♯06 小さな宿敵と夢見る少女
着替えを用意して貰って、湯浴みをさせて貰って。ようやく浴室を出たら恐い顔をしたリットーと、笑いを堪えている表情のオルレーンが待っていた。
エミッタは少々いたたまれない気分になって、ルシェンをぎゅっと抱き締める。
「ようやく綺麗になった様ね。服も似合ってるわよ、エミッタ」
「あ、ありがとう……」
「俺の使ってた執務室も、ようやく片付けが終わって綺麗になったよ! 妖精と仔ドラゴンが乱入してきた時にゃ、そりゃあ驚いたがね……!」
オルレーンが子供に当たるなと、恐い顔でリットーを睨み付けたが、すぐに吹き出して顔を背けてしまった。リットーの頬には、ルシェンの足跡がくっきりと刻まれていた。
エミッタは笑うに笑えず、反省顔でリットーを見つめる。
「二人とも災難だったわね。問題を起こしたフェアリーは、メイド達に対策を伝えてあるから心配しないで。リットーも機嫌直して……」
優しい口調でオルレーンがそう言い、傷付いた頬を白い手でそっと撫でる。リットーは満更でもない様子で、鼻の下を伸ばして口説きモードに入ろうとしていた。
「子供が見てるわよ……さっさと仕事に戻って! 私はエミッタと城内を見学後、ひょっとしたら泊まり仕事になるかも知れないから。家の老夫婦に連絡頼めるかしら?」
リットーは快く了解し、気分よく仕事に戻って行った。エミッタは立ち尽くしたまま頬を赤らめ、目を丸くしてその様子を一部始終目撃していた。
オルレーンが彼の去って行く背中を見て、少女に向かってウインクを投げかける。
「参考になった……? 男の機嫌をとるのも、女の役目よ」
エミッタは更に目を丸くした。
オルレーンが先に立って廊下を歩き出し、エミッタは大人しくその後に続いた。時折すれ違うメイドの中には、虫取り網を持っている者がいて、その不釣り合いさは少女を驚かせた。
オルレーンが、私が指示した妖精対策だとエミッタに告げる。エミッタは納得。
次に目のあたりにした驚きも、エミッタにしてみれば未知の体験と言うより、何でここにこんな物がと言う感覚だった。お城の一階の層、中庭に面する吹き抜けを横切り、オルレーンは少女をそこに案内する。
お城の中に、小さな街があった。鍛冶屋や仕立て屋、ガラス工房や洗濯屋や食堂まで……。二階の層は兵隊さんの詰め所や訓練所、魔法の研究所などがあるのだと、オルレーンが説明してくれる。
「街というより工房ね……。お城で働く人が不便でない様、生活必需品はお城の中で生産出来るようになっているのよ」
「だって、少し行けば街の通りに出られるのに……」
「そりゃ、急ぎでない時や大量発注は城下街の商人達に頼むわよ。でも、街の商売人はこちらの注文を優先してくれるとは限らないでしょ? 便利さから言えば、やっぱりこの工房棟は必要だと思うわ。住み込みで働いてる人も結構いるしね」
そう言われればそうかも知れない。そんな理屈より、エミッタは人が一生懸命働いている姿を見るのが好きだった。自分の苦手なもの、理解の及ばない作業を、一流の手練で進められて行くのを見学するのは、魔法みたいでとても楽しい。
その工房の従業員は皆が皆真剣に働いており、賑やかな作業の音が響いている。その合間を縫って取る、休息姿の中年の男性の姿さえ、エミッタには好ましく見えた。
「オルレーン様、そのお嬢さまがひょっとして、国王様のお客さまで……? 夕食用のドレスを大急ぎで仕立てる様、上から書類が回って来てるんですが……」
紙切れを振り回しながら声を掛けて来たのは、仕立ての良い服を着た、まだ若い男だった。メジャーを取り出してエミッタにお辞儀をし、仕事部屋でサイズを測らせて貰えないかと、丁寧な口調で持ち掛ける。
エミッタは戸惑いつつ、オルレーンを見た。
「そうね……うんと可愛い、この娘の髪の色に合う服をお願いするわ。それとも、少し大人っぽいドレスの方がいいかしら……?」
「どちらでも、意のままに……」
自分事の様に思案するオルレーンを先頭に、一行は仕立て屋の工房に入っていった。少し奥まった場所に存在するその作業場は、数人の針師が忙しく働いていた。
エミッタ自身、針仕事は苦手なので、素直にその作業風景に感嘆のため息を洩らす。
そんな訳でエミッタは、数人の仕立て屋に肩幅から靴のサイズまで、念入りに調べ上げられる事になった。ついでにと女性の仕事師が、赤い大きなリボンを持って来て、彼女の銀色の髪の毛をセットし始める。
恐らくこれはおまけだろうとエミッタは考え、オルレーンにもしてあげる様、年上の仕事師にお願いする。
「わ、私は関係ないでしょ、エミッタ! 私は仕事中なんだから、オシャレなんて……」
「あら、オルレーンさん。リボンを一つ付けたって、仕事に差し障る事はないでしょう? だったらお揃いのリボンを付けようよ。お父さんも、気に入るかもよ……?」
オルレーンは真っ赤になって、それでも渋々といった感じで、髪に手を加える事を承諾した。はちみつ色の髪に合うようにと、花の飾りが髪留めに使用される。
セットを終えるとオルレーンは鏡を覗き込んで、いつもと違う髪型を念入りにチェック。
「すぐお父さんに見せに行く……?」
笑いながらそう言う少女に、オルレーンは頬を赤らめつつしかめっ面をつくって誤魔化す。エミッタは結局、夕方近くまでまでお城の中を案内されながら歩き回った。
物見の塔や謁見の間、魔法の転位の扉に軍事会議室。少女は色々質問し、会議室のミニチュアの立体地図を見て歓声をあげ、転位の扉を潜ってみたいと駄々をこねた。
さすがに魔法の転位の扉は呪力無しでは作動しなかったし、そもそも使用は認められなかったけれど。それでもエミッタは、お城探検を思う様堪能した。
オルレーンの私室で二人が休憩をとっていると、メイドがそろそろ支度の時間だと呼びに来た。何の支度かと尋ねると、どうやら晩餐に出席するための着替えが、二人に届いたらしかった。
