♯03 鬼神ルース
あれだけの冒険のあとにしては、次の日の朝は何事もなくやって来た。エミッタは昨日の誘拐未遂の事を、結局は父親に話さなかった。酔って上機嫌の父親を心配させまいとの配慮もあるが、狙われたのがリシェンだったという事実も考えた結果だ。
ルシェンは自分のペットで家族の一員なのだから、自分が守るのは当然の事。父親が自分を何時いかなる時も、気遣い見守ってくれているように。
エミッタは堅い決意で、そう決めていた。
幸い父親は、エミッタのずぶ濡れになった靴には気が付かなかった。昨夜は早々と自分のベットに入り込んだエミッタは、これからの予防策に頭を悩ませた。
結果、ルシェンを目立たなくさせるのが妥当だとエミッタは思い至る事に。そんな訳で早朝の出店で、父親に竹で編まれたバスケットを買って貰ったのだが。
それに仔ドラゴンを詰め込んで、エミッタは父親と一緒にエルドラーンに乗っていた。
旅立ちは荷馬隊の連中に見送られて、賑やかなものに。ルースはいつの間にか、若い護衛達の尊敬の的になっていた。エミッタでさえその娘という事で、一目置かれていたりして。
ヘンデルじいさんは、二人に短い別れの言葉を贈り、最後に食料を分けてくれた。エミッタは別れの返事とお礼の言葉を贈り、父親に担がれて馬上の人となった。
朝の人並みがまばらな大通りを通って、南口から街道へと出る。再び親子二人の旅となって、エミッタは何となく父親の腕の中で解放感を感じていた。
エルドラーンにしてみれば、ルースの他に荷物が二つも増えた事に文句の一つも言いたそうだったが。それでも一日の旅の距離は、しっかりと稼いでくれた。
何度も言うが、彼は自分の仕事は忠実にこなすのだ。
途中何度か休憩をはさみ、昼過ぎには遠くの前方に小高い山が見えて来る。辺りは既に開墾された田園風景ではなく、普通の野原になっており、時折遠くに野生動物がのんびり寛いでいるのが見えた。
「お父さん、メリビルって都会なんでしょ? なんだかどんどん寂しい風景になって行くみたいなんだけど……」
エミッタは寂しい景色を目のあたりにし、心配気に父親に尋ねる。久し振りの訪問なので、途中で方向を間違ったのではないだろうか?
エミッタの頭の中の都会は、昨日泊まった街の5倍くらい栄えているイメージだったのだが。
「ああ、メリビルは王都でもあるからな。攻め込みにくいように険しい場所にあるんだよ」
「誰が攻め込むの? 怪物達?」
「昔はその攻撃に耐え切ったよ。今でも諸外国とは、仲が好いとは言えないからな」
ルースは簡単に、メルランドの歴史について語り出した。上位魔神ガルディアック率いる魔王軍がメルランドに進行して来た時、現国王ルドロス四世は、諸王国に軍隊の応援を要請した。
相手は魔界の者なのだから、力をあわせて撃ち破ろうと。
だが諸王国は、いい加減な理由をつけて要請に乗って来なかった。自分達の軍事力は温存して、二つの大軍が弱り切った時に一気に攻勢に出ようとの思惑は見え見えだ。
城塞都市を囲まれて、防戦一方のメルランド軍だったが、意外にも援軍は国内に集結していた。それがルース達の率いる傭兵軍で、妖精族や民兵を含む寄せ集めにもかかわらず、敵軍の王であるガルディアックを倒すに至った。
魔王ガルディアックは力を失い、メルランドに対し休戦を求めて来た。お互い兵力は依然として損なわれておらず、温存しておきたいのも共通の考えだったので、ルドロス四世は結局はこれを呑んだのだった。
ルドロス四世は、諸王国から魔族と取り引きをした王として謗られたが、長い戦争を終わらせる事で国内は再び安定を取り戻す事となった。
だが、諸外国との仲は依然悪いまま。
「そして今に至るわけだ」
ルースはそう言って、自分の関わった戦争の歴史を語り終えた。ルースにとってはかけがえのないものを得、そして同時に失った、自分の過去でもある訳だ。
今思い出しても、胸に暗い影と痛みが存在する。
「その休戦の会合って言うのが精霊の塔であったんだよね。お父さんも、それに参加したの?」
「いいや、国王にも要請されたんだが、とてもそんな気になれなかった。仲間に代わりに出てもらって、俺は塔の近くで拗ねてたよ」
エミッタは頭の中で、最近聞きかじった事を整理しながら父親に尋ねる。その質問に対しての返答はまるで自嘲的な呟きのようで、エミッタはそれが母親の死が原因だと悟った。
それからふと、ある事に思い至る。
「ふーん……じゃあ私は、その時にはもう生まれてたんだよね? 戦争の間、私の面倒は誰が見てくれてたの?」
「あ、ああ。そうだな、安全な場所で……いや、母親と一緒に戦場で育ったんだ」
ルースの答えは、慌ていた上にあやふやなもの。エミッタはその答えに妙な違和感を感じたが、父親に話を逸らされてしまった。遠くにヤギの群れが見え、ここは畜産の盛んな土地だとか、あさっての夕方にはメリビルに到着するだとか。
夕暮れが西の空を茜色に染めても、ルースは馬達の脚を止めようとはしなかった。もう少しだけ進めば、小さな村がある筈だとの事である。エミッタは目をこらして前方を確認しようとしたが、なだらかな起伏のせいか村の明かりも暖炉の煙りも見つける事が出来なかった。
太陽の明かりがいよいよ大地から消え去った頃、崖道に差し掛かった。そこで初めて、父親が山の中腹を指差す。そこには確かに、村の明かりらしき物が見えた。
それから一時間程で、ルース親子はようやく小さな村に辿り着いた。昨日滞在した街と較べるとかなり小さいが、ちゃんと宿屋も雑貨屋も存在するらしい。
