♯09 初めての再会
コヨーテ率いる盗賊団は、顔見知りの街道荒らしの山賊達と合流し、一時は五十人近い人数に膨れ上がった。それで何をするかと言うと、たった一人の少女の追跡である。
正確には、その少女の所有する、仔ドラゴンの捕獲。
死神ルースの一行が、樹海の奥を目指していると判明するに至って、仲間内から追うべきではないという声が多数あがった。そんな場所に乗り込むのは、自殺行為であると。
だが、コヨーテは自分に有利な筋書きを勝手に思い描いていた。
「奴らは、元は遺跡荒らしの冒険者だったらしい。戦場跡地の樹海に今更入るのは、昔金になる遺跡を見つけていたからに違いない……。そうは思わないか?」
「なるほど……確かにそうだ。でなけりゃ、こんな物騒な場所に用などないわな?」
街道荒らし専門の、ムートンと言う元傭兵の山賊頭が、いかにもありそうな話に相槌を打つ。顔に傷跡の走る筋肉質の山賊頭は、考えるよりは殺し合う方専門だった。
彼の部下達も似たような経歴の者が多い。
用心に用心を重ね、見つかるのを恐れた彼らは、半日程の遅れでルース一行の後に続いて樹海を訪問した。そしてものの見事に手痛い洗礼を受けた。精霊の塔に辿り着く頃には、彼らの人数は約半分に減っており、動ける者達ですら元気一杯とは言い兼ねた。
それでも彼らは目の前の建物群を見て、歓喜とも満足感ともつかぬ興奮に酔いしれていた。この中には、宝の山があるに違いない……いや、なければならないのだ。でなければ、一体自分達の苦労は何だったのだ?
しかし、コヨーテだけは、一人冷静だった。
「手始めに、連中の馬を皆殺しにして、奴らの足を奪っちまおう。そうすりゃ、帰りは後ろを気にしなくて済むからな……」
「な、なるほど……頭いいな……!」
ムートンは素直に感心して、部下達に命令を下した。ルース達の馬はすぐに見つかり、ついでに荷物も奪っちまおうと、気楽な構えで盗賊達は馬の群れに近付く。
しかし、その不埒な行いは、手痛いしっぺ返しを喰らっただけの結果に終わった。エルドラーンが不機嫌にいなないて、得意の体当たりを男達に見舞ったのだ。
後は当たるを幸い、蹄にかけたり噛み付いたりで、盗賊達の手に負えるものではない。コヨーテは慌てて、部下達に離れる様命令を下した。
手持ちの弓で狙いを定め、いまいまし気に巨大な黒馬に矢を射放つ。
その途端、風が周囲に舞った。エルドラーンは、不機嫌そうにコヨーテを睨み据える。エルドラーンが風の精霊を使役して、矢を弾いたのだ。
実際、その魔法の手腕は、エミッタより余程洗練されていた。
「こ、こいつは死神ルースの軍馬だ! 噂じゃ、精霊の血が混じってるらしいぞ……? 俺達の手に負える相手じゃねえ……!」
誰かが叫び、盗賊達は我先にとその場を逃げ去って行った。コヨーテもムートンも、苦渋に満ちた顔で背中を向ける。青鹿毛の軍馬は、馬鹿にしたように鼻を鳴らして、それを見守っていた。
彼の今の任務は群れを敵から守る事で、それ以上ではない。
そんな訳で、更に負傷者を増やした盗賊団は、図らずも一番立派な造りの黒い塔の入り口に、身を寄せ合って避難していた。これで実質稼動人数は、二十人を割る程に減ってしまった。
呆気にとられた顔のムートンに、コヨーテはいら立ちを押さえきれない口調で語りかける。
「こうなりゃ仕様がない……この塔を探索して、何がなんでも一財産探し当てるんだ。でないと、こんな場所まで来た意味がなくなっちまう……」
果たして、最初からこんな所へ来る意味などあったのだろうか、などと考える者はもはや存在しなかった。そんな事を口にすれば、増々惨めになるだけだから。
盗賊達は寡黙に頷き合って、無理矢理明るい希望を、自分達を待っている財宝の山を想像した。その事自体に罪はなかったが、所詮彼らは楽して儲ける事しか考え付かない。
そういう、やさぐれ者の集団に過ぎなかった……。
「エミッタ……!」
「お~うぃ、お嬢ちゃん!」
ルースの悲痛の叫び声も、オルバ爺さんの野太い声も、少女には届いていないようだった。からくり仕掛けの回転扉は、今は無情に破壊されていた。オルレーンが最初、その通路に足から入り込もうとさえしたのだが。
腰がつかえて、まるで無駄な事が判明しただけ。
「ロープが荷物に入ってるけど……でも、この通路、どの程度の長さなんだ?」
リットーが慌てながらリュックを降ろし、不安げな口調で呟いた。既にゾンビの群れは駆逐され尽くしており、腐臭を放つ気味の悪い肉塊の山となっている。
こんな連中が塔の中にいると思うと、のんびり構えてはいられない。
「良く分からんが、向いの塔に繋がっとるようじゃの……。丁度、下って行く通路が見えるわい」
オルバ爺さんが、精一杯ずんぐりした身体を駆使して、窓から外の様子を眺め見た。ようやくロープを取り出したリットーが、先に岩の固まりをくくりつけ、細い通路へと投げ入れる。
オルレーンがそれに合わせて、魔法の光を岩に灯した。皆が期待と不安で、その光が行き着く先を見守った。
「……駄目だ、長さがまるで足りない。そうだ、こうしよう……! 伝言を書いた紙を岩にくくりつけて、向こうへ放るんだ。おチビちゃんが読んだ後、近くの窓から投げ落とすように書いてね……どうだい?」
早速リットーの案は実行され、安全ならば階下に降りるよう指示の書かれた紙が、丁寧に折り畳まれて岩と共に投げ込まれた。滑りの良いように、ロープでぐるぐる巻にされた固まりが、勢い良く転げ落ちて行く。
「ルース、落ち着くんじゃ。お嬢ちゃんなら大丈夫……あれで案外、はしっこい娘じゃからな?」
「ああ……あの娘はきっと、大丈夫だ……」
「何してるんだ、ルース! さっさと下りるぞ。ここで惚けていても、おチビちゃんにゃ会えないぞ」
オルバ爺さんの軽口に、蒼ざめた顔のルースが震えながら頷いた。まるで自分に言い聞かせるように、小さな穴を覗き込みながら小さな呟きを洩らす。
それからリットーに促されるまま、機械的に戸口へと歩き出す。生気の抜けたルースを案じて、オルバ爺さんが先頭に立って短い足で皆を先導する。
塔の出口を懸命に目指しながら、皆が少女の無事をひたすら祈っていた。
何かか転げ落ちて来る音が、びっくり滑り台から聞こえた気がして、エミッタは眉をひそめて暗がりを覗き込んだ。見るまでもなく、大人達はここを通れない。父親など、論外もいいところ。ルシェンが騒いで、穴に飛び込んで行った。
一体、何を期待してるのやら。
幸い、彼女のリュックの中には少々の水と食料も入っていた。だが、子供用の小さな仕様のものなので、それ以上のものは入っていない。
試しにエミッタは、中身を改めて見る事にした。水筒と食料の包みの他、王様に貰ったチェスの駒、魔法のシャボン、タオルと替えの服、それから何故か例の毬付きの種が出て来る。
……これだけで、しばらくはこの窮地に対応しなければ。
ルシェンが騒ぎながら、穴の奥から何かを引きずって来た。ロープに包まれた岩はともかく、手紙を発見した時、エミッタは歓声をあげルシェンに抱きついた。
一通り頭を撫でてやって手紙を広げると、これからの指示と励ましの言葉が書いてあった。エミッタは励まされ、途端にやる気が身体に満ちて来るのを実感する。
うん、まずは窓を見つけて、これを投げ落とせとの指示に応じよう。
窓はすぐに見つかった。と言うより、採光のため至る所に窓はあった。動き回ったついでに、空中庭園と上りの階段をエミッタは見つけてしまった。
空中庭園はただのバルコニーのような感じで、そんなに広くはなかった。上り階段に至っては、アメーバーのような怪物が道を塞いでおり、エミッタは賢明にも近付くのを断念する。
アメーバーの表面には、時折人の顔のようなモノが浮き出て、遠くから見るだけでも少女は気持ち悪かった。
手紙付きの石を投げ落とすついでに、エミッタは自分の位置も確認する。どうやら自分は、一番大きな塔の三階部分にいるようだ。そうすると、階段を二度下りれば外に出られる訳だ。
問題は、肝心の下り階段だが、エミッタは単純に上り階段の反対側へ歩いて行く事に決めた。ルシェンを抱えて慎重に歩いて行くと、やっぱりその通り。
「何だ……案外簡単に外に出られそうね、ルシェン?」
そうは行かなかった。下り階段を見つけて、素直に喜ぶ少女の耳に、騒がしい団体の足音が聞こえて来たのだ。エミッタは先程のゾンビの群れを思い出して身震いした。
だが、騒がしい話声が聞こえるのは何故だろう……?
