一人もいなくなっていた。三ヶ月の間にかかってきた電話が、牛乳を買ってきて、と頼まれた母親からの一本だけ、ということもあったし、いつまでも通話履歴のトップに残る「ハハ」の二文字に嗤われている気がして、履歴は全部削除した。
友達なんていなくても別に困らない、一人でやっていけるぜ、ああ、何の問題もない、お一人様上等、と自分の置かれた状況を丸呑みしかけたこともあるけれど、やっぱり一人じゃ寂しいし、何よりつまらない。父親の転勤が落ち着いて、このエンケラドス高校(私立とはいえチャレンジしすぎな名前だけれど)に、なんとか卒業までいられそうだというこの機に、僕はやっぱり友達を作りたかった。インスタントにこころの友ができるものではないだろうけれど、一カ所に集まって共同で何かをやれば、きっと仲もよくなる。高校一年にして、僕は初めて部活というものに入ろうとしていた。
運動は得意じゃない。むしろ苦手な方で、球技は球の大小に関わらず動体視力が追いつかないし、走ろうが泳ごうが跳ぼうが、陸、海、空、すべての場所で、僕の運動能力は人並み以下だった。だから、体育会系の部は本当に申し訳ないけれど、対象から外した。文科系の部を順に覗いてみたけれど、どれも今ひとつ、ここだ! というインスピレーションが湧かなかったものだから、もう一度回って、比較的でもよさそうなところを探してみようかと思っているところ、角を曲がった廊下の先から、急にひとけがない。放課後まだ遅くもない時間なのに、校舎のすみっこだからか、長い廊下を歩く生徒は一人もいない。この辺の教室で活動している部はないみたいだし、回れ右して戻ろうとしたとき、突然、白衣の人影が視界に飛び込んできた。危うくぶつかりそうになって、
「おっ・・と、ご、ごめん・・・なさい。」
と、謝りながら、僕は思わず相手に見蕩れた。見蕩れるという経験は、僕にとってこれが人生初めてで、ああ、今僕は、見蕩れているんだなぁ、と妙に落ち着いた第三者視点で、自分を見ている自分がいた。黒髪をポニーテールにして赤縁眼鏡をかけ、制服の上から白衣を着たその女子は、あごに手をやり、ひとり何か呟いている。白衣の着こなしぶりが板につき、博士と助手かで判断するなら、まず間違いなく博士役だ。知的な意志をその目に宿すと言えばいいのか、張りのあるプリンみたいにかわいくて、それでいながら寒緋桜のごとくきりりとした、妙なるバランスをもつ美少女だ。美少女、という単語を目の前の人間に対して思い浮かべたのも、これが人生初めてだった。普通の女子とは少し違った雰囲気をかもす相手にどぎまぎしながら、僕はろれつの回らない口で言った。
「す、すいませんでした。あの・・・?」
目の前の女子は、何を思ったのか、いきなりその場へかがみ込んで、
「イグニッションシーケンス、スタート。9、8、7・・・。」
とつぶやきながら、両手を床について短距離走の選手がやるように、えと、何て言ったっけ、そう、クラウチングスタート、の体勢を取った。
「あ、あの、何を・・・?」
廊下でクラウチングスタートの体勢を取る女子というものを、僕は人生初めて目の当たりにした。一瞬の間に、人生の初体験を三つもこなした動揺で、僕の判断力はへなへなと下降を続けた。かがみ込んだ女子の後頭部に見える、ポニーテールの結び目をぼうぜんと見つめながら、僕は為すすべもなく、着々と続くカウントダウンを聞いていた。
「・・・3、2、1、0!リフトオフ!」
叫びながら、女子は猛然と廊下を走り出した。な、何をやっているんだ、あの人は。しかも、結構速い! 白衣をばたばたとひらめかせながら、あっ、と言う間に廊下の突き当たりにある壁まで行って、反転すると、そのまま僕のいるところまで駆け戻って来る。けど、梅雨時の湿った廊下。滑りやすさはマックスだ・・・。
「っぅあは!」
と、形容しがたい擬音のような叫び声を上げて、案の定、女子はのけぞりながら盛大にすっころんだ。そして、僕は見た。いや、誓って言うけれど、意図して覗くなんて、そんな破廉恥な真似はしていないし、したこともない。だから、これは不可抗力というか、目をそらすことも、つむる時間もなかった、因果の結実ということになる。女子、走る、転ぶ、見える、パンツが。そう、まさにパ行変格活用とも呼ぶべき実体が、目の前で展開されたんだ。僕は誓って言うけれど、変態ではない。変態じゃあないけれど、あまねく白の中央が一、赤い柄を例えて白雲上のレッドリボンとするべきか、僕の網膜に焼き付くまでその間0・43秒、それはまさに一瞬の、青春の、永遠の、出来事だった。
「いっ・・・・たぁー!」
女子が後頭部を抑えながら、よろよろと立ち上がった。生まれたての子羊みたいな足取りのその子へ、僕は思わず、引っ込み思案な自分イメージを忘れて、声をかけた。珍しいこともある。
「だ、大丈夫ですか?」
「はぁ、はぁ・・・!目標低軌道に到達を確認。これより衛星の分離シーケンスに入る。」
「・・・・・。」
白雲レッドリボンを見られたことに気がつかないのか、気がついても気にしていないのか、はたまた気がつかないふりをしているだけなのか、あっけにとられる僕の姿に、その時ようやく気がついたような顔をして、眼鏡女子は微塵の動揺も表さずに言った。
「おや?スペースデブリはっけ・・・、じゃない、君は一年生?」
「あ、はい。一年です。あ、あの、いったい何をしてたんです?」
立ち上がった相手を近くで見ると、意外に背が高い。僕と同じか、それ以上か。バランスの取れた体型のせいで、大柄、という印象はない。
「ロケットの気持ちを考えてみようと思って、発射から軌道到達に至るまでを体現してみたのよ。まだまだ、リフトオフ時の加速にはほど遠いけれどね。」
何を言っているんだ、この人は。
「君は何してんの?こんなところで。」
ロケットの気持ち、という、完全に自分の理解を越えた単語が誘う混乱から、我に返らされた僕は応えた。
「あ・・・、と、実は入る部活を探していて・・・。」
「部活?校舎内でってことは、文化系志望?こんな時期に?」
「ええ。最近転校してきたもので・・・。でも、いまいち、よさそうなところがなくて。」
「あら、そう。じゃあ、うちに来なさいよ。私、部長やってるから。」
「うち?」
眼鏡女子は、僕が聞き返したのにも構わず、すたすたと歩き出しながら、振り向いて言った。
「SF部よ。」
にやり、と眼鏡女子の口元が笑みに歪む。
