第九話 月夜の剣士
炭のような黒い色をした雲に、月が隠れる夜だった。
僕たちは、アストレア首都の灯火が遠くに見える郊外に移動していた。
なだらかな丘があり、そこには古く朽ちた神殿が残っている。無人の信仰の跡地に、僕たちは足を踏み入れていた。
「――さーて。俺様を呼んだってことは、いよいよ決着かね」
「そうだね。今夜、ここであの剣士を打ち負かしたいと思う。パリオット。きみの力も必要だ」
僕の声に、「おう。任しやがれ」とパリオットは大きな肩を揺すり、風に鳴らしていた。以前の、やや負けた感のある『勝負』のことが引っかかっているのか、パリオットは士官学校で計画を打ち明けた時点からやたら乗り気だった。
遺跡の奥。女神像の下には、夜用の外出着のローブを身にまとった浅黒い肌の少女がいた。
こちらを怯えた目で見ている。
「……な、なんでまた、こんな人里離れた遺跡になんか連れてくるのさー? 襲われちゃうよー? 『グルグ』に、アタシたち倒されちゃうよー?」
「まあ、そうだね」
僕は頬をかいた。もともと、それが狙いでもあったのだ。
彼女を餌にして『彼』をこの場所に呼び出す。事前に話し合ったことで、彼女には申し訳ないけど少しだけ怖い思いをしてもらうことにした。
「……と、その前にエデンにはいくつか聞いておきたいことがあるんだけど。まずは、そもそも例の『書』をどこから入手したっていったかな」
パリオットもいるので、『魔導書』に関する禁則用語は口にしなかった。仮に彼が聞いたとしても、意味が曖昧になるよう言葉を選んだ。
「双書のこと? この前も言ったとおり、おやじが先祖様のところから見つけ出したんだって言ってたよ。アタシは北の滅びた王族の末裔で、それをアイツ……グルグが盗んだんだ」
「出自に関する証明は、なにかないの? 王族の紋章が入った彫刻のレリーフとか、もしくは、先祖から伝わる宝剣とか」
「ないねえ。そんなもの、血筋さえあれば必要ないんだろ?」
「……。いや、それは違うだろ」
と。
エデンの言葉に反応したのは、月の翳る丘を見渡していたパリオットだった。
「先祖からの血脈ってのは、例えその一族が滅んでいたとしても記録を残すべき歴史みてえなもんだ。その土地を治めていたっつう『地方領主』になるとなおさらじゃねえか。そいつらの『治世』の下に、何千、何万っていう民の血がある。責任があんだよ、庶民とは違ってな」
「……な、なにさ? あんた。分かった顔しちゃって」
「パリオットは、ここアストレア国の古くからの名流なんだ」
僕は、説明した。
パリオット。一見すると荒々しい性格のようだが、こと『家名』に関する知識なら彼ほど詳しい人間もそういないだろう。なにせ、アストレア国における『四世三公(四世代に渡り三公の役職を輩出したという意味)』を出した家柄なのだから。
だから、責任感も違う。
そこに向ける、自負も違う。
それこそ、他の士官学校の生徒たちとは――比べものにならないほど。重い。
「俺はな、あんま名門だからって上流階級ぶって付き合いを広げたり、型どおりにルールを押しつける英才教育なんて好きじゃないし、だからってわざわざ門閥を捨てて傭兵を気取って街で騒ぎを起こす……っつーのも嫌いだ。自由奔放に、傲慢に、避けでもかっ喰らって剣技で生きるのが最高じゃねえか。パリオットは、パリオット。上品ぶるのも、身を持ち崩すのも、家名に縛られてる感があって好きじゃねえ。だからこそ言うが、『名門』の血ってのは、そんなに安かねえ」
「…………」
「お前が『滅んだ王族の子孫』ってんなら、必ず由緒ある『形見』が存在してるはずなんだよ。剣でもいい。紋章でもいい。何か道具がないと、それは逆に先祖を愚弄してる……侮辱してるっつうことだ」
「あ、アタシは! だから、この『双書』が証拠で……っ!」
と。
そこで月夜の翳りが、少しだけ風に流されて晴れた。
同時に、丘に影が残る。
面貌の見えない暗いフードを深くかぶった、黒炎のようなシルエットの剣士が。
「…………『グルグ』……」
「我を、舐めているのか。アストレア国の剣士たちよ。このように月も明るい夜に、郊外に向けて堂々と馬車を走らせおって……。後を追って、殺してくれといわんばかりではないか」
消えそうな声。
幽霊が現われたようだが、風になびく放浪着は、明らかに実体をもって僕たちの遺跡に踏み入れてきた。
「……なれば、望み通り……」
黒炎が、ゆらりと剣を抜いた。
風の吹きすさぶ遺跡の上で、〈フランベルク〉を低く構える。
「――ここで去ね」
一閃。
黒い風がきた。戦闘が始まる。
僕もパリオットも、戦いを始めた。エデンが後ろから怯えた声を上げていたが、剣の交わる音と、火花がその細い声をかき消す。月が雲に隠れ、辺りが再び闇の幕に包まれ、そして男が動く機敏な足音が遺跡を叩いていた。
やはり、強い。
二対一でも押されている。月が雲に隠れるたび、状況は『グルグ』に味方し、僕たちは見失う恐怖と戦いながら剣を振るった。同士討ちも、怖い。
月は常に雲を羽織っていて、完全に晴れるということはなかった。夜空に近い丘からこそ、上の動きが鮮明に目にうつる。僕たちはそのリスクを背負ってでも、戦い続けた。
もう、一つ。
もう一つでも『刻』を稼げれば、きっと――……。
「が、ああああ――っ!」
声。大剣が落ちる音がした。
あの音は、〈クレイモア〉――。僕は暗さの中で視線を動かして、起きた状況を確かめる。
パリオットの巨躯が、前のめりに倒れた。
体を寄せるように、深く鍔元で一撃を叩き込んだ『グルグ』が、ゆらりと振り返った。一撃で、パリオットを気絶させたらしい。
(……っ、速い……なんて速さだ)
僕の頬を、青い汗が伝った。
(……まだか。オリゼ……。まだか……?)
