♯04 城塞都市メリビル
カーテンの隙間から差し込む光が、エミッタのまぶた越しに、ゆっくりと頭の中の睡魔を追い払っていった。エミッタはムックリと体を起こし、寝ぼけたままに部屋の中を窺う。
束の間、知らない風景に戸惑った後、昨日の記憶がゆっくりと戻って来た。周囲を伺うと、父親が隣のベットで眠っていた。エミッタはようやく安心して、一度伸びをする。
ルシェンが鼻をひくつかせて、欠伸をした。まだ眼は閉じていたが。
朝日はもう完全に昇り切っていた。寝坊したらしいと、エミッタは少し後悔したが、考えてみれば昨日はハードだったし、今日のスケジュールに至っては全く決まっていない事に思い至る。
肌着のままで、そろっとエミッタは部屋の外を窺ってみた。長く伸びた廊下の先からは何の音も聞こえて来ず、使用人の姿も一人も見かけない。
山の生活では、もうみんな仕事に出かけている時間だが、ここでは違うのだろうか?
父親を起こさないよう、エミッタは静かに着替えを済ませ、朝食前の散歩をする事に。父親とその友人達は、昨日一体何時頃まで起きていたのだろうか。
隣の部屋を覗いてみようかとも思ったが、それは止めておいて代わりに台所を探しに行く。
全くもって広い屋敷だった。エミッタは感心しながら廊下を進んでゆく。窓から見える庭の緑もちゃんと手入れが行き届いており、遠くには離れまで建っている。
庭を散策するのも悪くないと、少女は出口を束の間捜し求める。
「あら、昨日のお客様の娘さんね?」
突然声を掛けられて、エミッタは驚いて振り向いた。庭に出てみようかと考え込んでいたので、その少女が自分の後ろで立ち止まったのに気付かなかったのだ。
「はい、あの、エミッタ・ガーランドと言います。昨日はここに泊めてもらって……」
「ウフフ、そんなに丁寧な言葉、使わなくっても。私、ここの使用人なんだし」
まだ若い、10代のメイド服を着た少女は、そう言って明るい声で笑った。そばかすだらけの顔は愛嬌があって可愛らしく、父親と同じ赤毛は肩先でそろえられていた。
「でも、年上だし……」
「いいじゃない、友達で。私、ここでメイドで雇われているの。リズって呼んで頂戴。よろしくね、ええっと、エミッタ?」
少女はそう言って、握手を求めて来た。エミッタも手を差し出しながら、新しい友達に恥ずかし気に笑みを返す。素直で性格の良さそうなリズに、エミッタは親しみを覚えた。
早速この館の構造を尋ねながら、連れ立って食堂に向かう。村には同世代の友達など全く居なかったので、エミッタにとってこの出合いは新鮮な出来事だった。
早速会話を交わしながら、親交を深める事に。
取り留めの無い会話は流れるように進み、時折意味もなく笑い合う少女達。屈託のないおしゃべりを続けているうちに、二人はようやく食堂に到着。
館の中でそこだけは活気に満ちており、数人の料理人が朝食の用意をしている。
「ここの朝のしきたりはどうなってるの?」
エミッタはリズに尋ねる。館の主人の性格は、昨日見た限りでは、大雑把でくだけているようだ。朝食もやはり、昨日のように皆で食べるのだろうか。
リズはエミッタの紹介で、忙しいようだった。料理中のコックや、それを受け取りにくるメイドに、エミッタはいちいちお辞儀をしながらリズの後にくっ付いてまわる。
「御主人様は、いつも朝は遅いの。昼前にお城に行かれるから、まだ時間はあるわ。いつもはお部屋に、私達が朝食を運んで行くけど、今日はどうするのかしらね」
「そう、じゃあ私が聞いて来てあげる」
「えっ、ちょっと……起こしちゃうの、御主人様?」
リズの困惑も何のその、エミッタは既に歩き出していた。多少憤慨しながら、主人の部屋を捜し求める。皆もう起きて働いているのだから、ここの館の主人だって起きなきゃダメだ。
エミッタは寝坊も、仕事の怠慢も大っ嫌いだった。
リズが慌てた様子で、年下の少女を引き止めようとする。エミッタは、どうして大の大人を甘やかすのか、納得出来ずに昨日の部屋に辿り着く。
父親がルシェンを抱えて、隣の部屋からのっそりと出て来た。どうやら、少女が居ないのに気付いて騒ぎ出したルシェンに起こされたらしい。
リズが小さい悲鳴をあげた。それが父親を見たせいか、父親の腕の中でなおも騒いでいるルシェンのせいか、エミッタには判然としなかったが。
取り敢えず父親に朝の挨拶をして、新しい友達を紹介しながら、エミッタはルシェンを受け取る。
「お父さん、朝御飯の仕度、もう少しで出来るって。みんなで一緒に食べようよ」
「そうだな……それじゃ、少し散歩をして来るから、準備が出来たら呼んでくれ」
エミッタは承諾し、固まっているリズの側をすり抜けて、隣の部屋を勢い良くノックし始めた。彼女の起こした騒音は、なかなか部屋の主人には届かない様だ。
その代わり、隣の部屋で寝ていたオルレーンを召集に至る。
「おはよう、エミッタ。早いのね」
さほど眠そうな表情は見せず、着替えを終えたオルレーンが廊下に顔を出した。少女に挨拶をして来ながら、ルシェンを撫でて朝のご機嫌を窺う。
余り飲まなかったのか、二日酔いの気配も見えない。
「おはようございます、オルレーンさん。もうすぐ朝食の準備が出来るそうです」
「そう、それじゃあ折角だから頂いて行きましょうか……ところでルースは?」
「散歩中です。多分庭に出たのか、馬の様子を見に行っているんだと思います。……あの、もう一人のおじさん、この中にいますよね……?」
エミッタは多少心もとなくなって、オルレーンにそう尋ねる。先程からのノックの乱打に、全く何の応答もない頑丈そうな扉を指差して。