「とにかく一番上だ……上に行けば、きっと何か凄い物が拝めるに違いねえ……」
変なアメーバーがいて進めないよ、などと教えるのはお節介だろうか? 第一、自分達以外にこんな場所にやって来る人間の心当たりなど、エミッタにはまるで見当が付かない。
ひょっとして、遺跡発掘の冒険者だろうか……それなら一応は納得が行く。
程なくして、先頭の男がエミッタの視界に入って来た。階段に足をかけずに様子を伺っていたエミッタは、何だかぎすぎすした雰囲気の、胡乱な集団を目にする。
粗雑な格好の不審者集団と対面して、エミッタはちょっと違うんじゃないかと思い始めていた。集団を行く先頭の男も、目の前に急に現れた人影に驚いた様子。
それもまぁ、目的をすっかり見失っていた証拠だろうが。
「……何で、こんなとこに子供が一人でいるんだ?」
「それより見ろよ、ムートン! あれが俺達の獲物のドラゴンだ……迷子にでもなったのかい、お嬢ちゃん? こっちにおいで……」
猫なで声をあげても、その前の台詞を聞かれては仕様がない。エミッタは背中を向けて、一目散に逃げ出した。向かう当てこそ無いが、素直に捕まるつもりも無い。
男達の怒号が、後ろから響いて来る。今日は厄日ではないかと、エミッタは思った。ルシェンを抱えて、半円造りの通路を飛ぶように駆け抜けて行く。
男達との差は、詰まってもいないが開いてもいなかった。どのみち、このまま進めばあの変なアメーバーと再び対面してしまう。びっくり滑り台の場所まで辿り着いて、エミッタはしばし立ち止まって考えた。
この中に逃げ込めば、連中は追っては来られない筈。だが、真っ暗な通路で追詰められた状態を、維持し続ける根性はエミッタには無かった。
ふと、紙に包まれた毬の種が足元に目に入った。それは、こんな物をいつまでも持っている自分の莫迦さ加減に呆れ果てて、先程捨てた物だった。
それを拾い上げて、エミッタは空中庭園まで走り出した。塔の外部は蔦がびっしりと生い茂っており、壁の出っ張りと一緒に利用すれば、何とか上に登れそうだった。
エミッタは山遊びでの経験上、崖状の場所は降りるより登る方が、遥かに安全で楽だという事を知っていた。
だが、ルシェンはどうしよう……? ルシェンを抱えたまま壁を登れない事は明白で、少女のリュックには仔ドラゴンは大き過ぎた。ロープがあれば背中にくくれるが、先程岩の固まりと一緒に、地上に落としてしまった。
エミッタは考えた末、母親の形見の風の護符をポケットから取り出した。
「ルシェン……一度出来たのなら、もう一回くらい簡単でしょ? 時間を稼いだげるから、ここから飛び下りるのよ! お父さんに拾って貰いなさい」
手すりにルシェンを置いて、エミッタは風の精霊を呼び出した。風の護符のお陰で、感度は物凄く良好だ。男達はすぐそこまで迫って来ていて、エミッタが風を呼び起こすのを見て驚いているふうだった。
エミッタが最初にお願いしたのは、毬付きの種を風に運んで貰う事だった。それが意地悪くブーツの中やら襟元から背中にやら入り込むのを感じ、男達はその場でのたうち回り始める。
みんな、感度は良いようだった。
エミッタは母の形見の護符を、ルシェンの首にくくりつけてやる。これで飛べるようになる保証は無いが、せめてもの思いだ。仔ドラゴンに優しく語り掛け、エミッタは目の前の宙を指差した。
ルシェンはしきりに甘えた声をあげ、たたらを踏み、戸惑った表情を見せる。その後、ようやく少女の言葉を理解したように、翼を力強くはためかした。
風が、小さな翼を支えてくれているのを、エミッタははっきりと目にした。むしろ気持ち良さそうに、ルシェンは空中に飛び出して行き、しばしの滑空を楽しみ始める。
その感動は、少女の心にも直接伝わって来て、エミッタは思わずその場で小躍りしてしまう。
涙が出そうな程、エミッタははしゃいだ声をあげてルシェンに声援を送った。あの子は自分の誇りだ……悪党共に渡してなどなるものか!
後ろから髪を乱暴に掴まれ、エミッタは驚いて悲鳴をあげた。ルシェンに気が向いてる隙に、盗賊の一人が近付いて来たのに気がつかなかったのだ。
怒りをあらわにして、盗賊団の頭であるコヨーテは、少女を手荒に引き寄せた。エミッタはあらがって男の臑を蹴りあげたが、余り効果は無いようだった。
反対にコヨーテは、怒りにまかせて少女の頬を張り倒そうと、右手を大きく振り上げる。
その手が止まったのは、別に脅える少女に同情したからではない。コヨーテの口の中に、勢い良く小さな矢が飛び込んで、彼の舌を貫いたからだった。
コヨーテは絶叫し、口を両手で押さえてその場にうずくまる。エミッタは自由になったものの、状況が理解出来ずに警戒しながら辺りを伺った。
「やるじゃん、アンタのノロマちゃん……で、アンタはどうするの?」
「コ、コルフィ……!」
その声は、少女の上から掛けられた。エミッタは驚き顔で、慌てつつも頭上を向き直る。チビの妖精は、今回は体に合った小さな弓矢を携えての登場だった。
相変わらず生意気な口調で、少女の七転八倒振りを上空から眺めている。エミッタは憤慨して良いのか、お礼を述べるべきなのか迷った。
「取りあえず上に向かってよ……レ・グリンが待ってるわ。ところで……顔の怖い人はどこ?」
「お父さん達とは、途中ではぐれちゃったわ……。こっちに向かっているとは思うけど」
「ふうん……」
納得したのかそうでないのか、コルフィは同じ場所に留まっており、エミッタはイライラする。だが、こちらには悠長にしている時間が無い事も確か。
盗賊達の何人かがこちらに向かい始めているのに気付くと、エミッタは大慌てで壁伝いに上を目指し始める。体が軽いのが幸いし、蔦は何とか彼女の体重を支えてくれていた。
けれども少女の腕力と持久力では、登ってしまうのは一階分が精々。
「レ・グリンはまだまだ上よ……。そっちに近道があるけど、利用する?」
「……それって安全なの?」
近くの窓から、再び塔内に入り込んだエミッタに、コルフィがそう告げた。不審をあらわにしたジト目で、エミッタはチビ妖精に聞き返す。不運続きの少女は、軽薄な妖精の助言に自分の命を託す気には、全くなれなかったのだ。
コルフィは、その通路は安全で、真直ぐにこの塔の所有者の元に続いていると請け合った。いつもの通りの、いかにも軽い口調で。
「そっちにずっと進んで、突き当たりの天井を調べてチョウダイ……。私は連中の足留めをしながら、怖い顔の人を待ってるわ。……ユウシュウって、たくさん働かなくちゃならないから辛いのね」
「お、お願いね、コルフィ!」
窓から暗い表情で出て行く妖精を見ながら、エミッタは何となく励ましの声援を送ってみる。それから、先ほど妖精に言われた通りの道順を、たった一人で辿って行く。
一人きりになると、途端に心細くなるエミッタ。ルシェンの、あのごつごつした感触が恋しかった。それ以上に、父親に会いたい……。
通路はやがて、完全なる行き止まりへと突き当たった。途中にあった小さな昇り階段を、エミッタが完全に無視して進んだ結果だった。
天井を調べろ……? チビの妖精の言葉に従って上を伺うと、確かに取っ手のような突起物が伺えた。それはエミッタの遥か頭上にあって、背伸びを百回繰り返しても届きそうに無い。
「……どうしろってのよ?」
途方に暮れつつ、エミッタは呟く。やはり、戻ってさっきの階段を進もうか? それ以外に手段は無いように思えて、少女は悔しさにじたんだを踏んだ。
あのうっかり妖精……! 自分は飛べるからといって、こんな通路を人に薦めるなんて!
