第四話 意地
「―――くそっ。」
屋敷の裏。
柵に隠れるように。背中を丸めた青年が、屋敷の壁を叩いていた。
別に屋敷をどうこう、というわけではなく、やりきれない感情が溢れてしまっただけのようだった。僕が発見したそこでは、青年が屋敷の置き石に座り込んでいた。このまま出て行くよりも、頭を冷やすつもりだったようだ。
だから声をかけると、少し驚いた瞳でこちらを見てきた。
「ヘンリエットさん」
「! あんたは」
「お初にお目にかかります。『ミヤベ』という家の者です」
僕がそう言うと、いくらか警戒心を含んで値踏みするようだった瞳が、少しだけ和らいだように思えた。
「これは……。音に聞く異国より招かれた剣の達人の家か。会えて光栄だ。……いや、今はこんな姿だったな。……あの剣鬼の、ああいや。士官学校の教官殿のご子息に、会えたというのに」
「いいです。鬼は、僕ら東の国では誉れとする言葉ですから」
僕がそう言うと、少し安堵したように微笑みを交した。
悪い人ではない。
――僕の直感が、そう告げていた。
「…………すまんな。見苦しいところを見せて。なんら関係のないお客さんを困らせるつもりはなかったんだ」
「あ。いえ。そういう理由で追ってきたわけでは」
意外なことに、必要以上に丁寧だった。
あれだけ怒鳴り込んできたのだ。てっきり、一方の性格が粗野でできていると思ったら、そんな事はなかった。
ヘンリエットさんは深く頭を下げ、あの時のことを詫びた。
「不快な思いをさせたのなら、すまない。…………ただ、どうしても俺は、あの親父のことが許せなくて」
「全く、別の道を歩まれているのですか。フロウド侯爵と」
「ああ。―――アストレア国の紳士たる君になら、分かるだろう。人は時として、親とでも袂を分かちあってでも、貫かなければならない〝信義〟がある」
「分かります。何となく」
僕は頷いた。
それは、剣の道に通ずることだった。
どうしても納得しがたいものと立ち向かうため、剣は存在する。自己の信念を塊とし、結晶のように信じるものを結び、蜃気楼のようにモヤモヤとした――懐疑、疑心、不義を――断つ。それは、物理的でも、精神でもである。
修行に対する辛さや、弱音も、それに含まれた。
自分の中でどうしても納得のできないこと。弱さ。それを認め、受け入れていくことも重要だったが、負けて、折れていては何も進まない。剣の道は、『克服』の道でもあるのだ。
例え剣を握っていなくとも、その強さは磨ける。王国の士官学校生に限らず、平民でも。
父からは、そう教わっていた。
幸い、僕の父さんは立派で僕の中の〝道〟の先にいる人物だが、尊敬するべきではないとき――例え実の親でも、立ち向かうことがあるかもしれない。それこそが、貫くことである。
「……よく分かっているな、君は。正直、弱いばかりの俺には、できない」
「いえ。そんなことは」
僕はそう言うが、ヘンリエットさんは首を振って、『俺なんか、迷ってばかりだ』と遠い田舎の村の景色――黄金色の、風にそよぐ小麦畑を見ていた。こうして屋敷に馬車を乗りつけて集まってはいるが、侯爵の領地自体は素朴な田舎町の風景だったのだ。
遠くに村々の、決して裕福ではないが、ありふれた幸せに包まれた家の屋根が見える。村の間を埋めるように小麦畑と、被害よけのカカシが立っている。それがまた、僕にとっては目を細めてしまうくらい、心地良い光景に見えるのである。
――領地と村が一体化している場所も、珍しいよな。アストレア国の中で。
僕がそう思っていると、
「……父さんは、な」
「?」
「昔は質素で、素朴で――。村人たちがパンを持ってくると、俺と二人で分けるような暮らしをしていたんだ」
そう、遠くに揺れる畑を見て、ヘンリエットさんは言った。
どこか、懐かしさを含んだ声で、
「麦のパンすら二人で分けるような暮らし。夜だって起きておけなかったさ。ああいや、君に言うような話しではないけどね。
……ただ。母さんが死んで、ますます貧乏に磨きがかかって。…………侯爵なんて名乗っているが、とっくに没落して、村人たちと生活するような暮らしだったんだ。昔は」
「……」
昔を懐かしむ。
それは、何も年の隔てた老人にだけ許される権利ではないだろう。若者だって、昔を懐かしむことがある。
「本もろくに買ってもらえないほど貧しくて、ランタンの火も起きてたら勿体ないって消されていた。厳しかったんだ。父さん。……でも、あの頃の父が、いちばん父らしかった。厳しくて、温かくて。母さんがいなくても寂しいなんて、ちっとも思いやしなかった」
それは、やはり。懐かしい思い出か?
