第五話 灰の魔道書
相変わらず暗く、陽の入らない店だった。
窓からうっすらと差し込む夕日の中で、幻想的なランタンの光が室内で灯っている。入口から、一つ、二つ、三つ――僕の連れてきた『彼女』は、揺れる灯の中で話を始めた。
「え、ええと。アタシの名前は、エデン……。エデン・カーチェフっていいます。歳は一六。その、非常に未熟者ながらですね、サーカス『月と夢の演芸劇場』の団長を……おやじの跡継ぎとして務めさせていただいているわけです。はい」
「? 聞いたことがあるわね。確か北国から舞楽と踊り、そして道化を織り交ぜた独特の『演出』が売りのサーカス一団ではなかったかしら?」
「よくご存じで」
少女は、意外そうにする。
さすが、オリゼ。引き籠もりレベルは国内随一だが、その情報量はダテではないらしい。本に囲まれている意外にも、外から情報を仕入れる機会があるらしい。
驚いた少女・エデンは、十六歳とは口にしていたが。その小柄な外見だいぶ幼いように思えた。見た目はオリゼと変わらない。肌が浅黒く、猫の毛並みのようなこざっぱりとした短い金髪が男の子っぽかった。踊り子の一人もやっているらしく、独特の鳥模様の入った服装に、翡翠の耳飾りをつけていた。
彼女も、もしかしたら他の国境外から流れてくる『行商』の類いと同じで年齢を偽っているのかもしれない。商売をする上で、歳が若いというのは邪魔にしかならなかった。
「そんなサーカスを率いる団長の娘が、どうして私の専門店を訪ねてきたのかしらね? 私、自分で言うのもなんだけど、時節のことには疎いし、あなたたちの一団を喜ばせるような興行の予定も、王政府の認可もあげることもできないけど」
「あ、ええと……。その……こっちの御仁がですね、困り事があったら『オリゼに聞け』と申されまして」
はいっと投げるように、少女は両手をこちらに向けてくる。
厄介事を持ち込んだと思われたのか、オリゼはジロッと蛇の目みたいに僕を睨んできた。
……少し、怖い。
「ちょっと待ってくれ。そう、落ち着くんだ。アストレア国の淑女らしく。……僕は何も、考えなしに君を頼るように、なんて紹介をしたわけじゃない」
そう。僕は、この件にオリゼの力が必要だと思ったから連れてきたのだ。
エデンからサーカスの複雑な事情を聞いていた。パリオットも必要となったら協力を約束し、それでも解決にいたらないと思ったのは――ひとえに、相手の持つ『魔導書』の存在があったから。
僕は実際に、それを見た。
そして疑問を持ったのだ。明らかに本物と思われる『書』の力を借りた男が、街中でサーカスの事件を起こしている。
「ふーん。それはつまり。『私』の力が必要だ、と判断したのね」
「肯定だ」
この場合。きょとんとした少女・エデンの顔はともかく――僕らにとっての暗黙の符号が出ていた。
オリゼの力――。
それは即ち、『魔道書』に対する武器。知識である。
僕は、オリゼに昼間に起こったサーカスの『事件』を話していた。
「……。ふーん。なるほどね。それで、その明らかに『常人離れ』した体術をもつ剣士が、あなたたちのサーカスをいとも簡単に破壊し、常日頃からショーを脅かしているわけね。興行を邪魔されたことも、一度や二度ではない。と」
「そ、そうなんです……けど。あなた、ひょっとして信じてない?」
少女は、アンティーク調の椅子に両手をつき、身を乗り出す。
「アタシたちが入国のときに相談したアストレア国の警備の人も『信じられない』って顔をして、結局取り合ってくれなかったよ。――『さすがに、たった一人を相手にサーカスの団員たち全員が負けることはない』――って目でね」
「いいえ。それはないわ」
「へ?」
オリゼの断言に、浅黒い少女が目をぱちくりとさせる。
彼女は立ちあがって書架に本を戻しながら、「――だって、そこにいる『彼』が一緒にいて騒ぎが収まらなかったんですもの。誰がいたとしても、結果は同じだったわよ」と目を流してきた。
どうやら、彼女は彼女なりに僕の剣技を高く評価し、信頼はしてくれているらしい。僕が一人いることで、アストレア国の騎乗警官が束になっても解決できない暴力を、収束させることができると。
「おそらく。相手は尋常の人ではないわ。そこにいる彼は『熊』をも一人で倒してしまう腕があるんですもの」
「……う、うえっ? くまぁ?」
(……まあ、倒してはいないんだけどね)
信じていない目を向けられて、僕は気まずく頬をかいた。
「それに、その話で『あなた』――ミス・エデンがここに連れられてきた理由も分かったわ」
「?」
「――『魔導書』を持っているのね。その人」
……さすが、オリゼである。
さっきの符号の意味を、読み取ったらしい。
僕が今までの話に『書』のことを一切口にしていないのに、そのことに感づいた。オリゼのすべてを見通す神のごとき端整な眼差しに、浅黒い少女はごくっと喉を鳴らしたようだ。
彼女は、また、見てきたように言う。