エミッタはその場をうろつき回り、近くの窓から外を伺った。突起に邪魔されて地上は全く見えなかったが、追跡者がいる事をエミッタは改めて思い出した。
早い内に、解決策を見い出さなければ……。エミッタは自分のリュックに手を突っ込んだ。
最初に手が触れたのは、王様に貰ったチェスの駒だった。これだ……! 一筋の光明を見い出した気分で、エミッタは必死になって、オルバ爺さんから聞いた使用法を思い出しに掛かる。
確か、投げ付けて駒の底の呪文を唱えるんだっけ?
エミッタは、自分でも気がつかない程に焦っていたのだろう。袋から一つ取り出し、壁に向かって投げ付け、呪文を唱えようと構えたら……壁にぶつけられた衝撃で、何と魔法の駒は真っ二つに壊れてしまっていた。
「何で~~~っ? ち、力入り過ぎちゃった……?」
パニック状態で、エミッタはその場でしゃがみ込んで頭を抱えた。泣きの入った声色でもって、少女は再びゴーレム造りに挑戦する。今度は、物凄く慎重に……。
それが功を奏したのか、次なるチャレンジは何とか成功。エミッタの前に、二体のゴーレムが凛々しく登場して、彼女からの命令を待っていた。
エミッタは胸を撫で下ろし、黒曜石のゴーレム達を頼もしい目で見遣った。
ゴーレム達は、エミッタが思い描いた程大きくはなかったが、抱え上げて貰うと何とか天井の取っ手に手が届いた。あれこれ試している内に、秘密の通路はその口を開いてくれる。
だが、もう一工夫する必要が生じた。通路は途中から横道になっているのだが、それまでは単なる縦穴で、少女がどう頑張ってもそこに手が届かないのだ。
ゴーレムに肩車という概念があるだろうか……? エミッタが以前見たものに比べ、彼女の所有するゴーレムは、いかにも華奢で力仕事には向いていない気がした。
二体を縦に繋げる案は、自分の身の安全を考えてエミッタは破棄する。そんな姿勢で倒れられたら、目も当てられない。では、高さの足りない分はどうやって補おう?
適当な大きさの箱か、椅子のような物……エミッタは、シャボン玉の魔法を試して見る事にした。
飛びきり堅固なシャボンの玉をイメージ。エミッタは、呪力をストローを通して、思いきり吹き込む。それは見る見る膨らんで、形をいびつに変えながら大きくなって行った。それでもエミッタは、呪力を吹き込むのを止めなかった。
その内、少女がしゃがめば中に入れる程の大きさのシャボンが出来上がる。酸欠状態で、顔を真っ赤にしたエミッタは、何故か球状にならなかったシャボンを見遣り、顔をしかめた。
恐る恐るシャボンの表面に触る。それは確かな手答えでエミッタを満足させた。しばらく叩いたり押したり転がしたりした結果、自分が乗っても大丈夫だという結論を得て、エミッタはそれに腰を下ろした。
「さっ、二人で持ち上げて頂戴。そっとね……」
短い試行錯誤を繰り返し、二体のゴーレムは少女の指令を遂行に移す。エミッタは何とか安定して縦穴に身体を入り込ませると、そろそろとシャボンの上に立ち上がってみた。
そうすると、今度はちゃんと横穴に手が届いた。
「ご苦労様……それじゃあ、後をよろしくね」
エミッタは、ようやく登り切った秘密の通路から顔を出し、最後の命令をゴーレム達に与える。両手でシャボン玉を持ち上げた状態で、彼らは戸惑って主人の言葉を反芻してみた。
何を、どうよろしくすれば良いのだろう……? 結局、その命令はキャンセルされ、彼らはそのままの姿勢で魔力が切れるまで過ごしたという……。
そんな結末を知らないエミッタは、秘密の通路を一人、マイペースに進んでいた。通路は狭く薄暗かったが、しゃがんだり頭をぶつけたりする程ではない。
所々に発光するコケが生えていて、通路に淡い光を投げ掛けていた。
階段に差し掛かって、エミッタは少しほっとした。上に行かねばならないのに、真直ぐばかりでは話にならない。ためらう事なく階段を上るエミッタ。
じきに、その階段は終わりを告げた。心細さと不安感の板挟みで、エミッタの歩調がかなり早くなっていた事もあったが。先程と同じような開閉装置に行き当たり、エミッタは薄暗い通路内で、苦労しつつ作業をこなした。
蓋状の扉が開いた時、差し込む光にエミッタは思わず顔をしかめた。
「ここは……?」
目の前はただの壁で、しかし明かりは充分だった。見上げると随分高い場所に明かり取りの窓があって、午後過ぎの陽光が直接少女の眼を射していた。
上半身を穴から出して、エミッタは周りを伺う。大きな両開きの扉と灰色の壁、太い柱が円周上に並んでいる。そこが広い部屋だという事以外、エミッタには分からなかった。
奇妙な花の香りが、どこからか漂って来る。
危険はないようだ……エミッタは何となくそう感じ、秘密の通路から抜け出した。扉の前に立って、彩色された飾り模様を眺める。これは出口なのだろうか。それとも、どこかに続く入り口?
水の流れる音が、柱の向こうから聞こえる。噴水か何かがあるようだ。
エミッタは、急にのどの乾きを覚えた。昼食をとってから随分時間が過ぎた気もする。甘ったるい花の香りが、鼻孔をくすぐっていた。エミッタは思いきって、柱の影から身を乗り出してみる。
案外広い空間が目に飛び込んできて、少女は驚いた。
柱はあちこちに立っていた。噴水が部屋の中央にあって、その奥に小山のような彫刻が置かれている。蝶々が宙を飛び交い、右奥の舞台のような一段高い場所に、例の匂いの元の紫色の花が咲き誇っていた。
反対側の舞台は、まるで鳥か何かの巣のようにエミッタには見えた。柔らかい植物の蔦で丁寧に編まれた巨大な巣は、中に煌めく金塊や宝石が垣間見えて、エミッタをさらに驚かせる。
少女は、噴水に向かって進み始めた。取り敢えず、喉を潤したい。人陰は見えなかったが、それでも慎重に周囲を伺いながら。正面奥は大きく開いたテラスになっており、外の景色と空中庭園の緑が見る事が出来た。
そこから外が見れるだろうか?
その時、噴水の向こうで何かが動いた。エミッタが彫刻だと思っていた小山が、長い首を起こしてこちらに顔を向ける。灰褐色の鱗が、午後の陽光に煌めいている。
太く長い角を持つ巨大な顔と対面した時、エミッタは度肝を抜かれたが、腰を抜かしたり逃げ出したりはしなかった。
「……ドラゴン?」
それは、見慣れた仔ドラゴンのルシェンなど比較にならない、巨大な成竜だった。意外に人間っぽい容貌と、理知的な瞳を見て、エミッタの恐怖心は少しだけ薄れて行く。
いくら大きくても、ドラゴンはドラゴンだ……。扱い慣れている自信を持ちつつ、それでも逃げる用意も忘れずに、エミッタはその小山に話し掛けてみた。
「ここ……ここは、あなたの巣なの?」
ドラゴンは笑ったようだった。口を歪め、笑いの波動が少女の元に押し寄せて来る。大人のドラゴンは凄く賢いと父親は言っていたが、自分の言葉は通じているのだろうか?