SF部・・・、って、あのSF、だよな。サイエンスフィクションの。ちょっと面白そうかも。SFにかこつけて、宇宙船のプラモデルなんかも作ったりできそうな。SF映画や漫画は元から好きだったし、部の活動内容は大いに気になる。SF論議でも交わすのだろうか。あるいは、好みのSF小説を持ち寄って回し読みしたり、研究題材として選んだ映画を部員で観に行ってしまったり?それは、想像するだけで楽しそうな活動だった。盛り上がる部室の陽気がもやもやと脳裏に浮かぶ。それに。何より。僕は、速くなる自分の鼓動を感じながら、先を歩く眼鏡女子に向かって話しかけてみた。
「あの、部長、ということは、二年生の方、ですか?」
「そうよ。ああ、私、神崎。神崎望美よ。」
にっ、と笑って、よろしく、と言う神崎先輩は、なんと形容すればいいのか、こう、傘を上げて見たら、目の前に満開のアジサイが咲いていたというか、ぱっ、と映える紫の雫とでも呼ぶべき、素敵な笑顔だった。決定的だった。僕のSF部入部希望? は、この瞬間、迷いも何も吹き飛んで、SF部入部希望! へと変わったのだ。
僕は、神崎先輩の笑顔で揺れる心を落ち着けながら、努めてクールなふりをして言った。
「よ、よろしくお願いひまふ。」
噛んだ。だが、めげない。聞いてみた。
「SF部って、どんなことをやる部なんです?」
「そうね。ロケットの歴史を紐解いたり、エンジンの燃焼効率について検証してみたり、ロケット機体構造の一部を粘土で再現してみたり、多岐に渡るわ。」
多岐に・・・。
「多岐、と言うわりに、ロケット関係に偏ってますね。」
「そうかしら? 高校生なら普通よ。」
普通、なんだろうか。ロケットの気持ちを体得するために、廊下で全力疾走してすっ転ぶ高校生女子の口から、普通という言葉を聞いても、それを理解するためには、かなり特殊なスタンダードが必要な気もする。
「へ、へぇー、普通、ですか・・・。部員は何人くらいいるんです?」
「私を含めて四人ね。」
「意外と少ないんですね。」
「何人か入ったりもしたんだけど、肌に合わないのか、やめちゃうのよね。うち、ちょっと個性が強いから。」
個性が強いのは間違いない。SF部に入部する、という判断をする時点で、かなり濃いめな個性の持ち主が集まりそうだし、その四人、かなりの強者と見るべきか。やっぱり、色白でちょっと太めな体躯と、眼鏡から覗く視線の鋭さが印象的な男子か、あるいは、おとなしそうな、文学少女的女子生徒だろうか。
「個性は、確かに強そうですね・・・。」
神崎先輩が部長なくらいだから、と言えるほどの仲では、まだ当然ない。神崎先輩は、振り返りながら言った。
「強いわ。強過ぎるくらいかも。君はどうかしらね。」
赤縁眼鏡の奥からまっすぐに向けられる視線にどぎまぎする僕。そんな僕の、内心の動揺なんてお構いなしに、先輩はさらに凝視を送ってくる。僕を見つめる瞳を動かさないまま、先輩ちょっと首をかしげて言った。
「ところで、君。」
「は、はい。」
「名前は?」
「あ、えーと、鎌倉です。下に幕府がつく鎌倉。鎌倉健吾です。」
「鎌倉君。」
「はい?」
「ちょっと注文。」
「注文?」
「私の横を歩いてほしいのよ。後ろを歩かれると、話しづらくて。」
言われてみれば、そのとおりだった。人と一緒に歩き慣れない僕は、しかも年上の女子生徒と歩くなんて初めてな僕は、いや、年上でない女子生徒と二人で歩いたこともないのだけれど、無意識に気後れしたせいか、ずっと神崎先輩の後ろを歩いていた。過剰にはほど遠い自意識、僕は誰かの後ろを歩くことに、慣れすぎていた。慌てて先輩に追いつくと、並んで歩き始める。先輩、結構歩くのが早い。
隣を歩く先輩の横顔もまた素敵なわけで、自分の顔が赤くなりはしないか、しきりと心配しながら、僕は話を切り出してみた。
「あの、それで、SF部って、活動する曜日とか、決まっているんですか?」
自分が入部すること前提で、僕は具体的なことを訊いてみた。
「特に決まってないわね。基本毎日だけれど、何か用事があれば、来ることを強制したりはしないわ。自由な感じよ。」
いい。そういう束縛感のない雰囲気は、好きだ。
「やっぱり、男子が多い感じですか? 神崎先輩以外、全員男、とか。」
「そう思う?」
「ええ。なんとなく、SFって男子率高そうなイメージだから・・・。」
「ふーん。だったら、それは偏見だと言わなければならないわ。私を含めて、全員女子よ。」
いい。僕は思わずガッツポーズを取りそうになったけれど、全員女子と聞いてあからさまに喜べば、女子目当ての浅薄な男子と思われかねない。右の拳をぐっ、と握り、それを僕はガッツポーズの代わりとした。
「君が入るとしたら、男子一人になっちゃうわね。ま、うちの部員はあんまり男子、女子で壁を作るような感じでもないから、問題ないと思うけど。男子がいなくて、残念?」
むしろ逆です、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んで僕は言った。
「あ、まぁ、ちょっとは。」
ちょっとどころか、まったく残念ではないのだけれど、僕は必死に、女好きではない賢者的僕、というやつを演じた。自分のあざとさに、少量の嫌悪を感じる。僕はその嫌悪を振り払うように、言葉を続けた。
「でも、皆さん女子で、SF部というのも珍しいですね。」
「そうかしら?」
「茶道部や華道部で女子というのは分かりますけど、SF部で全員女子という光景が、ちょっと想像しにくいというか。部長みたいに、みんなロケット的なものがお好きなんですか?」
「うーん。方向性はみんな違うかしら。違うどころか、ばらばらね。部としての体裁を取っているにすぎないだけ、とも言えるかな。」
あはは、と笑い飛ばす先輩だったけれど、どこかそれは、無理矢理ごまかすために笑っているような気もした。本当は笑えない状況を、僕に笑って見せた、というか。僕は思わず、先輩に訊いた。
「それって、部員同士、仲が悪いとか、そういう・・・?」
「いやいや、違うの。仲が悪いわけじゃないわ。ごめんね。険悪なムードを想像しちゃった? ただ、ばらばらなだけ。それだけのことよ。」
「そうですか・・・。」
それだけのこと、と先輩は言うけれど、その横顔に、ほんの一瞬、寂しそうな影が走ったのは、僕の気のせいだろうか。
先輩はそれから、機械みたいにリズミカルな足取りで、ずんずんと歩きながら、もう学校には慣れた? とか、学食は美味しい? とか、笹山先生の髪の毛は偽物よ、なんてことを、それはもうお姉さんみたいな口調で僕に尋ねたり、話したりした。そんなところを見ていると、この人はごく自然に、部長という立場になったんだなぁ、と思えてくる。