「……。ああ。そうだな。思い出しちまった。――ただ、今の父さんはどうだ。あの豪華な風景。天井のシャンデリア。…………すっかり屋敷の中は変わってしまった。床に敷き詰められるのは、西方より砂漠を越えてもたらされたカーペット。果物は皿からこぼれ、床に落ちても誰も見向きもしない」
「……」
「喜んでいる親戚連中は、甘い汁を吸っている奴らだ。――でも、親父は? それでいいのか。村人たちから冷たい視線が集まっている。それで、いいのか。周りを欲望の渦で固めて、あんまりじゃあないか」
「……」
「今の親父は、とても見ていられない。まるで……」
それから、首を振る。
これ以上言葉を重ねても、話がまとまらないばかりか、愚痴が続いてしまうと思ったのだろう。自分の詮無さを認め、それから切って落とすように、
「すまんな。招かれた客人に、こんな話をして」
「あ。いえ」
「俺は別に、来客の君に気分を害して欲しくてこんな話をしたわけじゃあないんだ。……うん。そうだな。父のパーティだ。
どうせ金をかけたんだろうし、演奏だってご馳走だって、楽しまないと勿体ない。そう思うだろ? 食べ物だって腐っちまう。だから、あんただけでも楽しんでいってくれ」
さっぱりした顔で、微笑む。
でもどこか寂しそうに僕には見えたのだった。青年は僕にだけは表面上の笑顔を見せて、それから父親の来賓で賑わうホールの喧噪から逃げるように、背を向けて歩き出した。
門から出て行く姿は、あれだけ屋敷の前に馬車が繋がれているのに、たった一人で。どこか寂しげでもあった。
「けなげな青年ね」
「――どわっ。びっくりした!?」
そして、しんみりとして見送っている僕に、その雰囲気をぶち壊しにする少女が『にゅっ』と顔を出していた。
オリゼは、屋敷の一階の窓から顔を出していた。両腕を組むようにして窓の枠にのっけて、細くて白い顎をのせている。……どうも、しばらくそこにいたようだ。
「…………聞いてたのか」
「不用心よ。こんな屋敷の近くで、誰が聞いているかも分からない。幸い、私という賢い淑女が見張りをしていて、話が終わるまで一階部屋のここには使用人の一人も近づかせずにいたから―――盗み聞きされなかったものの」
「…………君に聞かれた時点で、だいぶ失敗だったんじゃないかな」
「どういう意味よ?」
半ば理解している瞳を向けられながら、僕は肩をすくめた。
オリゼはこういう下世話というか、ロクなことに関わりたがらないというか、他人の末路についての話しに興味を示すところがある。……べつに、倒錯的な火遊びに熱心だと言うつもりはないけど、最初っから最後まで盗み聞きしていたということは、つまり。そういうことである。
僕を憤慨した瞳で見つめる幼い少女は、それから『まあ、いいわ。行くところもあるし』と仕切り直したように咳払いしてから、
「で、どう思った?」
「え。なにが?」
「なにが、じゃないわよ。とぼけないで。あの男と、屋敷の主人の関係よ」
オリゼは僕を見咎めるような目で見てくる。
それは、例えば休日に僕らが並んで街歩きをしていたときに、僕がオリゼのエスコートを忘れて道の劇場で券を売っているお姉さん(ちょっと露出度の高い)を見とれていたときに、同じ目をして、頬をつねってくる顔に似ていた。
それから窓で僕の髪の毛に手を伸ばして、『ねじねじ』と癖をつけようとしてくる。紳士の装いを決めている僕への(これでもセットに一時間かかった)、台無しにする嫌がらせの手遊びらしい。
「―――私たちが招待客から聞いた印象では、『彼』はどうも粗暴で、荒っぽく。そのせいでいつも尊敬するべき『成功者』の父親を非難して、妬んでいるそうだわ」
「……まさか」
「ええ。彼の、親戚筋―――成功者となった、フロウド侯爵を取り巻く、貴族たちがそう話しているの。そのせいで、勘当を食らった。噂はそうなっているわ」
「でも、実際はそうじゃない」
僕は悪評というものが耐えられなかった。
士官学校でも、そうだったが。外野は常に身勝手なことを言ってくる。その半分は憶測の域を出ずに、しかも、藪から石を投げつけているのに等しい。『多人数』というのは、常に、顔を隠しながらの攻撃なのだ。
僕が苛立つと、オリゼも頷いてから言葉を引いた。
「だけど、この問題は、もっと根深い気がする」
「……? どういうことだい?」
「単純に、『不仲』だ。とうには、根が深すぎるのよ。十数年来、ずっと行き来がなかったということも気になるわ。……ともかく。その辺りの諸々のことを踏まえて。まずは《依頼主》へと話を聞きに戻りましょう」
「へ? 依頼主?」
「そこで、事情が明らかになるはずだから」
緑の瞳を動かし、オリゼはその白いての指を――屋敷の最上階へと向けた。
僕も、つられて見上げる。
……そこって……。
僕は、ようやくオリゼの本当の目的が分かってきた気がした。