「あの……私の言葉、分かる? 私の名前はエミッタ。今、その……迷子なの」
ドラゴンは再び笑いの波動を飛ばして来た。何が一体、そんなに可笑しいのだろう……? エミッタが顔を赤らめて睨み付けると、小山が再度のっそりと動いた。
灰褐色のドラゴンが、尻尾を持ち上げたのだ。尻尾には何故か小さな鈴が付けられていて、ドラゴンがそれを鳴らすと上空から何かが飛んで来た。
「何の用、レ・グリン。あら、お客様なの……?」
それはフェアリーだった。蒼い髪の毛を長く伸ばした、花のドレスを着たまだ少女の妖精が、ドラゴンの鼻先を飛翔している。天井を見ると、彼女達の巣のような物が幾つか造られており、似たような年頃の妖精達がこちらを伺っていた。
……レ・グリン?
「あぁ、お茶の支度をしてくれるかい、ケーナ?」
「それくらい、自分で出してよ……接客ならしてあげるわ」
ドラゴンはため息をついて、何事か呪文を唱えた。物凄い煙と共に、テーブルと午後のお茶セットがエミッタの目の前に出現する。魔法の産物らしいが、どんな仕掛けなのだろうか。
少女が驚いていると、ケーナと呼ばれた妖精が、腰に手を当てて少女の目の前で口を開いた。
「座れば……?」
妖精というのは、皆このような性格なのだろうか……? エミッタは妖精の接待に釈然としないものを感じながら、言われた通りにテーブルと一緒に用意されていた椅子に座った。
妖精によってティーカップに注がれたお茶は、香りが豊かでエミッタの食欲をそそった。
「あの……あなたが魔術師のレ・グリンなの? お父さんとお母さんの……知り合いの? 私のお父さんは、ルースっていう名前で……」
お茶請けのビスケットに手を伸ばしながら、エミッタは口を開いた。妖精のケーナが同じテーブルで勝手に同席していたが、エミッタは気にしない事にした。
間違って彼女をつまんで、口にしない限りは。
「ほぉう……ルースがやっと来てくれたのか! コルフィに伝言を頼んだんだが、ちゃんと届いたかどうか心配でね。私からの言伝は、ちゃんと届いたかね? 新しい塔を立てたんで真っ直ぐここを目指すよう言っておいたんだが……」
「いいえ、聞いてないわ……」
ドラゴンのレ・グリンは、大きくため息をついた。それはエミッタも同じで、今までの苦労は何だったの、ってな感じ。それにしても、レ・グリンという魔術師が実はドラゴンだったとは。
こんな立派な塔を、こんな樹海の奥に立てているのも、その素性のせいなのだろうか? 確かに、こんな大きなドラゴンが、例えばメリロスカの街中を練り歩く姿は、余りにはた迷惑だが。
「そうかぁ、まあ……皆が無事でちゃんと着いたのなら、それで良しとしよう。ふぅん、君がルースとリーファメラの娘……あの時の卵の中身は、ちゃんと人間に育ったんだね」
「は……卵?」
突然意味不明な単語が割って入って、エミッタは混乱した。何で、卵? 混乱はテーブルにも飛び火していて、妖精が自分達もお茶にありつこうと、わらわらと大挙して飛び乗って来ていた。
その数、十匹以上……。
「これこれ、その時の卵のかけらっ! 記念にみんなで取っておいたのよ!」
一匹の妖精が、白い卵の殻を持ってエミッタの前に飛んで来た。まだ幼い妖精が、少女の肩に飛び乗ってビスケットをばりばりと齧り始める。エミッタのお茶も、スプーンでもって数匹の手で餌食にされていた。
エミッタはそれ以上の動揺のため、手渡された白い殻と、レ・グリンの巨大な顔しか目に入らなかった。
「に、人間の赤ん坊は、お母さんのお腹の中から生まれるって、私ターフおばさんから聞いた事あるけど……」
「何だぁ、聞いていなかったのかい……? 私が転生の魔法を、リーフに掛けた事は?」
「それは聞いた事あるけど……確か失敗したって話なんでしょ? 今回の呼び出しも、お父さん達は魔族の罠じゃないかって疑ってるわ……」
「無理もないけど……。コルフィは、一体どんな伝え方をしたのやら……」
レ・グリンは嘆息して、人間っぽい仕種で顔をしかめた。それについてはこちらからも文句を言いたかったが、今は他に聞きたい事があった。
肩に座った妖精が、エミッタの口に食べかけのビスケットを、笑いながら放り込んだ。シリアスシーンが台無し……。
「魔法は、失敗なんかじゃなかったのさ……別に、言い訳なんかじゃ無しにね。誰あろう、リーファメラ自身の介入によって、彼女の代わりに卵が召還されちゃったんだ。つまり、彼女は妊娠してたんだ……。分かるかい、この意味が?」
エミッタはゆっくり首を振った。そんな事を先ほど見た映像の中で、若い頃のリットーが言っていた気がするけれど。それで術にどう支障をきたすのかなど、エミッタには分からなかった。
「単純に言うと、定員の問題さ。黄泉の国に旅立った肉体と魂を呼び戻す魔法は、彼女だけに掛けられていたんだ……つまり、一人にね? だけど彼女が死んだら、当然お腹の子供も死んじゃう訳だから。私の知らない内に、彼女はシステムを塗り替えたんだ。まだ胎児だった君を魔法の卵に転位して、黄泉の国からこちらで用意していた魔法陣に送ったのさ。そんな事とは知らない私達は、そりゃあ慌てたね。オルレーンって娘が、彼女が妊娠してたと話すまでは……話した後も、何で卵が召還されたのか、誰にも分からなかったんだから!」
エミッタは呆然と、レ・グリンの話を聞いていた。そうすると、お母さんは自分の代わりに……。自分が卵から生まれた事すら、相当ショックな事実なのに。
母親の犠牲にこの世に生を受けたという事実は、少女に衝撃を与えた。
「私が全ての事実を知ったのは、それから二年後だったかな? 使用した魔法システムが、まだ生きて稼動してたんだ。卵の話に戻るけど、その卵はもちろん生きてた。私が、三週間くらいだったか温めると……銀色の髪の毛の、君が生まれた」
それじゃあ、私が生まれたのはこの場所……? エミッタは彼の巣であろう物体を眺めながら、このドラゴンにもお世話になったのだという、訳の分からない感情を抱いた。
「あぁ、あの寝床がそうだよ。もっとも、場所はここじゃなかったけどね。この塔に引っ越したのは、彼女と接触出来た直後で、だから八年前だね。ここの土地が、冥界にも精霊界にも、程よくチャンネルを開いていると分かったからね。とにかくその後は、私の魔力のほとんどを冥界に残ったリーフのサポートに注ぎ込んで来たのさ。そこにいる妖精達は、これでも優秀なリーフの護衛兼連絡係なのさ。私は直接、リーフと連絡はとれないからね。妖精達を冥界に送り込んで、後は彼女達任せさ……」
「こ、この子達が……?」
テーブルの上は、既に修羅場を通り越して、散々たる有り様だった。お茶はこぼされ、フルーツの食べ滓は、白かったテーブルクロスを奇抜に染め上げていた。ルシェンと番犬達が布遊びをした後の、ぼろぼろになった布切れをエミッタは思い出した程。
けれど、何故母親に護衛が必要なのだろうか?
「黄泉の国は、魔族の領域だからね……。彼女の魂は、そこでは無防備な状態なのさ。私はシステムを応用して、転位のゲートで彼女の元へ妖精達を送り込んだ。たったそれだけの魔法で、相当の魔力が必要だったけれども。あれを見て御覧……花が咲いてる場所がそう、黄泉へのゲートさ。その花は、黄泉の国でしか咲かないんだよ?」
「黄泉の国……お母さんの元に通じてる……」
エミッタは椅子から立ち上がり、そろそろと黄泉へのゲートに近付いて行った。舞台状の高台までには階段が設えてあり、よく見ると魔法陣が白い線で描かれている。冷たそうな水たまりと、乱雑に生い茂る草花の根っこで、ほとんど消えかかっていたが。
「そう、その魔法陣に卵の君が召還されたのさ。装置ごと引っ越したから、何も変わってはいない筈だよ。この塔の建設にあたっては、土の眷属の上位精霊にお願いしたんだけどね? なかなか気に入ったのが出来なくて、いつの間にかこんな建築群が出来ちゃった。おまけに、悪戯好きの精霊ノームが居着いちゃって、あっちこっち勝手に繋げるし、黄泉の国からは雑魚の魔物が入り込むし……」
レ・グリンの口調は、次第に愚痴っぽくなって行った。エミッタは妙に納得して、レ・グリンを振り返る。ルシェンも大きくなったら、こんな性格になるのだろうか?