僕たちは階段を一階まで下りてしまった。SF部の部室って、校舎の中にあるんじゃないのだろうか。体育館につながる渡り廊下からはずれ、「使ったら返すこと!」と注意書きのある傘置きから、ビニール傘を二本抜き取り、一本を僕に渡した先輩は、上履きの上から器用にサンダルを履き、雨の外へと出てしまう。校舎の裏側、おまけに雨だ。灰色に煙る視界にひとけはない。
「あ、あの、神崎先輩。今向かってるのって、部室、ですよね。」
「そうよ。」
「部の活動って、外でやってるんですか?」
「まさか。ちょっとはずれにあるだけよ。」
「はずれ?」
「ほら、あそこ。」
先輩の指差す先には、古びた体育倉庫がある。かなりぼろい。数人がかりで押し引きすれば、倒れてしまうんじゃないかというくらいで、大きさはそれなりにあるのだけれど、建っているのがやっとといった感じの、古い倉庫だ。ちょっと持ってて、と先輩は傘を僕に渡しながら言った。
「新しい体育倉庫ができたからっていうんで、私達の先代がここを部室として確保したらしいわ。多少の古さに目をつむれば、まあ概ね快適よ。あ、あと。」
SF部、と無駄に達筆で大書された張り紙のある扉を、神崎はがたがたと揺らしながら左右に開く。
「・・・っしょ、っと。扉の建て付けが悪いってことを除けば、ね。入って。」
中にいた部員の視線が、一斉に僕へ集中するのを感じた。机が四つ、お互い向き合って並んでおり、席に座った三人が僕を物珍しそうに眺めている。見たところ、みんな上級生みたいだけれど、一人はショートカットで前髪が長く、髪で隠れていない方から覗く目は、どことなく冬を連想させるようで、冷ややかだ。一人は長い黒髪で、僕と目が合うと、にっこり微笑む。伸びた背筋や居住まいからして、清楚なお嬢様という感じだ。いま一人はかなり短めのショートカット、健康的でつややかな浅黒い肌は、見るからにスポーツ少女ということを物語っている。方向性が違う、という先輩の言葉に僕は納得した。確かに、みんな一見して、タイプが違う。けれど、僕にとってタイプの違いをどうと言うより、衝撃的なことがあった。
みんな、かわいい・・・。
SF部なる、どちらかといえばマニアックな響きのある部に、なぜこんなかわいい子達が集まるのか。この学校の七不思議に数えてもよさそうな、新七不思議発見の現場に居合わせたような、異次元に入った違和感すら、僕はその部屋で感じたのだ。僕は密かに左の拳を握りしめ、さらなるガッツポーズの代わりとした。
神崎先輩は、奥からホワイトボードを引き出しながら、
「みんな、朗報よ。新たな入部希望者を連れてきたわ。」
と言って、僕の名前をボードに書き始めた。鎌倉、まで書いて、その手が止まる。
「鎌倉君、下のケンゴ、ってどう書くの?」
神崎先輩が僕の下の名前もちゃんと聞いててくれたのが、ちょっと嬉しかった。
「健やかに吾、で健吾です。」
「健やかな、わ、れ、と。鎌倉健吾君。自分の居場所を求めてさまよっていたところを、スカウトしてしまったわ。みんな、色々と教えてあげて。」
自分の居場所を求めてって、大袈裟な・・。でも、言われてみれば、そのとおりのような気もする。友達を作るってことは、友達の隣、という居場所を作ることでもあるわけだから。集まる四人分の視線によって、急速に緊張してくるのを感じながら、僕は自己紹介をした。
「どど、どうも。鎌倉健吾、一年です。よろしくお願いします。」
ぺこり、と頭を下げる。あ、そうそう、と言いながら、神崎先輩は僕に紙を渡した。
「これ、入部届け。入部するって、まだ鎌倉君の口から聞いてないけど、この流れからして、入部ってことで、いいのよね? いやじゃ、こんな部、って言うなら、引き止めないけれど。」
こんな素敵な部、入部を拒むという男子の気が知れない。ハーレムのハの字が頭の片隅にちらつくのを、必死に無視しながら、
「いえ、嫌じゃありません。入ります。SFって興味もあるし。」
そう言って、自分の下心をSFへの興味と言い換え、いや、SFに興味があるのは事実なんだけれど、神崎先輩から入部届けを受け取った。署名にサインをし、健吾の五の字の下、口、と書き切った瞬間、ショートカットの冬目の先輩が、ぼそっと、
「ハーレム。」
そうつぶやき、僕はぎくりと硬直した。ば、ばれている? 僕の密やかにして男子な期待と願望を、見透かされている? 恐る恐る冬目先輩の方を見たときには、すでに視線を落とし、机の上に置いた本をぱらぱらとめくっていた。
書き上がった入部届けを、神崎先輩は僕の手元からするりと抜き取って言った。
「はい、受領しました。では、ここに、すごいフィクション部。」
サイエンスフィクションの略じゃないのか。
「略してSF部への入部を認めます。ようこそ、SF部へ、鎌倉君。・・・・ほら、みんな、拍手拍手。」
神崎先輩に言われてようやく、まばらな拍手が起こる。お嬢な先輩と、体育会な先輩は嬉しそうに拍手をしてくれるのだけれど、冬目先輩、ぱち、ぱち、と二回、いかにも大儀そうに手をならしただけで、あとは再び本の世界へと戻ってしまった。さっきから、いったい何を読んでいるんだろう。
体育会な先輩は勢いよく立ち上がると、ごつっ、と鈍い音を立てて椅子につまずきながら僕に近づき、爽やかな笑顔と共に手を差し出した。
「私は坂井田彩火。さやか、じゃなく、さいか、だ。いろどりにひ、と書く。二年だ。よろしく、健吾君。」
「あ、よろしくお願いします。」
きびきびと喋る坂井田先輩の口調はいかにも体育会系で、このSF部にいるのが不思議なくらいだった。差し出された手に握手をする。ぐっ、と握られた感触は力強くて、ほんのり汗ばんでいた。
「うん。ところで、健吾君。ちょっと注文があるんだが。」
「注文?」
「上着を脱いで、シャツをまくってみてくれないか。」
「は?」
「単刀直入に言うとね、君の腹筋を見てみたい。」
「ふ、腹筋?」
なぜにか。いきなり初対面の人物に、腹筋を見せろとは聞き慣れない注文だ。聞き慣れないというより、聞いたことがない。これは、あれか。新しく入った部員に対する洗礼的な行為で、意味や理由の置き去りにされた、昔からそうしているからそうするという、儀式めいた要求、とでもとればいいのか。ぐるぐると頭の中で疑問符が回る。
「な、なぜ腹筋なんです?」
「私は筋肉が好きなんだ。」
「・・・・。」
きらきらと輝く目で見つめる坂井田先輩の視線が痛い。筋肉が好きだ。だから、見せろとは。好きだから見せてほしいという短絡的ロジックのどこにも、遠慮という言葉が見当たらない。誰か止めてくれないものかと視線をさまよわせ、冬目先輩の前髪奥にある目と目が合うのだけれど、じっと僕を凝視するその瞳に、坂井田先輩を止める気なんてこれっぽっちもなさそうだ。僕はしぶしぶ、坂井田先輩の注文を受け入れた。