それからは、慌ただしくドレスアップが進んで行く。
オルレーンも着替えるのを見て、エミッタは安心する。しかもオルレーンは、いつもの軍隊用の礼服ではなく、きらびやかなピンク色のドレスを身に付けていた。
エミッタはと言えば、黒を基調にした大人っぽい膝丈のドレスで、彼女の銀色の髪の毛と調和した素晴らしい衣装だった。とても短時間で仕立てられたとは思えない出来栄えだ。
鏡に映った自分を見て、エミッタは内心張り裂けんばかりの興奮を覚える。簡単なメイクまでしてもらい、エミッタの興奮は頂点に達する程。
二人のレディがようやく支度を終え、宴の間にやってきた時には、フロア内には楽団の演奏が響き渡り、食前酒を楽しむ貴族や文官達がちらほら窺えた。
エミッタはその中に父親がいないかと、目を凝らして探し回る。
「オルレーン、おチビひゃん……いや二人も見違えたにゃ……!」
「あっ、おじさん。お父さんはどこ……?」
リットーが酒の入ったグラスを手に、にやにやしながら近付いて来た。既に朱の差した顔を笑みの形に歪め、エミッタの問いにも知らん顔。
その様子に、オルレーンは大げさにため息を漏らす。
「いいじゃにゃいか、少しくりゃい俺の相手をしてくれても……。俺はお城の中に気の合う仲間がいにゃくて、凄く寂しい思いをしてるんだれ……?」
「……おじさん、酔ってるの? こんな時間から……?」
エミッタは不審顔で、既に足元の覚束ない文官を眺めやった。リットーは肩を竦め、俺だってたまには愚痴をこぼしたくなると、ろれつの回らぬ口調で呟く。
呆れ顔のオルレーンが、仕方なくフロアの隅にリットーを連れて行く。エミッタもそれに追従。
フロアに立つ、立派な彫刻の施された何本もの柱の影に、小部屋があるのにエミッタは気付いた。それは休憩室だったり、遊戯室だったりして、人陰もまばらに見える。
小部屋は壁ではなく、植木や花束で仕切られていので、中の様子は丸見えだった。その中の一つに父親の姿を見つけ、エミッタは足を止めて笑顔になる。
こういう時ばかりは、父親の目立つ容姿は有り難い。
父親は遊戯室の一つにいて、国王とチェスをしていた。エミッタにはその駒遊びのルールが分からず、従って戦況も分からず、周りの取り巻きの顔色から判断するしか方法がなかった。
二人は簡素なつくりの椅子に腰掛け、真面目な顔色でじっと白黒に色分けされた盤面を見つめて微動だにしない。緊迫した場独特の空気が、あたりに漂っている。
それを感じて、エミッタは何だか可笑しくなって来た。
父親がようやく、白い駒の一つを動かした。アーサー王は思考に時間を掛けず、その駒を掴んで盤外に置き、自分の黒い駒をそのマスに進出させる。
父親が、今度は別の駒を右手で動かした。王様、長考……。
エミッタはゲームの戦況よりも、駒の見事な出来栄えに興味をそそられた。大理石か何かで造られたそれは、鈍い光で各々が存在感を知らしめている。
近付いて子細に観察していると、二人の大人はやっと少女の存在に気が付いたようだった。
「ああ、お嬢ちゃん……! ドレスが良く似合っているね、うん。今夜は救国の英雄の10年振りの帰還歓迎パーティだ……お嬢ちゃんも、もちろん主賓の一人だよ。さあ、こっちへおいで!」
「待て、アーサー……ゲームはまだ、終わっていないぞ。次はあんたの番だ」
アーサー王は気まずそうに一度振り返ったが、それでも立ち止まろうとはしなかった。エミッタの手を優雅な仕草で引きながら、フロアの上座を目指す。
そこは一段も二段も高い造りになっていて、奥の端には楽団が静かな曲を奏でていた。周囲には着飾った紳士淑女が、王様の挙動を好奇な目で窺っている。
エミッタは、少し緊張気味に黙って従うしかない。
「ゲームなら、後でカードで相手をしてやるさ、ルース。今宵はお前のためのパーティだからな……先に紹介しないと、食事に移れないじゃないか」
仕方なくルースは立ち上がり、娘の後を追い始める。それを確認した国王が進行役の男に手の平で合図をすると、その男は楽団の指揮者に合図を送った。
音楽が変わり、フロアのざわめきが途切れる。皆が上座の国王に注目していた。
「皆のもの、今宵の宴は魔神戦争の英雄、ルース・ガーランドの王都訪問を祝うものである。ここに、メルランド王国にこの人ありと謳われた、鬼神ルースを紹介する!」
よく響く高らかな声で、ルドロス四世が父親を紹介した。父親は相変わらずの、人から見れば恐い顔で国王の側に立ち、皆の歓声と拍手を受けていた。
いつもと違うのは、父親もやはり仕立ての良い見事な衣装を身につけており、娘の目から見ても凛々しく見える事。燃えるような赤毛も、今日ばかりはしっかりセットされている。エミッタは父親の思うようにならない癖毛を、いつも悩ましく思っていたのだが。
エミッタは誇らしい気持ちになり、もはや有頂天だった。
エミッタの紹介もじきにされ、別の意味での歓声が沸き起こった。エミッタは小さくお辞儀をして、ルシェンを抱えたままなのに気付き、慌てて仔ドラゴンを背中に隠す。
父親の出番はもう少しあった。ルースはルドロス四世の前で片膝を折り、臣下の礼を尽くしていた。国王は、魔神戦争の英雄は今も忠実な我が国の民である事を皆に訴え、ルースに厳かに剣を手渡す。
それは、例の父親の所有する魔剣だった。後で父親に聞いたところ、その行事は多分に政治的な意味を含んでおり、例の魔剣も以前に国王から貰ったものなのだそうだ。
とにかくそれ以降は普通の晩餐会だった。幾つかの場所で話し合いのグループが出来、踊りたい者はフロアで踊り、食事そっちのけで酔っぱらいたい者は酔う。
最初の内こそ、父親の近くを離れまいとしていたエミッタだったが。見知らぬ大人達の波が父親と面識を作ろうと集まるに従って、仕方なくそれも断念してしまう。
強面の父親に、人が群がる事態は滅多に無いのだが。