ルースは宿屋の看板を見つけると、馬達を馬小屋へ導いて勝手に飼葉を与え始める。
エミッタは父親を手伝おうと、エルマに乗せていた旅の荷物を宿の建物へと運び入れる。簡素な造りのドアを開けると、一階は予想通り、酒場兼食堂になっていた。
「あのっ、お父さんと二人、泊まりたいんですけど……」
エミッタはカウンター越しに、宿屋の主人と思われる男に声を掛けた。白髪混じりの中年の大柄な風体で、エプロンを着けて忙しそうに酒のつまみを作っている。
「おやおや泊まり客かい、こんな田舎に? ブロース、すまんがお嬢ちゃんの荷物、部屋まで持って行ってやってくれ」
「あいよっ、その代わり一杯つけてくれよな」
食堂で飲んでいた男が、返事とともに立ち上がった。エミッタはびっくりしてその大男を見上げる。身長は父親程ではないが、横幅なら猶に二倍はありそうな巨漢である。
赤ら顔は酔ってるせいだろうが、それを差し引いても意外に愛嬌がある。歳は父親と同じか、それとも少し上だろうかとエミッタは想像した。
どうやら、宿屋の店員ではなさそうではあるのだが。店の主人に言われた通り、エミッタから荷物を受け取ると、危ない足取りで階段を昇り始める。
エミッタはちょっと心配顔で、巨大な男が転ばないよう祈りながらついて行った。
「ああ、これはいいの。私の荷物だから」
「おやまあ、そいつはひょっとして……」
仔ドラゴンのバスケットまで取り上げられそうになって、エミッタは慌ててそう言った。それがかえって、大男の興味を惹いたようだった。ブロースと呼ばれた男は、スヤスヤと寝息をたてて寝ているルシェンを、楽しそうに覗き込む。
エミッタは反射的に庇おうとしたが、既に見られた後なので何となく開き直ってしまう。
「ドラゴンの子供よ、何か文句ある?」
「いやぁ、この国では幻獣、特にドラゴンを所有するのに特別な許可がいるんだよ。昔傭兵してたから、俺ぁそう言うことに詳しいんだ。確か……レ・グリンって言う元締めがいるんだよ。会った事はないけどな」
大男はそう言って済まなそうに頭を掻いた。エミッタは憤慨して、大男に詰め寄る。
「何で許可なんて必要なのっ? 私はただ、迷子のこの子を拾って世話してるだけじゃないっ!」
「いやぁ、俺に言われても……」
ブロースは大きな体を縮こまらせて、逃げるように階下へと飛び去って行った。エミッタが後を追って行くと、父親が既に食堂のテーブルに着き、皆の注目を集めていた。
エミッタは憤慨しながらも、父親の隣に大人しく着席する。ルシェンのバスケットを足下に置いて、隅のテーブルに着いてこちらを伺っている大男を睨み付けてやる。
大男は、やっぱり恐縮して縮こまる素振り。
父親は、ドラゴンの所有許可のことを知っているのだろうか。エミッタは多少不安にかられたが、あの男が見ている前では父親に尋ねるのははばかられた。
もしその元締めなる人物から許可が取れなかったら、ルシェンは取り上げられてしまうのだろうか……? せっかく、縁があって自分の家族になった仔ドラゴンなのに。
そんな事態になるのは、絶対に嫌だ。
エミッタは上の空で、運ばれて来た温かな食事を機械的に口に運んでいた。そして不意に、自分の靴が齧られているのに気付いて、驚いて足下を見遣る。
ルシェンが起きて、食事の催促をしていた。
「ああ、ごめん。ほら……」
エミッタはルシェンを膝の上に抱いて、食事を与えてやる。その時、先程の大男がこちらに近付いて来るのが見えた。エミッタは警戒してルシェンを抱き締める。
父親のルースは既に食事を終えて、酒を口にしていた。
「あのぅ、旅の方……? 俺の口出しする事じゃあないと思うんだが、さっきもこのお嬢ちゃんに言ったんだ。ドラゴンを所有するには許可が必要で、それがねえと役人と揉める事になっちまうよ。特に今からメリビルかメリロンに行こうってんなら、金品目当ての強盗なんかにも気を付けにゃあ……」
それはもう経験しました、とエミッタは心の中で呟いた。どうやらこの大男は、本当にエミッタ達の事を心配して、親切心で忠告をしてくれているだけらしい。
でなければ、強面の父親の前でこんな事は言えない筈だ。
エミッタは自分の短気な性格を少しだけ反省して、何かお礼の言葉を言おうとした。だが、この気の優しい大男は今、父親に向かって話し掛けているのだ。
エミッタは言葉を呑み込んで、父親の反応を注意深く観察する事に。
「忠告は受け取っておこう。まあ、役人には知り合いもいるから何とかなるだろう」
ルースはそう言って、娘のエミッタをちらりと見た。エミッタは、思わず赤くなって首を竦める。先ほどの遣り取りを、全て覗かれた気になったためなのだが。
ところがブロースは、何かを思い出すように父親の顔を仰視していた。その顔が呆気にとられたようになり、ブロースの口からやっとの事で言葉が漏れ出る。
崇拝するような畏怖するような、それはそんな口調だった。
「あ、あのぅ、おじさん。さっきはごめんなさい……」
「き、鬼神ルース……?」
エミッタの謝罪の言葉は、あっさりスルーされた模様。しかしブロースの搾り出した台詞は、前にもどこかで聞いた事があったような。どうやら父親の昔の売り名らしいが、エミッタはあまり好きではなかった。ところが父親はおもしろがるように、驚いて口もきけない大男を眺めている。
酒が回ってくると、父親は陽気になる。エミッタはそれを知っているので、父親の誕生日のプレゼントは、いつも地元で手に入る酒と決めていた。
それから、無礼講と言う言葉。ターフおばさんから聞いたこの言葉は、父親のお気に入りだ。
