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悪役令嬢人形譚

悪役令嬢人形譚〜呪いの人形と悪女たちの神殿〜

作者: ひらえす
掲載日:2026/08/10

「悪役令嬢人形譚」第四弾です。


今回は、婚約破棄された公爵令嬢と、持ち主を陥れた者へ災いを返すという曰く付きの人形のお話。


これまでより少し王道寄りの「悪役令嬢もの」になっていますが、相変わらず人形が少しだけ不穏です。


楽しんでいただければ幸いです。


 ヴィクトリア・フォン・アルヴェインが、自分の婚約が破棄されるのだと理解したのは、王太子レオナルドが卒業記念舞踏会の中央で、リリアーナ・フローレスの肩を抱いた瞬間だった。


 驚かなかったと言えば嘘になる。けれど、泣き崩れたり、声を荒らげたりするほどではなかった。ヴィクトリアの胸に最初に浮かんだのは悲嘆ではなく、ひどく現実的な感想だった。


 ――ここでなさいますのね。


 学院の大広間には、卒業を迎えた貴族子弟だけでなく、その家族や学院関係者、王族、高位貴族まで集まっている。国王夫妻こそ出席していないものの、社交界に何かを知らしめる場所としては、これ以上ないほど都合がいい。


 そして、王家と公爵家の間に結ばれた婚約を解消する場所としては、これ以上ないほど不適切だった。


 楽団はまだ演奏を続けていたが、踊っている者はもういない。


 皆がこちらを見ている。


 扇の向こうから。グラスの向こうから。あるいは、隠そうともしない好奇心をその顔に浮かべながら。


「ヴィクトリア・フォン・アルヴェイン」


 レオナルドがよく通る声で彼女を呼んだ。


 ヴィクトリアは手にしていた扇を閉じ、一歩前へ出た。


 今日のために整えた白金色の髪が、肩から胸元へ、規則正しい縦巻きとなって垂れている。


 彼女の髪は、生まれつきひどく癖が強い。何もしなければ右へ左へ好き勝手にうねり、湿気の多い日など、侍女たちが途方に暮れるほど膨らむ。


 とはいえ、未婚の高位貴族女性が正式な場で髪をまとめるわけにもいかない。ならば癖を押さえ込むのではなく、いっそ綺麗に巻いてしまえばいい――そうして十年以上かけて洗練されてきたのが、今ではヴィクトリアの代名詞のようになった縦ロールだった。


「はい、殿下」


 レオナルドの傍らにはリリアーナ。


 さらにその後ろには、王太子の側近である四人の青年が並んでいる。


 騎士団長嫡男のガイウス・フォン・ヴァルガス。


 宰相嫡男のユリウス・フォン・エルンハルト。


 外交と社交の場で王太子に付き従うリュシアン・ド・ラクロワ。


 そして、武官として王太子を補佐するディートリヒ・フォン・シュタインベルク。


 ずいぶんと綺麗に揃えたものだ、とヴィクトリアは思った。


 同時に、一つ妙なことにも気づいた。


 彼らの婚約者たちが、一人も傍にいない。


 ロザリンドも。


 セシリアも。


 ミレーヌも。


 アデライーデも。


 全員、今夜の舞踏会には出席しているはずなのに。


 嫌な予感がした。


「本日をもって、僕は君との婚約を破棄する」


 予想していた言葉が、予想よりずっと大きな声で告げられた。


 大広間にざわめきが走る。


 ヴィクトリアはすぐには答えなかった。


 一。


 二。


 三。


 頭の中で数える。


 感情を押し殺すためではない。状況を確認するためだ。


 これは冗談ではない。


 アルヴェイン公爵家と王家との間に結ばれた婚約を、学院の卒業記念舞踏会という公の場で、国王の名代も置かず、王太子本人が破棄すると宣言した。


 なるほど。


「……承知いたしました」


 ヴィクトリアが答えると、なぜかレオナルドの方が怯んだ。


「何?」


「聞こえませんでした?」


「いや、聞こえた。だが……」


「婚約を破棄なさるのでしょう?」


「ああ」


「でしたら、まずは承りました。婚約契約の解消条件、これまで両家が負担した費用、王太子妃教育に伴う諸経費その他につきましては、後日、王家とアルヴェイン公爵家との間で正式に協議を――」


「待て!」


 レオナルドが慌てたように遮った。


 ヴィクトリアは口を閉じる。


「話はそれだけではない」


「そうですの?」


「君には、自分が何をしたのか分かっているはずだ」


 ヴィクトリアは少し考えた。


 思い当たることがないのではない。


 むしろ逆だ。


「候補が多すぎますわね」


「何だと?」


「リリアーナ嬢に注意をしたことでしたら何度もございます。殿下に苦言を申し上げた回数など、途中から数えておりません。先月の学院行事の予算案を三度差し戻した件でしたら、あれは単純に数字が合っておりませんでしたので、謝罪するつもりはございません」


「そういうことではない!」


「では、どれですの?」


 どうも話が進まない。


 怒っているのは自分の方であるはずなのに、なぜレオナルドの方が顔を赤くしているのだろう。


「君はリリアーナを虐げた!」


「具体的にお願いいたします」


「彼女の身分を侮辱した!」


「はい」


「――何?」


 レオナルドだけではない。


 リリアーナまで驚いた顔でヴィクトリアを見る。


「認めるのか?」


「リリアーナ嬢が殿下を人前で愛称呼びなさった際、『男爵令嬢として身分を弁えなさい』と申し上げました。それについてでしたら事実です」


「それが侮辱だと言っている!」


「礼儀作法上の注意です」


「リリアーナは傷ついたんだぞ!」


「それについては申し訳なく思います」


 ヴィクトリアはレオナルドではなく、リリアーナを見た。


「リリアーナ嬢。言葉が厳しすぎたことについては、お詫びいたします」


「あ……」


「ですが、内容について撤回するつもりはございません。殿下があなたに愛称で呼ぶことを許可なさるのと、公の場で王太子を愛称呼びしてよいかは別の問題です」


「ヴィクトリア!」


「殿下は少し黙っていてくださる?」


「な……!」


「今はリリアーナ嬢と話しております」


 レオナルドが絶句した。


 大広間の空気が、少し妙なことになってきた。


 当初は婚約を破棄される悪役令嬢を見物していた者たちが、いつの間にか、王太子側の出す次の罪状を待つような顔になっている。


「それから」


 空気を立て直そうとしたのか、ユリウスが一歩前へ出た。


「君はリリアーナ嬢の教本を隠させただろう」


「しておりません」


「証言がある」


「どなたの?」


「それは――」


「証言者の名前を確認する権利くらい、わたくしにもございますでしょう?」


 ユリウスの口が止まった。


 ヴィクトリアは待った。


 答えはない。


「ほかには?」


「階段だ!」


 今度はガイウスが声を上げた。


「君はリリアーナを階段から突き落とそうとした!」


「しておりません」


「リリアーナは実際に転んだんだぞ!」


「存じております」


「なら!」


「あの日、わたくしは学院におりません」


「……何?」


「領地から出てきたアルヴェイン家の財務官と、王都の屋敷で会っておりました。学院長へ欠席届も提出しております。必要でしたら、面会記録も提出できますわ」


 ガイウスが黙った。


 その隣で、リリアーナが不安そうに周囲を見回す。


「それから、毒を――」


 リュシアンが言いかけた。


 ヴィクトリアは思わず眉間を押さえそうになったが、どうにか堪えた。


「わたくし、毒まで盛ったことになっておりますの?」


「菓子を食べたあと、リリアーナ嬢が体調を崩した」


「何の菓子?」


「胡桃入りの焼き菓子だ」


 ヴィクトリアはリリアーナを見た。


「あなた、胡桃が苦手なのでは?」


「え?」


「以前のお茶会で、食べると喉が痒くなるとおっしゃっていたでしょう。ですから、わたくしの屋敷であなたをお招きする際には胡桃を出さないよう、侍女に申しつけておりました」