リズはやっぱり、今度も止めたそうな素振り。
「ええそう、構わないから叩き起こしてやって頂戴、エミッタ」
オルレーンはそう言うと、無造作に目の前の扉を開け放ち、悪戯っぽい目付きでエミッタにウインクした。部屋の中には大きなベットがあり、その中央に毛虫のように毛布に丸まった塊が、小さくいびきをかいている。
エミッタは少しだけ考え込み、部屋に入ると毛布の中にルシェンを放り入れた。
「あのね、お嬢ちゃん……ここは俺の家なんだ。だから、皆が俺のスケジュールに合わせるの、了解?」
「そんなの言い訳よ。だって他の人達は、ちゃんと起きて働いてるじゃない。家の主人が呑気に寝てたんじゃ、皆に示しがつかないわ!」
エミッタは憤慨して、バターナイフを振り回しながらそう返答した。食堂に行儀よく居座った一同は、朝から元気の良い少女に完全に主導権を握られていた。
最悪の目覚めを体験した館の主は、なおも納得のいかない素振り。
「エミッタの言う通りだわ、リットー。一国の文官がそんな我が侭を振り回すなんて、恥知らずもいいところよ」
「君は軍人だから、規則正しい生活に慣れてるんだ。こっちは家の机まで厄介な書類に占領されて、安らげるのは布団の中くらいのものなんだぜ?」
「軍人だって、夜警や緊急召集やらで不規則この上ないわよ。あなたは自分の怠惰を子供に指摘されて、拗ねて泣き言を言ってるだけだわ」
オルレーンに辛辣な言葉で評され、リットーはすがるような目でルースを見遣った。子供に一体どういう教育を施しているのだと、多少非難も含まれている感じなのだが。
二人の女性もルースに視線を向けているのに気付き、彼は仕方なく口を開く。
「……このハム、美味しいな」
そんな訳で、次の日の朝もリットーは、二日続けての予定外の早起きをエミッタと仔ドラゴンに強いられた。二日酔いのダメージと相まって、彼の機嫌は最悪だった。
朝食後、リットーが苦肉の策として提案したのは、ルース親子を離れの別棟に隔離するという手段だった。恐らく使用人の住居として建てられた代物らしいのだが。
悲しい事に、ルース親子が以前暮らしていた住居より立派で部屋数も多かった。
「どうだい、おチビちゃん? ちゃんと台所も付いてるし、しばらく二人で住むには申し分ないだろう? ……ここを使っていいから、明日から朝食は別々に食べよう」
「ええ、ありがとう、おじさん。素晴らしい住まいだと、私は思うの。お父さんさえ良ければ……」
エミッタは一通り部屋から部屋へ飛び回った後、せがむように父親のズボンを引っ張った。楽しそうな跳ねるような娘の口調に、ルースも笑みを浮かべて頷く。
それ以上の安堵の笑みを浮かべ、リットーはルースを部屋の隅に連れ込んだ。
「いや、良かった……んだか悪かったんだか。済まないな、お前さんを遠ざけるような事をして。とにかく、不自由のないように使用人を付けるから……」
「気を使うな、リットー。娘と二人の方が寛げるから、俺は全然構わないぞ。家事なんかも、エミッタが全部やってくれる……そろそろ仕事に行く時間じゃないのか?」
リットーは少し気難しい顔をしてルースを見、その視線をエミッタに向けた。エミッタはルシェンを抱えたまま、忙し気に部屋の模様替えの計画を、頭の中で組み立てている最中のようだ。
大人の話には無関心のようで、リットーは安心して言葉を続ける。
「あの子の母親の情報の件は、もう少し待っててくれ。精霊の塔へは俺も行くから。お前さんも今日当たり、国王に会いに来てくれないか……?」
ルースは短く、考えておくと言葉を発し、思案げなリットーの追求をかわした。リットーが屋敷を後にしてからは、ルースは屋敷の書斎に閉じ籠ったきり、昨日と同じく夕方まで誰とも顔を合わさないつもりのようだった。
「お父さん、また調べものみたい。邪魔しない様にしなくちゃね、ルシェン。それでなくても、今日は部屋の掃除と模様替えで忙しいわよ!」
父親の様子が、いつもと違うのが気になるエミッタだったが、だからこそ寛げる部屋を用意しておいてあげたい。そう思って、ますます張り切る少女だった。
屋敷のメイド達が、朝の洗濯が終わった後、エミッタを手伝いに来た。エミッタは、備え付けの家具をあれこれ移動させ、気が済むまで床や壁に布巾掛けをし、居間の絨毯を陰干しした。
ルシェンがいる事を理由に、壊れやすい飾りは極力さけ、花飾りや植木を部屋に配置していく。どうしても飾りが欲しい場合には、うんと上の場所に置く事に。
昼過ぎには、全ての作業は終わっていた。
「また何か必要な物があったら、私達に言って頂戴、エミッタ」
「ありがとう、リズ。お仕事頑張ってね」
午後の仕事に戻って行くリズに手を振り、エミッタは明るく声援を送った。改めて離れを見遣り、満足げに頷く。ルシェンが彼女の足下で、退屈そうに欠伸をしていた。
いつもなら、エミッタはこの時間帯、乾いた洗濯物を取り込んだり、ターフおばさんの畑仕事を手伝ったりしている。山の中は涼しいので、昼間の方が作業がはかどるのだ。
昨日は、屋敷の中をあらかたルシェンと探検して回った。屋敷の探検はとても愉快で、止める者もいなかったので、実に半日は費やして行ったのだが。
趣味の良し悪しは別にして、色々な物が観賞出来たし楽しかったのは確か。高そうで、しかも壊れやすそうな物の並べ立ててある部屋の多い事には、多少辟易したエミッタだったが。
これでは友達と一緒になって、走り回って遊ぶなど間違っても出来ないだろう。ルシェンを自由に放つのさえ、怖くて出来やしないのだから。
リットーのおじさんは、当分家庭や子供が欲しくないと思っているのだろうか?