「ひょっとして、あんたも傭兵の出か? 俺の部隊じゃ無いのは確かだな。俺が顔を知らないし、第一生き残った奴はほとんどいない」
「お、俺ぁ町の守備隊に所属してたブロースってもんで……」
そこから先は、エミッタの知らない話ばかりだった。生きた神話を前にして、ひたすら恐縮していたブロースだったが、一緒に酒を交わす内に次第に口調もくだけて行く。終いには、酒場に居たもの全員が、その酒盛りに加わっていた。
陽気な話声や相づちがそこかしこに飛び交い、ジョッキの数もそれに連れて増えて行く。不意に起こった宴会は、いつ終わるともなく賑やかに続くような勢い。
最初こそ、場違いながら父親やその相手の酌をしていたエミッタだったが。そのうち疲れて、父親の側で丸くなって寝入ってしまった。
目が醒めたのは、夜もふけ、父親に抱きかかえられて階段を昇っている最中だった。夢うつつの中で、その心地良い浮遊感だけが記憶に刻まれて行くよう。エルドラーンも、こんな素敵な乗り心地だったら良かったのに。
そう思いつつ、エミッタは再び眠りについた。
父親が眠そうな顔をして、宿を出て来る。エミッタはずいぶん前に朝食を食べ終えて、村のあちこちを見て回っていた。昨日の到着時には、辺りは真っ暗で、景色を見る所ではなかったのだ。
村の外れの空き地には、遠くまで見渡す事のできる高台があった。エミッタにはそこから見える景色が、昨日やって来た場所なのか、それともこれから行くべき場所なのかさっぱり分からなかった。
「お父さん、大丈夫?」
エミッタは、飲み過ぎて具合の悪そうな父親に心配そうに尋ねる。昨日、やはり同じ宿に泊まった巨漢のブロースが、後から続いて出て来た。
「道中気を付けて下さいや、メリビルまでは結構な田舎道ですから。魔獣に襲われた報告も、最近は結構耳にするんで。新しく山を迂回する道が出来てから、この山道を登る道のりは、最近はめっきり使われなくなったんで」
どうりで、宿屋の主人が旅人の来訪に驚いていた訳だ。ブロースの言う安全な道のりは、山を迂回する完全な回り道になっており、馬を使っても余計に2日は掛かるとの事。
元来た道を戻ると、合計で5日も掛かってしまう計算になる。このまま山を下れば、最短で2日となるらしい。ルースは思案の結果、近道を選択する事に。
急ぐ旅ではないが、来た道を戻るのも馬鹿げている。エミッタも同意見だ。
ブロースも二日酔いの顔色で、取り敢えず見送りだけのために起きて来たようだった。ルースは軽く手をあげて、与えられた情報に感謝する。と言うよりは、口を開くのも辛そうだった。
一旦出発すると、進路もペースも後は全て馬まかせだった。エミッタは父親を気遣ってずっと喋らずにいたのだが、エルドラーンは気の向くままに足を進ませていた。
それでも、道のりは稼げた様子。昼過ぎに、父親がやっと口を開いた。
「……不味いな、道が崩れている」
「それって、辿り着けないって事?」
「いや……代わりの道は出来ているのか。さて、近くの街に日のある内に辿り着けるかな?」
思案気に、ルースが首を傾げる。首をめぐらせて様子を窺っていたエミッタは、父親がようやく気力を回復しつつある事に気付いて胸を撫で下ろす。
水筒から水を口に含んだルースは、娘にも回して来る。どうやらやっと、二日酔いは撃退したようだ。お昼を食べたばかりのエミッタだが、有り難く水分を補給する事に。
馬上と言うのは、意外とのどが渇く。
ブロースの言っていた田舎道は、永遠に続くかと思われた。エミッタはなんだか分からない緊張感で、じっとりと手のひらが汗ばんでいるのに気付いた。
大きな岩がごろごろ転がる急な丘を下る度に、エミッタは何か見えないかと目を凝らしてみる。風の吹き方が、何だかおかしい。夕方が迫って来るのだが、小さな街すら視界に入って来ない。
山を下りきる前に、とうとう太陽の最後の日差しはその勢いを失ってしまったよう。
「あーあ、今日は野宿みたいだね、お父さん」
「そうだな、前の村でしっかり道順を聞いておけば良かったかな?」
「魔獣に襲われちゃうかな?」
「どうか分からんが、警戒だけはしておこうか」
どこかのん気な父親の口調に、少しだけ緊張の糸もほぐれるエミッタ。風の運んでくる言葉も、夕方と変わりなく緊張を孕んでいるのだが。
エミッタは気にするのを放棄して、父親のお腹にもたれ掛かった。
薄闇の中、ルースは大きな岩の重なり合った岩場を見つけ、ようやく馬の歩みを止めた。上手い具合に、潅木も水場も近くにある。焚き木と飲み水には、不自由はしないだろう。
馬から下りたら、ルースはたちまち火をおこしに掛かった。簡単なまじないで火種を起こし、枯れた葉っぱが煙を上げ始めた。エミッタは荷物を馬から下ろし、岩場の隙間に移動させる。
夜露にやられない様、こう言う所で手抜きをしては駄目なのだ。
それが終わると、完全な暗闇がやって来る前に、焚き木を一箇所に集めてしまう。近くに流れる川のせいで、流れ着いた小枝の類いには苦労しないのが有り難い。
それは、飲み水に関しても同様の事。
馬の世話に掛かり切りになっている父親の替わりに、エミッタは荷物の中から調理道具を出して行く。野宿になろうと、この一連の作業は家での家事と変わりはしない。
忙しなく、それでも順序良く、今日の夕ご飯の支度を整えて行くエミッタ。鼻歌交じりの少女の手元は、いつもより暗いのが難点ではあるが。夕食の食材に関しても、どうしても寂しくなってしまうのは仕方が無い。
ハムを炙って、パンも温めて……スープはどうしよう?
