第三話 辺境伯の息子
…………ヘンリエット?
僕は驚いていた。
「知っているの?」
「あ、ああ。名前だけは」
侯爵フロウド老の、息子だったはずだ。
たった一人の息子だったんじゃないか、確か。最近市議会にも顔を見せ、宝石商売で成功を収めた老人だったが、唯一上手くいかないのはその家族関係だったはずである。
一代で財を築き上げた侯爵の屋敷には、そんな彼の怒声と、そして揺れる洋燈の明かりだけが動いていた。豪華絢爛、洋燈の飾りも、異国のものを使った珍しいモノばかりなのに、どこか空々しそうに見えるのはなぜだろう。
そんな会場で、奥から使用人に囲まれ、杖をついた老人が現れる。息子と同じ茶色の髪は、歳月を感じさせる白さを交えており、後ろに向かってオールバックにしている。
威厳はあるが、それでも往年よりも薄れた印象で、黒いスーツや金縁の腕時計などの装飾は『野良着の小汚さ』のある子息とは対照的である。爪には、土垢どころか、汚れの一つもついていない。
「騒々しいぞ。――なんという格好で現れるのだ、ヘンリエット!」
「親父……、いや。父さん」
その青年は、やはり怒りを含んだ目で見つめる。
農作業の小作着、というものを僕は着たことがないが、少なくとも『動きやすいから』なんて理由で舞踏会に現れていいものではないことくらい分かっている。そして、その青年が、それを理解できない人物には見えなかった。
彼は――なんというか、そのままの姿なのだ。
フロウド侯爵とは対照的。
その顔には生活の苦労を滲ませ、汗を含んだタオルも偽りのものではなかった。農作業着には長年の汚れが見えており、靴もアストレア国の上流のものとは違う。ボロが見え、明らかに金銭的に困窮しているのが見て取れた。
「どうしちまったんだよ……父さん!」
そんな『子息』に対して、老人が見せたのは嫌悪の感情だ。
「何をしているのか、分かっているのか。ヘンリエット! ここにいらっしゃるご来賓の皆様に、気分を害する真似をしていいと誰から教わった。皆様、はるばるアストレア国からお越しくださったのだぞ。時間と、労力を割いて!」
杖を床のタイルで鳴らし、癇癪を起こした顔になる。
「今日は私が宝石商として、成功した――十年目の祝いになるのだ。ここまで順風満帆、一度も失敗がなかった。ひとえに、神に愛され、敬虔なるアストレア国民としての祈りを捧げ、そしてアストレア国の皆様にも支えられた――その感謝の、催しなのだぞ!」
「……どうかしてる。どうかしてるよ、父さん!」
ヘンリエットという、二十代も半ばを過ぎてしまった年齢に見える青年は、邸宅に手を広げながら、
「俺たちの本分はなんだ。――〝領主〟だろ? 侯爵だ。土地を預かり、先祖代々管理してきているんだ。…………ここの農村も決して裕福ではない。食うものに事欠かないが、それでも、決して裕福とはいえないんだ。日々の蓄えも多くはない。それなのに、毎年の豊作祭でもなしに――個人でパーティを開くなんて。いかれてる」
「口を慎め。ヘンリエット」
「いいや、言うさ。とても正気じゃない。母さんが生きていた頃は―――もっと違っただろ? 農民たちの顔を見て育ったじゃないか。父さん自身が、産婆のように、抱え上げた村人だっていたはずじゃないか! 母さんの生きていた頃は」
「ヘンリエット」
鋭い怒声が飛ぶ。
杖をついた老人が、青年の迂闊な言葉を踏みつぶしたのだ。
「…………お前が口出しすることではない」
「だが」
「母さんのことは。お前に言われる筋はない」
それきり、沈黙が広がる。
それは重苦しく、そして静かな怒りを秘めた波だった。屋敷の演奏は奏者が手を止めて呆然とみていることによって停止し、言葉の行き場を失った青年は、やっと自分の薄汚れた服装に気づいたように目を落としたとき、
『――くすくす』
笑う声が聞こえてきた。
それは嘲笑を含んでいた。僕が目を向けると、来賓の上の客――おそらくヘンリエットや、フロウド侯爵にとって親戚筋に当たる若い女性たちや、豪奢な服装を身につけた親戚が、そんな青年のことを見下ろしていた。
どうやら、汚い野良着で現れた彼を、『無礼』で、『常識知らず』ととらえたらしい。
単純に笑いものになってしまい、親族の冷たい目にさらされた青年は、顔を歪め。奥歯を噛みしめて去る。
「くそ、馬鹿親父」
それきりだった。
一代で財を築き上げた侯爵――フロウド老人の憤る顔から逃れ、そして沈黙した招待客たちの視線からも離れ。そのまま屋敷の扉から出て行ってしまった。
嘲笑する親戚の中からは、『――昔から、ああよね』とか『父に異を唱えて、愚かなヘンリエット』。『母方の血が濃すぎたのかしら?』などと、彼の背中に非難の声が集まっている。絢爛な場に身を置いた人間たちには、さぞ、汗の染みついた野良着の青年が浅ましく映ったのだろう。
そして、
「…………。バカ、者が」
フロウド侯爵も。
苦渋に満ちた、呪うような瞳で、大理石の床を睨みつけていた。