国王も同様で、どのみちエミッタは、一国の王様相手に気楽に話す胆力は持ち合わせていなかった。取り敢えずルシェンと一緒に食事をしながら、エミッタはフロア内をうろつき始める。
食事も美味しいのだろうが、エミッタはこの立ち食い形式と言うものに慣れていなかった。従って、なかなか落ち着いて味わう事が出来そうもなかった。
ルシェンは別で、少女が皿に盛った食べ物を、美味しそうに平らげて行く。その後エミッタは、オルレーンとリットーの姿を探し求め、ひたすら大き過ぎるフロア内を歩き回った。
何しろ、周囲は着飾った知らない者たちばかりで、心細い事この上ない。
「エミッタ……だったわね? 母親の名前はリーファメラ……」
名前を急に呼ばれ、エミッタは驚いて立ち止まる。柱に寄り添うように、昼間見掛けたエルフの女性が立っていた。窺うと言うより見定める感じで、こちらをじっと凝視している。その冷たい表情は、壁に彫られた彫刻のようだった。
美しいのだが、生気に乏しい。
「は、はい……。エミッタ・ガーランドです」
「ガーランドと言う名前は不快だわ……あなた、母親の事をどれだけ知っていて?」
エミッタは返答に詰まり、その女性の真意を計るように首を傾げる。エルフの女性は軽く首を振って、傲慢な口調で返答を促した。
「私はリーファメラと同じ部族、サラーンのリゼッタ。彼女の人間界での行動の、補助役をしていたわ……あの男が現れるまではね。答えなさい、あなたは母親の事を、あの男にどう伝え聞いてるのかしら……?」
「詳しい事はなんにも……お母さんは私を生んで間もなく、戦争で死んだって……」
「そう、それは好都合ね。丁度良い機会だから、私が聞かせてあげるわ」
リゼッタは薄く微笑んで、少女を見下ろした。ひょっとして彼女は、自分の事を同族とみなしているのだろうか? エミッタはエルフという精霊族の事を、何も知らない事実に改めて気付いた。
当然だ……ほんの数週間前まで、自分は生まれた村以外、どこにも訪れた事がなかったのだから。
「リーファメラは特別だった。姫巫女として幼い頃から教育を受けた彼女は、いずれ秩序無き世界にも平和をもたらす存在として、皆から期待を寄せられて育ったわ。あなたにこの意味、分かるかしら……?」
突然そんな事を言われても、さっぱり分からなかった。母親が、このリゼッタのような冷たい性格だったら嫌だな、という程度の感想しかエミッタには思いつかなかった。
父親が選んだ人ならば、そんな事は無いとは思うのだが。
「人間界がこれほど乱れるのは、何故だと思う? 人間が下劣で、野蛮で、その報いとして神々から短命を宿命付けられているからよ。それならば、我々精霊族が主権を握れば良い……簡単な事だわ。我々は優れた能力を持ち、長寿で、神々に愛されている存在だから」
リゼッタは憎々しげな冷たい瞳で、フロア内にたむろする人の波を見遣った。エミッタはその口調と冷たい瞳、何よりその感性に寒気を抱いた。
この人は、人間という種族全体を軽蔑している。傲慢で、一方的な考え方から……。それはエルドラーンの不躾さを見て、馬という種全体を嫌うような、馬鹿げた行為ではないかとエミッタは思った。
「今は長老達がサラーン部族の運営をしているけど、彼女のような存在はあれ以来出現していない……そう、リーファメラは特別だったの。でも、彼女の娘なら、今からの教育次第で……」
エミッタは内面から湧き起こる強烈な悪寒に襲われ、リゼッタからじりじりと後退った。こんな種類の恐怖を感じたのは、生まれて初めてだった。
エミッタは勢い良く振り返ると、後ろも見ずに駆け出し、人波の中に姿をくらませて行く。必死だった。一旦捕まってしまうと、見知らぬエルフの街に連れて行かれそうで、それは何より父親との別離を連想させた。
エミッタは泣きそうになりながら、必死になって人の波をかき分けていった。
「どうしたんだ、エミッタ……?」
気がつけば、父親の前にいた。自分でも意識しないまま、父親の居場所を探し当ててしまっていたらしい。安堵感が、ゆったりと心の中に広がって行く。
エミッタは心の中の大事な何かをガードするように、ルシェンを胸元に抱き締めていたが、父親が大きな腕を差し出すのを見ると、大声で泣きながらその安全な場所に込んでいった。
「失礼……」
ルースは場に居合わせた取り巻きに、簡潔に別れの言葉を残し、賑やかな宴の場から退場して行く。何の未練も残さずに、ただ、大事そうに一人娘を抱えたまま……。
エミッタはしばらく興奮状態で、それはまぁ仕方の無い事なのだが。父親に打ち明けるしゃくりあげながらの話は、あっちに飛んだりつかえたりして、当分は要領を得なかった。
ルースは辛抱強く話を聞いてやり、娘を宥めるのにゆっくりと時間をかけ、終いには関係ない話を持ち出した。
「晩餐ではちゃんと、飯を食べたか? 泣くと腹が減るだろう。俺も、もう少し飲みたい」
エミッタはようやく笑顔を見せて、あんまり食べれなかった、何か食べたいと父親に話した。ルースはしばらく待っているように娘に言い残すと、数分後には宴の残り物と、上等な封を切っていない酒瓶をくすねてきた。
「それじゃあ、二人で宴の続きをしようか……」
「うん、いただきます……」
二人と一匹で食事を始めると、エミッタはいささか落ち着きを取り戻した。ルースは完全に寛いでおり、上等の衣装を脱ぎ捨ててベットに放ってしまっている。
ルースはお城の客間の一室を勝手に借りたのだが、そこはベットメイクも整っており、一晩越すには申し分なかった。魔法の明かりを廊下から拝借して来ると、そこそに居心地は良い感じに過ごす事が可能な感じ。
「その……泣いちゃってごめんなさい。あの人の話を聞いてると、何だかとても恐くなって来て……。お父さんの事も、私の気持ちも……あの人はまるで無視して、最初から関係ないように振る舞っていたから……」