「あ……」


 リリアーナの顔色が変わった。


「それは毒ではなく、体質の問題ではございませんこと?」


 大広間の隅で、誰かが咳払いをした。


 笑いを誤魔化したようにも聞こえた。


「とにかく!」


 レオナルドが声を上げる。


「君がリリアーナを苦しめてきたことに変わりはない!」


「そこは否定しておりません」


「ならば!」


「ですから」


 ヴィクトリアは静かに言った。


「わたくしが申し上げたことと、してもいないことを一緒になさらないでくださいませ」


 大広間が静まり返る。


「嫌味なら申しました。身分を弁えなさいとも言いました。殿下との距離が近すぎるとも、王太子妃教育を受けてもいない方が政治について不用意な発言をなさるべきではないとも申し上げました。わたくしの言葉が厳しかったことは認めますし、それでリリアーナ嬢を傷つけたのであれば、そこについては謝罪いたします」


 そこで一度、言葉を切った。


「ですが、窃盗も、暴行も、毒殺未遂もしておりません」


 そして、ほんの少しだけ笑った。


「わたくし、そこまで暇ではございませんの」


 今度こそ、誰かが吹き出した。


「何がおかしい!」


 ガイウスが怒鳴る。


「あなたが一番大きな声を出していらっしゃるからでは?」


「なっ……!」


「ヴィクトリア」


 レオナルドが低い声で呼んだ。


「最後までそうやって、人を見下すのだな」


 その言葉だけは、胸に刺さった。


 ヴィクトリアはレオナルドを見つめた。


 幼い頃から知っている人だった。


 王太子教育から逃げ出したくて、誰にも見られない庭園の隅で泣いていた少年を知っている。初めて議会を傍聴したあと、自分には何も分からなかったと落ち込んでいた少年も知っている。


 そのたびに一緒に学んだ。


 レオナルドが大胆な政策を思いつけば、ヴィクトリアが必要な予算と人員を調べた。彼が理想を語れば、それを現実へ落とし込むためには何が必要かを考えた。


 いつか彼が王になり、自分はその隣に立つのだと思っていた。


 それを苦痛だと思ったことはない。


 むしろ、疑ったことすらなかった。


 好きだったのだと思う。


 少なくとも、とても大切にはしていた。


 だから彼が別の女性を選んだことよりも――自分が積み上げてきた十数年を、彼がこれほど簡単な言葉で切り捨てられることの方が、たぶん悲しかった。


「そうですわね」


 ヴィクトリアは答えた。


「わたくし、可愛げがございませんもの」


「……」


「ですから」


 口元を上げる。


「別れて正解だったと思えるくらい、立派な王になってくださいませ」


 レオナルドの表情が歪んだ。


 怒ったのか。


 傷ついたのか。


 それを確かめる気にはなれなかった。


 そして――ここで終わっていれば、まだ、ただの婚約破棄だった。


「私も」


 ガイウスが言った。


 ヴィクトリアは顔を向ける。


「ロザリンドとの婚約を破棄する」


 一瞬、大広間から音が消えたように感じた。


「僕も、セシリアとの婚約を解消する」


 ユリウスが続く。


「ミレーヌとは、もう続けられない」


 リュシアン。


「アデライーデとは……終わりにする」


 最後にディートリヒ。


 ヴィクトリアは、今度こそ心の底から驚いた。


「皆様?」


 笑顔を維持するのに、少しだけ努力が必要だった。


「何をなさっておりますの?」


「僕たちは決めたんだ」


 レオナルドが答えた。


「愛のない婚約に縛られるべきではない、と」


 ヴィクトリアは五人を見る。


 次に、リリアーナを見た。


 彼女はどこか嬉しそうで、それでいて少し不安そうでもあった。


「皆が幸せになるべきだと思うの」


 リリアーナが言った。


「好きでもない人と結婚して、一生我慢するなんておかしいでしょう? 家柄や身分のためだけに結婚するなんて、そんなの悲しいわ」


 悪意はないのだろう。


 むしろ本心から、皆の幸福を願っている顔だった。


 だからこそヴィクトリアは、すぐには言葉を返せなかった。


 婚約とは、確かに個人と個人のものでもある。


 しかし貴族、それも王族や高位貴族の婚姻となれば、それだけではない。領地、財産、派閥、役職、外交、軍事。いくつもの利害を調整した末に結ばれる契約でもある。


 もちろん、それが常に正しいわけではない。


 だからといって、五組まとめて「愛がないから」で投げ捨ててよいほど単純でもない。


「そうですわね」


 ヴィクトリアは答えた。


 リリアーナの顔が明るくなる。


「ヴィクトリア様も――」


「ただし」


 続ける。


「国家と貴族社会というものが、それほど単純であればのお話ですけれど」


 リリアーナの笑顔が止まった。


「またそうやって」


 すぐさまレオナルドが彼女を庇う。


「リリアーナを馬鹿にする」


「しておりません」


「同じだ!」


「……そうですの」


 ヴィクトリアは、それ以上説明するのをやめた。


 今、この場で言葉が届く状態ではない。


 ならば後日、大人たちを交えて話せばいい。


 王家と公爵家の婚約である。レオナルドが何と言おうと、今夜の一言だけですべてが片づくはずもない。


 ――そう思っていた。


 だが翌朝には、ヴィクトリアの神殿行きが決まっていた。


「早すぎませんこと?」


 王宮から届いた書状を読み終え、ヴィクトリアは父を見た。


 アルヴェイン公爵は、その書状を今にも握り潰しそうな顔をしている。


「私もそう思う」


「陛下は?」


「療養中だ。ここしばらく政務の一部を王太子へ委ねている」


「……なるほど」


 嫌なほど納得した。


「つまり、こちらは」


「ああ」


「殿下が?」


「ああ」


 父の声が低い。


「神殿にて二年間、奉仕と反省の日々を送れ、とのことだ」


「二年」


「気に入らん」


「奇遇ですわね。わたくしもです」


「断る」


「お父様」


「王太子が勝手に出した命令だ。正式な裁判すら――」


「だからこそ、今は断ってはいけません」


 父が黙る。


 ヴィクトリアは書状をもう一度確認した。


 文面は巧妙だった。刑罰とは書いていない。王太子の元婚約者として「自らの振る舞いを省みるため」、王家から神殿での奉仕を「勧告」するという形になっている。


 だが王太子からの勧告を、公爵令嬢が公然と拒否すればどうなるか。


 次はアルヴェイン公爵家そのものが「反省を拒む傲慢な一族」として槍玉に挙げられるだろう。


「行きます」


「ヴィクトリア」


「ただし」


 父を見る。


「記録を残してくださいませ」


「何の?」


「すべてです。昨日の舞踏会で誰が何を言ったのか。殿下から届いた書状。婚約解消に関する王家とのやり取り。わたくしについて提出されたという証言も、可能な限り入手してください」


「……何をするつもりだ?」


「今のところ、何も」


 本当に何もするつもりはない。


「ですが、事実というものは、後になって必要になることがございますでしょう?」


 父はしばらく娘を見ていた。


 やがて口元をわずかに緩める。


「誰に似たんだか」


「お父様では?」


「ならば仕方がないな」


 出発まで三日あった。


 ヴィクトリアは泣かなかった。


 もちろん、傷ついていないわけではない。夜、一人になればレオナルドの言葉を思い出すこともあったし、十数年先まで当然のように描いていた人生が、突然白紙になったことへの恐怖もあった。