想像はつかなかったが、きっと違うだろう。このドラゴンは特別なのだ。
「そのせいで、私は散々な目にあっちゃったわ。お父さん達とはぐれちゃうし……。それより、本当にお母さんは戻って来れるの……こっちの世界に?」
「装置が稼動してるんだから、こちらとの接続がまだ切れてないのは間違いないよ。ただ、リーフに自分の魂と肉体を復元する魔力が、備わってるかどうかが問題なのさ。十年前は充分な事前儀式で、装置そのものに魔力を溜め込んでたんだけどね……」
その辺の話は、エミッタには全く分からなかった。オルレーンの深夜授業を、きちんと受けていれば良かった。でも、自分達が呼ばれたのは、お母さんからの伝言によってではないか?
だとすると、当の本人はもうすぐ復活出来ると確信があるのだろうか……。
いつの間にか、お茶のテーブルは跡形もなく消滅しており、妖精達は思い思いの場所で寛いでいた。レ・グリンの頭の上や、噴水の彫刻に腰掛ける者。ゆらゆらと飛び交う蝶々を、遊び半分に追いかけている者……。
エミッタの口にビスケットを放り込んだ幼い妖精は、少女を妙に気に入ったらしい。上着のポケットに勝手に入り込んで、ポケットの中の物を漁っていた。
「この子達は知ってるんでしょ? お母さんが、いつ戻って来れるか……それが新月の日だって事なのかしら?」
エミッタは、ポケットの中でもぞもぞと動き回る妖精に戸惑いながら、レ・グリンにそう尋ねた。こちらに戻るのに、どの程度の魔力が必要なのか知らないが、伝令を言付ける程度にはその日が近いのだろう。
会って何を話そう。お母さんに……ありがとう? それともごめんなさい……?
「多分そうなんだろうが、妖精からちゃんとした情報を聞き出すのは至難の業でねぇ……? おい君っ、あまり魔法陣に近付いちゃ危ないっ……」
「えっ……何?」
エミッタにすれば、魔法陣に近付いたつもりは、まるでなかった。ポケットに入った妖精が、あまりに動き回るせいで、階段の上でくすぐったさに身悶えしただけだった。
バランスを崩しかけて片手を着くと、紫の花の群生が確かに目の前だった。それ以前に、手の平が魔法陣のラインに触れていた……。
エミッタは、悲鳴をあげたのかも知れないし、慌てて飛び退いたのかも知れなかった。その辺の記憶は曖昧で、群生した紫色の花の間から差し込む光を強く意識した。
それは自分に向かって真直ぐに飛んで来て、エミッタの意識を根こそぎ奪った。
今度は、身体を揺さぶる強い振動を感じた。ブブブブ……と、羽を震わすような音と共に、自分の体が持ち上げられる感覚。その浮遊感は決して気持ちの良いものではなく、エミッタを震え上がらせた。
少女は、父親に助けを求めた。そして心の中で、まだ見ぬ母親に……。
「卵が……孵ったって?」
つんざくような赤ん坊の泣き声の中、リットーとオルバ爺さんが、戸惑いながら戸口から身を乗り出した。小さなれんが造りの建物はいかにも古く、住み心地は良さそうだったが、人間用には造られていなかった。
リットーの容姿は、ひねくれた少年期をようやく抜け出した年頃に見えたが、オルバ爺さんにはあまり変化が見られなかった。これは……十年前の自分の生まれた映像?
自分はまた、精神体の存在になってしまったようだ。
オルバ爺さんが部屋の隅に歩み寄り、手荒く誰かの髪を掴んだ。無理矢理顔をあげさせると、それは若い頃の父親だった。エミッタは、思わず悲鳴をあげそうになる。
無精髭が生え、頬の痩せこけたその人物は、生気に欠けてさながら生きた死霊に見えた。活を入れるように、オルバ爺さんは手の平で父親の頬を張った。人形のように為すが侭の父親を見て、リットーが泣きそうに顔を歪めた。
エミッタにしても、そうだった。
「しゃきっとせんかい、ルース! お前さんにゃ、見届ける義務がある……違うか?」
父親の威厳をたたえて、オルバ爺さんがむしろ抑揚のない口調で諭した。感情を込めてしまうと、まるで自分も泣き出してしまうかのように……。顔を背けて、オルバ爺さんは父親を引っ張りながら戸口を出た。
エミッタは、泣きそうになりながらも後に続く。
レ・グリンの部屋は、エミッタには見慣れた配置だった。噴水の縁に腰掛けているのは若い頃のオルレーンで、父親に負けないくらい、彼女も憔悴した顔立ちをしていた。
今よりずっと目付きのきつい少女は、産着に包まれて火の付いたように泣きじゃくる赤ん坊に、戸惑いを隠せない表情をしていた。
話の流れだと、あれが……自分?
「何だ……ドラゴンでも孵ったのかと思ったら、人間……の赤ん坊だな?」
「その保証はしかねるけど……リーフの血はやっぱり入ってるんじゃないかな? 耳が少し尖って見えるでしょ? 髪の毛も、彼女に似た銀色だし……」
リットーの不審気な呟きに、レ・グリンが眠そうな口調で解説を付け加えた。灰褐色のドラゴンは、今も昔もそんなに変化は見られない様子だ。むしろ変な愛嬌のせいで、体躯に似合った威圧感も伺えなかった。
不意に父親の巨体が動いて、オルレーンの前にゆっくりと跪いた。不思議そうな顔付きで、泣きじゃくる赤ん坊に目をやって、あやそうとでもするかのようにそっと手を差し伸べる。
剣しか握った事のない無骨な父親の手が、そっと赤ん坊の頬を撫でた。赤ん坊は、まだ見える筈のないつぶらな瞳を開いて、何かを確かめるように父親を見た。
――そして、笑った。
父親は、そっとオルレーンから赤ん坊を受け取った。赤ん坊は、はしゃいだ笑い声をあげながら、小さな指先で父親の指を掴んでいた。父親の顔にも、ゆっくりと笑みが浮かぶのを見て、エミッタは泣きながら笑い出した。……自分は認められたのだ、この人の娘だと。
例え、それが不確かな絆だとしても……。
「ルース……?」
オルレーンがおずおずと、父親の顔を伺った。この数週間、ひょっとしてこの中の誰よりも、父親の心配をしていたのは彼女ではなかっただろうか。エミッタはそう感じて、申し訳ない思いでいっぱいになる。
レ・グリンも不安げに、長い首を伸ばして父親を見た。
「この子は俺の……俺達の赤ん坊だ……。俺と、リーファメラの。だから、俺が育ててみせる」
「そんな……! ちょっと待ってよ、ルース。確かに外見は彼女に似てるけど、魂は黄泉の国の住人の可能性だってあるんだよ……? せめて、それが分かるまで……」
レ・グリンが困ったように魔法の理論学を持ち出す。オルバ爺さんが豪快に笑いながら、父親の肩に手を置いた。リットーもへぼ魔術師の理論など関係ないと呟いて、レ・グリンは本気で頭に来て鼻を鳴らした。
オルレーンがすかさずなだめに入り、その場は的外れな騒ぎに包まれる。そんな議論は、エミッタにはもうどうでも良い事だった。この後の結末は、自分が一番良く知っているのだから。
目尻に溜まった涙を拭きながら、エミッタは満たされた思いでその場に留まっていた。十年に渡る歳月の、父親との幸せな日々を思い返して。
卵から生まれたからといって、それがどうしたと言うのだ? 自分は父親の娘だ……そして、母親の! その時、エミッタの視界に奇妙な物が動くのが目に入った。
レ・グリンの巣と、噴水を挟んだ反対側だ。卵が召還された冥界の門から、幾筋もの茨の蔦が伸びて来ていた。エミッタは驚き、後ずさった。
そして気付くのは……父親達には、見えていない?