「じゃ、じゃあ、ちょっとだけ・・・。でも、僕、腹筋と言えるほどの腹筋、ないですよ。」
「かまわないよ。育てがいがある。」
「そ、育て・・?」
「さあ、そのシャツをめくるんだ、健吾君!」
セクハラすれすれ、というよりほぼセクハラだ。めくったシャツの下を、坂井田先輩は下から覗くようにしてガン見してくる。視線でお腹がくすぐったい。
「ほほう・・・。腹直筋と腹横筋が少し薄過ぎる感はあるが、素質はありそうだ。バランスよく鍛えれば、すぐに割れる。そう、モーセの杖を呼び水とし、主の御力もて海が割れたごとく!」
拳を握って、熱く中空を見上げる坂井田先輩。もしかして、この先輩、少しイタいのでは、という疑念が脳裏をよぎる。いや、人間誰しも、好きなことや、夢中になることがある。坂井田先輩の場合は、たまたまそれが、筋肉だっただけのこと。イタいなんて思っちゃ、失礼だ。僕はシャツを下ろすタイミングをみはからうように言った。
「あ、あの、もういいですか。」
「あ、ちょっと待ってくれ。」
「え? まだなにか?」
「うん。ついでと言ってはなんだが、触ってみてもよいだろうか。」
「さ、さわ?」
「その方が、筋肉の走行を正確に把握できるんだ。」
「いや、触られるのはちょっと・・・。」
「いいだろう、減るものではなし。男子がくよくよと遠慮するのは、見苦しいぞ。さあ、観念して外腹斜筋を触らせてくれ!」
にじり寄る坂井田先輩の着る白い夏服ブラウス、その下にうっすらと透けている文字をよくよく見れば、「肉、それは愛。」どこで売ってるんだ、そんなティーシャツ、という冷静なツッコミを頭の中でしながらも、僕は、じりじりと後ずさった。坂井田先輩の鼻息が荒い。目が激しく真剣なのが怖い。いや、それでも、坂井田先輩はイタくない、イタくない、イタくな・・・。
「それくらいにしときなよ、彩火。」
突然、降って湧いたような声が横から入った。誰かと思えば、冬目先輩だ。坂井田先輩は不思議そうに言った。
「どうしてだ、斑? 目の前に男子の筋肉があったら、とりあえず触るだろう。」
触りませんよ。冬目先輩、机に頬杖をついて、気だるそうに坂井田先輩へ言った。
「触らない。それじゃ、セクハラじゃん。せっかく入ったのにそんなことしてたら、すぐやめちゃう。」
おお? 坂井田先輩の暴走に待ったをかけるあたり、冬目先輩は意外といい人なのかも。坂井田先輩は口をとがらせながら、不承不承といった感じで、僕へにじり寄るのをやめた。
「それは困る。私のせいで健吾君がやめてしまうのは心苦しい。苦渋ではあるが、触るのはよしておこう。」
「よ、よかった。」
「悪かったね、健吾君。」
「い、いえ・・・。」
僕は坂井田先輩の魔手から守り切った腹筋をさすりながら、冬目先輩へ向かって言った。
「ありがとうございます。えと・・・。」
「設楽よ。設楽斑。礼なんていいわ。それよりさ、鎌倉。」
異性の先輩から呼び捨てにされ、くすぐったいような、照れくさいような気持ちを感じながら、僕は応えた。
「はい。」
「今までに、大怪我ってしたことある?」
「大怪我、ですか?」
「そう。」
冬目先輩あらため、設楽先輩、なんでそんなこと訊くんだろう。
「子供の頃、階段で転んで、腕が肉離れになったことはありますけど・・・。」
「肉離れか。もっと激しいのは?」
「は、激しいって・・・?」
「骨まで至る腕部裂傷とか、骨折で腓骨が飛び出るとか。」
ひぃ。ヒコツというのがどこの骨なのか知らないけれど、連想される傷口の痛々しさに、僕は思わず身震いした。
「い、いえ、そこまでひどい怪我は・・・。あ、でも、小学生の時、自転車で転んで、指の関節あたりをひどく擦りむいて・・・。」
「ひどく擦りむいて?」
前髪の奥に潜む設楽先輩の目が、異様な光を帯び始めた。座ったまま、身を乗り出すようにして話の続きを促してくる。
「それで?」
「そ、それで、皮膚が二センチくらい剥がれてしまって・・・。」
うわぁ、という感じで神崎先輩の眉間にしわが寄る。設楽先輩の目はもはや、らんらんと輝く、と形容可能なくらい好奇に駆られて、黒い蒸気みたいなものがほとばしりそうなくらいだ。ごくり、と生唾を飲んでから、設楽先輩は言った。
「それだけひどく皮膚が剥がれたなら、見えたでしょ。」
「え? 見えたって・・・?」
「骨。」
「あ、ああ、見えました。ちょっとだけど。」
「どうだった?」
「どうって・・・、一瞬茫然としたんですけど、どんどん血が出てくるし、痛いし、ひどい傷だって理解できた途端、泣き出した記憶が・・・。」
「そうじゃないわ。骨の方よ、ホ、ネ。」
「ほ、骨?」
「見えたんでしょ。白かった? 硬かった?」
「さ、さぁ・・。白、というか、すこし黄味がかった白でしたけど、結構血も出てたし、色はよく・・・。硬いかどうかもよく分かんなかったです。」
「そう。写真は?」
「写真?」
「傷口の写真。撮ったやつ。」
「ええ? 撮ってませんよ。それどころじゃなかったんだから。」
「なんだ。肝心なところで迂闊ね。」
迂闊、なのだろうか。自分の傷口の写真を撮らなかった小学生が。
「じゃあ、見せなさいよ、その傷痕。まだ、残ってるんでしょ。」
「あ、はい。ここです。」
剥がれた皮膚は、幸いすぐに縫ってもらって、今じゃうっすらと傷の痕跡があるくらいだ。傷痕のある手を設楽先輩に差し出す。先輩は両手で僕の手を取って、傷痕をなぞるように指で触れながら、熱心に見ている。冬を思わせる視線と同じに、その手もまたひんやりと冷たかった。
「ふぅん。ここが骨露出の痕・・・。鎌倉。」
「はい。」
「ちょっと注文があるんだけど。」
「注文、ですか?」
今日はやたらと注文される日だ。
「この傷、もう一回開いて。」
「は?」
「骨が見てみたいの。博物館にある標本とか、写真とかじゃなく、生の、生きてる骨。体内で息づく、硬くて白い骨を。人を人の形たらしめる、揺らぎないスタンダードを。」
硬くて白い骨を、と言う設楽先輩の瞳は、暗い興奮に潤んですらいた。先輩がさっきから熱心に読んでいた本が視界に入る。骨の写真だ。猫、その隣には、人の骨。骨格に関する専門書のようだけれど、黒い背景に、白い髑髏が無言で微笑んでいる。
「いや。いやいやいや、無理ですよ、開くなんて。もう完全に治ってますし、そんなことできないですよ。」