 けれど今は、悲しんでいる場合ではない。


 人生が白紙になったのなら、まず新しい紙の大きさを確認する必要がある。


「贖罪神殿の規則書を」


 侍女へ言うと、幼い頃から仕えるエマは、すぐに一冊の冊子を机へ置いた。


「もう取り寄せてございます」


「さすがね」


「お嬢様が必要となさると思いましたので」


 ヴィクトリアはその日のうちに全部読んだ。


 起床時刻、礼拝時間、服装規定、持ち込み可能な私物、金銭の扱い、面会規則、手紙の発送、見習い神官に課される奉仕。


 貴族令嬢であろうと、身の回りのことは原則として自分でする。


 侍女が同行する場合も、神殿内では別個の見習いとして扱われる。


 清掃や洗濯などの奉仕も、身分による免除はない。


「衣装を変更します」


 翌朝、ヴィクトリアは言った。


「一人で着られないものは置いていきます。前開きのものを中心に。式典用は一着だけ持っていきましょう。神殿にも正式祭事はあるようですから」


「コルセットは?」


「一人で扱える程度のものを」


「髪飾りは?」


「不要です」


 エマがヴィクトリアの縦ロールを見る。


「こちらも?」


「神殿では作業中、まとめ髪が基本でしょう」


「ええ」


「でしたら、毎朝巻く必要がありません」


 言って。


 ヴィクトリアは止まった。


「…………」


「お嬢様?」


「エマ」


「はい」


「今、少し嬉しいと思ってしまいました」


「縦ロールを巻かなくてよいことが?」


「ええ」


「よろしいのでは?」


「神殿送りですのよ、わたくし」


「それと朝の支度が楽になることは別問題かと」


 エマは平然としている。


 ヴィクトリアは思わず笑った。


「あなたも随分、強くなりましたわね」


「お嬢様にお仕えしておりますので」


「どういう意味?」


「そのままでございます」


「まあ」


 それでも荷造りは順調に進んだ。


 衣類は必要最低限。


 筆記具。


 数冊の本。


 生活用品。


 多少の現金。


 そして最後に――予定になかった荷物が、王宮から届いた。


 黒い木箱だった。


 銀の留め金がついた、妙に重々しい箱である。


「何ですの、これは」


「殿下からの預け物だそうです」


「いりません」


「まだ開けてもおりませんが」


「殿下からですもの」


「ですが、王宮印がございます」


「…………」


 ヴィクトリアは嫌そうに箱を見た。


 開封しなかったことで、後から妙な言いがかりをつけられるのも面倒だ。


「開けます」


 留め金を外し、蓋を持ち上げる。


 そして。


 ヴィクトリアは黙った。


 中に入っていたのは、人形だった。


 かなり大きい。立たせれば幼児ほどとはいかないが、抱き人形としては立派な大きさだ。


 何より、異様なほど美しかった。


 肌はわずかに青みを帯びた白磁で、触れればひやりと冷たいのだろうと、見ただけで分かる。硝子の瞳は深い青。宝石に喩えるならサファイアだろう。そこへ唇だけが、血を一滴置いたような鮮烈な赤で描かれている。


 そして何より目を引くのが、髪だった。


 雪のように白いプラチナブロンド。


 それが一本一本、几帳面なほど美しい縦巻きに整えられている。


 ヴィクトリアは人形を見た。


 エマがヴィクトリアを見た。


 ヴィクトリアがエマを見る。


「……何もおっしゃらないで」


「まだ何も申し上げておりません」


「顔に書いてありますわ」


「似ているとは思いました」


「どこが!」


「髪が」


「そこは分かっておりますわ!」


 よりによって、なぜ縦ロールなのか。


 箱の中には、人形の由来を記したらしい古びた紙が入っていた。


『蒼眼の復讐人形』


「……趣味の悪い名前ですこと」


 さらに読む。


『持ち主を陥れし者に、災いを返す』


「まあ」


 ヴィクトリアはもう一度読んだ。


 読み間違いではない。


 さらに、王太子からの短い添え状がある。


『悪意をもって他者を苦しめた君には、ふさわしい同行者だろう』


「…………」


 エマが、なんとも言えない顔をした。


「お嬢様」


「エマ」


「はい」


「殿下は、この人形の由来を読んでから、わたくしへ送ったのでしょうか」


「……恐らくは」


「持ち主を陥れた者へ災いを返す」


「そう書いてございますね」


「そして、現在の持ち主は」


 二人で人形を見る。


「お嬢様……ということになるのでしょうか」


 長い沈黙が落ちた。


「殿下」


 ヴィクトリアは真顔で呟いた。


「大丈夫かしら」


「どちらがでしょう」


「頭が」


「お嬢様」


「心配しただけですわ」


 人形を箱から持ち上げる。


 見た目以上に重い。


 その瞬間。


 カチリ。


 小さな、硬い音がした。


 ヴィクトリアの手が止まる。


「……今のは?」


「関節でしょうか」


 人形をよく確認してみる。


 頭だけではない。


 胴も。


 腕も。


 脚も。


 ドレスに隠れた部分まで、すべて白い磁器で作られている。


「オールビスクですわね」


「これほど大きなものは珍しいですね」


「ええ。それに、保存状態が妙にいい」


 ヴィクトリアは人形を膝へ座らせた。


 腕が胴へ触れたらしい。


 また。


 カチリ。


 深い青の瞳が、真正面からヴィクトリアを見ている。


「あなた」


 ヴィクトリアも見返した。


「わたくしに似ているそうですわよ」


 人形の脚がわずかに動いた。


 カチリ。


「……返事ではございませんわよね?」


「関節です」


「分かっております」


 分かっている。


 当然だ。


 人形が返事などするものか。


 けれど箱へ戻そうとして、なぜか手が止まった。


 もう一度、青い瞳を見る。


 曰く付き。


 悪意を持つ者を不幸にする。


 不吉な人形。


 ――まるで今の自分と同じではないか。


 社交界では今頃、ヴィクトリア・フォン・アルヴェインは嫉妬に狂って男爵令嬢を虐げた悪女として語られているのだろう。


 それなら。


「連れて参ります」


「よろしいので?」


「王太子殿下からのご厚意ですもの」


 ヴィクトリアはにっこりと笑った。


「ありがたく」


 エマが顔を背けた。


 肩が震えている。


「笑っております?」


「いいえ」


「エマ」


「申し訳ございません」


「もう」


 三日後。


 ヴィクトリアは王都を出た。


 贖罪神殿は王都から馬車で半日ほど、山の麓にある。


 修道院と呼ぶ者も多いが、正式には神殿であり、礼拝堂や宿泊棟だけでなく、広い農地、薬草園、工房なども所有している。貴族社会では「問題のある令嬢を預ける場所」として有名だが、ヴィクトリアが事前に調べた限りでは、王都で囁かれているほど陰鬱な場所ではないらしい。


 むしろ帳簿を見る限り、妙に経営状態がいい。


 寄進だけに頼っていないのだ。


 薬草。


 刺繍。


 保存食。


 写本。


 いくつかの収益事業まで持っている。


「変わった神殿ですこと」


 規則書の余白へ書き込んだメモを読みながら、ヴィクトリアは呟いた。


 向かいには例の人形が座っている。


「礼拝は朝夕。食事当番、清掃当番、洗濯、庭仕事。書庫の管理も見習いが担当することがある……」


 顔を上げる。


「あなたは何もしなくてよろしいのね」


 人形は黙っている。


「羨ましいですわ」


 馬車が石を踏んだ。


 カチリ。


「……自慢?」


 当然、返事ではない。


 ヴィクトリアは小さく息を吐いて窓の外を見た。


 今日は縦ロールではない。


 癖の強い髪をまとめてねじり上げ、一本の木製の髪留め棒を差しているだけだ。


 装飾も何もない。


 驚くほど軽い。


 ヴィクトリアは首を右へ傾けた。


 左へ傾けた。


 軽い。


「エマ」


「はい」


「本当に楽ですわ」


「昨日から四度目です」


「だって、十年以上、毎朝巻いておりましたのよ?」


「礼式ですから」


「分かっております」


「お似合いでしたよ」


「それも分かっております」


「ご自覚はあるんですね」


「似合っているものは似合っておりますもの」


 そこを謙遜する必要はない。


 神殿へ到着したのは、午後だった。


 馬車の窓から最初に見えたのは、大きな石造りの礼拝堂だった。その周囲をいくつかの建物が囲み、さらに外側には畑や果樹園が広がっている。


 想像していたより、ずっと明るい。


 洗濯場では若い女性たちが笑いながらシーツを干していた。畑では神官服らしい簡素な服を着た女性と、どう見ても平民の男が並んで籠を運んでいる。


 庭の端を、小さな子どもが駆けていった。


「……子ども?」


「通いの使用人の子でしょうか」


「規則では家族の一時滞在も認められていたはずです」


「よく覚えていらっしゃいますね」


「読みましたもの」


 馬車を降りると、三十代ほどの女性神官が迎えに来た。


「ヴィクトリア・フォン・アルヴェイン様ですね」


「はい」


「お待ちしておりました。神官のエレナです」


 柔らかな笑顔の女性だった。


「こちらでは身分にかかわらず、ヴィクトリア様とお呼びします。よろしいですか?」


「規則書の三頁にございました」


「あら」


「読みました」


「全部?」


「ええ」


 エレナが少し目を丸くした。


「……珍しい」


「そうですの?」


「来てから読む方も多いので」


「なぜ?」


 純粋に分からなかった。


 これから数年暮らす可能性のある場所の規則を、なぜ読まずに来られるのだろう。


 エレナは何かを言いかけ、それから笑った。


「それは、そのうち分かります」


 神殿の中を案内される。


 ヴィクトリアたち見習いが暮らす宿泊棟。


 食堂。


 浴室。


 洗濯場。


 厨房。


 書庫。


 薬草園。


 礼拝堂。


 建物は古いが、よく手入れされていた。華美な装飾はほとんどない代わりに、必要な場所にはきちんと金が使われている。廊下の窓は大きく、厨房の竈も新しい。井戸から水を引く設備まで整っている。