「――サーカス団を騒がせる異国の剣士。あなたたちの国の言葉で『グルグ』というそうね。その祟り者は、人間離れをした力で暴れているのね。彼は自在に『何かしら』の書の力を操り、駆けつけてきたアストレア国の騎乗警官たちも彼を捕まえることはできない。だから、私を訪ねてきた」
「……そ、そうよ。よく分かるわね」
「『彼』の目的は、単にショーを荒らすことだけではなく、もっと別の何かにあるのかもしれないわね。さもないと、こうも向かう地方、向かう地方であなたたちを執拗に襲ったりしないもの。人間ってそこまで根気の強い生物じゃないわ。――そして、あなたが『私』を訪ねてきたのは、その恐ろしい剣士が狙っている『標的』が、『あなた』、もしくはあなたにある……。違う?」
オリゼは、銀の髪を垂らして。踊り子服の少女を、至近距離から見つめた。
……ごくり。依頼人の少女が、息を呑んだのが分かる。一言も喋らなくなったばかりか、まるで宇宙に吸い込まれるようにオリゼの緑の瞳を見つめていた。
「……オリゼ。この依頼人は、もう一つの『魔導書』を持っている」
「……? なんですって?」
オリゼは、顔を上げてきた。
初めて動揺が走る。
ヘビに睨まれたカエルのように所在をなくした少女に、僕なりに救いの手を差し伸べたつもりだった。オリゼはこう言わないと動かないところがある。
彼女は、ときどき、書の真相を求めるあまり無自覚に『人』を無視することがある。人の感情もそれに含まれたし、相手の立場、言いづらいことへの配慮、などもそれに含まれる。
……まあ、それもオリゼが、オリゼたる良いところだと僕は思うのだが。それは裏を返すと、オリゼのひどく純粋な『好奇心』でもあるからだ。
僕はエデンの隣で、
「あの剣士――『グルグ』がが持っていた書と、彼女が持っている書は『双書』と呼ばれる一対の魔導書らしいんだ。ここに来る途中に話を聞いたんだけど、どうやら『月』と『夢』の二冊があるらしく、二つ揃わないと書は真価を発揮しないらしい」
「……月、夢……? まるでサーカスの名前みたいね。私は書の名前すら聞いたことがないわ」
オリゼも名前を知らない、ということは、よほど埋もれた特殊な書だということだ。
「あ、アタシのおやじが……! もともと、その本を持っていたんです」
エデンが、やっと声を振り絞った。
強気な瞳を上げている。
「ただ、先祖代々、秘蔵していた書が盗まれたことがあって……! それをやった犯人が『グルグ』なんです! あの祟り者は、おやじが大事に保管していた書を持ち出したんだ!」
「……なんか、敬語が消えて素に戻っているけど……。ひょっとして、それが本来の君の喋りかたかい?」
「う。あ、そ。そうだ。……いえ、そうです」
無理に喋らなくても良いのに。
彼女は喉の奥に言葉を呑み込んだ顔になる。もともと、こう奔放に喋ることで自己を主張していた彼女が、改まったり、畏まったりする話し方をすると、どうも言葉が出てこなくなるらしい。
もともと、粗野な特徴をもっているのか。異邦のサーカス出身なだけに。
ただ、無理に丁寧語を話して、体裁を繕っているのは『大人びた』自分を意識しているのかもしれない。アストレア国で商売をするなら、それこそ、年齢よりも高く見られたほうが有利だから。
まあ、僕は女性の事柄についてはとやかく言わないし、それも魅力的だと思うたちだから、何も言わずに別の疑問に思考をシフトする。
「……でも、なんでまた『一つ』の書だけを持ち出したんだい? きみの話では、書は二つ揃わないと真価を発揮しないんだろ?」
「あ、アタシが盗人の心なんてわかるもんか! ただ分かっているのは『月』と『夢』の書のうち、『月』の書を持ち出されたってこと。そして、その心労からサーカスの団長もやっていたおやじが、自分の望みを叶えることもできず病で死んじまったってことだ!」
僕とオリゼは顔を見合わせる。どうやら、話によると彼女の父親が生きていた時代にすでに双書の片方が盗まれ、長いこと紛失にあったらしい。
あの男は、どこかで書の噂を聞いたのか?
もしくは、何かのきっかけで『月』と『夢』の双書を知って盗み出したのか。
ともかく分かっているのは、あの『グルグ』という男が――もう一つの書を手に入れるためにサーカスの一団を襲い、執拗につけ狙っているということだ。
「でもさ、なんでまたお父さんは……ずっと受け継がれてきた『双書』を一度も使わなかったんだろう?」
「おやじは、大事に保管してたっていってました。それに、まさか盗まれるなんて思わないじゃない。もともと『双書』は、先祖が眠っている祭祀場に遺品として残っていたって話だし」
……とまあ、こんな感じで。
僕とオリゼは話を聞いてから、ひとまずエデンを『グルグ』の魔の手から守るため。かくまうことに決定したのだった。
これがまた、とんでもなく面倒なことになる。しかし、この時の僕は、ただ剣の道を修めるものとして、守ってやらねば、という義務感しかなかった。