リズが暇だったら、探索ももっと面白かったのに。建物の古さとか、廊下のつながり具合とか、階段の上から見る景色とか、賞賛すべき点はたくさん見つかったのだが。
それを分かち合う人がいないのが、ちょっと残念なエミッタである。
それでも、リズを初めとした使用人達とも仲良くなれた事は、大きな収穫だった。館の大きさに反比例するように、普段使用する部屋の数は少ないようなのだが。
それでもこれだけの人数が必要なのは、お城の要人を月に何度か招いて晩餐会などを開くためらしい。お館様は、本当はあまりそういう行為は好きではないらしいのだが。地位を確たるものに留めておくためには、色々としがらみもついて回るのだそう。
ここら辺の話は、エミッタには少し難しくて理解し難かったのだが。
とにかく、賑やかで楽しい場所だと、エミッタはこの館が気に入っていた。それでも使用人に混じって仕事をしようとするのを止められた時には、エミッタはさすがにへこんだ。
相手側の主張はもっともで、それは少女にも分かる理屈だった。客人に仕事をさせたりしたら、さすがにお館様に叱られると言われれば、エミッタも引き下がるしか無いのだが。
それなら自分は、一体どうやって時間を過ごせば良いのだろうか。
色々と考えた結果、暇つぶしにはやっぱり探索しかないと結論付けたエミッタ。今日は庭の見学を重点的にしようと考えつつ、エミッタは既に歩き出していた。
故郷の村のターフおばさんに、どんな手紙を書こうかと、心の中で旅の想い出を反芻しながら。
手紙を書くのはいい思い付きだと、エミッタは自分の考えに感心した。何しろ、エミッタが文字を学んだのは、主にターフおばさんからだったし。
けれどもエミッタは、今までに一度も手紙を書いたり受け取ったりした事がなかったのだ。
そんな事を考えつつ裏庭を歩いていると、騒々しい犬達の鳴き声が聞こえて来た。ルシェンがその声に驚いたように飛び上がり、少女の後ろに逃げ込む。
大きな檻で区切られた一角に、強面の番犬が6頭ほど閉じ込められていた。皆が一様に体格が良くて、元気一杯の様子だ。エミッタは興味を持ち、近いて行く。
ひょっとしたら、ルシェンの友達になってくれるかも知れない。
「お嬢ちゃん、あんまり近付くと危ねえぞ。そいつらは番犬に飼われている大型犬ばかりで、見知らぬ相手には攻撃的になるよう仕込まれてるからな」
エミッタは振り返って、声の人物を視界に入れる。ディズと名乗ったあの猫背のお庭番が、一輪車を押しながらこちらを見ていた。今は作業着で、しっくりした佇まいだ。
この屋敷に案内されて以来、全く会う機会がなかったので、エミッタは一瞬ドキリとする。
「え、ええと今日は。この犬達はあなたの……?」
「儂は只のお庭番さ、使用人だよ。馬や犬達の世話や、植木の水遣り、その他の雑用係にお館様に雇われてるのさ……お嬢ちゃんは、鬼神ルースの娘だったな」
ディズはそう尋ねると薄く笑い、父親の見事な馬について最大の賛辞を贈った。エミッタはエルドラーンが嫌いだったので、それについては肯定も否定もせず、ただ犬の檻を指し示して質問を口にした。
そういう人は、実際噛まれたり頭突きを食らうまでは、あの馬の性根が分からないのだ。
「どうしてこの子達、閉じ込められてるの? 番犬なのに変じゃない?」
「ああ、お客さんがいる時は、仕方がないのさ。屋敷の者には、吠えないように躾けてあるが……。夜には放してるから、お嬢ちゃんも気を付け……」
ディズはエミッタが、無造作に檻の中に手を入れるのを見て、もう少しで悲鳴を上げそうになった。犬達は興奮して、檻に足を掛けて尻尾を振ったが、噛み付きはしなかった。
それどころか、物凄くハイテンションで嬉しそう。
「躾けてあるのなら、出してあげてもいいでしょ? 私いい事思い付いちゃった!」
ディズは唖然として、エミッタが檻の扉を開くのを見守っていた。番犬達は行儀よく少女の前に整列して、吠えもしなければ、小さな見慣れない仔ドラゴンに襲い掛かる事もなかった。
エミッタは、一匹ずつ頭を撫でてやりながら、犬達の棘付きの首輪を見て顔をしかめた。立ちすくんでいるお庭番に、抗議する口調で提案する。
「もっと可愛い首輪にしてあげていい? これじゃ、安心して抱きつけないわ」
「……父親も化け物なら、娘もそうだな。命令も与えずに、何で犬達はあんなに大人しいんだ……?」
ディズの呟きは、しかし小さ過ぎて、エミッタの耳には届かなかった。
その日から、ルシェンの特訓が始まった。番犬達のリーダー格はネルと言う名前で、一際立派な体格の、しっとりとした灰色の毛並みの雌犬だった。
鋭い牙はもちろんのこと、体重もエミッタよりありそうな、立派な大型犬である。エミッタが彼女を見て思い付いたのが、要するに犬達とルシェンの合同特訓だった。
最初ルシェンは、犬の群れに大いに怯えた様子だった。そんな事じゃ駄目だとエミッタは憤慨し、まずは一緒に遊ぶ事から教えてやる事に。