ゲートから出て来るのは、茨の蔦だけに留まらなかった。嫌な匂いを発しながら、紫色の花達が次々と萎れて行く。ゲートは赤い光を放って、なおも次元との接触を保ち続けていた。
茨の蔦は生き物のように蠢きながら、やがて全貌を少女の目に曝す。一人の女性が蔦に絡まったまま、苦し気に呻いていた。
エミッタは、その女性を見て息を飲んだ。
「お……お母さん……?」
自分と同じ、見事な銀色の髪の毛。白い肌と、やけに目立つ尖った耳。美しい容貌のその女性は、自分と似ていない事もなかった。白いローブを着たその女性は、茨の蔦に全身を絡め取られて、至る所から血を流していた。
エミッタが呆然としていると、若いエルフはエミッタと目を合わせ、優しそうに目を細めた。エミッタは思わず、はじかれた様に駆け出していた。
「お母さん……!」
エミッタは夢中になって母親に近付くと、自分の手が傷付くのにも構わず、茨の蔦を引き剥がしに掛かる。それはびくともせず、エミッタの血を吸うと、逆に棘の部分を鋭利に伸ばして行き、少女を驚かせた。
母親は悲鳴をあげ、口から赤い血を流し始める。エミッタは泣き出しながら、終いには蔦に噛み付いた。頬がざっくりと切れ、鋭い痛みがエミッタを襲う。
「エミッタ……私の、娘……」
「お……お母さん。お母さんなの……?」
傷付きながらも弱々しい笑みを見せ、母親が自分の名を呟いた。蔦に絡まれた腕がゆっくりと動き、少女の頭を優しく撫でる。エミッタは動く事も出来ず、ただ母親を見つめていた。
初めて会った、自分の母親を……。
「優しい娘なのね……? 私はいいのよ、これは仕方のない事だから……。自然の摂理に逆らった、これは罰なの。ただ、それがルースにまで及んでしまう……」
「お、お父さんに……何で?」
母親は悲しそうに首を振って、エミッタを見遣った。まるで、目の前にその答えがあるかのように。ひょっとして、自分のせい?
自分がこの世に生まれてしまったから……?
「ルースは、黄泉の国からあなたを奪った事になってしまった。事情はどうあれ、それは許される事じゃないの……。私に自由な体があれば、彼を助けに行けるのだけど……」
エミッタは、何とか茨の蔦をほどこうと、再度奮闘し始めた。母親を傷つけない様、慎重に考えを巡らせて。魔法を使ってみようか? だがしかし……。
先ほどの映像の、部屋の景色も父親達も既に消え去っていた。どことも分からない、暗く冷たさを帯びた空間に、茨で出来た樹木だけが浮き上がっている。
母親の血が、赤い花のように咲き誇っている、茨の樹木……。
「無駄よ、エミッタ。この蔦は私の罪の重さ。私の罪が晴れない限り、決して消える事はない。それより、もっと確実な方法があるの……でも、これはあなたには辛い決断かも知れない」
「お、教えて頂戴、お母さん……! どうすればいいの? お父さんが危険なんでしょ?」
しかも自分のせいで。自分が加勢に駆け付けても、あまりに無力な事を、エミッタは分かり過ぎる程分かっていた。だが、魔力の才能に満ち溢れていた母親ならば……。
「……あなたの体に、私の魂を移すの。でもこの術を使えば、あなたの魂は行き場を失ってしまうかも知れない……。やっぱり危険だわ」
悲しそうな母親の言葉に、エミッタは泣きながら首を振った。自分が少しでも両親の役に立つなら、この世に生を受けた恩返しが出来るのならば、少女はそんな事はどうでも良かった。
本心でエミッタはそう思い、母親に伝える言葉を探す。
「私は……私はいいの、お母さん。私は十年も、優しいお父さんと一緒に過ごせたから……。お母さんが私のために犠牲になるなんて、やっぱり間違ってたのよ」
「エミッタ……優しい娘なのね、あなたって。それじゃあ、その棘の先で自分ののどを掻き切って……後の作業は私がするわ」
エミッタは驚いて、鋭利に突き出ている棘を見遣った。その棘だけが、やけに赤くぬめりを帯びていて、少女を怖じ気付かせる。だが、事は一刻を争うかも知れないのだ。
水中に潜るかのように、エミッタは目を瞑って息を止めると、あごを上げて覚悟を決めた。
――お父さん……ごめんなさい!
謝罪の感情だけが、少女の心を占めていた。自分の弱さが、こんなにも惨めで情けないなんて……。でも、命を投げうつ事で、父親も母親も窮地から救われるなら……。
母親の顔が邪悪に歪むのを、ポケットの中の妖精だけが見ていた。彼女はエミッタの肩に飛び乗ると、何の遠慮も無しに少女の尖った耳に思いきり噛み付いた。次いで、持っていた特製パチンコで、母親の目ん玉を射りに掛かる。
弾は、エミッタのポケットから黙って拝借したビーズ玉だった。すんでの所でエミッタは串刺しを免れ、母親は凄まじい絶叫をあげた。
それはまるで、人外の獣のような声で。
「痛った~! ……何で?」
訳も分からずに耳をさすりつつ、エミッタは肩の上の妖精を見た。まだ幼い顔付きの妖精は、精一杯の真剣な眼差しで、蔦に絡まれた女性を睨み付けていた。まるで敵を見るように。
敵……? レ・グリンは妖精達の事を何て言ってた? 妖精達は……そう、お母さんの護衛の筈。エミッタが慌てて女性に向き直るのと、茨の蔦が飛んで来るのは、ほぼ同時だった。
それをかわせたのは、僥倖に過ぎなかった。エミッタは転がるように下へ、妖精は飛び上がって上空へ……幼い妖精は、何かの合図のように指笛を吹いた。
何もない空間に、それは澄んだ音色でこだまする。
「うわっ……お母さん?」
蔦に絡まれた女性は、なおも茨の鞭を振るい続けた。その女性の事を母親だと、信じて疑わなかったエミッタも、ここに来て少し様子がおかしいと思い始める。
物凄く素直な少女、エミッタである。
「おのれ……今少しで、自殺した娘の魂が手に入る所だったのに! このいけ好かない羽虫が、何の力も無いくせに……!」
不穏な物言いで、その女性は正体を現わし始めた。茨の蔦の一本一本が、別々の動きで蛇のようにうねり出す。肌の色が緑色に染まり始め、上空でうねる髪の毛は、黒や白の生きた蛇に変化して行く。
だが、その恐ろしい変化が終わる前に、一条の雷がその魔物を地べたに這いつくばらせた。エミッタは状況について行けず、ぽかんとするばかり。
それは、幼い妖精の魔法ではあり得なかった。では、一体誰の……? 蛇の魔物がいち早く、その割って入った存在に気付いたようだ。そいつは体勢を立て直すついでに捨て台詞を吐いて、その場から退散してしまう。
空間が揺らいで、かすんで行く魔物。
「またも失敗か……! こうなったら、鬼神ルースだけでも……!」
エミッタは魔物の一言で、ようやく茫然自失状態から立ち直った。それから思わず、消えて行く魔物を呼ばわった。お父さんを……一体どうするって?