ルースは思案げな表情のまま、酒瓶をゆっくりとあおった。お城で出すような酒は、やはり上等で美味しいのだろうか……。上機嫌で酒を飲む父親の姿を見て、以前試しに父親の酒を拝借した時の事をエミッタは思い出した。
口の中が、カッカとあぶられて一人大慌てした時の事を思い出し、エミッタは少しだけ微笑む。
「リゼッタは、昔からそう言う所があったな……エリート意識が強すぎるんだ。エルフの皆が、ああいう性格ではないぞ?」
「じゃあ……お、お母さんはどんな感じの人だった? あの人は、特別だって……」
「確かに、俺にとっては特別な女性だったよ……。聡明で華麗で、地位とは別に皆を引き付ける魅力を持っていた。多少我が侭で短気な所はあったがな……そう言う所は、誰かさんそっくりだな……?」
エミッタは急にまずくなって、もじもじし始めた。自分の短気は母親譲りだったのだろうかと、上目遣いに父親を見遣る。
父親から返される視線は、とても温かだった。
「容姿も似てきたな……リーフも黒のドレスが良く似合う女性だった。もう少し良く見せてくれないか、エミッタ?」
エミッタは、はにかみながらも立ち上がり、ドレスのスカートの裾を摘んで、その場でくるりと回って見せた。父親は声を出して笑うと、少女を抱き寄せる。
「いつの間にか、こんなに大きくなったんだな。あんなに小さかった、俺の娘が……」
「あら、私は日々成長してるわよ? 今度オルレーンさんに、魔法の特訓してもらう約束になってるの……別に構わないでしょ?」
ルースは目を細め、考え込む素振りで娘を見遣った。
「そんな特訓して、どうしようっていうんだ……?」
「それはまだ内緒! 乙女には秘密が必要だって、オルレーンさんが言ってたもの……!」
エミッタはクスクス笑いながら、人さし指を口の前に持っていった。それから、心に染み付いていた不安が、いつの間にか溶け出してしまっているのに気付く。
エミッタは感謝の印に、伸び上がって父親にキスをした。
朝の内にルースは国王の私室を訪れ、簡単な別れの言葉を口にした。アーサー王は、朝食だけでも一緒にと引き止めたが、ルースは首を振って別の話を口にする。
「精霊の塔に入る許可をくれ」
「それは構わないが、あの近辺は今でも無法地帯だぞ……? 子供を連れて行くような場所じゃないし、あそこは……レ・グリンに会って何をするつもりだ、ルース?」
「俺にも分からん。邪魔をしたな……」
さっさと部屋を後にしようとするルースを引き止め、アーサー王は略式の書状を素早く書き上げる。それからその書状を、机の引き出しから取り出した、黒と白のチェックの小さな袋と一緒にルースに差し出す。
その瞳に、諦めたような呆れたような色を湛えながら。
「この袋は、宴の席での詫びの印に、お嬢ちゃんにあげてくれ。旅の途中の不便がないように、書状を渡しておく。少なくとも、国内で自由に行動するには役立つだろう……」
ルースは短く礼を言い、袋の重さを確かめながら国王を見つめた。アーサー王はにんまりと笑い、ルースの胸を軽くごつく。
「街にいる間に、また会いに来てくれると嬉しいんだが。暇な時には、またチェスでもしよう」
「仕事の話抜きならな……あの勝負は、あと5手で俺が勝っていた」
ルースは笑いながらそう言うと、今度こそ静かに部屋を後にする。階段の側で、娘が退屈そうに待っていた。とっくに普段着に着替え終え、ルシェンを抱えた娘が。
「待たせたな……行こうか」
エミッタは、父親の後に続いてお城の廊下を歩いて行った。数分も歩く内に、城の出口に辿り着く。正門をくぐり抜け、お城を一旦出てしまうと、エミッタは感慨深げに振り返って、じっくりとお城の建物一つ一つを眺め見る。
慣れない場所で一晩過ごしたせいか、肩が凝ったような疲労を覚えてしまう。後ろを見ると、父親が少し離れた場所で彼女を待っていた。
駆け足で、エミッタは父親と合流。
坂を下っていく内に、朝の市場に出た。ほとんどの市場は、既に軒を畳み始めている途中だったけど。食べ物関係の屋台だけが、やたらと賑やかな声を飛ばしている。
朝食がまだのルース親子は、美味しそうな匂いに惹かれて市場を移動して行く。丸太の椅子が軒先に用意されてる屋台で、父親と娘は腰を下ろして一息つく事に。
間をおかず出てきた料理は、昨日の食事に負けずに美味しそうに、エミッタには見えた。
「今日はルシェンの奢りだ……結構あるな」
仔ドラゴンの芸で昨日稼いだコインを目算しながら、ルースが笑って言った。当の本人は全く気にした様子はなく、選り分けて貰った朝食を食べるのに忙しい最中。
この食欲の旺盛振りは、出会った頃から全く変わっていない。
「ルシェンったら、コインのベットが気に入ってるみたいよ、お父さん?」
「ドラゴンには確か、そう言う習性があったな。光り物が好きなんだ」
竹籠はコインの重みも加わって、もはや少女の腕で持ち歩くには不便極まりない程だ。このままではさすがにちょっと困るなと、エミッタは心の中で呟く。
もうちょっと使っても、ルシェンは怒らないだろう。
「カラスみたいだね……。それよりこの袋はなぁに?」
父親は簡潔に、国王からのプレゼントだと答えた。少女が恐る恐る中を確かめると、手の平に収まる程の大きさの、見事な細工のチェスの駒が3つ出て来る。
エミッタは歓声をあげ、その細やかな細工をじっくりと観賞し始める。
「おおぅ~い、ルース……!」
父親の名を遠くから呼びながら、市場の立つ広場に飛び込んで来たのはリットーだった。生気の欠けた顔色で早足に歩きつつ、こちらに向けて手を振っている。
屋台のおやじに飲み物を頼み、リットーはルースの隣に腰掛け、ようやく一息ついた。
「帰るんだったら、一声かけてくれりゃいいのに。お前さん、国王に精霊の塔に出向くって話したんだって……? いやいや、忙しくなるな」
二日酔いの顔色で、リットーはそう捲し立てた。きれいなハンカチで顔の汗を拭き、注文した飲み物に口をつける。ルースは眉をひそめてリットーを見た。