 質素と貧乏は違う。


 そのあたりを、この神殿の管理者はよく理解しているらしい。


「明日の担当は、午前が西回廊の清掃。午後は書庫整理です」


「承知しました」


「掃除の経験は?」


「ございません」


「では、最初にやり方を教えますね」


「お願いします」


 エレナが少しだけ目を瞬いた。


「……もっと嫌がられるかと思いました」


「なぜ?」


「公爵令嬢に廊下掃除を、と申し上げましたので」


「経験がない以上、教わるしかございませんでしょう」


「なるほど」


「ただし、書庫整理については先に分類規則を見せていただけます?」


「もちろん」


 エレナが笑う。


「ヴィクトリア様」


「何でしょう」


「こちらでの生活、案外お嫌いではないかもしれませんね」


「まだ到着したばかりですわ」


「そうでした」


 妙な神官だった。


 その日の夕食。


 食堂へ入ったヴィクトリアは、入口で足を止めた。


「……」


「ヴィクトリア様?」


 エレナに声をかけられたが、すぐには答えられなかった。


 見間違いではない。


 長い食卓の中央付近。


 そこに見覚えのある顔が、四つ並んでいる。


「ヴィクトリア?」


 最初に声を上げたのは、ロザリンド・ル・ドーラ・ベルクハルトだった。


「ロザリンド?」


「あなたも?」


「ええ」


 その隣には、セシリア・フォン・エルンスト。


 さらにミレーヌ・オルシェ。


 そしてアデライーデ・フォン・シュタイン。


 昨夜の舞踏会で姿が見えなかった四人。


 全員、王太子側近たちの――今となっては元婚約者である。


「皆様」


「はい」


 セシリアが答える。


「なぜこちらに?」


 ミレーヌが苦笑した。


「婚約破棄されたからでは?」


「わたくしもです」


 ロザリンドが肩をすくめる。


「私も」


 アデライーデが静かに頷いた。


「…………」


 ヴィクトリアは席へついた。


 それから、ようやく気づく。


 ロザリンドの手元には、大粒の紅玉を使った首飾りが置かれている。


「それは?」


「血を吸う首飾りですって」


「……そう」


 セシリアの隣には、布に包まれた古い銀鏡。


「そちらは?」


「罪を映す鏡だそうです」


「…………」


 ミレーヌの足元には、小さな木箱が置かれている。


「聞きます?」


「ここまで来ましたから、一応」


「夜中に勝手に鳴って、人を不幸にするオルゴール」


「…………」


 そしてアデライーデの横には、黒い箱。


「ティーセット」


「普通ですわね」


「三人殺したらしい」


「何を?」


「主人を」


「…………そう」


 ヴィクトリアは、しばらく黙った。


 それから自分の隣へ、例の人形を座らせる。


 カチリ。


 四人の視線が、一斉に人形へ集まった。


「あなたは?」


 ロザリンドが尋ねる。


「人形ですわ」


「何をするの?」


「わたくしを陥れた者を不幸にするそうです」


 沈黙。


 ミレーヌが最初に口を開いた。


「……それ」


「はい」


「レオナルド殿下から?」


「ええ」


「ご本人が?」


「ええ」


 また沈黙した。


 今度の沈黙は少し長かった。


「勇気がおありですのね」


 ヴィクトリアが言うと、ロザリンドが吹き出した。


「言い方」


「ほかにどう申し上げればよろしいの?」


「確かにないけれど」


 しばらく笑ってから、ヴィクトリアは改めて四人を見回した。


「確認したいことがございます」


「何?」


「皆様をこちらへ送ることを決めたのは?」


「ガイウスですわ」


「ユリウス様です」


「リュシアンよ」


「ディートリヒ」


 全員。


 元婚約者。


「…………」


 ヴィクトリアは額へ手を当てた。


 嫌な予感というものは、当たってほしくないときほどよく当たる。


「つまり」


 ゆっくりと言う。


「王太子殿下と、その側近の皆様は」


 四人がこちらを見る。


「ご自分たちの元婚約者を」


「ええ」


「全員」


「はい」


「同じ神殿へ送った、と?」


「そうなりますわね」


「…………」


 ヴィクトリアは目を閉じた。


 王太子妃候補として政治を学んできた自分。


 騎士団と軍務に通じるロザリンド。


 法律と記録に強いセシリア。


 王都の社交界に広い人脈を持つミレーヌ。


 辺境領の物流と兵站を実地で学んできたアデライーデ。


 それを。


 一か所へ。


 集めた。


 しかも神殿の規則を読む限り、手紙のやり取りは禁止されていない。


「…………」


 何も言いたくなかった。


 その時。


 カチリ。


 人形の腕が、わずかに胴へ触れた。


 ヴィクトリアは隣を見る。


 青白い陶器の肌。


 サファイア色の瞳。


 赤い唇。


 そして、自分が今朝ようやく解放されたばかりの、完璧な白い縦ロール。


「……ほら」


 ヴィクトリアは人形を指した。


「人形にまで呆れられておりますわよ」


 一拍の沈黙のあと。


 ロザリンドが噴き出した。


 ミレーヌが堪えきれずに笑い、セシリアまで口元を押さえる。最後にはアデライーデも肩を震わせた。


 そしてヴィクトリア自身も。


 昨日から初めて。


 声を立てて笑った。


 ◻︎◻︎


曰く付き令嬢たちの神殿


 翌朝、ヴィクトリアは低く柔らかな鐘の音で目を覚ました。石造りの建物全体へ染み込むような音が三度響き、それがゆっくり消えていくのを聞きながら、彼女はしばらく見慣れない天井を眺めていた。


 そうだった。ここはアルヴェイン公爵家の屋敷でも、王宮に用意されていた客室でもない。自分は昨日から、贖罪神殿の見習い神官として暮らしているのだ。


「……夢ではございませんのね」


 少しだけ残念に思いながら、ヴィクトリアは寝台から身を起こした。


 部屋は簡素だったが、粗末ではなかった。寝具はよく洗われており、薄い掛布からは石鹸の香りがする。机と椅子、小さな衣装箱に棚。それ以外にはほとんど何もないが、不便を感じるほどではない。


 事情を抱えて神殿へ来る女性は少なくないため、最初の半年ほどは個室を与えられるのだと規則書に書いてあった。身分による特別扱いではない。その事実に、ヴィクトリアはむしろ少し安心していた。


 そして、その小さな棚の上では。


 青白い人形が、昨日と同じ姿で座っていた。


 サファイアを思わせる青い硝子の瞳。鮮やかな赤い唇。雪のように白いプラチナブロンドは、一本の乱れもなく縦ロールに整えられている。


 朝一番に目を合わせる相手としては、少々存在感が強い。


「おはようございます」


 口にしてから、ヴィクトリアはわずかに眉を寄せた。


「……わたくし、人形に朝のご挨拶をする習慣などございませんでしたのに」


 もちろん、人形は何も答えない。それでいい。もし返事をされたら、規則書ではなく神殿長を呼ぶ必要がある。


 ヴィクトリアは寝台を整えてから洗面を済ませ、鏡の前に座った。昨日までは、起床後の身支度には必ず侍女が必要だった。だが今は違う。神殿の規則に合わせ、一人で扱える衣服だけを持ってきている。