しばらく犬の中にルシェンを放り込むと、仔ドラゴンは姿が見えなくなり、ぼろぼろになって救出された。犬達は喜んでいたが、ルシェンはそうではないようだった。
しきりに甘えた声を出し、エミッタによじ登る。
「今日はこれまでかしらね……」
エミッタはため息をついてそう言った。が、ルシェンの特訓は、もちろん次の日の朝からも続けられた。同じ皿から食事をし、同じボールで取って来いの訓練をする。
生まれついての頑丈さも手伝って、ルシェンは犬達のパワーに負けない根気を、身に付けつつあった。足の遅さはどうしようもないが、少なくとも場所を譲らない程度の意地は。
そうでなければ、食事も侭ならない……。
「偉いわよ、ルシェン!」
エミッタに誉められて、ルシェンは元気よく吠えた。何となく犬の鳴き声に聞こえない事もない声で。ここ数日で、ルシェンは完璧に、取って来いと待てが出来るようになっていた。
もはや犬の集団に恐れる事もなく、完全に溶け込んでいる。
犬の俊敏さには及ぶべくもないルシェンだったが、力比べはかなりのモノだった。布切れの引っ張り合いはもちろん、尻尾の一撃は、一度は番犬の一匹に悲鳴を上げさせる程だった。
エミッタは大いに叱ってやり、悪い事をする子は食事抜きだと脅し付けた。言葉が通じたのかどうかは不明だが、それ以来ルシェンは、自分の尻尾に気を付けるようになったのは確かだった。
訓練の成果は、少女を大いに喜ばせた。
三日後、訓練は障害物競走に入り、これは犬達の独壇場だった。足が短く、歩くのも苦手なルシェンは、丸太の山を登るのも一苦労なのだ。いくらエミッタが応援し、叱咤激励しようとも、身体的不利は如何ともし難い。
それならばとエミッタは、台から台へと跳び移る訓練に切り替える。物置きから無断拝借された立派な造りの椅子は、犬と仔ドラゴンの爪痕で、ほんの数分でぼろぼろになってしまった。
多大な犠牲を払った特訓も、ルシェンのプライドを傷つける結果に終わってしまい、エミッタも大いにがっかりした。
「うんうん、あんたにしちゃ頑張ったわね。もう少し大きくなったら飛べるようになるわよ、きっと……」
仔ドラゴンは、翼の使い方を知らない訳では無かった。犬達に負けじと、背中の翼をはばたかせて、2メートル先の椅子の座席に飛び移ろうとはするのだ。
ただほんの少し、飛行距離が足りないだけなのだ。実際、エミッタが椅子を1メートル以内に近付けると、ルシェンは見事な着地を見せた。
大いばりで、得意げな鳴き声を上げるルシェンを、少女は優しく撫でてやる。エミッタにしてみれば、今はそれで満足するしかなかった。
焦る必要はないのだ。ただ、最近エミッタの心の中で一つの空想が生まれていて、その実現にルシェンの成長は欠かせない事も分かっていた。
それはつい最近、父親の武勇伝を聞きかじった事で芽生え、エミッタの中で急速に膨らんでいった空想だった。ルシェンの存在がそれに拍車をかけ、彼女の空想の中では、馬よりも大きく立派に育ったルシェンに乗った自分が、父親と共に夢とロマンに満ちた冒険へと旅立っていた。
隣の父親は、エミッタを誇らしげに見つめている……。
ルシェンの成長への期待は、もちろんエルドラーンをいつか負かすという、利己的な計算も働いていた。駆けっこでも力比べでも、手柄を立てる事でも何でもいい。
ただ、エルドラーンより体が大きくなるだけでも良いのだ。エミッタは自分に意地悪な黒馬を、何とかして遣り込めたくて仕方がなかった。本当に、たった一度だけでも良いから。
だが、今のルシェンにそれを願うのは、余りに無謀というものだ……。
こうしてエミッタは、屋敷に来てからの数日を、ルシェンと番犬達の訓練をして過ごした。お陰でネルをリーダーとした犬達は、彼女を新しい主人と認め、エミッタが生活している離れの小屋から離れようとはしなくなっていた。
エミッタが行く所へは皆で必ず付いて回る。少女の父親に対しても、恐怖からではない敬意を払っている様子だった。
エミッタはもちろん、遊んでばかりでなく、日々の仕事もこなしていた。もっとも、彼女からすれば、ルシェンの特訓も遊びではなかったのだが。
朝の内は父親と自分の食事を作って、食器を洗ったり部屋の掃除をしたりする。リズと一緒に喋りながら洗濯をし、屋敷にお邪魔してメイド達とやっぱりお喋りを楽しむ。
リズ達使用人は、親子の出した汚れ物も洗濯すると言って聞かなかったのだが。しかしその仕事まで取られてしまったら、本当に自分のやる事がなくなってしまう。
エミッタは、そればかりは頑として撥ね付けたのだった。
使用人達とのおしゃべりは、とても楽しいひと時だった。卵が最近高くなったとか、だれそれのお姉さんが赤ん坊を産んだとか、お館様はオルレーン様が好きなんだけど、向こうがなかなか結婚を承諾してくれないとか……。
噂話は、どこに生まれ育っても、やっぱり一番の娯楽のタネらしい。
オルレーンの住まいは、実はリットーの屋敷のすぐ隣にあった。エミッタはこの屋敷にお世話になり始めたかなり早い時期に、既に一度お招きされていた。