乾燥した野菜の類は、荷物の中に入ってはいた。それらは持ち運びも便利で、保存も利くのは嬉しいのだが、水で戻すのに時間が掛かってしまう。
まぁいいやと、取り敢えずはカブと豆を水に浸していくエミッタ。夕食に間に合わなければ、朝ご飯に廻せば良いのだ。カブは恐らく、夕食には出せる筈。
焚き火の調子を見ながら、鍋を何とか火にかける準備。
即席のかまどは不恰好だが、暖を取るにも夕食の支度にも充分だった。お湯が沸き上がり、鉄櫛に刺したハムも良い香りを放ち始める。周囲は完全に日が落ちて、月明かりで周囲の輪郭がかろうじて分かる程度だ。
ルシェンがエミッタの足元をうろついて、少女に何度も注意されていた。自分の居場所を決めかねて、戸惑っているのだろう。ようやく父親が火の前に腰を下ろし、一息つく仕草。
エミッタは後ろを大岩に、前を父親にはさまれ、何となく安心感を得る。
「スープの具が寂しくなっちゃうけど、お父さんいいかな?」
「構わんよ、薪は足りるかな?」
エミッタは、一晩中不自由しない程度には集まっていると答え、父親は静かに頷いた。馬達のいななきが、割と近い場所から聞こえて来る。
食事の支度に集中していたエミッタは、確かに途中までは野宿の不便さも含めて楽しんでいたのだが。食事が終わってしまうと、周囲の寂しさだけが浮き上がってくる。
水の流れる音と、木々のざわめき。エミッタはいつしか敏感になって耳をそばだてていた。
父親が鍋とスープ皿を洗いに川辺に歩いて行く時にも、エミッタは不安げに後に続いた。ルースは何も言わずに、明かりの不自由な中で鍋の汚れを落としている。
ルシェンも飼い主の緊張が移ったのか、エミッタの足元で静かに身を伏せていた。
「お父さん……何か変な音が聞こえない?」
「音……? どんな音だ、エミッタ?」
「音じゃなくて、声……なのかな? 何かが迫って来るような」
ルースは束の間、作業を中断。自然の奏でる音の中から異物感を聞き取ろうと、神経を集中している様子。しかし、幾ら耳を澄ましても何も聞こえては来ない。
エルドラーンも、今の所異変を訴えて来ない。ある意味、人間より信頼が置けるのだが。
焚き火の前に戻っても、エミッタの緊張振りは収まろうとしなかった。終いには、身体を小刻みに振るわせ始めた娘を見て、ルースは呆気なくキャンプを畳んで移動する事に決める。
少女の母親、つまりはルースの妻も、こう言った感覚は鋭かったのだ。先を見通す目が異常に鋭敏で、その能力のお蔭で何度も危機を乗り越えた経験がルースにはあった。
自分の感覚に鈍重に従うより、今は娘の身の上を心配するのが先決だ。
ルースは枯れ枝を掻き集めて松明をつくり、近くの岩に立てかけた。それから半ば眠っていた馬達を叩き起こし、エルドラーンに娘を、エルマに荷物を乗せる。
超過勤務の労働だが、エルドラーンは文句の一つも訴えて来なかった。逆に気を張って、周囲を慎重にねめまわす素振り。彼にしては珍しく、鞍の上の余計な荷物も気にしていないようだ。
焚き火を慎重に消し終えると、辺りは松明の明かりのみに。ルースは片手にその松明を、反対の手でエルドラーンの手綱を掴んで歩き出した。
暗闇の中を、たった一つの明かりを頼りに。
しばらくは静かな行軍だった。ルースは何度か娘に声を掛けて、具合を確認する。山火事が怖いので川辺の砂利道を進んでいたルースだが、幸いな事に細い道が設えてあった。
暗闇の中に、足を取られないで進む道があるのは有り難い。自分もそうだが、もし馬達が捻挫でもしようものなら、取り返しがつかない事態になってしまう。
しかし、何故こんな事になったのだ?
「お父さん……ここどこ?」
エミッタが、急に放心状態から抜け出したように、素っ頓狂な声を発した。実際、この暗闇に現状を把握出来ずに、驚いているのかも知れないけれど。
ルースは一度立ち止まり、エルマが無事について来ている事を確認した。鞍上のエミッタは、一人で鞍にまたがっている事に驚きつつも、父親が側にいることに安堵したようだ。
しかし、ルシェンがいない!?