「できない? 可能か不可能か、物理的側面から言えば、可能よ。カッターもここにあるし、皮膚の厚さなんてせいぜい数ミリだから。」
「ちょっ、いや、そういう問題ではなく・・!」
慌てて、手を引っ込めようとするのだけれど、どこにそんな力があるのか、僕の手をつかんだ設楽先輩の両手はぴくりとも動かず、先輩の口元に浮かぶ真剣な半笑いが、冗談ではすまさない決意めいたものを主張しているようで、僕は完全に必死だ。どこから出したのか、カッターを手にした設楽先輩は、チキチキチキチキ、と機械的に刃を伸ばす。
「わぁ、せ、先輩、あの、それは・・・!」
刃が僕の手に触れ、ひやりとした硬質が、設楽先輩の意志を伝えてくるようで恐ろしい。このまま本当に傷口を開かれるんじゃないか。そう思った時、
「やめなさい、設楽。そこまでよ。骨が見たいなら、自分のにしときなさい。」
と、神崎先輩のストップがかかった。た、助かった。設楽先輩が僕の手をつかむ力をゆるめ、その隙に全力で手を引っ込める。
「自分のじゃ痛いでしょ。」
と、設楽先輩、平然とのたまう。
「僕の手だったらいいって言うんですか!」
「私の手は痛くないし。」
「いや、そうなんですけれども・・・。」
設楽先輩、本気で言ってるんだろうか。さっきまでの黒い興奮はその瞳からすっかりと去り、興ざめした風に前髪をくるくるといじる設楽先輩の目からは、感情がよく読み取れない。設楽先輩の横で、終始、しとやかな無言の内に収まっていたお嬢な先輩が、口を開いた。
「斑ちゃんの手が痛くなくても、健吾君の手は痛いわ。そこはやっぱり、問題だと思うの。だって健吾君、手を痛くされたら、悲しい気持ちになるでしょう。ね、健吾君。」
涼やかで、夏風みたいな声だ。そう言って、にっこりと微笑むお嬢な先輩は、ほんとに、なんと言ったらいいか、ありていに言って、休日のカフェでお茶をする天使。後光と頭上の輪っかが目に浮かびそうな、マシュマロみたいな笑みに、僕のおののく心は急速に癒された。
「え、ええ。それはもう、悲しいを通り越して、恐怖と呼んでもいいくらいです。」
「ごめんなさいね。彩火ちゃんも斑ちゃんも、好きなことになると夢中になっちゃうから。」
「い、いえ!ちょっと驚きましたけど、謝られるほどじゃ・・。あの、先輩も、二年生なんですか?」
「ええ。望美ちゃんの名前は、もう聞いたわよね。自己紹介がまだなのは、私だけね。私は東北野。斑ちゃん達と同じ、二年生よ。東と北野、どっちが名前なんだー、って、いっつも迷われちゃうのよ。よろしくね、健吾君。」
伸びた背筋、膝にきちんと置かれている両の手。気品に溢れる立ち居振る舞い。お嬢様という言葉を全身で体現している、清楚な人だ。
ロケットオタクの神崎先輩を筆頭に、筋肉ラヴの坂井田先輩、骨マニアの設楽先輩と、コンデンスミルクをペットボトルでがぶ飲みするような濃さの面子にあって、東先輩は林檎みたいに爽やかな存在だった。みんな趣味が濃すぎるものだから、入部早々不安だったけれど、東先輩という常識をよりどころにすれば、どうにかやっていけるかも知れない。
「よ、よろしくお願いします、東先輩。」
東先輩は、にっこりとうなずいて続けた。
「健吾君は、今までどんな部活をやっていたの? やっぱり、文化系?」
「僕これまで転校が多かったから、部活に入ったことがなくて・・・。」
坂井田先輩が、奥の方からがたがたと机、椅子一式を引き出しながら言った。
「え? 転校が多い? じゃあ、健吾君、またすぐに引っ越してしまうのか。せっかく入ったのにそれは残念だなぁ。あ、座りなよ。ちょっと古いけど、まだ使える。」
坂井田先輩に勧められ、僕は椅子に座った。残念だなぁ、と言いながら、坂井田先輩の視線が僕の腹筋に注がれる。残念なのは僕がいなくなるからじゃなく、腹筋がいなくなるからだと、その視線が語っている。
「いや、これまでは、転校が多かったんですけれど、父の仕事も落ち着いて、この高校には卒業までいられそうなんです。」
「そうか、よかった。せっかく入った唯一の男子が、これまでみたいに一日でやめてしまうのは寂しいからね。」
これまでみたいに? 新入部員がやめてしまうようなことが、これまでにもあったのか。その主たる要因が、坂井田先輩や設楽先輩にあるのは、言うまでもなさそうだった。設楽先輩が頬杖をついたまま言う。
「やめちゃう原因は、彩火でしょ。入って早々、男子のシャツを剥いちゃうんだから。」
剥くって・・・。男子があたかもミカンみたいな語感だ。坂井田先輩は大きな目を見開いて、設楽先輩に言い返した。
「原因が私とは、心外だ。それを言うなら、斑だって執拗に迫ったじゃないか。金槌で叩かせてほしいと。青ざめる男子の様子、今でも気の毒に思う。」
「あれは、骨の強度と密度を知りたかったから。必要だったの。」
シャツを剥かれ、金槌で叩かれそうになるかわいそうな新入部員が目に浮かんだ。それは一日でやめられても仕方がない。原因がどちらにあるかでもめる二人をよそに、神崎先輩が椅子を持って来て、僕の隣に座った。
「あの二人はまあ、放っておこうか。なんだかんだ言って、君が来たから嬉しいのよ。」
「嬉しい、んですかね?」
東先輩が言った。
「嬉しいんだと思うわ。だって、こんな賑やかになること自体、珍しいから。」
「そうなんですか? いつもこんな感じかと、勝手に想像してたんですけど。」
「いつもはみんな、自分の好きなことやってるから。」
うんうん、とうなずいて、神崎先輩が言った。
「そうよ。部室に来て、あ、とか、うん、とか挨拶にもならない挨拶をしたきり、帰るまで一言も喋らないときだってあるんだから。みんな、自分の世界にこもりすぎよ。まあ、私も人のことは言えないんだけどさ。」
ばらばらだと神崎先輩が言ってたのは、そのあたりの実情を指してのことだろうか。神崎先輩は僕の顔をまっすぐに見ながら、
「ちょっと濃ゆい感じはあるけれど、すぐ慣れるわ。無理矢理誘ったかたちになるわけだし、嫌だったら私に言ってね。去る者は追わず、がこの部の基本スタンスだから。」
と、言った。
「いえ、嫌じゃないです。みなさん、個性があって、いいと思うんです。僕、引っ込み思案なところがあって、なかなか友達もできなかったから。こうやって、自分の好きなことをあけすけにできる場所って、いいなって。」
東先輩はにこにこと笑って言った。
「そうね。一回根づくと、居心地はいいかも。転校続きだとなかなかこういう場所に、馴染めないかも知れないわね。馴染んだと思っても、すぐ学校が変わってしまうし。」
「そうなんです。だから、一人でいることも結構多くて・・・。」