リットーの屋敷に比べると随分小さく、使用人も老夫婦とその娘の、たったの三人だけ。遊びに行ったエミッタをお茶でもてなしてくれた老夫婦は、子供の扱い方を心得ている、実に朗らかで親しみのある人物だった。
また遊びにいらっしゃいと、エミッタに帰り際に言ってくれた。今度は父親を連れて行ってみたいとは、少女の思い。
「何でオルレーンさんは、おじさんと結婚してあげないの? ……二人の仲はいいんでしょ?」
「そりゃあ、10年以上の付き合いだしね。私達としても、オルレーン様ならお館様をしっかり管理して下さるって思ってるんだけどね……」
年長のメイドが、エミッタの問いに笑いながら答えた。男女の関係の複雑さを理解するのは、エミッタにはまだ早いという声が上がり、皆が一斉に笑い出した。
使用人達のお喋りに混じると、エミッタは大抵からかいの種になる。少女は、それが少し気に入らなかったが、リズに言わせると、それが年少者の務めであり、少し前までそれはリズの役目だったのだそうだ。
役目を継ぐ者が現れて、リズは正直ほっとしているようでもあった。
昼の食事は、書斎から出て来ない父親のために、簡単なサンドイッチか何かを作って貰うのが常だった。それを大抵、書斎で一緒に食べるのだ。
エミッタは料理長とも既に顔見知りで、幾つかの料理のレシピを、今度教えてもらう約束になっていた。
父親のルースは、難しい顔で難しい本を、朝から晩まで読んでいた。『竜言語で書かれた魔法に関する本』だと父親は教えてくれたが、どんな内容なのかは話してはくれなかった。
もっとも、聞いたところでエミッタに理解は出来なかっただろうけど。
しばらく同じ机で一緒に食事をし、エミッタが適当な挿し絵の入った本を開いても、父親は無反応だった。父親の様子に戸惑いながらも、エミッタは読書に耽る。
しばらくすると、ルシェンが退屈して外で遊びたいと催促する。そうするとエミッタは父親に断りを入れて、裏庭で仔ドラゴンと犬達の相手をする。
犬達は、待ってましたと歓迎ムードで少女をお出迎え。
夕方になると、館の主のリットーがいつもより早めに仕事を切り上げて帰宅して来る。書類仕事に関しては、家に戻っても続くらしいのだが。日によっては、オルレーンが一緒の時もある。
そして、皆で食事の時間を取るのが、大抵の一日の流れである。
「……おチビちゃん、うちの犬っころと遊ぶのは構わないが、少しその……レディに対してこう言うのも何だが、犬の匂いが服に染み付く程戯れるのは……」
エミッタは小首を傾げ、自分の匂いを改めて嗅いでみた。ルースは今更気が付いたかのように自分の娘を見遣って、その衣服の汚れ具合を確かめる。
エミッタは気まずさと気恥ずかしさの余り、逃げ出したい気分だった。
「その……ごめんなさい」
蚊の鳴く程の声で謝罪する娘を、ルースはひったくるように抱き上げる。夕食のテーブルはまだ準備中で、食前酒と簡単なつまみ程度しか並べられていなかった。
「済まん、リットー……最近考え事で頭が一杯で、娘の面倒を見てやれなかった。風呂に入れてくるから、先に食事をしててくれ」
「そうだな、こっちはこっちでやってるから、気にせずゆっくり入って来てくれ。……それよりおチビちゃん、たまにはオルレーンと一緒に入っちゃどうだ……?」
そう言われても、エミッタには返す言葉がなかった。今日も同席のオルレーンは、笑いながらソファから腰を上げ、少女に手を差し伸べる。
落ち込んでいる少女を気遣うように、優しく言葉を選びながら。
「そうね、たまには女同士でお湯を使うのもいいわね。エミッタ、どう?」
ルースはエミッタを床に降ろし、代わりにルシェンを抱きかかえると、ソファにどっかりと座り込んだ。エミッタはルシェンに待っている様言い渡すと、オルレーンに続いて浴室へと向かう。
この屋敷の浴槽は、お湯を張る手間を考えて小さ目に造られていたが、それでも女性二人が一緒に入るには充分な広さだった。
屋敷にあった豪奢なレリーフや飾り付けは、浴槽にも見受けられるのだが。
「……そろそろ代わりましょうか、オルレーンさん?」
体中石鹸の泡だらけにされ、エミッタは少し息苦しそうにそう言った。オルレーンは楽しそうに鼻歌を奏でながら、少女の背中を洗っている最中だった。
「もう少し我慢しなさい……あら、こんな所にも傷跡があるのね。随分古いけど……」
「背中の傷は、多分木登りして落ちた時のものだと……」
エルドラーンに噛まれた傷跡を始め、オルレーンが古傷を見つける度、エミッタはその時の事情を覚えている限り彼女に話す。痛みは思い出さないが、父親に窘められた苦い思い出はしっかりと蘇る。
オルレーンは少女のやんちゃ振りに、感心していたようだったが。
ようやく交代して貰って、今度はエミッタがオルレーンを質問攻めにする順番だった。彼女の肌にも、傷跡が少なからずあったから。
職業柄だろうか、それを差し引いても引き締まった身体付きだとエミッタは感心する。
「いちいち覚えていないけど、この傷だけはね。血がいっぱい流れて、私はもう少しで死んでしまうところだった。ルースが命懸けで、私を戦場から助け出してくれたのよ」