「お父さん、ルシェンはどこっ!?」
「後ろのエルマの鞍上だ。荷物と一緒に、多分眠っている筈だ」
エミッタはほっと安堵の表情を見せ、ようやく落ち着きを取り戻した様子。しかし、今度はエルドラーンが不機嫌にいななき始めた。ルースは慌てて、娘を鞍から降ろす。
エミッタは瞬間、風向きが急に変わったような、川の流れが急に逆流し始めたような違和感を感じた。それはエルドラーンも同じだったようで、不機嫌ないななきは戦闘前の雄たけびに、何時の間にか変わっていた。
ルースは娘に松明を渡し、大剣を抜き放った。
「お父さんっ……!」
「木の側で伏せてろ、エミッタ! エルドラーンに踏み潰されるぞ!」
鋭い雄たけびの声は、今や複数に増えていた。川の反対側の山の斜面から、爛々と光る赤い目の列が、力強い足取りで近付いて来るのが確認出来た。
木々の間を縫って、狩りを楽しむような足取りの魔獣の群れは、軽く10匹を超えているようだった。エミッタは父親に言われたように、松明を手に近くの木の根元に身を隠す。
エルマもルシェンも心配だが、今は自分が足手まといにならないようにしないと。
「松明を捨てて木の上に登れるか、エミッタ?」
「ちょっと無理みたい。枝が手の届くところにないの」
魔獣達の唸り声は、意外と近くから聞こえて来る気がした。父親との会話に気を取られている内に、距離が縮まったのかも知れない。
そう思った途端に、父親が最初の1匹を刃に掛けていた。鋭い悲鳴と、何かがドサッと地面に叩き付けられる音。裂ぱくの気合は、紛れもなく父親のものだ。
次の襲撃は、一気呵成だった。瞬く間に周囲に獣の匂いが立ち込める。
父親がエミッタの名前を呼んでいる。エミッタは大声で返事をしながら、木の根元にしがみついていた。血の匂いが立ち込めて、エミッタは極度の緊張と相まって気分が悪くなって来た。
それに紛れて聞こえて来るのは、ほとんどが魔獣の絶命の叫び声だった。気味が悪いほど、人間の甲高い悲鳴に似ている。エミッタの内臓はでんぐり返しを起こしそうに。
襲って来ている敵は、一体どんな姿をしているのかと気にしたのが、あるいは不味かったのかも知れない。運命の女神は、時に気まぐれに望みを叶えるものだ。
エミッタが結局捨て切れなかった唯一の光源の中に、そいつは低い唸り声と共に現れた。犬のような姿を想像していたが、実際はもっと手足が長くて不気味だった。
灰色に濡れたような毛並みは、長くて硬そうだ。エミッタの背丈より高い位置から、細長い切れ長の赤く光る眼光が、餓えた視線を送って来ている。
大きく裂けた口は、小さな獲物を前に舌なめずりしているよう。
考える思考を手放さなかったのは、エミッタにとって僥倖だった。とっさに差し出した松明が、魔獣の鼻面に思い切りねじり込まれる。絶叫は、闇を切り裂いて響き渡った。
エミッタも、それは同じだった。やや離れた場所で、父親の慌てる気配。しかしそれよりも前に、馬の蹄の立てる音がエミッタの後ろから響いて来た。
エルドラーンだ。彼はその巨体を生かして、既に数匹の魔獣をその蹄に掛けて始末していた。鼻先を焼かれて苦しんでいた敵も、エルドラーンは簡単に踏み殺す。
その戦闘力は、魔獣を前にしてすら圧倒的だった。
エミッタは、父親に無事を知らせながら松明を大きく振って見せた。その光の中にエルマの無事な姿も確認出来て、エミッタは思わず涙が出そうになる。
彼女はエルドラーンと紐で繋がれており、やや恐慌状態にあったが、背中の荷物は無事のようだった。何とか落ち着かせてやりたいが、今近付くのは危険過ぎる。
その間の時間は、エミッタにはとてつもなく長く感じたのだが。実際は、ほんの数分間の出来事だったのだろう。周囲の変化が急激過ぎて、自分の感覚は全く当てにならなくなっている。
騒がしかった魔獣の声は、今や悲鳴と共に遠ざかって行く気配。完全な負け戦に、尻尾を巻いて逃げて行く。生き残ったのは、実際はほんの数頭だったのかも知れないが。
何しろルースの大剣が始末した数は、二桁に達する勢いだったのだから。
「エミッタ、どこだっ!? 無事かっ!?」
「お父さん、ここよっ! エルドラーンがまたどっかに行っちゃったっ!」
ところが巨体の黒馬は、案外近くから飛び出して来た。エミッタの持っている松明の明かりに反応して、凶暴ないななきを未だに発している。
父親が近付いて宥めに掛かる前に、それは起こった。命を助けられた事で心のガードを解いていたエミッタは、完全に不意を突かれる格好になってしまった。
顔面の体当たりで、エミッタは文字通り吹き飛ばされてしまったのだった……。
血の匂いの立ち込める場所から離れると、幾分気分も落ち着いて来た。エミッタは、まだヒリヒリする身体の傷を気にしながら、ルシェンと共にエルマに騎乗していた。
あんな事があった後で、エルドラーンに身を預ける気にはならない。
父親に手綱を任せて、暗闇の山道を進んで行く。眠気は感じなかったが、疲労は重く少女に圧し掛かって来ていた。本当は、いつもはとっくに寝ている時間である。
疲労度で言えば、父親の方が上であろうとは思うのだが。馬達の足元を気遣って、ルースは手綱と松明を両手に、徒歩で山道を移動しているのだ。
早く安全な場所に辿り着けないだろうかと、心底思うエミッタ。
重い頭で考えていたのだが、実際に父親が足を止めたのは1時間は経った後だっただろうか。轍の跡が伺える大きな道に突き当たった一行は、ようやく警戒を解くに至った。
大きな木の下で、宿泊と言うより人馬一塊となって朝まで休息を取る事に。荷物の中から毛布を取り出して、親子で包まって木の幹に寄り掛かる。
毛布の感触を感じた瞬間、泥のような眠りに少女は身を任せた。
朝の空気は、思っていたよりも新鮮な気がした。それを嗅ぎ分けられるのも、生きている証である。エミッタは感謝の気持ちをこめて、清浄な気を発する朝日を仰ぎ見た。