「仕事はどうした、リットー? お前、仮にも一国の仕官だろう……」
「国王に言って、今日から内勤に限っては休みを貰ったよ……。旅の支度や物資の手配、仕事は内勤以外のを貰ったよ。オルレーンも、明日から内勤休みを取るそうだ」
ルースは思案顔になって、ちらりとエミッタを見た。それからリットーに向き直り、軽いため息を一つ。友人二人の旅の同行を、もはや止める手段は無いようだ。
ただし、これ以上人数を増やされては敵わない。
「せっかくだが、大人数で出向くつもりはない。目立ちたくはないからな……。エミッタもオルレーンに特訓を受けるそうだし、次の新月にはまだ間がある。お前が俺に同行するつもりなら、その鈍った身体を鍛え直す必要があるな……?」
「…………え?」
リットーはルースの言葉を頭の中で反芻し、二日酔いの顔色をさらに悪くさせた。隣で見ていたエミッタは思わず笑い出し、一緒に頑張ろうと励ましの声をかける。
実際、彼女は頑張るつもりだったし、魔法の概念に興味津々だった。
そんな訳で、次の日から特訓が始まった。
実際、思ってた以上にオルレーンの特訓は厳しかった。近衛隊長の任務を休職した彼女は、朝から晩まで休みな訳で、掛かりきりでエミッタの訓練に付き合ってくれていた。
オルレーンは、指導者としても優秀なのはすぐに判明した。エミッタに無理のないスケジュールを与え、訓練の成果はすぐには出ないと教え諭す。
それでもエミッタには、普段の家の雑用とは違う疲れを、毎日の訓練が終わる頃には感じていた。実際、ヘトヘトだった。
ヘトヘト仲間は他にもいて、それは毎日父親と遠乗りに出掛けるリットーだった。エルドラーンはここ数日の運動不足を解消すべく、乗り手の意志も追従者の存在も無視して、城壁の外を駆け回っていた。
エミッタの日課としては、それよりはマシと言う程度。朝は魔力という概念を知り、それを高める訓練。昼からは魔力を取り出す訓練。夕食を食べ終わって寝るまでの間は、難しい魔術の本の読解……。
毎日地味な反復練習で、三日が過ぎる頃にはエミッタは、これなら洗濯や縫い物の方が有益だと思い始めていた。
それでもエミッタは根をあげる事はなかった。休みまで取って付き合ってくれるオルレーンに悪いし、第一これは、自分の夢の第一歩なのだ。
「いい、エミッタ? 魔力というのは、体力と同じで限界があるの。人が走り続けたり、まき割りを長時間続けると、終いには倒れてしまうでしょ? それと同じで、魔力を扱う際にも充分な事前特訓と限界の見極めが必要なの……分かる?」
エミッタは分かると答えて、続けて口にされる説明を注意深く耳にした。その気になれば、エミッタは聞き分けの良い生徒であり、それ相応の素質も持っていた。
午前の訓練は、魔力そのものや集中力の向上が狙いのようで、瞑想や呪文の読み上げが主だった。呪文もただ読み上げるだけではなく、色々とコツが必要なのだ。
エミッタは何度も注意され、叱咤され、ほんのたまに誉められた。ルシェンの気持ちが、少し分かった。
午後からは裏庭で、ほんの少しだけ実践的な練習に移る。番犬達がエミッタの特訓を見学に訪れ、大人しく整列して少女の頑張りを見守っていた。
エミッタは風を、魔法の訓練の相棒に選んだ。実際は、風でも光でも、炎でも何でも良いとオルレーンから言われたのだが、一日中室内にいるよりは屋外の風に当たりたいと考えたのだ。
風の精霊を使役して、上手にコントロールする。魔力を正しく放出して、長時間その状態を保つ。それが、エミッタに課せられた訓練だった。
「あら、エミッタ。あなた水の護符を持ってるじゃない……?」
初日の課外授業の時、オルレーンが驚いたように口にした。精霊を使役するコツを模範として行っていたオルレーンが、エミッタのスカートのポケットから、微弱な水の反応を受け取ったのだ。
エミッタはそれを取り出し、説明した。
「旅の途中に、鍛冶屋の親方から貰ったの。一度使った事もあるけど……」
「そう……それは貴重な物だから大事にね。でも、訓練中は外しておきなさい」
エミッタは、使った時の状況を詳しく聞かれずほっとし、ネルの首輪に紐ごと巻き付けておいた。水の護符という呼び名こそ知らなかったが、確かにこれを使って特訓しても意味はない。
そんな訳で、エミッタはオルレーンから手ほどきを受け続けた。
屋敷の外での訓練は、エミッタには合っている様だった。オルレーンが驚くほどの、感応力と適応力を、小さな生徒はいきなり示したのだ。
ただ、その状態を長く続けるとなると、話は全く別だった。オルレーンは実践では、例の水の護符のような補助アイテムを使用する場合が圧倒的に多いと指摘した。
そうでないと、あっという間に魔力が枯渇してしまう。
訓練では、自分の限界を知る事も含まれていたので、その辺りの折り合いを見付けるのに少女は手間取っていた。いきなり目の前が暗転した時には、エミッタを初め、見学中の番犬たちも大いに驚いた。
オルレーンに手当てを受けて、エミッタは何とか意識を取り戻す。鬼教官は口を酸っぱくして、実践だったら命を無くしてたか捕虜になっていた所だとしかめ面。
なるほど、確かにそうだ。なおもぐらつく視界の中、エミッタはひたすら恐縮する。
魔力の枯渇状態は、やたらと気分の悪い状況なのを少女は思い知った。胃の中に鉛を飲み込んだような、頭の中で鳥が囀っているような……。
それでも、オルレーンが差し出した飲み物で、多少体調が戻って来た。エミッタは驚いて、コップの中身を凝視。やたらと葉っぱの匂いがきついが、不味いとまではいかない。
ただ、痺れるような苦味が口の中を駆け回るだけ。
「オビネの葉っぱを煎じたものよ。魔力回復とか、滋養強壮とか、色々と役に立つの。こう言う便利な薬草の勉強も、夜にはしっかりしましょうね?」