「お父さんが……?」
オルレーンの脇腹の傷は、確かに白い肌に目立って浮き出ており、彼女の美しい体には全くの不釣り合いだった。エミッタは手を止め、考え込むように俯いて言葉を探した。
「オルレーンさんはお父さんの事が好きなの? だから、リットーのおじさんと結婚しないの?」
オルレーンはハッとして、少女の顔を気まずそうに覗き込んだ。しばらくはお互い黙ったまま、お湯の流れる音だけが浴室の中に響いてゆく。
オルレーンは、エミッタからヘチマのスポンジを受け取り、自分の体を洗い始める。
「そうね……何て言えばいいのかしら? この人に守って貰いたい、この人と一緒なら何が起こっても安心だっていう感情……ルースに対して、そう思っている事は確かよ」
「だってオルレーンさん……隊長を勤める程、強いんでしょ?」
「それとは話が別。女の身だと、辛い事が世の中には沢山あるの。そう言う時、あなたのお父さんみたいな人が側にいると、どんなに救われるかって思う事があるって話……」
エミッタにはよく分からなかったが、確かに父親の存在が自分にとって、測り知れない程大きい事は理解していた。そう思うと、年上の彼女の心情も少しは分かる。
打ち解けた気分で、エミッタは将来の夢をオルレーンに語った。
「今は守られてばっかりだけど、将来はお父さんを手伝ってあげたいな。一緒に冒険に出掛けられるくらい強くなって、お父さんに楽させてあげるの……あのね、今ルシェンを特訓してるのも、そのためなの!」
「あら、エミッタ自身の特訓はしなくていいの……?」
不意を突かれる言葉と共に、エミッタの頭からお湯がかぶせられた。エミッタは驚きと抗議の声を上げ、必死になって、目の中に石鹸の泡滓が入らないように目蓋をガード。
「今度の休みに、私がエミッタを特訓してあげるわ……言っておくけど、私の部下は私の事を鬼隊長って影で呼んでるのよ? あなたも、一応の覚悟はしておいてね」
食事が滞りなく終わると、エミッタがそれとなく父親に、故郷に手紙を書きたいと言い出した。交通機関どころか街道すら発達していない現状のこの世界では、手紙を出すのは博打か高い金を払うしかないのだが。
博打の方法と言うのは、どこかのキャラバン隊を捕まえて、行き先の近くまでの配達をとにかく頼み込む。そこで、また届け先近くまで行く人を探して貰うのだ。
運が良ければ、ルース親子が山の道で一行に加えて貰った、ヘンデルじいさんのような顔の広い人物に突き当たるかも知れないと言う程度の確率なのだが。
はっきり言って、その確率はかなり心もとない。
荷物の配達業は、確かに大きな街には存在していた。荷物の価値や重さ、それに加えてそこまでの距離で掛かるお金が違ってくるのは仕方がないが。
しかし、アザーランド行きとなると話は全く別だ。メルランド王国内ならともかく、そんな危険極まりない僻地には、荷物が安全に届く確率など極めて低い。
なんにしろ、命懸けの作業になってしまう。当然お金も沢山掛かりそうだ。
そんな話をリズや使用人の年上の人達から聞いて、エミッタは手紙をターフおばさんに書くという思い付きを、一度は諦めかけていたのだが。
ひょっとしたらお館様のコネで、何とかソーロン辺りまでなら平気かも知れないとの発言を聞いて。かすかな願いを込めての、皆がいる場での発言だったのだが。
もちろん、今の発言もリットーに聞こえるようにとの計算の元。
「ああ、お前さん達親子は長い事アザーランドの僻地に引っ込んでたんだったな。構わんよ、おチビちゃん。俺かオルレーンのコネで、あっち行きの人間に持たせてやろう」
「そうね……私の部下の方が速いかしら? 何しろアザーランドは一応属国扱いだから、軍隊の要請が多いのは確かよね。この間も、盗賊対策に出掛けたばかりの筈よ」
「あぁ、それならお父さんがやっつけて引き渡したよ、オルレーンさん?」
その場が一瞬、水を打ったように静まり返った。父親のルースの眉が、一度だけピクリと跳ね上がる。突然リットーが大声で笑い出し、何度も自分の太ももをピシャリと叩く。
何が可笑しいのか分からないエミッタだったが、オルレーンもつられて笑い出した所を見ると、どうやら馬鹿にされているのでは無いようだ。
「こりゃあ参ったな、オルレーン! 一国の正規軍隊より、僻地に引っ込んでいた元英雄の方が、今もバリバリに役に立つじゃないか! いや、めでたい事だっ、おいっ、酒を持ってきてくれ!」
「全くその通りね……腕が錆び付いているんじゃないかと心配したけど、無用のようねルース? それから、余り飲み過ぎないでよ、リットー?」
控えていた使用人が、主人の好みの酒瓶をテーブルに並べ始める。ここの所、オルレーンの目が光っていたので、食後の宴会も控え目な量に治まっていたのだが。
今夜は盛り上がろうと、お館様の鶴の一声。肝心の静止役のオルレーンも、肩を竦めて了承の素振り。父親は早くも、勝手に飲み始めている始末。
この街に辿り着いた、初日のような歓待ムードに染まる室内。