「待ちなさい、あなた……! ちょっと、待ってよ、ねえっ!」
だけども、エミッタの怒声は、何もない空間を震わせただけだった。幼い妖精が笑顔で戻って来て、エミッタの肩に着地する。エミッタは笑うどころではなかったが、妖精が上を差し示すのにつられてそちらを見遣った。
そこには、美しい天使が空を漂っていた。
その天使は青い衣をまとった、銀色の髪の毛の若く美しい女性だった。実際、翼こそ無かったものの、エミッタは自分の直感を信じて疑わなかった。だが、直前まで近付いて来た天使の顔付きが判明すると。
……先程の蔦に絡まれた女性と瓜二つだった。
「あ、あの……あなたは誰? 天使……?」
天使は不機嫌そうに、眉間にしわを寄せていた。幼い妖精がぱたぱたと飛んで行き、天使の肩に腰をおろす。琥珀色の瞳が、じっとこちらを伺っている。
エミッタは落ち着かなくなって、その場で身じろぎした。
「コットン、事情を説明して……」
コットンと呼ばれた幼い妖精が、天使の尖った耳に顔を寄せて、何事か小声で話し始めた。事の顛末を話しているのだろう。エミッタは裁きを受ける罪人のような気持ちで、自分のしでかした事を心の中で弁解する。
だって……ああしないと両親が。
「なるほど……魔物らしい、嫌らしい演出ね? あんたもそんな物に騙されるようじゃ、まだまだ半人前よね……コットンに感謝なさい?」
「はあ……でも、私は……あなたは?」
しどろもどろで、言いたい事が上手に口に出せず、エミッタは焦ってしまう。傷だらけの少女を見つめながら、天使は仕方無さそうに自己紹介した。
エミッタの前にしゃがみ込み、興味深そうに観察を続けながら。
「そう言えば、顔を合わせるのは初めてだわね? 私の名前はリーファメラ……サラーンの部族出身で、今は……今もルースの妻って事、知ってた?」
「そ、それじゃあ……私のお母さん……本当の?」
「ええ、そう言う事になるのかしら……? あら、あなたいい物持ってるじゃない。魔力が勿体無いし、ちょっと借りるわよ?」
呆気にとられて、二の句が継げないエミッタのポケットを勝手に探りながら、リーフがそう口にする。これじゃ、妖精達とやってる事は同じだ。
リーフが短く呪文を唱えると、取り出した水の護符が淡い光を放ち始めた。エミッタは不意に、棘が突き刺さった自分の肌から、傷跡と痛みが消えて行くのに気付いた。
どうやら、母親の水の魔法らしい。
「癒しの水……基本よ」
「凄い……こんな事も出来るんだ。お、お母さん……」
改めて母親をそう呼ぶのは、何だか照れ臭い気がしたのだが。しかもエミッタは、一度母親の偽物にまんまと騙されていたし。
今度は注意深く母親を盗み見ながら、少女は自分と母親の接点を探そうと試みる。
「それにしてもレ・グリンのアンポンタンってば、子供の世話も満足に出来ないのかしらね? ゲートに近付くのを黙って見ているなんて……ここは敵の巣窟なのよ!?」
癇癪持ちの雰囲気を漂わせ、リーフは娘の手当てを終えると、今度は自分の懐から懐中時計のような物を取り出した。エミッタの興味深気な視線に気付いたのか、リーフは自慢げに説明を始める。
「ああ、これ? 妖精達に部品を運ばせて、私が組み立てた魔法装置よ。この中に私が十年掛けて溜め込んだ呪力が入ってるの。さっきの電撃で少し消費しちゃったけど……転生に必な呪力は充分にあるわ」
「じゅ、十年もかけて……? 大変だったんだ、お母さん……」
リーフはくすぐったそうに身をよじらせて、自分の娘を見た。どうやらお母さんと呼ばれる事に、彼女も抵抗があるようだ。エミッタも何となく赤くなりながら、母親がこの世界で過ごしてきた歳月を思った。
自分の代わりに、たった一人で過ごした時を……。
「別にあんたが思い詰める事はないのよ……エミッタ。そりゃあ、周り中敵だらけのこんな場所で、呪力を溜め込む作業はそれなりにしんどかったけどね。でも、家族が自分の帰りを待っててくれると信じてたから、私は頑張って来れたんじゃない……」
「うん……」
優しく頭を撫でられて、エミッタは浮き上がりそうな幸福感を味わった。コットンが、自分も誉めて貰おうと、エミッタの鼻先を飛翔する。その妖精が慌てて回避運動をとるのを見て、エミッタは嫌な予感に包まれる。
その予感……大当たり。
「それを、このバカ娘ったら……! 私達の努力を、全部無駄にするつもり? 自分で全部の責任背負い込もうなんて、あんたにゃ十年早いのよっ……!」
おでこに見事なチョップを叩き込まれ、エミッタは痛みと驚きで泣きそうになる。母親の怒りは至極もっともで、エミッタには返す言葉もなかった。
実際、母親の怒りようは烈火のごとき凄まじさだった。父親にさえこれ程怒られた事のないエミッタは、ただしゅんと縮こまるしか仕様がなかった。
母親の説教はなおも続いていた。
「私達は大人だから、自分のした事は自分でちゃんと責任を取るわ……そりゃ、たまには他人に迷惑をかけるけどね? だけどあんたは、まだ子供なのよ? 私やルースに世話をして貰うのは当然だし……」
「でも私は……私だって……」
「お黙んなさい……!」
またもやおでこにチョップ……! エミッタは顔をしかめながら、額をさすった。聞いていた以上に、母親は短気で癇癪持ちだった。エミッタはぶ然としながらも、母親の説教に耐えていた。
自分はただ、役に立ちたかっただけなのに……。
「子供は、迷惑かけて当たり前なの! それ以前に、命の大事さを知りなさい……! だいたい、ルースったら娘を甘やかし過ぎなのよ……ルース?」
「お父さん……?」
最後の台詞の部分は、母と娘が見事にハモり、二人はまじまじとお互いの顔を見た。ルースの事を愛おしく思っているのは同じ二人だが、今までは不幸にも共通の話題として上がらなかったのだ。
エミッタは顔を蒼ざめさせて、母親に告げる。
「そう言えばさっきの魔物、お父さんをどうこうするって……」
「そう……そうなのよ。私も奴の事は、充分注意する様に忠告しておくつもり……だったんだけど。何しろ、あいつとは十年の付き合いだし。レ・グリンと妖精達との不手際で、何だか怪しい雰囲気だわね……」
リーフはあの魔物の事を、エミッタに簡単に説明しながら、例の懐中『魔力溜め込み』装置をいじり始めた。あの魔物は仇敵ガルディアックの側近の一人で、冥界をさまよう母親をしつこく狙い続ける仲なのだそう。
昔の戦争の因縁からか、未来の邪魔者を始末するためなのか。理由は判然としないが、あの手この手で母親を抹殺しようと、十年間奮闘していたらしい。
娘のエミッタを狙ったのも、最終的には母親を奸計に陥れるためなのだろう。今はそのほこ先を、夫であるルースに定めている……ようだと。
エミッタは、最初に見た十年前の塔の映像で、自分の存在に気付いていた魔物を思い出した。蛇を思わせる容貌の、自分を小娘と呼んだ魔物……あれがさっきの?
エミッタは先ほど見事に騙された事を思い出し、途端に悔しくなってその場で地団駄を踏んだ。当然といえば当然だ。こちらの弱みに、見事につけ込まれたのだから。
しかも相手は、自分の見知らぬ母親の姿で現れたのだ。惨めな気持ちと、何とか仕返ししたいという思いで、エミッタは身悶えする。母親が緊張した口調で、自分の娘の名を呼んだ。
先ほどとはうって変わって、ごく自然に。
「エミッタ……やっぱりマズイ事になってる。さっき逃げた魔物が、幻影を使ってルース達を攻撃してるわ。肝心のオルレーンが雑魚の魔物に手一杯で、幻影を破る魔術師がいないわ! レ・グリンの唐変木……自分の塔の管理くらい、ちゃんとしなさいっての!」
母親は、またもや癇癪玉を破裂さそうな勢いで、装置の水晶に写し出された映像を見ていた。エミッタはおろおろしながら、ただ映像の中の父親を見守るばかり。
「ど、どうすればいい……? お母さん、ここからお父さんを助けられる?」
「ここからじゃ、さすがに無理ね。出来ない事もないけど、そうすると私の魂の存在自体が消滅しちゃうわ。現世への介入って、それ程大変なの。ただ、触媒があれば……」
母親はそう言って、意味ありげにエミッタを見た。触媒って……自分の事?