 服については問題なかった。


 問題は髪である。


 夜の間に好き勝手にうねった白金色の髪が、肩から背中にかけて広がっていた。幼い頃、乳母には「天使の巻き毛」と褒められたものだが、十歳を過ぎた頃からヴィクトリア本人はこれを「暴れる蔓草」と認識している。


「……今日も見事ですこと」


 他人事のように呟きながら櫛を入れ、ざっくりと髪をまとめる。そのままねじり上げ、昨日支給された飾り気のない木の髪留め棒を一本差した。


 それだけだった。


 ヴィクトリアは鏡を見た。首を右へ傾け、次に左へ動かす。崩れない。重くない。しかも早い。


「……これは」


 思わず感心した。


 王太子妃候補だった頃、未婚女性は正式な場では髪を下ろすという慣例を守る必要があった。だが癖の強い髪をそのまま下ろせば、とても王太子妃候補として整っているとは言えない。そのため毎朝、侍女たちが香油と熱した棒を使い、髪を一本ずつ整えて縦ロールへ仕上げていた。


 巻いて、冷まして、形を揃える。左右の長さを確認し、崩れそうな部分を直す。毎朝一時間、正式な行事がある日はそれ以上。


 それが今は、木の棒一本で終わった。


「…………」


 ヴィクトリアはゆっくり棚の方へ顔を向けた。


 人形は相変わらず、完璧な縦ロールのまま澄ましている。


「何ですの、その髪」


 完全な言いがかりである。


「わたくしはもう、それを毎朝作らなくてもよろしいんですのよ。羨ましいでしょう」


 人形は黙っている。


 棚の位置を少し直そうと持ち上げると、磁器の腕が胴へ触れたのか、カチリ、と硬質な音がした。


「……はいはい。返事ではございませんわね」


 もう一度、カチリ。


「二度も返事をしないでくださる?」


 自分で言っておいて可笑しくなり、ヴィクトリアは小さく笑った。


 朝の礼拝は、彼女が予想していたよりずっと簡素だった。長い説教もなく、神殿長らしい女性が前に立ち、短い祈りを捧げる。それだけで終わる。


 ヴィクトリアは祈りながらも、その女性を観察していた。


 五十代後半ほどだろうか。銀色の髪を後ろでまとめ、生成り色の神官服を着ている。華美な装飾は何もない。それなのに立ち姿には、長年社交界で身につけた者特有の品があった。


 どこかで見たことがある。


 礼拝が終わり、人々が静かに散り始めたところで、神官エレナがヴィクトリアのところへやってきた。


「ヴィクトリア様。神殿長がお話ししたいそうです」


「わたくしも、ちょうどお尋ねしたいことがございました」


「何でしょう?」


「神殿長のお顔に、覚えがある気がするのです」


「ああ」


 エレナは納得したように笑った。


「たぶん、社交界でお会いになっています」


「社交界?」


「ええ」


 それ以上は何も言わず、エレナは先を歩いていった。


 神殿長の執務室は礼拝堂の奥にあった。机と書棚、応接用の小さな卓。窓辺には鉢植えが置かれ、部屋全体に落ち着いた空気がある。


「どうぞ、お座りになって」


 神殿長は穏やかに微笑んだ。


 ヴィクトリアは礼をして椅子へ腰を下ろす。


「初めまして、ではないような気がいたします」


「あら。覚えていらっしゃいます?」


「申し訳ありません。お顔には覚えがあるのですが、お名前までは」


「それなら十分です」


 女性は楽しげに目を細めた。


「マグダレーナ・フォン・レーヴェンシュタインと申します」


 その名を聞いた瞬間、ヴィクトリアの背筋が自然に伸びた。


「……レーヴェンシュタイン侯爵家」


「ええ」


「先代侯爵夫人でいらっしゃいますね」


「世間では、そう呼ばれております」


 そこでようやく思い出した。


 幼い頃、王宮の夜会で何度か見かけた女性だ。夫を亡くした後に社交界を離れ、そのまま神殿へ入ったと聞いていた。


「では、元侯爵夫人で――」


「よくそう呼ばれますけれど」


 マグダレーナは楽しそうに笑った。


「夫を亡くしただけで、家から除籍されたわけではございませんもの。今でも正式な貴族籍はあります」


「……そうでしたか」


「意外です?」


「少し」


 ヴィクトリアは正直に答えた。


「もっとも、こちらではあまり役には立ちませんけれどね」


「そうですの?」


「廊下を掃く時に、侯爵夫人の称号があったところで埃は減りませんもの」


 ヴィクトリアは思わず口元を緩めた。


「それは、そうですわね」


「あなた、思っていたより話が早いのね」


「どのように思われていたのです?」


「もっと、『わたくしに掃除をさせるなんて』とお怒りになるかと」


「規則書に書いてありましたもの」


「読みましたのね」


「全部」


「まあ。それは珍しい」


「昨日も言われました」


「そうでしょうね」


「そんなに皆様、読まないのですか?」


 ヴィクトリアには本当に不思議だった。


 これから数年間暮らす可能性がある場所なら、まず規則を確認する。それが当然だと思っている。


 だがマグダレーナは、茶を注ぎながら静かに答えた。


「追い出されるようにして来る方も少なくありませんから。昨日まであった人生を突然失って、次に何をするかなど考えられない状態で馬車へ乗せられる方もいます。そういう時には、規則書の文字など頭に入らないものですよ」


 ヴィクトリアは黙った。


 自分なら読む。


 必要なことを調べ、準備をして、損失を最小限に抑える。


 けれど、誰もが同じようにできるわけではない。


「……なるほど」


 それだけ答えた。


 マグダレーナは、ヴィクトリアがすぐに理解したことに満足したようだった。


「こちらでの生活について、何か質問は?」


「いくつかございます。まず、見習い神官という扱いについてです」


「どうぞ」


「わたくしたちは、正式に神官になる予定がなくても見習いと呼ばれるのですか?」


「便宜上ですね」


「規則では滞在期間が二年から五年。その後は?」


 マグダレーナはカップを置いた。


「その人に合った場所へ」


「嫁ぎ先?」


「それもあります」


「実家へ戻る方も?」


「もちろん」


「ほかには?」


「王宮や貴族家の女官、家庭教師、商家、領地の管理。こちらを気に入って、そのまま正式な神官になる方もおります」


 ヴィクトリアは少し考えた。


「贖罪の神殿なのに?」


「祈りと奉仕を通じて、自分の人生を見直す場所ですから」


「罪を償う場所ではない?」


「犯罪者を預かる施設ではありません」


 マグダレーナの声が、そこで少しだけ真面目なものになった。


「もちろん、本当に問題を起こして送られてくる方もおります。ただ、貴族社会では『扱いづらい女性』と『罪を犯した女性』が、いつの間にか同じ箱へ入れられてしまうことがありますので」


 ヴィクトリアは目を細めた。


「……よく分かりますわ」


「そうでしょうね」


 余計な慰めはなかった。それがありがたかった。


「それから、通いの使用人についてもお聞きしたいです」


「下男や下女のことですね」


「昨日見たところ、人数がかなり多いようでした。それに、若い方が多かった」


「よく見ていらっしゃいますね」


「給金は?」


 マグダレーナは少し笑った。


「そこを聞きます?」


「気になりました」


「相場より二割ほど高くしております」


「二割?」


「仕事は楽ではありませんから。それと、希望者には読み書きと計算を教えています」


「……無料で?」


「ええ。礼儀作法も、望むなら」


「なぜ?」


「覚えて損があります?」


「ございません」


「でしょう?」


 それで終わりという顔だった。


 神殿で一定期間働けば、読み書きと計算ができるようになる。礼儀作法まで習えるなら、商会や大きな貴族家へ移る時にも有利だろう。


「ですから、この辺りではかなり人気の勤務先なのですよ。将来、商会に勤めたい者もいますし、貴族家で上級使用人を目指す者もおります。自分で小さな店を持ちたいという者も」