神崎先輩は、僕の肩をぽんぽんと叩きながら言った。
「そっか、そっか。じゃ、しばらくはこの部に居なさいよ。歓迎するわ、鎌倉君。」
歓迎するわ、という神崎先輩の言葉に、僕は初めて、場所に「根づく」という実感が湧いた。これまで、転校した学校のクラスに拍手で迎えられても、それは歓迎とも拒絶ともつかない、感情の伴わない儀礼にしか感じなかったから。
「よろしくお願いします、神崎先輩、東先輩。」
神崎先輩はぺこりと頭を下げた僕を嬉しそうに見ながら、くしゃくしゃと僕の頭をなでて言った。
「よし。かわいいなぁ、鎌倉君。弟にしたいくらいよ。神崎「先輩」と呼ばれたのも久々だし、なんか新鮮。」
「神崎先輩は、一人っ子ですか?」
「そうよ。弟がほしいって七夕にお願いしたけど、叶わなかったわね。」
そう言う神崎先輩は、なぜかちょっと寂しそうだった。坂井田先輩と設楽先輩が、お互い制服を剥いたり、金槌を取り出し始めたのを見かね、いい加減にしなさいよ二人とも、と言いながら、神崎先輩は仲裁に入る。東先輩は、そんな神崎先輩の後ろ姿を見ながら、独り言のようにつぶやいた。
「望美ちゃんのご両親、離婚しちゃったから、それで叶わなかったのね・・・。」
「え?」
「あ。」
東先輩は、はっ、として口を抑える。
「今の、聞かなかったことにしてもらってもいい? 望美ちゃんには、あんまりそのことを人に喋るなって言われてたの。」
「そうなんですか・・・。じゃあ、聞かなかったことにします。」
両親が離婚なんて、あまり人に知られたくないのは確かだ。家族の致命的な不和なんて、引け目に感じる以外のなにものでもない。
「ありがとう、健吾君。ところで、なぜ健吾君はSF部に来たの? 望美ちゃんが誘ったみたいだけれど、この時期に部員勧誘でもしてたのかしら?」
「ああ、部員勧誘と言いますか、神崎先輩が廊下でいきなり走り出したんです。その理由が、ロケットの気持ちを理解するとかで、それで、興味というか、変わった人だなぁと思って。その後、入部先を探していることをお話ししたら、誘われたもので、つい・・・。」
ちなみに、パ行変格活用のことは言わないでおくことにした。
「ついて来てしまったと。確かに、気になる行動ではあるわよね。廊下でロケットごっこなんて。それにしても、廊下を走るのは危ないから、やめてって言ってたのに、またやったのね、望美ちゃん。この季節、滑って転んでも知らないから。」
いや、滑って転んでパンツまで見られたんですけどね。
「健吾君は初めから文化系の部を希望だったの?」
「ええ。運動は苦手なもので・・・。球形の物体を追っかけるのがひどく下手なんです。どっちに跳ぶかよく分からないし。」
「そう。」
微笑んだ東先輩は、そこで、ふ、と黙った。言い合う設楽先輩、坂井田先輩と、仲裁中の神崎先輩、その三人を背景にしながら、長い沈黙が降りる。何か気に触ることでも言ってしまったのかと少し焦ったけれど、にこにこと微笑む東先輩の横顔を見ると、そうでもなさそうだ。沈黙の意味をとやかく考えても意味がないのは、僕にとって分かりきったことだった。自分自身が、必要なことを喋ってしまうと、あとは沈黙の奥に引っ込むタイプだからだ。機嫌が悪いとか、そういうレベルではなく、話そうと思うことがないから話さないだけ。何か訊かれるまで口を開かないのは、僕にとって、そして、東先輩にとっても、ごく自然なことなのかも知れない。
突然、東先輩が口を開いて声を出すという行為を思い出したかのように、再び喋り始めた。
「健吾君は、話したいと思う相手と、話すことができているかしら。」
「え? それはどういう意味で・・・? まぁ、そもそも話し相手があまりいないというのはありますけど、話す必要のある相手とは、話せてます。先生とか、クラスで隣の席の人とか。」
「そう。よかった。それはとても幸せなことよ。話したくても話せないって、つらいことだから。」
「・・・? 東先輩には、そういう、話したくても話せない相手がいるんですか? あ、こんなこと、訊いていいのか分からないですけど・・・。」
「訊いちゃいけないことなんてないわ。答えるか答えないかは、相手の判断に委ねられるのだもの。・・・・・。」
再び沈黙。これはつまり、話したくても話せない相手がいるのかと、訊いてはいけない、いや、訊いても答えの返らない質問だったということだろうか。東先輩は、なんでそんなことを突然話題に出したのだろう。神崎先輩や設楽先輩、坂井田先輩らと違って、東先輩には常識というか、イタくないというか、どこにも偏らない性格的なバランスの良さを感じるのだけれど、毒気のない微笑みと、突然訪れる沈黙の影に、何か得体の知れない不安が潜んでいるようでもあり、僕は落ち着かない気分だった。
ようやく、設楽、坂井田両先輩間の紛争が休戦となったみたいで、まだぶつぶつと文句を言いながらも、二人は席についた。神崎先輩はぱんぱんと手を叩いて、場をとりまとめるように言った。
「はい。じゃあ、今日の部会はこれくらいにしときます。鎌倉君。部会はこんな感じで、だいたい毎日やってるから、適当に来て。まぁ、強制っていうわけではないんだけど、誰も部会に来なくなっちゃうと、この部のレーゾンデートルが成り立たないわけで、なるべくなら来てほしいわ。」
「分かりました。放課後、特に決まった用事もないですし、明日もまた来ます。」
「うん。よろしくね。」
明日もまた、という僕の言葉を聞くと、神崎先輩は心底嬉しそうに、笑顔を浮かべた。部員が増えて、一番喜んでいるのは神崎先輩なんだろうな、きっと。新一年生の入学から二ヶ月も経っているのに、新入部員が一人もいなかったんだから。
坂井田先輩は真っ先に自分の鞄をつかむと、
「それでは、鎌倉君、これからよろしくな。じゃ。」
と言って、雨の中、鞄を雨避けに勢いよく外へ出る。何もない平坦な場所で思いっきり転びそうになりながら、坂井田先輩は校舎の中へと消えて行った。設楽先輩も、ちら、と僕に一瞥をくれると、無言で部室を去って行く。
神崎先輩と東先輩、それに僕の三人だけとなった部室の中は急にしんと静まり返り、屋根をたたく雨音が耳に痛いほどしみた。ふと気がつくと、東先輩は部室の天井を一心に見つめている。
「? 東先輩、雨漏りでもしてるんですか?」
東先輩の視線の先を追っても、古びて汚れた天井があるだけで、何か変わったものがあるわけじゃない。
「いいえ、雨漏りはしていないわ。」
「・・・天井に何か?」
「あ、違うの。天井を見ていたわけじゃないわ。」
「??」
