副社長室にて 中
俺の名前は倉田良介。
義兄の名前は富永正晴。
ブラコン。
――そう、正晴が女性とうまくいかない理由がこれだった。彼がブラコンであることを知っているのは極近しい人間だけだから、俺の前だけで見せる義兄の情けない顔を初めて見た女性は大抵ヒク。ギャップ好きでそのまま関係が続いた女性もいたが、やはり結局ブラコンのために愛想を尽かされた。
……そういう話を聞くと、俺は内心居た堪れない気持ちになる。だから正晴もその話題は避けるのだが、如何せん、同じ社内だとどうしても耳に入ってしまうのだ。最近、彼は恋人と別れた。
義兄は決して、愛した女性を大切にしない薄情な人間ではない。ただ、不器用なだけなのだ、たぶん。
正晴の秘書の一人である谷口咲希だけは、そういう義兄に慣れているというか温かい目で見守ってくれているので、俺は彼女とうまくいけばいいのになんて勝手に思ってる。しかし義兄には良家との縁談の話もあるから、二人が結ばれる確率は低いかもしれない。
気苦労は絶えない。
正晴はまた書類に視線を落とした。
「良介。これはおまえのためなんだ。新山千春には、もうすぐ五歳になる千尋という娘がいる。前の旦那とは娘を産んですぐに離婚。向こうに女ができたらしい。出産前から喧嘩が絶えなかったらしいな」
俺は絶句した。
「……まさか、勝手に調べたんですか?」
「当たり前だろう。大事なおまえに関わることだ。俺はおまえのためなら何だってするぞ」
「そんな威張らないでください! 義兄さんは、他人のプライバシーを考えたことはないんですか」
「ない」
俺に憎む余地を与えない、実にあっさりとした即答だった。
「というより、これはおまえがちゃんと知っておかなければならない情報だ」
「だからって――」
「良介。よく聞け。あの女はおまえを狙っているんだ。富永グループ社長・富永敦の息子、富永良介としてな」
俺は理解に苦しんで、目頭を押さえた。
「義兄さん、彼女を悪く言うのも大概にしてください。それに、俺の名前は倉田良介です」
「……良介」
正晴はため息をついて、顔を上げた。
「おまえは富永の人間だ」
「だから、バツイチで子持ちの一般女性とは付き合うな、と?」
俺は正晴の瞳をじっと見つめた。
「義兄さん。あなたの言いたいことはわかります。ですが、それを肯定してしまえば、俺たちの存在を否定することになります」
「大袈裟だ」
「いいえ。同じことです」
「良介。俺たちには一種の枷があるのは事実なんだ。簡単に恋愛をしていいわけじゃない」
「わかっています」
しばらく、沈黙が流れた。
正晴は俺から目を逸らした。
「……おまえは確かに、自由な恋愛をしてもいいのかもしれないな」
それは後継の自分にはできないことだと、正晴は言外に語っていた。
「――義兄さん」
俺は目を細めた。
「俺たちの間に壁を作らないでください、義兄さん」
「良介」
「血は関係ありませんよ。もし関係があるのなら、そもそも義父はあなたを後継に選んでいません。
るり義姉さんに婿養子を取るか、少なくとも直隆を自由にはしていないでしょう。ですが、あの人はそうしなかった。俺もあなたも、今ここにいるのはその技量をあの人が認めてくれたからです。富永の利益になると。
あの人は、血に縛られるような人じゃない。それを一番に理解しているのは、義兄さんのはずです。あなたが選んだ女性なら、あの人は……義父は、何も反対しないと思います」
何かを確かめるように、正晴は俺の瞳をじっと見つめ返した。
「……そうだな。そうかもしれない」
やがて、彼は苦笑した。
「これだからコンプレックスは駄目なんだ。ちゃんとした判断ができなくなる」
すまないな、と義兄はやっとその目をやわらかく細めた。
「櫻子さんに感謝しないとな。こんなできた義弟を俺にくれたんだ」
俺は笑って、一度目を閉じた。
倉田というのは、実父の姓だった。
母の櫻子は、俺が中学のときに病死した。
この話で迷ったのが、千尋の年齢公開でした。
5歳でいいのかな、と心配になったんです。
これとは違う『裏話』の中で、彼女がよく喋るんですけど……
「はてさて、この会話を小学生前の子がするのかしらん」と、首を捻ってしまいました。
でも仕方ないんです。
千尋のイメージにはまだ、ランドセルがなかったんです……。
温かい目で、どうぞよろしくお願いします。
えっと、ここで『肌をなでる風』の注釈を1つ。
『夏の終わりを告げる風』冒頭の「俺」の一言は、
「彼女」の前夫が別の女の元へ行ってしまったことが原因になっています。
次回は「俺」の回想です。