そんな訳で、夕食後はやたら分厚い本との格闘だった。父親が意外と読書好きなのは知っていたが、エミッタには本を読むという行為は習慣の内に入っていなかった。
そのために、文字の羅列を見ただけで、少女の目玉はパニックを起こすのだ。挿絵が一枚も入っていない本など、本ではないとエミッタは早々と根を上げる。
仕舞いには、分厚い本が拷問道具に見えてくる始末。
何しろ田舎育ちの少女である。村にある本の冊数を数え上げても、恐らく20冊もいかないであろう境遇で育ったのだ。オルレーンは、さすがにこれには呆れ顔。
ルースに非難の視線を向けるが、都会のように簡単に物が集まる境遇が、実は稀である事に思い至るオルレーン。自身も田舎の出なので、それを思い出して少女に同情の目を向ける。
代わりに、一緒に声に出しての朗読に切り替える事に。
咽が疲れたら父親が交代に入って、夜の授業は続いた。エミッタが全くの聞き手に回る事も度々あったが、合間の質問は何度でも許されていた。
その内、知識は大事なのだと、エミッタは理解するに至った。その知識を得るには、本と言うのは手っ取り早くて便利だという事も。
それが分かった瞬間から、文字の列が不思議と苦にならなくなって来た。
「全く、少しはこっちの境遇も気に掛けてくれよ。しかし、これほど体力が落ちていたとはなぁ。思えば、机に齧りついてる毎日だったもんなぁ……」
リットーが皆との夕食の席で、息も絶え絶えに愚痴をこぼした。彼の元気の無さは体力の消耗が原因らしく、見ているこっちもげんなりする程。
オルレーンが容赦のない言葉を紡ぐ。
「その上、私の再三の忠告を無視して、過ぎる程の酒量だものね? これを期に、当分控えたら、リットー……?」
「初日から飛ばし過ぎなんだよ。乗馬を2時間、野歩きも2時間した後で、狩りで岩場を歩き回って、帰りもやっぱり乗馬だもんな……エルドラーンの殺人ペースで」
それは大変だっただろうにと、エミッタはエルドラーンの犠牲者仲間として心底同情した。他の大人達に限っては、全くの無慈悲な態度だったが。
「机仕事から解放されて、清々してると言ってたじゃないか……。明日も同じメニューで行くぞ、リットー。酒は控えておけ」
言われるまでも無いという表情で、リットーは恨みがましい目付き。食欲自体、ほとんど無いのだ。父親が狩りで仕留めた野うさぎの肉も、全くの手付かずのままである。
エミッタの食欲はと言うと、普段より増進していた。魔力を行使するという行為が、これ程疲れる事をエミッタは身を持って知り、それが空腹の原因だと推測していた。
「おじさん、ちゃんと食べないと身が持たないよ。お父さんは田舎でずっと、力仕事で生計を立ててたし、エルドラーンはあんなだし……。おじさんも昔は、お父さんの部下だったんでしょ? ちょっと情けないと思うわ」
同情はするものの、エミッタは同じヘトヘト仲間を甘やかすつもりはなかった。自分はこれから、さらにオルレーンとの授業が待っているのだ。
第一、いい歳した大人がみっともない。
「こいつは昔から、裏方仕事の方が向いてたからな。金銭感覚や、計算能力が優れてたんで、行軍日程や兵糧の事は全部任せていた。軍隊は武器を手にして、敵に突っ込んで行けばいいってものじゃない。それ以前の行動や体調の善し悪しなんかの管理が、遥かに大切なんだ」
「へえ……」
オルレーンが父親の言葉に微かに頷くのを見て、エミッタは感心して目を丸くした。少しは見直てくれたと思ったのか、リットーも機嫌を直しかけていた。
体調は、ちょっとやそっとじゃ治らないだろうが……。
皆での夕食後は、既にエミッタには馴染みの、書斎でのひたすら分厚い魔法の書物との取っ組み合いだった。そろそろレベルアップしようと、オルレーンが今夜も分厚い本を持ち出して来る。
魔術用語で書かれた紙の束は、難解でエミッタの眠気を誘った。今では文字の羅列に拒絶反応こそ無いが、全く新しい言語を教えられるという行為は、氷山を裸足で登るようなものに思えてならない。
気を抜くと、つるっと足元を掬われて下まで転がり落ちてしまう。そして、強烈な眠気がそこに待ち構えているのだ。少女はそのトラップに、何度も引っ掛かる破目に。
オルレーンに何度も注意され、すでに夢の中のルシェンを羨ましく思うエミッタ。
エミッタには、こんな知識が何に役立つのか、不可解でならなかった。現存する、魔力装置の仕組みと技術だとか、数々の魔法理論、魔法生物の生態だとか……。
エミッタは、自分は精霊の使役だけ出来れば良いと言い張ったが、オルレーンは全く歯牙にかけなかった。そんな考えではいつか足下を掬われると少女を脅し、どのみち良い機会なのだからと、少女の目の前に本を積み上げて行く。
この授業が一番の難関だと、彼女はその瞬間悟った。その通りだった。
4日も経つ頃には、オルレーンに叱られる事も少なくなって来た。午後の実践訓練の布地も、ハンカチからルシェンがすっぽり包まる程の風呂敷へと素材が替わっていた。
なるほどこれは難しいと、エミッタは風の精霊との共同作業に取り掛かりながら思う。力任せのつむじ風を起こすだけでは、風呂敷は絡まって地面に落ちてしまうのだ。
聞き分けよくバランスを探りながら、広い面積での風の網目を作る。それには繊細な集中力と把握力が必要だった。どちらも、風の精霊との連絡を密にしないと得られない。
しかもその状態を、少なくても数分以上は続けないと駄目なのだ。
ペース配分は、訓練の中でも一番重要な点だった。少なくとも、オルレーンは生徒の少女にそう語った。エミッタの魔力の素質は申し分なく、実は大人の魔道士にも引けを取らないほど。
圧倒的に足りないのは、実践力や自分の能力の把握具合だった。そういう経験値を伸ばしてこそ、魔法は初めてピンチの場面を切り抜ける武器となりえるのだ。
魔法と言う能力は、剣や鎧のように携帯するという概念が無い。つまりは手ぶらの状況でも、敵を翻弄する事が可能だ。しかし、実践的な訓練に移る前に欠かせない事がある。