僕は、一対一になった。
正直、怖い。歯の根が合わずに震えそうになった。死神と向き合っているようだった。
――『グルグ』は、フードをとった。
「全員、殺すぞ。少年……。忠告は与えたはずだ。『書』は譲り受けるが、肝心の貴様は『峰打ち』ではすませてくれぬ技量がある……。そこの娘にも、気の毒だがな。父親に格別な呪いがある……」
化け猫の顔が、そこに現われる。
神殿の女神の下にいたエデンが、短い悲鳴を上げていた。それが、また男の黒い剣に『怒り』を宿した。
呪い……そうだ……。僕は思った。
この男の剣技は、姿は、呪われている。
「…………そうね。あなたが悲しい『双書』の犠牲になってしまったのは紛れもない事実。ここまで、『旅』を続けてきたのだから、殺す資格もあるのかもしれない」
「……!」
男は、弾かれたように神殿の上を見る。
驚いたようだった。なにせ、気配がなかったのだから。僕もここにきた時点で『会って』なかった少女の出現に振り返る。
そこには。
銀の髪。月の弱い光に、妖しく、艶やかに光る『書の探求者』が断っていた。まるで、最初からそこに立っていたように。神殿に祀られる本物の女神のように。
「ようこそ。『月』と『夢』の双書――いえ、真名の『月夜の書』の本来の持ち主よ。あなたは、滅びた北の王族、本物の後継者――〝アリオア〟ね」
「なに?」
僕は、驚いた。
男を振り返る。とても人の顔に見えない『グルグ』は、オリゼの言葉に……苦渋を噛みしめる顔で、ただ睨んでいた。
「アリオア・フレキシア殿下―――。
それが、王にだけ許された、格別な由緒を含んだあなただけの『真名』。あなたの存在を聞いた時点で、『もしかして』――とは思ったわ。北の滅んだ王族。その末裔の王子の貴種流離譚。あまりにも、私たちの業界では有名な『噂』ですものね」
オリゼは、語る。
つまり、伝承の人物と、僕は向き合っていることになるのだ。
いや、もはや神話か。
どんな力を持つ『魔導書』でも、真に持ち主を『幸せ』にする書など存在しない……。
なぜなら、独自の『小さな世界』を宿す書というのは、現実の世界から乖離〈かいり〉されてしまっているからである。それが本当に主の望む『願望』を叶えるとは限らないし、間違って、嘘だらけの伝承に包まれた書もあった。
現実にない法則を呼び覚ます『書』だからこそ、書を持っていると徐々に『現実』からかけ離れた存在となっていく。
この男――今は『グルグ』と呼ばれてしまっている男も、そんな嘘だらけの伝承に踊らされた一人だった。
「――あなたの王家の伝承では、こう伝わっていると文献にあったわ。『――その書、国を興す伝承ありて、古の開祖を佐ける』と。でも、実際にその姿を見ると、伝承は嘘っぱちだったみたいね」
「…………!」
オリゼ。そして、猫の貌の男が、対峙している。
言葉はなかった。ただ、静寂があった。
僕は思った。自分は、士官学校で相手を不幸に貶めて『祝福』する書を頼ってしまった。……結果、以前よりもさらに不幸になり、書の呪いに人生を狂わされそうになった。
――所有者を祝福して、真に『幸せにする』書など存在しない――。
僕は痛感した。
書を頼ってしまった贖罪は、いつから始まったのだろう。
「幸福な魔導書など、存在しない」
オリゼは、また言った。
男に向けて、銀の髪を揺らして、
「――あなたは、先祖から続いた祖国を再興するために書を頼った。違う? でも、その志は叶わず、血は『呪い』を受け、姿を縛り付けられた」
――『書』は。国を守る力など与えてはくれなかった。
オリゼは語る。『月夜の書』の本当の正体。それは、北国で栄えた剣の流出を抑えるため、その土地に人を縛り付ける『血を呪う』という恐ろしい書だった。
どこをどう間違って、それが古の王室に伝わってしまったか。
彼は書を頼り『猫男』の姿に呪われてしまった。――『ある条件』を満たさないと、その姿は戻ることはない。だから、彼は書の呪いを解くために、諸国を放浪することになった。
「それが、私の知る『北の滅んだ王族』。その末裔の王子の譚」
「――そうだ」
男は。
祟り者、『グルグ』と呼ばれる彼は、猫の瞳を閉じて、冷たい夜風に息をついた。
「――アアリオア・フレキシア。私はかつて、そのような名前で呼ばれていた」