「そのための教育まで、神殿で?」


「空いた時間に少しずつですけれど」


 ヴィクトリアは、昨日までとは違う目で部屋を見回した。


「……面白い場所ですわね」


「よく言われます」


「悪い意味でも?」


「そちらの方が多いですね」


 マグダレーナは愉快そうに笑った。


 午前の仕事は、西回廊の清掃だった。


 担当の神官が雑巾と桶を渡しながら、基本的な手順を説明してくれる。


「まず窓台から。上から下へ進めます」


「承知しております。補足資料にございました」


「そこまで読んだんですか」


「読むものでは?」


 神官は少し笑った。


「では、やってみましょう」


 知識と実践が同じであるなら、世の中はもっと簡単だっただろう。


 ヴィクトリアは水に浸した雑巾を絞り、それを見て眉を寄せた。水がぽたぽたと落ちている。


「絞り方が甘いですね」


「見れば分かります」


「もっと、こう。力任せにねじるのではなく、手のひらで圧をかけて」


 神官が実際にやって見せる。


 ヴィクトリアも真似をした。


「なるほど」


「そうです。もう一度」


「……こう?」


「はい。今度は大丈夫です」


 そこで少し離れた場所から、笑い声が聞こえた。


 振り返ると、ロザリンドが箒を持って立っている。


「何ですの?」


「いえ。公爵令嬢が雑巾相手に苦戦なさっているのが、少し面白くて」


「あなたは問題ありませんの?」


「箒なら。騎士団の訓練場で散々使いましたもの」


「侯爵令嬢が?」


「兄たちに混じっておりましたから」


 なるほど。


「ヴィクトリア」


「何?」


「雑巾に負けないでくださいませ」


「負けておりません!」


 担当の神官まで笑いだした。


 ヴィクトリアも、仕方なく少し笑った。


 掃除をしている。


 公爵令嬢だった自分が。


 それなのに、不思議と惨めだとは感じなかった。


 できないことを教わり、覚える。それだけなら、王太子妃教育と何も変わらない。礼法も政治も外交も、最初は何も知らなかったのだ。


 掃除だけを、特別に恥ずかしいもの扱いする理由などない。


「今度は綺麗です」


 担当神官が雑巾を見て言った。


「そうでしょう?」


「自信満々ですね」


「できたものは、できましたもの」


「その調子です」


 褒められると、少し嬉しい。


 昼食の食堂には、見習いだけでなく正式な神官たちも混じっていた。元貴族令嬢もいれば、平民出身の者もいるらしいが、同じ神官服を着て同じ食卓を囲んでいると、見ただけではほとんど分からない。


「こちら」


 ミレーヌが小声でヴィクトリアを呼んだ。


「何?」


「さっき知ったのですけれど、あちらの方、元伯爵令嬢ですって」


 視線の先では三十代ほどの女性神官がパンを切り分けている。


「そう」


「その隣の方はパン屋の娘」


「そう」


「朝、一緒に洗濯してましたわ」


「それが?」


 ミレーヌが少し困った顔をした。


「いえ。ヴィクトリア、もう馴染んでません?」


「何にです?」


「ここの妙な身分感覚に」


「仕事をするのに爵位は必要ありませんでしょう」


 ミレーヌは目を丸くした。


「あなたがそれを言います?」


「何ですの」


「学院で一番、身分秩序にうるさかったのはあなたですわよ」


「外では必要だからです。宮廷で伯爵と男爵を同じ扱いにすれば席順一つで揉めますし、外交の場ならなおさらでしょう」


「それは、まあ」


「でも」


 ヴィクトリアはスープを一口飲んだ。


「厨房で玉ねぎを切るのに、公爵令嬢である必要はございません」


 ミレーヌはしばらく黙った。


「なんだか悔しい」


「なぜ?」


「正論ですもの」


「ありがとうございます」


「褒めてません」


 隣でセシリアが小さく笑った。


 アデライーデは黙々とパンを食べている。


「アデライーデは、神殿生活どう?」


 ミレーヌが尋ねた。


「楽」


「え?」


「厨房が」


 そこで初めて、アデライーデの表情が少し明るくなった。


「設備がいい。竈の火力が安定してる。保存庫も広い」


「見ましたの?」


 ヴィクトリアが聞く。


「朝、手伝った」


「それから豆の煮方がいい」


「そこ?」


「重要」


 ロザリンドが吹き出した。


「あなた、本当に料理がお好きなのね」


「好き」


「ディートリヒは知ってました?」


 アデライーデは少し考えた。


「たぶん知らない」


「なぜ?」


「言ってない」


 それから、少しだけ間を置く。


「聞かれなかった」


 食卓の空気が、ほんの少しだけ変わった。


 元婚約者。


 その言葉を誰も口にはしなかったが、全員が同じものを思い浮かべたのだろう。


 ミレーヌが先に笑った。


「まあ、これから好きなだけ作ればよろしいですわ」


 アデライーデは小さく頷いた。


「そうする」


 それだけで、話は終わった。


 午後の書庫整理は、ヴィクトリアにとってかなり楽しい仕事だった。


 担当神官から古い帳簿の整理を任され、棚を見た瞬間に分類規則が途中で変更されていることへ気づいた。


「前回の大規模整理から二十年以上経っております?」


「よく分かりましたね」


「分類番号が古いです。それに、こちらの記録方式も途中から変わっています」


「そこまで見ます?」


「気になりますもの」


 神官が笑った。


「お好きなのですね、こういう仕事」


「嫌いではありません」


 記録や数字は、少なくともその場の感情で内容を変えたりしない。


「では、この神殿の昔の記録も見ます?」


「よろしいの?」


「整理を手伝ってくださるなら」


「見ます」


 即答した。


 渡された古い帳簿には、歴代の見習い神官たちについて記されていた。


 入所した年。


 出身家。


 神殿へ来た理由。


 滞在した期間。


 そして、その後。


「……この方」


 ヴィクトリアは指を置いた。


「婚約破棄の後に入所。三年後、地方伯爵家の後妻へ?」


「はい」


「こちらは?」


「商会へ嫁いだ方ですね」


「この方は王宮女官」


「そうです」


「こちらは神官に」


「残ることを選ばれました」


 ページをめくるたび、別の人生が出てくる。


 婚約破棄。


 死別。


 政争。


 実家との不和。


 醜聞。


 子どもを連れて逃げ込んだ女性までいる。


 そして数年後。


 そのほとんどが、別の場所へ繋がっていた。


「……再配置」


 思わず呟いた。


「はい?」


 担当神官が笑った。


「随分と事務的な言い方ですね」


「でも、そうではありません?」


 ヴィクトリアは帳簿から顔を上げた。


「貴族社会で一度行き場を失った女性を、ここでしばらく預かる。その間に生活能力や技能を確認して、別の場所へ繋ぎ直している」


「ええ」


「しかも、嫁ぎ先だけではない」


「はい」


「仕事も、神殿に残る道もある」


「ございます」


 ヴィクトリアはしばらく帳簿を見つめていた。


 朝、マグダレーナが言った言葉を思い出す。


 犯罪者を預かる施設ではない。


 その人に合った場所へ。


「ここは」


 ヴィクトリアはゆっくり言った。


「贖罪の神殿というより、人生を一度仕切り直すための場所ですわね」


 担当神官は、少しだけ驚いた顔をした。


「よく言われます?」


「いいえ」


「そうですの?」


「そこまで早く気づく方は、あまりいません。皆、最初は自分のことで精一杯ですから」


 ヴィクトリアは、また少し黙った。


 自分だって、自分のことで精一杯ではある。


 ただ。


 考えてしまう。


 仕組みが見えれば、その理由を知りたくなる。


 それが、自分なのだ。


 神殿での生活は、思っていたより穏やかに過ぎた。


 朝の礼拝。仕事。食事。午後の作業。夜の自由時間。


 ロザリンドは庭仕事や力仕事に向いていた。アデライーデは厨房へ入ると明らかに機嫌がよくなる。セシリアは書庫と帳簿整理を任され、三日目には古い記録の誤記をいくつも見つけていた。


