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第八話 分岐世界の解釈理論



「―――多世界解釈たせかいかいしゃく?」

「そう。別の名前を倍音ばいおん理論。………ある古い魔術師が、世界を『平行な音』にたとえて、無限の広がりを見せる可能性おとについて表現した言葉なの。曲音の膨らみを、意図的に増幅させる装置――それが魔道書だと例えて」


 オリゼは言った。

 時刻はすでに夕刻を回っている。


 僕とオリゼはあれから雑談を交えながら、書斎で二人きりこもること数時間。何らかの魔道書や『秘文字ルーン』の刻印の手がかりが探せないものか、怪しく古い本を読みあさっていた。


 オリゼ曰く、『刻印』をどこかで見つけられれば、それが手がかりになるという。


「例えば、朝食にジュースを飲んだとする。特別甘くて、お子様並みの味覚のあなたにはぴったりな飲み物。……でも、それをこぼしたとすると?」

「お子様な味覚には不服を唱えるとして。こぼしたって、変わらないじゃないか」


 ただ、テーブルを拭くだけなんだから。

 そんな手間でもないだろう? 使用人の手を煩わせるまでもない。僕が自分で食卓を掃除するのは一瞬だ。


「この『問題』の中身は、そっちじゃなくて。『起こりうるべき未来』が変わってしまうことなの。オレンジジュースをこぼしたことによって、『オレンジジュースをこぼさなかった未来』と、『こぼしてしまった未来』の二つが生まれた」

「……?」


「これは例え。なんだけど。例えば、あなたはその日に私に予定があるとするわ。屋敷を出発して、変人通りアダム・ストリートに立ち寄る。――けれど、その『オレンジジュースをこぼした世界』でのあたなは出発が遅れたことによって、馬車が大通りを走っているときに不意の事件に巻き込まれた。……少しだけ早く通り抜けていたら何にも出会わなかった大通りで、殺人鬼に出会ってしまい、あなたは殺されてしまった」

「……武具の心得のない殺人鬼なんか、アストレア国の剣士の敵じゃないけど」


「違うわ。そうじゃなくって、一般的な『幸』と『不幸』の分かれ目の話をしているのよ」


 オリゼは言った。



==============


『A世界』の僕は、オレンジジュースをこぼさなかった。


 いつものように朝食を終えると、少し早い朝の澄み渡ったアストレア国の街中に馬車を繰り出して、使用人のセダンに運転をさせて『変人通りアダム・ストリート』へと向かう。時間はたっぷりあり、オリゼと語らい、その日は何もない平穏無事な一日を終える。


 その日の終わりに、僕がオリゼと一緒に街に繰り出して、露店のホットサンドを一緒に食べる。なんて幸せなんだろう。買ってあげた彼女は、可愛い顔を見せて僕を満足させていた。



==============



「……って、君の主観も入ってない? なんで僕が奢るのさ?」

「気のせいよ」


 かなり独特な解説に文句を入れる僕を、オリゼは無視した。

 解説を続ける。


==============


『B世界』の僕は、オレンジジュースをこぼしてしまった。


 あら、不幸。この日のアンラッキーはここより始まっていた。

 食卓から床へと広がってしまったオレンジジュースと、ダメになった高価なカーペットを使用人に渡すことにより、出発がさらに数十分遅れた。この間に僕は父親から厳しい課題や用事を言いつけられており、それを消化するために街中へ馬車を走らせた。


 時間帯によって人が消えた薄暗い路地で、馬車の車輪が何者かの『刃』によって切り落とされる。転倒した僕や、動揺した使用人のセダンが斬りつけられ、首都を騒がせる殺人鬼――『魔道書』を抱えた人物に、僕は殺されることになった。


==============



「……って、かなり主観が入ってるね。こっちも。なんで車輪が剣に切り落とされるのさ?」

「だから、一例よ。話している途中にそう思ったから魔道書をつけ加えておいたじゃない。そもそも、そんな殺人鬼がいたら、まず私や騎馬警官が許さないでしょうし。ミヤベが殺されたら、私が地獄のような復讐を加えてあげる」


「……で、結論を言うと?」

「『幸か不幸』というものは、その場の選択肢によって決まる」



 ……そりゃ、確かに。


 僕は思った。オリゼが引き合いに出した考え方なんて今まで一度も想像したことなかったが、例えば『王都の街中の宝くじを買って、一歩先にいた人が当たりくじを買ってしまった!』なんて経験は、誰しもがあるはずだ。


 誰でも一度は妄想することだろう。

 ――ああっ、もっと一歩早く。あの時間に、あの売り場で買っていたら、億万長者だったのに! と。


 たかだか庶民の娯楽程度であるが、これが侮れない。

 オリゼが言っている理屈もそういうことなのだった。『その時、その状況で動いた選択肢によって、その後の人生が変わる』というものである。



「この世界に無数の『選択肢』によって生まれた世界があって、分岐していくというと―――少し、興味がそそられる話しじゃないかしら? 『A世界』のあなたも、『B世界』のあなたも、さらにその後の行動によって『C世界』『D世界』『E世界』『F世界』――――と派生していく。