父親はまだまどろみの中だった。エミッタははたと気付いて、荷物の中からルシェンの竹籠を探し出す。仔ドラゴンは、昨夜の騒ぎなど知らなかったように、静かに寝息を立てていた。
いい気なものだと、エミッタは拍子抜け。
トイレを済ませたり、しばらくごそごそやっていると、父親が目を覚まして来た。ルシェンも目覚めて、慌ただしくなって来たが、まだ睡眠中の馬達を気遣って静かに朝の支度を済ませる。
ルースも、昨日おざなりにしていた大剣の汚れ落としに時間を取っていた。
朝食の支度をしながら、エミッタは改めて周りの景色を眺めてみた。昨日夜半過ぎに抜け出して来た細い山道が、茂みの向こう側へと延々と続いている。
実際歩いて来たのは、川辺の獣道だったのだろうが。結局あの魔獣との真夜中の遭遇は、山中で道を失った末の不幸の遭遇だったのだろうか……。
何にしろ、最悪の結果にならずに済んで良かった。
二人と一匹で朝食後も、ルース親子はしばらく上っていく朝日を眺めて時間を潰していた。山を降りてみれば、広がるのはなだらかで肥沃な大地である。
稜線がどこまでも続いており、遠くには茶色い絶壁の峰が窺える。父親のルースが、あの稜線は見た事があると口にした。ただし、メリビルだったかは思い出せないらしい。
「まだ出発しないの、お父さん?」
「そうだな……もう少し、馬を休ませてやろう」
田舎暮らしの常識では、馬などの家畜の価値はそれこそ一財産である。緊急時でない限りは、自然と労わる気遣いが身についてしまっている。それはエミッタも同じ事。
二人してのんびりと時間を過ごしていると、街道をおんぼろの荷馬車がやって来るのが見えた。エミッタは立ち上がって、何となくその姿を窺ってみる。
乗っているのは、年老いた農夫だった。荷馬車を引いているのも、年季の入ったロバのようで、ヨタヨタと道を進む姿はどこか呑気でユーモラス。
親子に気付いた老人は、二人の前で荷馬車を止める。それから何事かとルースに話し掛けた。
「あんたら、こげな場所で野宿かいっ? 30分もいげば、宿町があんのによ?」
「新しく出来た道に気付かずに、山道を進んでしまったらしい。お蔭で野宿する羽目になってしまったよ」
「そりゃあ、難儀だったげなぁ、ここいらは山の獣がおっがないでよ! 襲われずに済んで、やれやれだわいなぁ」
全くその通りだと、しれっとした顔でルース。昨夜の事は話さないでおく事にしたらしい。老人を不必要に怯えさせる必要も無いと、判断を下したようだ。
エミッタは荷馬車の荷物を何気なく確認したのだが、馬車の後ろには何も乗っていなかった。街まで荷物を運んでの、恐らくは帰り道なのだろう。
老人と父親の会話はなおも続いており、どうやら途中まで同行する事で話は折り合った。
そんな訳で、エミッタは気の毒なロバの、新たな荷物となってしまった。荷馬車に老人と同席させて貰って、ゴトゴトと揺られて進む。父親はエルドラーンに騎乗して、前を進んでいる。
老人の話はなかなか面白くて、農場で作っている沢山の野菜の話はエミッタを驚かせた。小作人を雇って物凄く広い面積で、小麦や野菜を作るのだそうだが。
家族のような生活を年を通して過ごすうえ、収穫期は凄い騒ぎになるらしいのだ。
そうして出来た小麦や野菜を、町に売ってお金にするそうなのだが。ここら辺りは野党は出ない代わりに魔獣が巣食っているらしく、家畜の被害は相当らしいとの事。
エミッタは老人に、見た事があるかと訊ねてみたのだが。山の峰を駆けて行く姿なら何度もあるとの事。メン玉触れるくれぇ近くで見るなんて、とんでもねぇ事だぞと、エミッタは注意を受けた。
確かにそうだ、昨夜はとんでもない体験をしてしまったらしい。
老人はやがて分かれ道で馬車を止め、昼飯をご馳走してぇが、ここから一時間付き合う気はあるべぇかと訊ねて来た。ちょっと無理だとルースが答えると、にかっと笑って別れを告げて来る。
エミッタは再びエルマに騎乗し、昼食後の睡魔と孤独に闘う事に。こうして平和に道を進んでいると、昨夜の襲撃は夢のような気さえして来る。
そう言えば、エルマは自分が手綱を操らなくても、常にエルドラーンの後に従っているが。昨日は紐で縛られているように見えたのは何故だろう?
「お父さん、昨日の夜はエルドラーンとエルマを紐で結んでおいたの?」
「見えたのかい、エミッタ? 普段はしないんだが、昨日の夜は呪印ではぐれないように結んでおいたんだ。本当の紐で縛り付けると、エルドラーンの動きの邪魔になってしまうからな」
なるほど、荷物の中にそんな紐など無いのでおかしいと思ったのだが。第一、本当の紐を使っていたら、今頃は木立か何かに絡まって、2頭とも身動きが取れなくなっていたであろう。
父親は、普段は魔法の腕はたいした事が無いと言って謙遜するが、なかなかどうして器用なものだと思う。少しは自分に教えてくれても良さそうなものだが。
今度ねだってみるのも悪くないかも知れない。父親が応じるかどうかは別として。
景色はやがて、急な傾斜が多くなって来た。剥き出しの荒涼とした大地が多くなり、樹木の陰も段々とまばらになって行く。風の吹き方が、少しせっかちになってきた気もする。
それよりも、道行く人が少しずつ増えて来ているのにエミッタは気付いた。旅装束の人の群れや、荷馬車で何やら運んでいる人達と、さっきから何度もすれ違っている。
この人たちも、目的地は同じなのだろう。
「旅の人の数が、何だか増えてきたね、お父さん」
「そうだな……この調子なら、夕方にはメリビルだ」
父親がようやくそう告げて来た。エミッタはようやくの目的地の名前を耳にして、好奇心を何とか押さえようと躍起になる。叫びだしそうに興奮してもいたし、逃げ出しそうに怯えてもいた。
とにかく、あともう少し進みさえすれば、旅の目的地なのだ。
そこで何か、自分がアッと驚く展開が待っているに違いない。
父親にいろいろ質問したかったが、一体何を聞けばいいのか良く分からなかった。こんがらがった思考のまま、エミッタは馬に揺られている。ここに母親の手掛かりがあるのだろうか?