それが自分の内包する能力を把握して、一定のペースで解放維持する事だった。
風呂敷を使ったこの訓練は、そんな訳で長時間の空中での維持が理想だったのだが。ちょっとでも集中力を乱してしまうと、気まぐれな風の精霊はプイッとどこかへ去っていってしまう。
精霊にも色々と個性があって、風の精霊は見た目通り自由気ままな性格なのだ。それは体感で分かっていたエミッタだったが、夜の読書勉強でもその事は本に書いてあったのを思い出す。
特に、あの生意気な妖精も風の精霊の系列だという事を知って、なるほどと思ったりして。
犬達やルシェンの見守る中、訓練は続けられていった。先生役のオルレーンも、生徒の素養には目を見張る思いだったのだが。父親の気持ちも察して、少女に危険な冒険家への道を進める訳にも行かず。
休憩時間には、それとなく諭すような口振り。
「魔法の素養を伸ばす事は、ルースも賛成しているし協力は惜しまないけれど。わざわざ危ない道を選ばない賢さの方が、人生には必要な能力なのよ。分かるかしら、エミッタ?」
「だって、お父さんとお母さんの出会った場所って戦場だったんでしょ? オルレーンさんだって、お城の兵隊さんやってるし。私だけのけ者にしようとするのは、ずるいと思う!」
今は戦争もないし、自分も滅多に前線には出ないのだとオルレーンは説明するのだが。夢見るエミッタにして見れは、せめて父親の足手まといにはならない程度の実力はつけたい所。
苦しい訓練も、そのために文句も言わずに頑張っているのだ。夢見る権利まで取り上げられてはかなわないと、エミッタの反論もそれなりに必死だったり。
それよりも戦争をしていた頃には、父親と母親はパートナーとして互いに助け合っていたのだろうか。母親の噂は最近よく聞く様になったのだが、そう言えばその実力の程までは良く知らない。
素晴らしい精霊使いだったらしいのだが、実際はどんな人物だったのだろうか?
「あっ、そう言えばオルレーンさんは、私のお母さんとも知り合いだったの? どっ、どんな人だったのかな、お父さんといた頃のお母さんって……」
オルレーンは少女の質問を受けて、少し虚を突かれた表情になる。それからエミッタが、一度も母親と面識が無い事を思い出したのだろう。少し優し気な顔つきで、思い出すように言葉をつむぎ始める。
10年前の、あの苦しかった時代の記憶を。
「そう……ね。恐い程才能に満ちて、普通にしていても戦場でもどこでもとても目立つ人だった。魔法は確か、風や雷を操る呪文を好んで使っていたわね。私はその頃ほんの小娘で、彼女にはよく嫉妬を覚えていたっけ。サラーンの部族の長でありながら、気取った所がなくて、常にルースの側で戦っていて……」
最後には軽く肩を竦め、オルレーンはそう言葉を濁した。エミッタは何となく彼女の気持ちを理解し、それ以上は尋ねようとはしなかった。
自分も風を操るのは好きなので、そういう所は似てるかも知れないと、エミッタはくすぐったく感じながら思った。それで、午後の練習は増々熱を込めて取り組み始めた。
その結果、夜には全く余力が残っていないという事態が生じてしまったが……。
5日目に、とうとうリットーが根をあげた。そろそろ旅の準備を始めなければと、都合を付けて街に姿を消してしまったのだ。確かに旅立ちは2日後だと、父親からは告げられてはいたが。
エミッタは憤慨したが、父親は笑っていた。
暇になった父親に、オルレーンが遠乗りのパートナーを申し出た。エミッタは、自分はちゃんと自習しておくと請け負い、そんな訳で今日の特訓は一人きりだった。エミッタにしてみれば、そんなに不都合は感じなかったのだが。
遊んで貰えると勘違いした仔ドラゴンが一匹。
「ルシェン……私は遊んでる訳じゃないのよ? 頼むから邪魔しないで……!」
午後の練習で浮かせた布に、ルシェンがじゃれつき始め、エミッタは呆れた口調でたしなめる。最近余り構ってやれないので、不満も溜まっているだろうが。
エミッタは小屋からいらないぼろ布を持って来て、ルシェンの前で振ってやった。それを犬達の前に放ってやる。たちまちはしゃぎながら、布の引っぱり合いに興じる犬と仔ドラゴン。
エミッタはため息を付き、再び練習に戻った。
だが、その安堵感も束の間の事。今度の邪魔者は上空からいきなり訪れ、エミッタの度肝を抜いた。生意気なチビ妖精が布に絡まって地面に落下、ようやく生地の下から顔を出す。
何事か、文句を言いたげな表情で。
「……どこまで無視するのよ? 私がせっかく丁寧にチューコクしてやってんのに!」
「……邪魔しないでよ、私の特訓の。さっさといなくならないと、布に包んで振り回すわよ……?」
二人はいきなり険悪な雰囲気、諸事情を鑑みるにそれも仕方の無い事なのだろうけれども。バチバチと火花が飛び散る程、お互い顔を睨み合わせて怖い顔。
コルフィは、ルース親子がいつまで経っても精霊の塔に出発しない事に苛立っており、エミッタはインクを頭から降りかけられた事に腹を立てていた。
睨み合いは永遠に続くかと思われたが、番犬と仔ドラゴンの乱入で、今度はコルフィが慌てる番だった。妖精は驚いて飛び上がり、犬達の牙の届かない場所からエミッタに文句を言った。
エミッタは加勢に勢いついて、コルフィに詰め寄る。
「あんた、本当は嘘付いてるでしょ? 精霊の塔は人のいない場所に建ってるのよ? レ・グリンって人が、何でか知らないけどそこにいるって、お父さん言ってたわよ!」
「何で私が嘘付かなきゃならないのよ? アンタ、ほんとーに何も知らないのね? 気の毒だから、教えてあげる……。リーファメラ様がレ・グリンの魔法で、もうすぐ肉体を得て転生するのよ。それが、次の……ええと、次のぉ……」
エミッタは、きょとんとして飛んでいる妖精を見た。そんな話を、父親から聞いた気がする。でもそれは失敗したと、父親は言ってなかっただろうか?