 この私と出会わなかったあなたもいるわけだし、そういったあなたは、そもそも『魔道書』を交易商から買わずに、私のお店へ依頼しにくることもなかった」

「確かに、そういう考え方もできるね」


 僕は腕を組みながら、ことさらこの『友人』に対して強く頷いていた。

 ………気持ちを、少し隠すために。


 オリゼは、気づいていない。

 彼女は自分の知りうる理論遊び――その内容に夢中になるあまり、学者のように出来事を『記号』として見つめており、その会話の内容に感情などを移入させていない。

 だから気づかなかったが、彼女の会話に、少しばかり不愉快さを覚えてしまった僕である。


 ――僕が、殺人鬼に倒される、というのは別にいい。

 そういうもんなんだし、という達観と、剣士としての勝負に対する覚悟がある。


 でも、


「――なあ、オリゼ。話を切って悪いが」

「?」


「…………一つだけ。僕は。何度別の世界で、違った人生を歩もうと。魔道書と関わらなくても。…………『君』と、必ず会うよ」



 少し憤慨し、彼女を見た。

 そこで彼女が気づいた顔をする。『その意味』を。


 今まで自分が何を言って、理論遊びの中で、どんな言葉を述べたのかを。僕たちが会わずに。そして、僕は――このアストレア国という異国の血の人々が行き交う街中で、数少ない友人に出会えたことを。


 ――その幸福を、否定された気がして。



「……ば。ばか。例えよ」


 オリゼは珍しく焦っていた。

 今まで得意げに手の中で弄んでいた屋敷の書を握りしめて、心細そうに抱き。僕の目を見れずに顔を背けた。頬がほんのり赤い。



「真面目一辺倒なんだから。ミヤベは。例えも分からないの?」

「…………まあ、その自覚はあるし。士官学校でもよくそう言われるけど」


「私が、あなたと会わない可能性なんて本気で考えているわけないじゃない。ただの引き合いに出しただけよ。私だって……その。あなたがいないと困るし。嫌だっていっても。アストレア国の街中で必ず見つけるから」



 オリゼは不器用に、たどたどしく言う。

 らしくない、と自覚があるのか。仕切り直すように『ともかく』と前置きをすると、



「ミヤベが言うから調子が狂ったじゃない。ともかく、それが多世界解釈の理論。朝食のオレンジジュースより始まった不幸は、その日の一日にも重大な影響を及ぼしていく。『B世界』のあなたが生きていくの」

「……でも、それが、今回の依頼に何が関係が?」


「分からない? 〝選択肢〟によって、その後の運命が分かれていくのよ? 過ぎた強力な『祝福』は、その後の運命を狂わせる―――『魔道書』の理屈、そのままじゃない」


 オリゼは言った。

 『財産のルーン』。


 それはただの幸運の猫の置物である。

 それ単体ではそこまで効果がない。ただ、ちょっと『良いことが起きたらな』、程度のことだ。


 風水でも占いでもそうであるが、現実にはほとんど影響がないくらい『少しだけのラッキー』が生まれるものだし、そういったコイン一枚の幸せを求めて人は娯楽の一つとして『幸せ』を探す。



「……でも、それが過多すぎると? 『財産のルーン』―――『秘文字』は、もともと呪術的な要素がある魔道書の一部なの。その効果は薄くとも、一文字、一文字に力が込められている。

 それが数千になると? 数万になると? とても幸運の置物なんて言えなくなる。屋敷中を使って幸運の置物を並べて、強引に運を引き寄せているようなものよ。そして強引に選択肢を変えた世界は、『B世界』を生む」


 なるほど、と思った。

 ここで理解した。『A世界』や『B世界』と複数に枝分かれする世界解釈はもともとあれど、それを強引に招き寄せてしまうのが『魔道書の祝福』なのだ。


 そして、過ぎた祝福は、強引な『良いこと』を起こす。


 ――商売で儲かり。

 ――上流階級の仲間入りし。

 ――剣士として腕前を謡われ。


 しかし、それらの形で歪に引き寄せた『幸せな世界』は、多くのねじ曲がった『本来の世界にあったもの』を残していく。


 …………例えば、フロウド侯爵の。人生を違えてしまった息子のように。



「フロウド老人の息子の悩みも、それら『書』の悪い影響だと?」

「可能性はある。……という段階ね。今は。魔道書は運命さえねじ曲げてしまう。第三の選択肢の世界。……そんなものが。本当にあるのなら、今がそうだと思うから」



 オリゼは言うと、本を閉じた。

 どうやら、この膨大な書庫には『財産のルーン』の手がかりはないらしい。続きの調査は明日にするとして、今日はひとまず、彼女がとっているという郊外の宿屋に戻り、翌日に備えて眠ることにした。



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