「おチビちゃんはどうするね? 寝る前に手紙を書くのなら、俺の書斎のペンと紙を使っても構わんよ?」
「えっ、本当に? じゃ、じゃあお言葉に甘えようかなっ!?」
エミッタは飛び上がって喜んで、父親を凝視。父親が頷くのを見て、もう一度飛び上がって喜びを表現。足元のルシェンが、甲高い声で鳴いた。
エミッタは仔ドラゴンを抱き上げて、書斎はどこかと訪ねてみる。
使用人の一人に案内されてエミッタが退場すると、リットーは使用人に伝言を頼んで人払い。しばし思案顔の後に、壁際の盗聴阻止の魔法装置を作動させる。
高価な装置だが、仕官役人には必須のアイテムである。
「そう言えば、おチビちゃんのあの仔ドラゴン……どういう経緯で手に入れたんだっけ?」
「旅に出て早々に、エミッタが偶然拾ったらしいが……」
「おいおい、ルース……まさかお前さん、本当に偶然だなんて思ってないよな!?」
ルースは言葉に詰まったように、口に運んでいたグラスを止めた。声をひそめたリットーの言葉は、ルースの弱い所を確実に突いた様だった。
ルースも旅の最中に、考えないでも無かった事柄なのだが。よりによって、娘のエミッタの前に現れた仔ドラゴンは、やはり何かしらの前兆であるには違いなく。
それが10年前の出来事と無関係ではないと、否定できない自分がいるのだ。
「私は辺境と呼ばれるアザーランドなら、何があっても不思議じゃないって気もするけど……実際はどんな場所なの、ルース?」
「いや、樹海や霊峰はともかく、俺の故郷はそこまで危険な場所でもないんだが……確かに、偶然に魔獣や霊獣に出くわすような場所でも無いのは確かだな」
オルレーンに自分の出身地の説明をしながら、確かにリットーの言う通りだと認めざるを得ないルース。だが、妖精の伝言にしろ仔龍のお届けにしろ、本当にリーフの仕業と言う事が有り得るのだろうか?
10年前にこの世を去った、最愛の女性。その際に命懸けでリーフが行った、エミッタの出産。自分が生き続ける糧となった、腕の中の小さな赤ん坊……。
今のエミッタを見て、リーフは何と言うだろう。子育てに失敗したとなじるだろうか?
物思いに沈んでいたら、オルレーンが気遣わし気に肩に手を掛けて来た。リットーも、空のグラスに酒を注ぎ足して来る。あの頃もこうやって、生き延びた者達が支えてくれた。
もちろん、この二人がその中心にいたのだが。
「あの子には、母親の事はある程度話したんだが……出生のいざこざも話すべきかな?」
「それは……お前さんも、ある程度あの子が成長してから話そうと思って隠してたんだろう? 確かに子供には、ショックな話だからな」
「そうねぇ……普通はコンプレックスになるわよねぇ」
デリケートな話だけに、声をひそめて言葉を選ぶ三人。その時、部屋の扉がノックされ、ディズが顔を覗かせる。魔法装置が作動しているのを目ざとく確認して、するりと部屋に滑り込む。
その動作は、訓練された者の動きだった。
「お呼びで、旦那様?」
「ああ、ディズを紹介するよ、ルース。俺が個人で雇っている、密偵と言うか情報収集員だ。最近調べ物をしてるって事だから、一応役に立てばと思ってな。それから、あと何人か紹介したい人材がいるんだが……」
ルースが眉をひそめてリットーを見た。それからディズの腕前を確認するように、幾つか質問を飛ばす。ディズが現在の宮廷魔術師の名前をスラスラ答えると、ルースは精霊の塔までの道のりの安全性と、オルバ爺さんの居場所を知りたいと口にした。
ディズは軽く頷いて、リットーに目をやる。
「何だ、しばらく魔法の書に向きっきりだったんだろ、ルース? そっち方面の情報は必要ないのかい?」
「ああ、知識の豊かな魔術師が近くにいるのなら紹介して欲しいのは確かだが……今の宮廷魔術師とは親しいのか、二人とも?」
「そんなの、自分で聞けばいいだろ? お前さんだって、名の知れ渡った救国の英雄なんだから。実際、城にも来て貰わないと、王様がおカンムリだぜっ!?」
オルレーンがクスリと含み笑い。自分も色々と、国王からせっつかれているのだ。さすがに英雄が、この屋敷に滞在していると言う情報は隠し切れないようだ。
リットーも酒が入って来ると、段々と愚痴モードに移行し始める。ルースの才能に触れては、辺境に引っ込んだのは勿体無いと大げさに嘆いてみせ、城勤めの辛酸は言うに及ばず。
ディズに同席を許し、猫背の使用人に酒をすすめ始める頃には、呂律も覚束ないよう。
「だいたいおでは、商人の方がむいでだんだお? 妖精の民とコネもあっだし、なんでやぐにんになっだんだぁろ?」
「知らないわよ、そんな事。それよりルース、私からもお願いしたいんだけど、最近は他国との関係が特に芳しくないのよ……少しだけでも手助けして貰えないかしら?」
「それは移民問題の事ですかな、オルレーン様。隣国から逃げ出して来た民たちが、このメリビル周辺に数ヶ月前から集い始めましてな。今では1万人を超える勢いですが、当然この城塞都市には入る隙間も無い訳でして」