犬達がチビ飛行生物の侵入者にうるさい程吠え立て、少女の思考を妨げる。少し黙る様たしなめて、ルシェンを地面から抱き上げるエミッタ。母親が転生するって、本当だろうか?
気がつくと、チビの妖精は遥か向こうを飛んでいた。
「ちょっと……ねえ、待ちなさいよ……!」
エミッタが慌ててコルフィの後を追い始めると、犬達も喜び勇んで彼女の後に付いて駆け出して行く。屋敷の門を通り抜け、石畳の通りを集団で駆け抜ける一行。
エミッタは、時折妖精の姿を見失いながらも、坂道を駆け上がって行く。
ここら辺りの建物は、総じて立派で階層の高い物が多く、飛翔する相手を追うにはとことん不向きだ。それでもエミッタは、体力の続く限りコルフィを追うつもりだった。
コルフィの言った事は、果たして本当だろうか? 転生の魔法……エミッタには10年も経って魔法が効果を発揮しても、余り意味がないように感じるのだが。
それでも不安がない訳ではない。その不安が、まだ見ぬ母親に対する物であるのか、父親がそれを聞いて示す反応に対する物なのか、自分自身判断を付けかねているのだが。
父親は一体、どんな反応を示すだろう? もし、母親が生き返るとしたら? 父親が、自分の知らない女性に取られてしまうという不安は、常に少女の心の中にあった。
その時、自分は我慢出来るだろうか、父親を嫌いになったりしないだろうか……? 考えると、自分自身の事なのに、とても恐くなってしまうエミッタ。
父親が自分よりその女性に、深い愛情を注ぐとしたら……?
そんな見えない不安から逃げるため、目に見える目標を追いかけている事も、エミッタはおぼろげに理解していた。身体を動かしている内は、深く悩まずに済む。
犬達は犬達で、嬉々として不法侵入者の追跡を楽しんでいた。エミッタの前を走り、後ろを走り、道行く人々を驚かせている。目の前に巨大な壁が見えて来て、それが巨大な街壁の裏側だとエミッタは思い当たった。
犬達の案内通り、少女は通行止めの札を無視して、城壁沿いの上り階段に足をかける。高い青空が、目に痛い程焼き付いた。
犬達の吠える声が高くなり、妖精の放つ淡い燐光が少女の目に入った。このままチビの妖精は、城壁の外に出て行ってしまうのだろうか?
違った。コルフィは少し上った狭い踊り場で、エミッタを待っていた。
「思い出したっ! 次の月の満月の晩よ……!」
コルフィは自慢げに胸を反らし、威張るような口調でいきなり指定日を口にする。
「えっ……? この前は、翌月の最初の新月の日って言ってなかった……? まだ一週間以上余裕があるって、お父さん達言ってたわよ」
「…………」
自称優秀なメッセンジャーは、豆鉄砲を食らったような顔をして少女を見返した。相変わらずうるさい犬達につられ、腕の中のルシェンも妖精に向かって吠え始める。
コルフィが顔を真っ赤にして文句を並べ始めるのを見て、照れ隠しのつもりかな、とエミッタは邪推するのだが。
さして高さのない手すり越しに、喧噪だけが高まって行く。エミッタが、これ以上不毛な争いは慎むべきだと感じ始めた時、ルシェンが不意に行動を起こした。
後になってエミッタは、ルシェンは根性を見せたのか、はたまた自分を見失ったのか理解に苦しんだ。何とルシェンは、自分の意志で手すりを土台に、妖精に飛びかかったのだ。
それは今までの記録を塗り替える、とりわけ見事な飛翔だった。空中に漂う目標に向けて、華麗に襲い掛かる鷹か鷲のようなシルエットがひとつ。
もっともその華麗さも、妖精がひょいと避けるまでの事で。目標を見失ったルシェンはと言えば、転身も上昇も、ましてや重力に逆らうなど出来ない相談。
まだまだ成長が足りないのは、結果が雄弁に語っていた。
「ルシェン……!」
エミッタの悲鳴と共に、仔ドラゴンは残された方向へ進むしかなかった。しらけた表情のコルフィに見守られ、ルシェンは見事に墜落して行く。
建物の立ち並ぶ、下方の街並みへと、それ相応の勢いで……。