それとも、何も分からないまま結局帰路につくのだろうか……。
「そんなに肩ひじ張ってちゃ、疲れるだけだぞ、エミッタ?」
「そ、そうかな? ちょっと頭の中が混乱しちゃって……」
終いには父親にそう諭されて、エミッタは寛ぐためにルシェンを抱きかかえてあやし始めた。ルシェンの首には、メリロンで買った色付きの紐で三つ編みに編んだ首輪がしてあった。
エミッタとお揃いのリボンも、紐に括られている。
ようやくその景観が見えて来たのは、その遣り取りの数時間後だった。夕暮れに赤く染まる城壁と、遠くに霞むようにそびえ立つ山々。急な山の斜面に収まっている城塞都市メリビルは、まるで何かを威嚇するようにそこにあった。
高く作られた街壁は横にも長々と拡がっており、エミッタは唖然としてその大きさを眺めていた。近付くにつれて、街壁のあちこちに修復された跡が目立ち始める。
戦争の名残りだろうと、エミッタは推測してみる。
入り口はもちろんあった。どこから入るのだろうと訝っていたエミッタは、小さな広場と、そこに集って順番を待っている人の群れを見つけた。どうやら、入るのに審査が必要なようだ。
父親の話では役人に知り合いがいるそうだが、エミッタは不安だった。ルシェンを取り上げられはしないだろうか。問題の仔ドラゴンは、エミッタの腕の中でいかにも眠そうにぐったりしている。
エミッタは振り返って父親を見た。
「お父さん、本当に大丈夫かな? ルシェンの事だけど……」
「心配はいらない。門番達と、多少もめるかも知れないがな……」
「お父さんは前に、国王と知り合いだって言ってたよね? でも、ブロースのおじさん、レ・グリンって人に話を通さなきゃいけないって……」
父親が不意に笑い出した。空気が震えた気がして、そこにいた者全員一斉に身構える。
「レ・グリンか、知ってるとも。あいつは実際大した奴だよ、大物だ。ルシェンより、ずっとな……」
エミッタは何がそんなに可笑しいのか分からなかったが、皆の注目を集めているのはしっかり理解出来た。多少赤くなりながら、審査待ちの人々を見返す。
旅人達は時間とこちらを気にしながら、街に入るのを待っていた。馬車の門は別にあるようだ。
そんな時、急にエルドラーンが抗議のいななきを発した。人陰がこちらに近付いて来たのに気付き、威嚇するように蹄を鳴らす。ルースが宥めつつ、誰何の声を上げた。
「あまり気軽に近付くな。この馬は気性が荒いんだ」
ルースが見知らぬ男に警戒を発する。中年の、醜い小男だった。体格は良さそうだったが、髪はぼさぼさで、その癖着ている物は上物のようだ。
「良い馬をお持ちで、旦那様。風下から近付いたのに、気配を勘付かれてしまった……ひょっとして、ルース・ガーランド様で?」
「そうだ、お前は?」
「儂はリットー様に仕えている、ディズと言う者でして。普段は馬番をしているんで、良さそうな馬を見ると、つい試すような事をしてしまう。お許しを」
ディズと名乗る馬番は、そう言ってぺこりとお辞儀をした。リットーと言うのは父親の知り合いだろうかと、エミッタは首を傾げる。話の流れから行くと、多分そうなのだろう。
だが何故その知り合いが、父親の突然の到着を知ったのだろう?
ディズはルース親子を促して、さっさと門に近付くとフリーパスで街中へと入って行った。エルドラーンがさもうさん臭そうに、男と距離を開けてついて行く。さらにエルマがその後に続き、エミッタは門番や、順番を飛ばされた旅人達の視線を痛い程感じた。
街の中は思ったより静かだった。石畳で舗装された道を、奇妙な一行は淡々と進んでゆく。
「何故、俺の到着が分かった?」
ルースが、馬上からディズに聞いた。それはエミッタも、先程から考えていた疑問だった。ディズはさらりと答えて来る。早足で坂を登っていながら、この男は全く呼吸が乱れていない。
「なに、そんな事分かりやしませんて。ただ、おかしな妖精がうちの館に、旦那の居所を尋ねに来たんで。お館様はその妖精に伝言を授けて、旦那の場所を教えなすった。それから毎日夕方になると、儂を南門の関所へおよこしなさる」
ディズはそう言って、可笑しそうに笑った。
「かれこれ一週間以上待っとりましたよ。顔見りゃ一発で分かる、鬼面で小便ちびりそうな大男を。何せお館様の説明は、それっきりでしたもんで」
エミッタは憤慨して、前を行く小男を睨み付けた。父親の悪口もそうだが、レディの前で小便ちびるなどとの言葉使いは何事だろうか。
父親はあまり気にしてないようだったが、エミッタはそこに着くまでカッカし通しだった。だが、一旦その屋敷の門をくぐると、怒りなど綺麗さっぱり忘れてしまう。
その豪華さは、目を見張るものがあった。
「うわあ、これ全部がその人の物なの? 向こうの庭から、こっちの建物まで!?」
エミッタはメリロンの宿屋でさえ、こんなに大きく立派ではなかったのを思い出して、呆然としてただぼんやりと目の前の建物を見つめていた。
玄関先の球体のガラスには、すでに魔法の明かりが煌々と光を放っており、使用人達が来訪客を迎えようと、慌ただしい動きを見せている。
「すぐにお館様がお見えになります。どうぞ中でお寛ぎ下さい」
馬達をディズに預けて、二人は玄関から広いロビーへと足を踏み入れた。エミッタはただひたすら感心して、周りに設えてあるオブジェや絵画を眺めるばかり。
この館の主は、さぞ上品で芸術性に富んでいる人物なのだろうとエミッタは想像する。
召使いの一人に、やや小さな客間に通される親子。ルースは背中の大剣を降ろして旅の衣装を脱ぎ、完全に寛いでる風だった。
