第十一話 月の書
「がっ……」
男は。
前のめりになり、喉を詰まらせた。
筋肉のうねりが放浪着の内側を持ち上げ、まるで実験動物のように何度も『膨張』、『縮小』を繰り返す――。徐々に体が縮み、普通の人間と変わらないサイズに背が小さくなった。
顔も。
猫の目、鼻、口髭――だったものが、いつのまにか特徴を減らしていき。美々しくも、ごく普通の『人間』のものになった。
「……ま、っさか……貴様……!」
「王子、アリオア。今だけ、仮の姿から戻ってもらうわ。『月夜の書』は月齢の法則を司った『小さな世界』――。月の満ち欠けと同じリズムでひと月に一度だけ『救済』が与えられる。満月の夜にね」
オリゼは、静かに見つめる。
――彼女は、この夜の風を計算していた。分厚い炭色の雲に覆われる夜――本来であれば、『満ちた月』が顔をのぞかせるなど誰が予想しただろう。暗い夜のはずだった。
だが、夜半より強い風が吹き、雲の切れ間に月がのぞいた。オリゼはそれを予測していた。
素人では、できない。
あらゆる魔導書、天文、地理、月齢と法則――この世のあらゆる知識に精通している彼女だからこそ、『計算』できた空白の時間帯。それが、今夜だった。
僕は、男を見た。
(この男の……化物じみた機動性がなければ……)
鞍馬の、朱色の柄を握りしめる。
深く。深く。身を沈めてから。全身をバネのように跳躍した。
(……『勝機』は、ある――!)
抜いた。
男に襲いかかる。一撃、二撃、剣をいなして攻勢にかかる。相手は何世紀も生きる古い剣の使い手――。やはり、勝負は容易ではない。反応速度が違っていた。
でも。
動きの素早さでは、僕のほうが勝っていた。
「申し訳ないけど。―――僕は、僕の見てきた人たちを守るために。あなた自身という『剣の申し子』を倒し、あなた自身の誇るべき剣を守るために。僕は、今宵剣をとらせてもらいます」
「――ぐっ」
斬り込む。斬り込む。斬り込む。何度も。『イアイ』の一閃をしつこいほどに、繰り出す。
僕とオリゼ。
二人なら変えられる。悲劇的な運命も、一閃できる。
『書の専門家』と、『剣の専門家』――二人なら解決できる。
男はいなす。払う。が。反撃には転じない。冷や汗が散っていた。体がふらつき、今までの感覚が体を引っ張り、邪魔し、足を乱していた。僕は執拗に回り込みながら、崩れかけた足を乱すように斬り込んでいた。
――一秒間の間に、何度『一閃』を繰り出しただろう。
刀身は刃こぼれし、ボロボロになっていた。男の〈フランベルク〉も同じように刃こぼれしている。それでも火が噴くような攻めをやめず、僕たちの交差する影を、エデンが呆然と見つめていた。
やがて、僕はついに相手の『隙』を見つけ出す。
「――っ、」
深く、腰を沈める。体が触れてしまいそうな近くに身をさらす。
ここだ。
ここしかない――。
僕は渾身の力を刀身に込めると、
「うらああ――ああああ――っ!」
体ごと、回転しながら刀を振り上げた。
狙ったのは、〈フランベルク〉ではなかった。剣で防いでいた男が腕を横にしたその一瞬――空白となった腰の部分から、魔導書のつけられたベルトを切断したのだ。
書は、回転しながら飛んだ。二階。オリゼの立つ、段差の上に落ちていった。
オリゼは動じることもなく。ただ自分の頭上に『ぽすっ』と落ちてきた月の書を手にした。もう片方の手には、途中でエデンから取り上げたらしい夢の書がある。
――双書が、オリゼの手元に揃った――。
「……いい腕よ」
彼女は、賞賛した。
最初に月の書。次に、夢の書――。彼女が含むように口を動かすたび、銀色の光があふれ出てくる。書の文字が夜空を躍り、月を翳らせ、やがて虚空より『グルグ』を包み込む。
――詠唱鬼の力を、解放した。
光が、あふれ出てきた。
まただ。温かくて、柔らかい――春の陽のような銀の光。それが空間を銀の雪原のように染め上げ、やがて僕を光の旅に誘っていく。白昼夢のようにまぶしい光が『風景』となり、僕の心に温かな誰かの感情が伝わってくる。
僕は、ようやく理解した。
――これは、誰か。『書』をもつ人の記憶の世界だと――。