天井じゃなければ、いったい何を見ていたんだろう。
「それじゃあ、私も帰るわね。望美ちゃん、健吾君。また明日。さようなら。」
礼儀正しく頭を下げられ、僕は慌てて、
「あ、さ、さよなら。」
と、東先輩へ別れの挨拶を返した。
「ああ、お疲れー。」
と、神崎先輩もひらひらと手を振って、東先輩を見送った。それにしても、みんなばらばらに帰るんだな。一緒に帰ってもよさそうなものだけれど、お互いの距離感を大事にしているというか。
「みなさん、一緒には帰らないんですね。」
僕は、鞄にごそごそとノートやら筆記具やらを詰め込んでいる神崎先輩へ言った。
「そうね。みんな結構ドライだから、部活が終わるとさっさと帰ってしまうわ。休みの日とかも、学校の外で集まることなんてほとんどないしね。」
「そうなんですか。その辺はやっぱり、個人プレーというか、一人一人、独立した雰囲気の部活動なんですね。」
「個人プレーっていうか、ばらばらなだけよ。お互い居場所がなくて集まりはしてるけど、みんな自分の壁の中にいるって感じ。壁の所々に小さな穴が開いてて、そこを通じて意志の疎通をしてるっていうか。壁の向こう側には入らせないし、向こうからそれを乗り越えて入って来ることもないわ。って、話が暗くなっちゃったね。」
「あ、いいえ、暗いってことはないと思いますけど・・・。それにしても、設楽先輩や坂井田先輩ははっきりした、というかはっきりしすぎた趣味があるみたいですけど、東先輩はなんというか、普通、ですよね。清楚だし、おしとやかだし。」
「あらぁ? 北野のこと、気に入っちゃった?」
「そ、そんなことないですけど。東先輩だけ、濃くないというか。」
「北野「だけ」ってことは、私は濃い部類にカテゴライズされているのかしら?」
「え、えーと・・・。」
いいえ、と否定できない行動を、僕は既に見てしまっている。
「あはは。分かっているわよ。私も十分「濃い」ってことぐらい、自覚はしてるわよ。でもね、鎌倉君。そういう意味での濃度ということなら、北野もかなり高いのよ。」
「え? そんな風には全然見えませんでしたけど・・・。」
「かなり高い、どころか、一番高いと言ってもいいかも。」
「そうなんですか?」
「そうよ。まぁ、そのうち嫌でも分かるわ。心の準備だけはしておくことね。」
「はぁ・・・。」
「あっれー、おかしいな・・・。」
「どうかしました?」
「財布が・・・。」
よく見ると、神崎先輩、ノートや筆記具を鞄にしまっているのではなく、鞄からそれらを出して、財布を探していたみたいだ。突然、ぴたりとその手を止め、神崎先輩は言った。
「あ。教室の机の中。入れっぱなしだ。鎌倉君、もう帰っていいよ。部室の鍵は私、閉めとくから。」
「・・・・・。」
「ん?」
にこっ、と笑いかけられ、焦った僕は慌ただしく鞄を持って言った。
「あ、あの、それじゃあ、失礼します。」
「うん。お疲れー。」
神崎先輩と一緒に帰りたくて、部室に残っていた、とはさすがに言えなかった。机の中にあると言っているのに、財布を一緒に探しますというのもちょっと変だし、僕は降りしきる雨の中、後ろ髪引かれる思いをしながら外へと出た。一度校舎に入って靴を履き替えると、校門へと向かう。
一癖も二癖もありそうな先輩達だったけれど、居場所という意味では、自分の性に合っているような気もする。流れで入部してしまったようなところもあるけれど、それはそれでよかったのかも知れない。それにしても、と僕は思う。神崎先輩は、東先輩が一番濃い、みたいなことを言っていたけれど、何が濃いんだろう。東先輩と話をした限り、ちょっと不思議なところはあるけれど、真面目でおしとやかな、という形容詞がぴったりくる人なのだけれど。神崎先輩の言葉がどうにも信じられず、小振りになってきた雨の下、見上げた空は鈍い灰色に光っていた。僕は水たまりを避けながら、足を早めて帰りを急いだ。
翌日。僕は耳寄りな情報を聞いた。屋上が普段から開放されているというのだ。前の学校では、先生の許可なく立ち入ることはできなかったものだから、遅めの昼を食べてから、(パンを巡る熾烈な購買競争に参戦することができず、空腹に猛る生徒達の後ろから、茫然とその光景を眺めていたせいだ。)僕は屋上へと向かった。僕は屋上という場所が好きだ。校庭を見下ろせて、さらにその先の家や、山なんかが結構見渡せる。今日はあいにくの曇り空だけれど、それでも、広々と空が開けているだろうことを思うと、胸が踊る。空を見るのは、好きなことのひとつだった。
昼休みも終わりに近く、屋上から下りてくる他の生徒とすれ違いながら、階段を一段飛ばしでいそいそと、僕は最上階まで階段を登った。扉に手をかけ、開けようとしたとき、窓越しに人影が見えた。長い黒髪、伸びた背筋。東先輩だ。他の生徒は見えず、先輩一人だ。何してるんだろ。
声をかけようとドアノブに力を込めたのと同時に、僕は不可思議な光景を見た。ハンズフリーの携帯で突然話し始める人を見ると、ぎくりとする、あれに似たようなものだ。両手を下ろし、目の前に誰もいないという条件で、おおむね人は会話をしないだろうという、経験に基づいた予測がきれいに裏切られるものだから、びっくりする。それに似たシチュエーションを、僕は目の当たりにした。
東先輩は屋上の中央に立つと、分厚い雲の下、今にも雨が降り出しそうな鈍色の空に向かって両手を突き上げ、天を仰いで何かをつぶやいているようだった。何してるんだ、先輩は? 声をかけるタイミングを完全に失ってしまったし、先輩の儀式めいたその行為を邪魔してはいけないような気もした。このまま何も見なかったことにして、立ち去った方がいいんじゃないかと一瞬思ったけれど、屋上に出たいという衝動と、東先輩がいるという事実、東先輩が何をしているのかという好奇心、そんな気持ちが一度に混ざったものだから、僕はついふらふらと屋上に出てしまった。冷たく湿った空気が吹き抜け、先輩は僕に気づかないまま、その「行為」を続けている。
「アイ・・サ・・・チナ・・・。アイサンカタルチナ・・・。おいでませ、マゼラ様。アイサンカタルチナ、アイサンカタルチナ、どうか私にその声を。」
アイサ・・・? 先輩は何を言っているんだ。両手を上に伸ばして、体操? 体操をしているのか。ヨガとか? でも、さっきから同じ姿勢のまま動かない。マゼラ様って何だ? なぜひとけのない屋上で? 声をかけてもいいものだろうか? やっぱり声をかけてはいけない気もするけど、もう五、六メートルの距離まで近づいてしまった。このまま立ち去るってのも変だ。どうしよう?
