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第十四話 財の世界



 その〝魔物〟に誘われたとき、最初に言われたのが『望む生活を欲しくはないか』ということだった。


 フロウド老人は、白状する。

 貧乏な生活。将来の不安。―――突き詰めていくと、それは財産だった。母である妻を亡くし、生活に困っていた地主は、つい魔物の甘言にのせられて黒い書物を開いてしまった。そこで、小さな世界の鍵が開いてしまった。



「それが、『魔道書』……だったんですか?」

「最初は、知らなかったのだ。いや、今でも信じられない。あの書がそう呼ばれていることも初めて聞いた。……だが、変だとは思ったのだ。幸運なことが急に続き、不自然なほど財が集まってきた。私には、それが少し怖かった」



 フロウド老人は、言った。


 その書は、もともと妻である女性――西国から商売のために訪れた娘が、貧乏領主としての若きフロウド侯爵と出会って、恋に落ちてから持ってきた荷物の一つだったという。


 彼女は遠い世界の名流の家だったらしく、そういった珍しい商売の道具などを多く抱えていた。だが、結婚してからは、長く貧乏な『子育て』が続き、貧しいが幸せがあった。書の力もいらないくらい。


 だが、妻を失い、屋敷に残されたフロウド侯爵は、息子を抱えつつも急激な『孤独の寂しさ』に苛まれた。


「妻が、好きだった。愛していた」


 フロウド老人は、夕暮れの中で下を向く。

 そのまなじりから――一粒の透明な雫がこぼれた。


「だから、幸せにしてやりたかったのに……。結局は長い貧乏の中で、苦労ばかりをかけてしまった。それでも笑っていたよ、妻は。…………報われないまま、私のような男が見送るしかなかったのに」

「……」


「『貧乏』が、悪いと思った。貧乏がごくありふれた、ささやかな幸福さえも許さない。憎いと思った。だから……せめて、息子にだけは。失った妻の分も、少しばかりの幸せを掴ませてやろうと思ったのだ。貧乏じゃなければいいと思った。妻と同じくらい、息子を満たしてやりたかった。……なのに」


「……『書』の、よくある話しとして」


 そこで。

 静かに夕日の注ぐ書斎で、オリゼがそっと小さな口を開いた。



「もともとの辛さを、克服するために。つい、甘言に載せられてしまうことが多いそうなの。…………それが、報われない過去であれば、過去であるほど。辛ければ、辛いほど。手を出してしまう。

 書の中だって『生きて』いるの。魔物を飼っているようなものなのよ。人間の孤独に、彼らは吸い寄せられてしまう」


「……? な、何者なんだね。君は」


「アストレア国の変人通りアダム・ストリートの書店の主。『魔道書引き取り』の――オリゼフィール・マドレアン」


 夕日に染まったオレンジ色の銀髪を揺らし。

 オリゼは、そう名乗った。


 それは、『専門家』としての本名だった。



「それで。――フロウド侯爵。その魔道書の誘惑に、乗ったのね?」


「……。あ、ああ。他意はなかった。悪意も。乗ったつもりすらなかった。ただ、夢遊病に浮かされた患者のように、熱が出てぼうっとした夜のように。――私は、なにかに吸い寄せられるように、『契約』したのだ。本に手を触れてしまった。あの一晩のことは、今でも夢の中なのではないかと。そう思っていたよ」

「……。そして?」


「そして。その翌日から、我が家では善いことばかりが起こるようになった。金をもたらす客人が訪れ、財を積む話しには困らなくなり。……商売は、うまくいった。もちろん、私自身も猛勉強したが」



 財を築き上げた魔導書。

 財形のルーン。


 その正体は、自分の望むままに将来が描けてしまうことだった。成功は馬車の『車輪』のようなものだった。転がり出したら、次々と善いことが起こりうる。やがて、自分を『貧乏領主』だなんて呼んでいた土地の者は敬意を払うようになり、貧乏を嫌って疎遠になり、一銭も貸してくれなかった親戚連中は、舞い戻るように集まってきた。


 しかし、多忙すぎる日常は、かれの『成功に対する満足』とは裏腹に、かけがえのないものを奪っていった。



「ときどき。――そう、ときどき。王都から帰る馬車になど揺られていると、私は考えることが多くなってきたのだよ。物思いに耽ってしまう。『これが、本当に私の望んだ生活だったのか……?』と」

「…………」


 道で、すれ違う若い貴婦人の親子。


 それは幸福そうで、よく晴れた日。日傘の下で、夫に微笑みかける婦人と、手を引いている息子だった。……まだ小さい。〝ヘンリエット〟も、あの頃はあんな笑顔を向けていたな……。と思い出す。


