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第七話 怪物


 夕方の帰り道だった。


 僕は一日が終わる慕情あるアストレアの『表通り』を歩いていて、ふと何の気なしに見つけた『影』が、妙に引っかかりをもって見た。



 ――長ひょろく、頼りない。


 例える言葉を探した。

 無意識に、それは『黒炎』だと思った。どこか覚えのあるフレーズだと思い、自然と足は通りの横道――人気のない路地――にそれた。

 レンガ色の建物の角を曲がった瞬間、僕はためらいなく『鞍馬〈くらま〉』を抜刀した。



「…………ほう。やはり、貴様は異物か……」


 鉄の音が、激しく交差する。

 火花が散った。

 急に、僕の後ろで揺らめいていた『かげろう』が、現実味を持ったような感覚がした。

 後ろについてきていた影は、僕が警戒していた男――その名も、サーカスの少女曰く、『グルグ』だった。



「それほど鋭くては、日常生活も支障が出ように――。異物は異物なりに、平穏な暮らしとは相容れぬ」


「誰が、異物だ」


「ふ。我がなぜ感づかれたのかは聞かないでおこう……。剣士には、剣士の『勘』がある。優れた剣士ほど、口では説明できない勘というものが備わっているものだ。そしてお前は正しかった。我は、貴様を今殺そうとしていたのだからな」



 消え入りそうな、独特の声。

 フードの内側の声は、低く笑っているようだった。でも、僕にはその声が不快には感じなかった。余韻を持っており、やはり、相手が剣士だと分かったからだ。



「どうして、『書』を狙う」


「ほう。そこまで知っているか」


「当たり前だ。それに、エデンを傷つけようとはするな。彼女は、被害者だ」


さかしらな問いかけよ。ヤツの娘を保護しているのなら『書』の正体も知っておろうに」


 ……やっぱり、『書』が狙いか。

 僕は思った。この男が所持しているのは、双書の一つ『月』の書。腕の動きでめくれ上がったローブの内側、腰につけた革ベルトの『書』を見やった。

 これさえはじき飛ばせば――。


「……忠告しておく。剣士たるもの、狙った目標に『目』はやらぬほうがよい」


「――!」


 次の瞬間、黒い風が起きた。

 やはり、男の腕は尋常ではなかった。一瞬のうちに、大剣サイズの〈フランベルク〉の光が二閃した。一撃を鞍馬の鍔元で受け止め、もう一撃を全力で回転させた剣先で弾く。


 時間が、引き延ばされる感覚がした。


 この瞬間の一瞬は、僕たちの感覚での『十秒』に匹敵する。

 一回でも瞬きをすれば負けで、一回でも気を抜くと串刺しになる。僕は渾身の力で何度も打ち合い、それでも防戦がやっとだった。


「……っ、」


「やはり、純粋な剣をしている。これほどの相手に出会えることは武人のほまれれよ」


 なんで。

 僕は、思った。暮れゆく空と、外灯の光の下で――どうしてこれほどの『剣士』が盗賊をやっているのかと思った。


「あんた。何者なんだ……? どうしてエデンたちのサーカス一団を狙う……? その腕があれば、傭兵でも警備隊の隊長にもなれる。どこの国でも歓迎するはず。なのに、どうして『書』を盗もうとする……?」


 よほど、叶えたい野望でもあるのか。

 僕には分からなかった。少なくとも、『書』は人間の暮らしの本来のあり方を浸蝕し、破壊するというのが僕の考えだった。

 これほど純粋に磨かれた剣技を、なぜ『無力な少女』などに向けてる……?

 が。


「…………盗む……?」


 男は。

 フードの内側で笑った気がした。


「そうだな。私がやっている行為は、『盗む』という卑しき行為に見えるかもしれぬ……。だがな。同じく『剣』を交えた人間になら分かるであろう。我の、悲しみが」


「…………」


 確かに。

 僕は感じていた。彼の剣技と打ち合うたび、聞こえてくるのは虚無へと吸い込まれていく音。空洞の音。


 他の剣技を誇る人間のように、気合いがない。力もない。見栄もない。

 ただひたすら、暮れる海岸線を眺めるような……孤独で……静かな、悲しみ。空虚がそこにはある。

 剣が、泣いている……。


 間合いを取るために離れた男のフードが、『夕暮れの風』になびいて、取れた。

 赤い風の向こう。

 布が消えた後には、信じられない光景が残った。



「な……」


 僕は、息が止まった。


 …………『猫人』……?



 そこにあったのは、人の頭ではなかった。本来、そこにあるはずのものは消えており、かわって悲しそうな瞳をする『猫』の顔がそこにはあった。

 猫の顔をした、人間……?


 そんな。バカな。


「貴様とは、なにか殺したくないものを感じる……。それが我の気まぐれや、傲慢さかもしれぬ。だが、今は一片の傲慢さも……人の名残として、愛おしいやも。しれぬな」


「ちょ。ちょっと待て。あなたは」


「勝負は、またに預ける。次に『月』が顔をのぞかせるとき、我はふたたび少女の前に現われる。次こそ、魔導書を譲り渡してもらう」


 ――覚悟せよ。と。

 男は、それからフードで頭を隠し、再び凄まじい跳躍力で建物の上に消えていった。あれは人間の脚力ではなかったが、『中身』を見てしまった僕には――なにも、言葉が出なかった。


 まさか。こんなことが、現実に起こりうるなんて。




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