大量の疑問符に埋もれて硬直してしまった僕を、東先輩は唐突に見た。空に向けられた視線を、すとん、と僕に落とす。その目には、昨日会話したときにあったような生気がまったく感じられず、虚ろに澱んで、僕のはるか後ろで焦点が合っているような、うなだれたペリカンの瞳みたいだった。僕はなんと言って声をかけたらいいか分からず、先輩とたっぷり十秒は見つめ合ってしまった。徐々に目の焦点が定まって、そのときようやく、東先輩が僕を「見た」のを感じた。どうにか声を振り絞るようにして、僕は言った。
「あ、あの、先輩、何を・・・?」
「あら、健吾君。こんにちは。今、マゼラ様のお声が宇宙から降りてくるのを、待っていたところよ。」
「マ、マゼラ様?」
「そう。大マゼラン雲におわす、先進の知的生命体。敬意を表して、様をつけているの。」
「・・・・・はぁ。」
僕はなんとも、間の抜けた声を発した。というより、はぁ、としか言いようがなかった。
「彼らの交信技術の水準は地球のそれとは比較にならないわ。アンテナも受信機もいらない。精神に直接語りかけてくるの。」
「な、なぜ、そうだと分かるんです。」
「だって、そうなっているんですもの。」
そうなっているって・・・。どこにその根拠があるのか、尋ねることすら馬鹿げているとでもいうように、東先輩は確信的に断言した。東先輩はいたって真剣で、冗談を言っているようには見えない。
「先輩は、その、マゼラ、様という人、人? というか存在と、交信、意志の疎通ができるんですか?」
「できると信じているわ。」
まだ成功はしてないんだ。
「きっと、はるか宇宙の深淵から、私達にコンタクトを取りたがっているのよ。その気持ちは私も同じ。これだけ広大な宇宙にあって、しかもハビタブルゾーンにある惑星の存在も知られてきて、あ、ハビタブルゾーンっていうのは生命の存在可能な恒星からの距離域を指すんだけれど、そんな星も見つかっているわけだし、ただ、宇宙はあまりに広いものだから、たまたま、お互いの接触を経ていないというだけだと思うの。地球より進んだ科学文明を持つ生命体はいるはずよ。そうした生命体が存在しないと証明することを、今だ誰もなしえていないのだから。観測技術の向上に伴って彼らへの新たなアプローチ方法も生まれてくるだろうけれど、こんなに広い宇宙にあって、自分達の惑星だけがぽっかり虚空に浮かんでいるなんて、寂しいと思うの。私達は一人じゃないって、彼らもまたそう思いたがっているはずよ。だから。」
「だから、こうして屋上で、マゼラ様からの声を待っている、と?」
今日の東先輩は、昨日とは別人みたいに饒舌だ。次から次へと、溢れるように言葉が出てくる。
「そう。人類が太陽系外のハビタブルゾーンへ到達するまでには、まだまだ時間がかかると思うの。五十年や百年じゃきかないかも知れない。恒星間移動とか、あるいは島銀河間の効率的な移動方法を確立する必要があるから。今の私達にできることは、彼らからの波動を受信することだけなのよ。超遠距離からのシナプスに対するピンポイントシグナル伝達をも、彼らは可能にしているはずだけれど、きっと、その声はとても小さなものだから、開けた場所で、意識を空に集中している必要があると思うの。だからこうして、毎日かかさず天を仰ぐの。学校がない日には、おうちのベランダでやっているのよ。」
どこからどこまでが科学で、どこからが東先輩の、いわゆる迷信なのか、うまく判断をつけられなくて、頭がぐらぐらする。異様な熱気でまくしたてる東先輩を見るにつけ、優しく可憐な清楚系お嬢様という先輩のイメージが、その自重でもってがらがらと、崩壊して行くのを感じた。東先輩は、再び両腕を空高くかざして言った。
「私はもう少し続けるけれど、健吾君も一緒にどう?」
「あ、やや、あの、僕はこれで。ちょっと外の空気を吸いたかっただけなので。じゃ、じゃあ失礼します。」
「そう。それじゃあ、また。」
白百合みたいな笑みを浮かべた後、東先輩は陶然と通信用のメッセージを再開した。通信用というか、ただの呪文にしか聞こえない気もする。
「・・・・アイサンカタルチナ、アイサンカタルチナ、おいでませ、マゼラ様。どうか私にその声を。」
マゼラ様に来てほしいのか、その声を聞かせてほしいのか、どっちなんだろうという冷静な疑問の浮かぶのが、かえっておかしかった。でも、少なくともこの人は本気で、マゼラ様との、宇宙との交信をはかっている・・・。
濃い。
神崎先輩の言うとおりだった。天に向かって両手を伸ばし、一心不乱に交信中の東先輩は、その濃さにおいて、坂井田先輩や設楽先輩に引けを取るものじゃあなかった。僕は宇宙人と交信中の先輩に話しかけるというシチュエーションなんて、今まで一度も想像したことがなかったわけで、それゆえ僕にできることは、これ以上語ることなく、ただただ無言でその場を立ち去ることだけだった。
アイサンカタルチナ、アイサンカタルチナ、おいでませマゼラ様。東先輩の発信が続く。僕は一度だけ振り返って東先輩を見た。その姿が真剣であればあるほど、痛かった。呼んでは失礼なのだけれど、このときばかりは、こう思わずにいれなかった。痛女、と。扉を開けて、屋上を後にする。そういえば、アイサンカタルチナってどういう意味なのか、聞くのを忘れた。