 その息子は、とっくに家を出てしまい。彼を嫌ってあばら家に住んでいた。



「…………全て、目に見えない『幸運』のおかげだ。今があるのも。……しかし。私は恐ろしいのだ。これで、本当によかったのか? 私は、何かを為し遂げたのか。妻は。――妻は、今のわたしを見て、なんと言うのか」


 その自問自答に、答えなんかない。

 妻に褒めてもらい、息子を幸せにしたかった。……ただそれだけなのに、現実はいびつに歪んでしまっていた。誰も答えてくれる人はいない。――使用人も。親戚筋も。自分のことを、慕ってくれなくなった領民も。


 男は、気づけば人間を信じられなくなっていた。

 使用人すらも。


 毎日紅茶を入れ、朝食を作り。庭の手入れをして、顔を合わせる人々にさえ――素顔を隠すようになっていた。彼は、『経済の成功者』でなくてはならない。その顔をしなくては。



「―――『強情な爺が、折れるはずがない』。息子のヘンリエットさんは、そう思っていますよ」

「…………ずいぶん。はっきり言うのだな。将校卿の息子は」


「ええ。無礼を承知です。…………礼儀知らずで、無礼を承知してまで言うのですよ。ヘンリエットさんが、あなたに向ける気持ちを」


 それは、同じ家族であり。

 道を違えてしまった、親へと贈る言葉だった。



 支えが、欲しかっただけ。

 僕は今度の依頼を聞いて。そして、この屋敷の現状と、フロウド老人の話を聞いて――そう思った。彼も人間なのだ。


 書の誘惑に乗ることだってあるだろう。

 辛いときは、愛していた人に語りかけたくもなるだろう。


 それは当然だった。人は強い生き物ではない。


 だが、それまでだった。気持ちが止まってしまっている。

 魔道の真の理――『書』の中にある理屈なんかを理解しなくてもいい。それは僕自身も、フロウド老人も同じだった。だが、違うと思うのは、なにも王都の有名な占い師を呼んで、息子を呼びつけることではないだろう。不運を相談することでもない。


 ただ、目に見えて、屋敷の見える一に小屋を設ける息子に、語りかけるだけなのだ。行動することだ。少なくとも、僕は自分の時にそうした。


『書』を持ち。契約した者の未来――。

 それは、行動することによって、変えられる。


「……。そう、か」

「はい。息子さんは、あなたの言葉を待っています」



 僕は、今度こそこの屋敷の真実が分かった。


 パーティ初日に、ここまで豪華絢爛で美しい装飾のある屋敷の中において、どこか空洞のような、空々しい心の隙間を感じてしまったのを。


 それは、人の手が―――感情が宿っていないのだ。どれも書の栄光が用意した舞台で、彼自身、そして他の家族が手をつけたものじゃなかった。生活感と温かみというものは、ものの価値や、家具の高級さが決めるものではないだろう。そこに一緒に作り上げる、家族の手があってこそのものだ。


 価値観のみが、先行している。


 パーティの初日に僕はそう感じてしまったのだ。……こんな生活の中に身を置くのなら、フロウド老人には、もっと外の空気を感じて、もっと元気に野山の風を感じてもらいたい。そして、あのあばら家で、息子さんに会ってもらいたい。


 僕は、そう願った。



「…………しかし。会っては、くれるだろうか」

「はい。大丈夫ですよ。あなたには―――あの豪華なパーティの中で、着飾った親族に馬鹿にされながらも、あなたのことを想って止めてくれた息子さんがいるじゃないですか」


 最後まで質素を貫き。

 家を嫌って。


 でも、その意固地さはフロウド侯爵に性格がそっくりだと僕には思えるのだ。ならば、氷解できないわだかまりなんて、きっとないはずだ。


 どれだけ、時間がかかろうとも。

 どれだけ、感情の波が遠ざかり、家族としての時間が、離れていたまま経過しようとも。


「あなたは嫌われていない。――フロウド侯爵。だって、息子さんは、この屋敷が見える小屋から、あなたを見ていて案じているのですから」


 僕は告げた。

 パーティは終わりを告げる。それは、初日からこの屋敷に招かれ、浮かれた豪華な装いの中に身を置いていた僕の感情だった。


 最後の最後で。

 その書の呪縛をやぶるのは――意固地さでも。頑迷な決意でもない、と思った。書の力は『専門家』であるオリゼが封印してくれる。僕の剣士としての役目も終えた。だから。


 だから。最後ぐらいは。人として、フロウド老人に、息子と暮らす道を歩んでほしいと思ったのだ。



 宴の開けたような空気。

 長い連日の調査の果てに。『魔道書』に行き着いた僕らに見せた、その老人の顔は。


 少し、もの悲しそうで。

 でも、どこかホッと安心して息をつくような。


 そんな、まなじりに涙の粒を浮かべた。ただ一人の、髪の白くなった父親のものだった。

 …………とても、穏やかで、優しそうな。





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