今夜はここに泊まるのだろうかとエミッタは考え、それも悪くないと思い至る。
「ここのご主人って人、お父さんの友達なんでしょ? 今夜はここに泊めてくれるかしら?」
「他に泊まるなんて言ったら、何を言われるか分かったもんじゃないしな。うるさい奴だが、金回りだけは良くなったようだ」
ルースが冷静に、屋敷の眺めからそんな分析をする。エミッタも父親に倣い、ふかふかのソファに腰掛ける事に。程なくして扉の開く音と、バタバタとうるさい位の靴音が聞こえて来た。
足元にじゃれ付いていたルシェンの動きがぴたりと止まる。
「ルース! 本当にルースが来たって!?」
「リットー、変わってないな」
二人は出会うなり、嬉しそうに握手を交わした。エミッタは客間に駆け込んで来た男をしげしげと見つめる。父親よりも少し若いくらいの、どことなく変わった風情の優男だった。
色白でグレイの髪は短く、体型は整っているが戦士の体格には見えない。
つまりは昔の傭兵仲間には見えない訳だが、それでも二人はくだけた調子で言葉を交わしていた。話し込みながら、リットーが奥の部屋を指し示す。
二人が歩き出したので、エミッタも慌てて後を追った。
「もうすぐオルレーンもこっちに来るよ。そういえば、ちびの妖精に伝言を頼んだんだが、ちゃんと届いたかい?」
「いいや、聞いていない。それより紹介が遅れたが、俺の娘のエミッタだ。今年で10歳になる」
リットーは突然振り向いて、後をついて来る小さな影に初めて気付いた風だった。父親といるとよくある事なので、エミッタは余り気にしなかったが。
「おおっ、これがルースの娘かい? 初めまして、可愛仔ちゃんっ!」
急に抱きつかれて、エミッタはびっくりして悲鳴をあげた。腕の中のルシェンも大声で抗議の声をあげる。リットーはそれに気付き、まじまじと仔ドラゴンを見た。
腕の中の仔ドラゴンは、何となく不服そう。
「……これもお前さんの子供かい、ルース?」
そんな訳無いでしょ、とエミッタは突っ込みそうになったが、かろうじて踏み止まる。
「初めまして、おじさん。エミッタ・ガーランドです、よろしく。この子はルシェン」
エミッタは父親の友達に失礼のないよう、取り敢えず挨拶だけはきちんとする事に。言葉に多少刺はあったが、それはそれで仕様のない事だ。
リットーは全く気にしていない様子で、二人と一匹を小さな私室へ案内した。小さいと言っても、エミッタが歩いている最中にちらりと見た、他の部屋に比べての事だ。
テーブルや本棚に読書用の机などのせいで、大人二人と子供一人が入ると、いささか狭く感じる。
「来客があるとちゃんとした食堂を使うんだが、それだと堅っ苦しくなるしな。ここはいつも一人の時に使うんだ。ささ、座ってくれ」
その部屋は確かに独特の生活臭のせいで、エミッタ達にも寛ぐ事が出来そうだった。程なくノックがあり、召し使い達がどんどん食事を運んで来る。
大きくないテーブルに、たちまちスープ皿やパイやチーズを乗せた皿が置かれていった。
エミッタは父親とその友人の話を聞きながら、のんびりと食事をとっていた。長い旅のせいか、寛いだ空間にいるとたちまち眠くなって来る。食事時には必ず元気になっている、ルシェンの相手をするのもおっくうな程だ。
半開きの目蓋を覚醒させたのは、鋭いノックと扉の開く音だった。どっちが先とも分からない程の騒がしさと共に、一人の女性が部屋に入って来るなりルースを凝視して立ち止まった。
エミッタはスプーンを落っことしそうになり、ルシェンがそれをキャッチする。
「ルース……」
「オルレーン、久し振りだな」
感極まった口調で、その女性は父親の名を呼んだ。年齢は、20代の半ば程だろうか。扉の前に現れたのは、すらりとした整った体型の美しい女性だった。
はちみつ色の長い髪を後ろで束ね、位の高い近衛兵が着るような立派な衣装を身にまとっていた。ややきつい感じの顔立ちが、今は泣き出しそうに歪んでいた。
ルースが食べる手を休めて、優しい口調で応える。リットーがその後ろで、もう一つ椅子を用意している。
「お仕事御苦労さん、オルレーン。ま、食事しながらゆっくり昔話でもしようや」
それから先はリットーの司会進行の元で、慌ただしくエミッタとオルレーンは自己紹介をした。オルレーンは抱きつきこそしなかったが、エミッタに握手を求め、母親によく似ていると言った。
オルレーンはそういう性格なのか疲れているのか、余り自分から話に加わろうとしなかった。ただ時折相づちを打ち、後は幸せそうに微笑んでいた。
エミッタは、この女性は好きになれそうだと、食後のお茶を飲みながら思った。
もっぱら口を開き喋り続け、話題を提供しているのはリットーだった。話は多伎に渡り、時折秘密めいた口調になり、人を引き込む話し方を心得ている風だ。
エミッタも我知らず、その話に引き込まれていた。
父親は既に、食事を終えて酒を口にしていた。強面の顔がわずかにほころび、リットーの馬鹿げた話に陽気に相づちを打っている。テーブルの上の食器は片付けられ、代わりに色々な種類の酒瓶が並べられていた。
エミッタが眠い目をこすっていると、オルレーンが手を引いて隣の寝室に案内してくれた。旅服を脱いでしまうと、たちまち睡魔が襲って来る。
ルシェンが同じベットの中に入り込みたがり、エミッタは仔ドラゴンを抱えて毛布の真ん中で丸くなる。
深い眠りに落ちながら、エミッタは故郷の村を思い出していた。それは、旅の途中でほとんど思い出さなかった分まで鮮明に心の中に写し出され、エミッタはその中でいつまでもルシェンと一緒に父親を追いかけていた。
いつまでも、いつまでも……。