 ミレーヌだけは洗濯物を干しながら通いの下女たちと話し込み、いつの間にか王都の噂を集めている。


「ミレーヌ」


「何?」


「働いてくださいませ」


「働いておりますわ」


「口しか動いていません」


「情報収集です」


「ここで?」


「どこでも」


 ヴィクトリアは呆れたが、否定はできなかった。


 ミレーヌの能力は、確かに場所を選ばない。


 夜になると、五人で談話室に集まることも増えた。


 それぞれの曰く付きの品は基本的に自室へ置いているが、なぜかヴィクトリアの人形だけは時折談話室へ連れてこられる。


「なぜ、わざわざこの子まで?」


「絵になりますもの」


 ミレーヌが当然のように答えた。


「何が」


「悪役令嬢五人と呪いの人形」


「勝手に題をつけないでくださいませ」


「似合いますわよ」


「どこが?」


「髪」


「またそれ!」


 ヴィクトリアが人形を持ち上げると、磁器の関節がカチリと鳴った。


 ロザリンドがすぐに笑う。


「返事してますわ」


「関節です!」


「分かっております」


「皆様、分かっていておっしゃっているでしょう?」


「もちろん」


 くだらない。


 でも、楽しい。


 ヴィクトリアはそれを認めたくないわけではなかった。ただ、少し不思議だった。


 学院にいた頃も、この四人とは友人だった。けれど、その頃には必ず役割がついていた。


 王太子の婚約者。


 側近の婚約者。


 未来の侯爵夫人。


 未来の辺境伯夫人。


 誰かの隣に立つことが前提の肩書き。


 今は違う。


 全員ただの見習い神官だった。


 だからこそ、以前より話しやすいのかもしれない。


 神殿へ来て一週間ほど経った頃。


 王都から、一人の使者がやってきた。


 最初、ヴィクトリアはそれほど気に留めなかった。神殿には手紙も寄進も届くし、面会に訪れる者もいる。


 けれどその日の夕食前、神官エレナが五人をまとめて神殿長の部屋へ呼びに来た時、何かがあったのだと分かった。


 エレナは、いつもの穏やかな笑顔を浮かべていなかった。


「何かございました?」


「神殿長から、お話があります」


「分かりました」


 部屋へ入ると、マグダレーナが机の前に座っていた。


 卓上には一通の書状。


 王宮印。


「皆様、お座りになってください」


 五人がそれぞれ椅子へ腰を下ろす。


「王太子殿下から、神殿の運営について新しい指示が届きました」


 ヴィクトリアの眉がわずかに動いた。


「運営について?」


「はい」


「なぜ王太子殿下が?」


 セシリアがすぐに反応した。


「この神殿は王家直属ではございません。王家から寄進は受けておりますが、それと運営権は別のはずです」


「その通りです」


 マグダレーナは頷いた。


「ただし殿下は、王家から一定額の寄進を受けていることを理由に、今後、見習い神官の進路斡旋について王太子府の承認を必要とするとおっしゃっています」


 数秒。


 誰も何も言わなかった。


「……もう一度お願いいたします」


 ヴィクトリアが言った。


「今後、神殿から見習い神官が外へ出る場合、再婚、就職、実家への帰還、そのすべてについて王太子府の許可が必要になる、ということです」


「なぜ?」


 ロザリンドが身を乗り出す。


「理由は、こちらに」


 マグダレーナは書状を手に取った。


「『罪を犯した貴族令嬢が、短期間の奉仕のみで再び社交界へ戻ることは社会正義に反する』」


 今度の沈黙は、先ほどより重かった。


「……罪?」


 セシリアの声が低くなる。


 ヴィクトリアも書状を見つめた。


「わたくしたちは、いつ裁判を受けました?」


「受けておりません」


「判決は?」


「ございません」


「有罪認定は?」


「ございません」


「では、何の罪ですの?」


 マグダレーナは苦く笑うことすらしなかった。


「殿下方には、こちらが刑罰施設に見えているようですね」


「まさか」


 ミレーヌが乾いた笑いを漏らした。


「再婚の斡旋も止めるの?」


「はい」


「就職も?」


「はい」


「実家へ戻るのも?」


「原則、王太子府の承認が必要になります」


 アデライーデが静かに口を開いた。


「出られない人、増える」


「ええ。かなり」


 マグダレーナの答えは短かった。


 ヴィクトリアは、胸の奥が冷えていくような感覚を覚えた。


 自分たち五人だけの問題ではない。


 この神殿には、自分たちよりずっと切実な事情を抱える女性がいる。


 夫を亡くして実家へ戻れない者。


 婚家から追い出され、子どもを抱えている者。


 政争に巻き込まれただけの者。


 家族の醜聞の責任を押しつけられた者。


 ここで数年間を過ごし、もう一度人生を始めるために準備をしている。


 その出口を。


 一枚の書状で塞ぐというのか。


「神殿長」


 ヴィクトリアは静かに尋ねた。


「これは、受け入れなければならない命令ですの?」


「いいえ」


 マグダレーナは即答した。


 ヴィクトリアが少し目を見開く。


「正式に抗議いたします。この神殿は罪人を閉じ込める施設ではございませんし、王太子府に見習い神官の人生を決める権限もありません」


「では、問題は」


「寄進です」


 マグダレーナは書状を畳んだ。


「今後の王家からの寄進を停止する可能性があるとのことです。また、王家と取引のある商会に対しても、神殿との取引を見直すよう働きかける可能性がございます」


 ロザリンドが小さく舌打ちした。


「脅しではありませんの」


「そうですね」


 セシリアが書状を見る。


「しかも制度を理解しないまま」


 ヴィクトリアは目を閉じた。


 レオナルド。


 ガイウス。


 ユリウス。


 リュシアン。


 ディートリヒ。


 そして、リリアーナ。


 愛。


 自由。


 正義。


 どれも、言葉だけを見れば間違ってはいない。


 けれど。


 その言葉を掲げた人間が、誰かの出口を塞ごうとしている。


「……殿下」


 ヴィクトリアは、小さく呟いた。


「何をなさっておりますの」


 当然、返事はなかった。


 その夜、ヴィクトリアは一人で部屋へ戻った。


 棚には、例の人形がいる。


 青白い陶器の肌。


 青い瞳。


 真っ白な縦ロール。


 彼女はしばらく人形を眺めてから、その前に立った。


「あなた」


 静かに言う。


「わたくし、この神殿を案外気に入っておりましたの」


 人形は何も言わない。


「ここは、思っていたよりずっとまともですわ。変ですけれど」


 持ち上げる。


 カチリ。


「なのに、余計なことを」


 また、カチリ。


 ヴィクトリアは人形を見つめた。


 そして、少しだけ口元を上げる。


「……そうですわね」


 まだ怒りに任せて動くべき時ではない。


 記録を取る。


 法を確認する。


 正式な抗議文を出す。


 相手がどこまで本気なのかを見る。


 それでも駄目なら、その時に次を考えればいい。


「まずは、正攻法で参りましょうか」


 この時のヴィクトリアは、本気でそう思っていた。


 ◻︎◻︎◻︎



 王太子府から最初の書状が届いた翌日、マグダレーナは正式な抗議文を王宮へ送った。


 内容は簡潔だった。


 贖罪神殿は王家の刑罰施設ではなく、王太子府には見習い神官の進路を制限する法的権限がないこと。王家から寄進を受けてはいるものの、それは神殿の運営権を意味しないこと。そして何より、裁判も有罪判決もない女性たちを「罪人」として扱うことには同意できないこと。


 セシリアが法令集から該当箇所を拾い、ヴィクトリアが文章を整え、最後にマグダレーナが神殿長として署名した。


「これで引いてくださればよろしいのですけれど」


 完成した書状を見ながらヴィクトリアが言うと、セシリアは何とも言えない顔をした。


「引くと思います?」


「思いません」


「ですよね」


「ですが、手順は必要ですわ。こちらが最初から喧嘩を売ったことにされては困りますもの」


 まず正式な手続きを踏む。


 拒絶されたなら、その記録を残す。


 次にもう一段階上へ申し立てる。


 ヴィクトリアにとっては当然のことだったし、セシリアも同意見だった。


 問題は、相手が同じように考えているかどうかである。


 答えは五日後に出た。


 王太子府から届いた二通目の書状には、抗議への回答より先に、新たな規定が書かれていた。


「……外出許可?」


 マグダレーナの執務室で、ヴィクトリアは書状を読み返した。


「見習い神官が神殿の敷地外へ出る際、王太子府への事前申請を必要とする、ですって?」


「ええ」


「何のために?」


 ロザリンドが露骨に顔をしかめた。


「『反省期間中の令嬢が、神殿外で不適切な交友関係を持つことを防ぐため』だそうです」


 マグダレーナが読み上げると、ミレーヌが眉を上げた。


「不適切な交友関係」


「あなた、心当たりがありますの?」


 ヴィクトリアが聞く。


「失礼ね。山ほどありますわ」


「あるんですのね」


「社交界にいたのですもの。交友関係など、相手から見れば大抵どこか不適切ですわよ」


 それは妙な説得力があった。


 だが笑って済ませられる内容ではない。


 神殿の見習いは、敷地内だけで生活しているわけではなかった。近隣の村へ薬を届ける者もいれば、市へ買い付けに行く者もいる。将来の就職先を見学することもあるし、縁談がまとまりそうな女性なら、神殿の付き添いのもとで相手と会うこともある。