「普段は妖精を触媒に使うんだけど、コットンじゃあ荷が重すぎるわね。どうする……? ルースを……父親を助けるために、あなたに命を投げ出す覚悟がある、エミッタ?」
それは意地悪な質問だった。先程、自分であれだけ釘を打っておいた癖に、少女を試すような質問を母親は口にしている。だけどもエミッタは、どんなに叱られようとも、自分の出す結論は同じである事を知っていた。
決意の固まった瞳で、母親見つめる。
「私が……私が役に立つなら。私が、お父さんを助ける事が出来るなら……!」
「勇ましい娘ね……一体、どっちに似たのかしら?」
リーフは軽くため息をつきながら、少女を優しい目付きで見た。母親の細くしなやかな腕が、エミッタをそっと包み込む。本当の肉体を失ったままの母親だが、暖かい感情が肌越しに流れ込むのをエミッタは感じた。
じきに、二人を青白い魔力の奔流が包み込み始める。エミッタは、触媒になるというのがどう言う事かを、その時初めて知った。
母親の感情や記憶が、瞬時にしてエミッタに流れ込んで来た。あまりに一瞬の出来事だったので、それは整理も記録もされないまま、少女の脳を駆け抜けて行く。
いつしかエミッタの腕も、母親にしっかりと回されていた。その抱擁は、十年という歳月を埋める、少女のあらん限りの愛情の証だった。
「エミッタ……あなたは知らないでしょうね? お腹の中のあなたに、私が昔、どれだけ勇気付けられたか……。あなたに話す機会があれば良かったのに。そしたらあなたも、私に負い目を感じずに済んだかも知れない……」
母親の声は暖かく、優しくエミッタの心に響いた。その時にはエミッタは、暗闇の中、胎児のように丸まった自分しか感じる事が出来なくなっていた。感覚が一つずつ失われ、あるいは研ぎ澄まされ、エミッタは丸まったまま暗い通路を落ちていった。
光が、目の前に集約されて行った。それは出口だと、誰かが呟いた。怖がる事は何もない、そこには……。
「お父さん……!」
エミッタは叫んで、自分の声に思わず怯んだ。何だか感覚や神経の調子が、少しおかしかった。異空間のゲートを無理矢理潜らされた結果らしい……。
「エミッタ……?」
父親の驚き顔が目の前にあった。父親は首筋から血を流し、片手には魔剣を持って立っていた。ルースは巨大な宙を飛び交う蛇達と孤軍奮闘中で、父親もそれが幻影だと気付いてはいるらしかった。
父親の胸の中に飛び込みながら、エミッタは父親の傷の具合と仲間達の安否を伺う。
父親の傷はそれ程深くはなかった。ただ、仲間達は散々たる有り様で、片膝を付いて辛うじて立っているのはオルレーンのみだった。リットーもオルバ爺さんも、床に倒れたまま起き上がる気配がない。
死んでしまったのではなかろうかと、エミッは顔をこわばらせる。
敵の雑魚達はまだ動いていた。隣の塔でエミッタも見た死霊だけでなく、中身のない動く甲冑や、父親並みの大きさのゴーレム達。広い部屋の入り口に固まって、ようやく開いた突破口から中に入ろうと散開中のようだった。
オルレーンには、もはやそれを止める術はない。
束の間、怒りの感情がエミッタのうなじを震わせた。そしてその感情が、自分のものではない事にも、少女は気付いていた。だがそんな事は関係ない、エミッタは手をかざして叫んでいた。
雑魚に向かって、あらん限りの怒りをあらわにして。
「オルレーン……そこを退きなさい!」
オルレーンの行動がもう少し遅かったら、ひょっとして少女の放った魔術は彼女をも巻き込んでいたかも知れない。エミッタはゾッとして、自分の放った雷光の柱を見つめた。
網膜を焦がす程の勢いで飛んでいったそれは、進行上の敵全てを焼き尽くし、破壊し、動かぬ骸に変えて行った。その威力に、エミッタは恐怖すら覚える。
「リーフ……リーファメラ?」
父親が放心したように、自分を見つめていた。エミッタはどう答えて良いか分からず、黙って父親を見つめ返す。だが、惚けてばかりもいられなかった。
「お父さん…前、違う……後ろ!」
雷光の魔法で、雑魚の群れは完全に消滅していた。エミッタはうなじの辺りがちりちりと焦げるような感覚に悩まされながらも、父親に注意を呼び掛ける。
実際、幻影の敵の威力がどの程度なのか、エミッタには分からなかった。だからと言って、エミッタの前、つまりはルースの後ろから迫ってくる蛇の頭を、無視して良い事にはならない。
抱えられて飛び退いた場所に、蛇の頭の鋭い牙は長い耕地を作った。父親が魔剣を振るうと、確かな手応えが返って来る。なるほど、とエミッタは感心した。確かに全くの幻影なら、無視してしまえば良いのだから、お話にならない。
この幻影の厄介な所は、いくら幻影を傷つけても、術者を倒さない限り無限に攻撃が繰り返される事だ。
エミッタは首を巡らせて部屋の中を見遣った。敵は近くにいる筈だと、エミッタは何となく感じていた。敵を察知する、または幻影を撃ち破る便利な魔法は無いだろうか?
エミッタのうなじの、不快な焦げ付きが大きくなっていった。触媒の魔法の、多分反動だろうと少女は推測する。それがどうした? お母さん……早く術を!
父親はエミッタを庇いながら、なおも元気な敵に向かって魔剣を振るい続ける。自分はやはり、足手まといにかならないのだろうか……?
その時少女の足に、物凄い勢いで何かがぶつかって来た。驚きの表情で、足下を見遣るエミッタ。その顔が、すぐに笑顔になった。
「ルシェン……!」
仔ドラゴンも嬉しそうに、盛んに尻尾を振り回した。あの後無事に、父親達と合流出来たのだ。抱え上げると、ルシェンはエミッタに鼻をすり寄せて来る。感動の再開……? いや、今はそれどころではない。
エミッタは、母親に念じ続けた。自分はもう余り長い事、持ちそうにない。もはや自分が消耗している事を、少女は隠しきれそうになかった。あの雷光の呪文には、どうやら自分の魔力が使用されたらしい。
だが、次の魔法も必ず成功させなければ……!
それは長い時間に思えたが、実際はほんの数秒だったのだろう。母親からの返信のような意識を感じ、エミッタは眉間にしわを寄せて解読に励んだ。結果は……拒絶だった。
これ以上の触媒の行使は、少女の身体に耐え切れない負荷を及ぼす事は明白だった。その代わり、風の護符が何かを知らせるように、きらめきを発した。
少女は困惑した。これでどうしろと……? 確かに、風の魔法は自分が一番使い慣れてる上、護符を使えば魔力の消耗はほんの少しで済む。うなじの辺りは既に熱を帯びており、エミッタの思考を遮った。
ええい、駄目でもともとだ……やってやる!
「お父さん……風の魔法を使ってみるわ!」
エミッタは大声でそう叫ぶと、術のための集中に入った。父親が頷くのが見え、ルシェンごと少女は抱え上げられる。高い場所に設けられていた窓から、風が奔流となって入り込んで来た。
エミッタを中心とした風の渦が、部屋の中に巻き起こり始める。ルースは幻影の攻撃を避けながら、風の中で軽やかなステップを踏んでいた。
幻影の蛇達は、風の影響を全く受けなかった。当然の結果だと、エミッタは分析する。もとが実体など無い幻影なのだから、風ごときでどうなる訳もない。
ルースが手に持つのが魔剣だからこそ、彼らにダメージを与えられるのだ。
だが、それを操っている魔物はどうだろう……? 姿こそ消してはいるが、魔物の実体は確実に近くに存在する。エミッタは部屋中を見回した。風の渦は濁流と呼べる程の勢いはなかったが、少なくともその流れは術者の自分には視認出来た。
「お父さん……あそこ! 変な風の吹き溜まり……!」
エミッタが叫ぶとほぼ同時に、ルースは魔剣を投げ槍のように、目印に向かって投げ付けていた。風の渦が不自然に舞っているその場所に、父親の魔剣は狙い違わず吸い込まれて行く。
エミッタは仰天して、父親のその離れ業を見遣った。大事な武器を放り投げる?
自分ごときの、半人前の術者の指示に従って……?
だが、少女の思いは杞憂に終わった。耳をつんざく物凄い絶叫が響き渡って、空中の幻影達は次々に消滅して行く。あの時に見た魔物、十年も母親を悩ませていた蛇頭の女が、よろめきながら姿を現わした。
魔剣が深く、胸を貫いていた。そいつは地面に倒れ込み、嫌な匂いを残しながら、無に帰して行く。エミッタは何の感慨も無く、その光景を見つめていた。
実際、感情も思考も黒い霧に包まれているようで、頭の中がはっきりしない……。
父親が何事か、熱心に話し掛けて来ているような気がした。自分は心配ないと、エミッタは唇を動かそうとする。懸命に、ただそれだけを伝えたくて。
自分は……心配……。