オルレーンの言葉に、ディズが言葉を継ぎ足して来た。移民と言うより難民に近いその集団は、メリビルの王宮に庇護を求めて隣国から逃げ出して来た民の集団である。
ところが城塞都市には、これ以上民の入る隙間が無いのは公然の事実。隣国の民を受け入れる事は、もちろんその国とのしがらみを作る事にもなる。
それでも見殺しに出来ないと、現国王は国を挙げて救済に奔放しているらしいのだが。
難民が増えている原因は、隣国の内戦に原因があるらしい。ディズの情報はかなり詳しく隣国の内情を掴んでおり、1年前から内戦を始めたその国は、今や他国からも狙われる始末。
そうなると難民の数は、今までより増えこそすれ、減る事は無いだろうとの予想がつく。
「軍の方でも、今はそちらの情勢がどう転ぶか、躍起になって調査に走っているのよ。内戦は膠着状態が続いているけど、アクビス国が攻め込む姿勢を見せれば、しばらくは私達も緊張状態やある種の駆け引きが続くでしょうね。軍を動かす事になるかも」
「或いは国を通して、救援を要請して来るかも知れませんしな……もっとも、10年前にこちらの要請を無視した国など、滅ぼうが吸収されようが構いやしませんが。政治的な立場からすると、アクビス国が超え太るのを黙って見ている訳にもいかんでしょうが」
オルレーンが静かに頷いて、その意見に肯定の意を示した。ディズは情報の分析力も優れているようで、リットーの部下を見る目は確かなようだ。
ルースも10年前の、戦後の混乱を放り出して逃げた負い目がある事も確かだ。かと言って、自分に何が出来るかと問われても、剣の腕や腕力以外は自慢になるような特技は無い。
ましてや、一人ではアクビス国への牽制にすらならないだろう。
「俺を利用するのは構わんが、俺のネームバリューも隣国には通用しないだろう。内戦を終わらせたり、アクビス国の牽制になったりはしないと思うがな」
「それはそうだけど……少なくとも、自国の治安回復にはなる筈よ。情勢不安は、自国にも波及しているのは確かですもの。何しろ、1万人を超す他国民が国内に腰を据えているのよ?」
「確かに、そういう不安や不満は自国民の間に生まれて来ておりますな……城砦都市内はともかく、近辺の街との諍いも何度かあったとの報告が届いています」
ディズが冷静な口調で、そう情報を提示して来る。そう言う時には、心強い柱が必要なのだとオルレーン。皆が知る救国の英雄なら、その素質は充分にある。
何しろ、あれから10年経った今でも、国王とその危機を救った友情のサーガはとんでもなく有名なのだ。戦争の傷痕が生々しさを減じても、そういう話はむしろ生き生きと、人から人へと伝わって行くのだ。
身内びいきが過ぎると、ルースは内心恐縮気味なのだが。妖精の告げた約束の日まで、幸いまだまだ時間がある。ここに厄介になってる分は、働いて返すのも悪くは無いだろう。
その肝心のお館様は、今や完全に酔い潰れている様子。机に突っ伏して、既に皆より先に夢の中。本当ならば、この辺りの事情はリットーから為されるべきなのだとオルレーン。
ディズがそのための情報を、最後に簡単に伝えて来た。
「国王は既に、ドワーフの職人を100人単位で雇う算段をつけているようですな。そのための土地については、候補地が幾つか上がっているようですが。旦那様が雇った若い風水師が、近日城に招かれるそうです」
「それは丁度いいわね、ルースも一緒に国王に面会する事にすれば? とにかくこれ以上は、国王に言い訳は通用しそうに無いわ!」
自分の身の回りの処理を優先していたら、何時の間にかにっちもさっちもいかない状況に追い込まれていたようだ。全く、父親を演じるのがやっとの自分に、国王と国の危機について話し合う機会をつくれだと?
国を救おうと理想に燃えていた、青二才の頃の自分はもういない。それは自分自身が良く分かっていた。あの頃は、得たものも多かったが、それ以上に大切なものを失う事態に何の対処も出来なかった。
今はどうかと訊かれても、昔と大差の無い体たらく振りだ。
理想は、まだ確かに胸の中にある。それは静かな揺らめきとして、心の奥底に残っている。しかし、確固とした信念と、それを突き動かす情熱は、あの頃に最愛の人と共に失ってしまった。
正直に胸の内を明かすと、ルースは10年経った今でも、あの時の喪失感と向き合うのが怖かったのだ。正気を失いそうな胸の痛みと、再び対面する自信などありはしない。
それでもここまで旅して来たのは、ひとえに娘のためである。
今の自分には、娘のエミッタがいる。それだけが、過去との邂逅に立ち向かえる己の唯一の武器である。そして、娘が本当の事を知る、良い機会だとも思ったのも事実だ。
娘の側には、常に自分が連れ添っていてやれば良い。少なくとも、精神的な支えが必要な事態に備えられるように。恐らく旅の終点には、少女が耳を疑うような真実が横たわっている筈だ。
自分が知る限り、それは紛れも無い現実なのだから。
――だが、その時真実と母親のリーフは、一体どこに位置するのだ?