 外へ出ることそのものが、ここで行われている「人生を繋ぎ直す仕組み」の一部なのだ。


「これを守れば、ほとんど何もできなくなりますわね」


 ヴィクトリアが言うと、マグダレーナは頷いた。


「ですから、これも拒否いたします」


「王太子府は?」


「王家からの寄進を、今月分から停止するとのことです」


 今度は誰も笑わなかった。


 王家からの寄進は、神殿全体の収入のすべてではない。それでも無視できる金額ではなかった。


「どの程度、持ちます?」


 ヴィクトリアが尋ねた。


「寄進だけなら問題ありません。もともと、いつ減額されても困らないようにはしておりますから」


 マグダレーナはそこで言葉を切った。


「ですが、商会への働きかけが始まっています」


 机の上に、別の書状が三通置かれる。


 一つは布問屋。


 一つは薬種商。


 もう一つは王都の大きな商会だった。


 どれも長年、神殿と取引してきた相手である。


「取引停止?」


「まだそこまでは。ただ、次回から取引量を減らしたいと」


「理由は?」


「明記されておりません」


「でしょうね」


 ヴィクトリアは一通ずつ確認した。


 文面は丁寧だった。長年の付き合いへの感謝も書かれているし、今後も良好な関係を維持したいともある。


 ただし、注文は減らす。


 理由は書かない。


 いかにも商人らしい文章だった。


「王家と神殿を天秤にかければ、王家を取りますわね」


「商人を責めることはできません」


 マグダレーナも淡々としている。


「ええ。わたくしでもそうします」


 ヴィクトリアは書状を戻した。


 そこを感情的に責めても意味がない。


 商会には商会の生活があり、従業員がいる。神殿への義理のために王家との取引を失えとは言えない。


「帳簿を見せていただけます?」


 ヴィクトリアが尋ねる。


 マグダレーナは少しだけ目を細めた。


「何をなさるおつもり?」


「何もしません」


「その言葉、先日も聞いた気がします」


「まず確認するだけですわ」


「その『まず』が怖いのですけれど」


「失礼ですこと」


 そう言いながらも、マグダレーナは帳簿を渡してくれた。


 その日から、ヴィクトリアは午後の仕事を終えたあと、神殿の会計記録を見るようになった。


 もちろん勝手にではない。神殿長の許可を得て、会計を担当する神官と一緒にである。


 収入は大きく分けて四つ。


 貴族や王家からの寄進。


 農地からの収益。


 薬草や保存食などの販売。


 刺繍や縫製、写本といった工房仕事の収入。


 支出で最も大きいのは人件費と食費だった。


「通いの使用人の給金を下げれば、かなり楽にはなりますね」


 帳簿を見ながら会計神官が言った。


 ヴィクトリアはすぐに首を横へ振った。


「最後です」


「最後?」


「削るなら最後にしてくださいませ」


「なぜ?」


「ここで働いている方々は、給金だけを目的に来ているわけではないのでしょう?」


 読み書き。


 計算。


 礼儀作法。


 それを学びながら働き、いずれ次の仕事へ移っていく。


 見習い神官だけではない。この神殿は、通いの使用人にとっても次の人生へ進むための場所なのだ。


「そこを削って神殿だけ残っても、意味がございません」


「では、どこを?」


「それを今から探します」


 ヴィクトリアは再び帳簿へ目を落とした。


 数字を見るのは好きだった。


 より正確に言えば、数字そのものよりも、その背後にある仕組みを読み解くのが好きなのだ。


 何に金を使っているのか。


 何が利益を生んでいるのか。


 どこに無駄があるのか。


 どこを削ってはいけないのか。


 王太子妃教育で学んだ財政学が、こんな場所で役に立つとは思わなかった。


 三日ほど帳簿と格闘したところで、ヴィクトリアは一つ気づいた。


「この刺繍、安すぎません?」


 会計神官が覗き込む。


「どれです?」


「祭壇布です。こちらの大判のもの」


「ああ。神殿で作っているものですね」


「制作期間は?」


「一枚、二人で三週間ほど」


「販売価格は?」


「そこに書いてある通りです」


 ヴィクトリアは数字を見た。


 もう一度、制作期間を見る。


 材料費を見る。


「ほとんど利益が出ておりませんわ」


「奉仕の一環ですから」


「でも販売しているのでしょう?」


「ええ」


「しかも買うのは主に貴族と富裕な商人」


「そうですね」


「でしたら、なぜこんな値段で?」


 会計神官は困った顔をした。


「昔からです」


 ヴィクトリアが最も苦手とする答えの一つだった。


「昔から」


「はい」


「いつから?」


「さあ……」


「誰が決めたの?」


「それも……」


「原価計算は?」


「そこまで細かくは」


 ヴィクトリアは額を押さえた。


「セシリアを呼んでくださいませ」


「なぜ?」


「こういう時、わたくし一人ですと怒っているように見えるそうなので」


「自覚がおありなんですね」


「ありますわ」


 その日の夜。


 談話室には五人が集まっていた。


 机の上には神殿で作られた刺繍布、帳簿、紙、筆記具。


 そして当然のように、人形。


「それで」


 ミレーヌが布を広げた。


「これを高く売る?」


「適正価格にするだけです」


「でも、今までこの値段だったのでしょう?」


「だからといって、これからも同じ値段で売る必要はございません」


 ヴィクトリアは刺繍を指でなぞった。


 細かい。


 神殿の紋様を取り入れた意匠は上品で、糸の始末も美しい。


「王都なら、この三倍でも売れますわ」


「三倍?」


 ロザリンドが驚く。


「少なくとも」


「そんなに?」


「むしろ、安く売りすぎです」


 そこでミレーヌが布を持ち上げ、光に透かした。


「確かに、これは貴族家の礼拝室にも置けますわね」


「でしょう?」


「でも神殿の品だから安くないと、と思われているのでは?」


 セシリアの指摘に、ヴィクトリアは頷いた。


「そこです」


「何か考えが?」


「安いものも残します」


 五人の視線が集まる。


「一般向けの簡素なものは、今まで通り。それとは別に、材料と意匠を変えた高級品を作ります」


「誰に売るの?」


「お金のある方に」


「潔いですわね」


「あるところからいただけばよろしいでしょう?」


 ミレーヌが笑った。


「それなら、包装も変えましょう」


「包装?」


「高いものを高く売るなら、見た目も必要ですわ。神殿の紋章を入れた箱にして、由来を書いた紙を添えるの」


 アデライーデも布を見ながら言った。


「糸、変えられる」


「どういうこと?」


「今の仕入れ先、高い。近くの村で麻を作ってる。質は悪くない」


「知っておりますの?」


「厨房の人に聞いた」


 ロザリンドが笑った。


「あなた、本当にどこでも情報を拾ってきますわね」


「食材の話をしてたら出た」


 セシリアはすでに紙へ何かを書き始めている。


「販売するなら、神殿名義の工房として登録を整理した方がいいですね。今の規約だと、寄進品と販売品の区別が曖昧です」


「できます?」


「できます。ただし、神殿長の承認が必要です」


「明日お願いしましょう」


「ちょっと待って」


 ロザリンドが手を上げた。


「皆、普通に話を進めていますけれど」


「何です?」


「わたくしたち、神殿へ反省しに来たのでは?」


 沈黙した。


 五人で顔を見合わせる。


 ヴィクトリアは少し考えた。


「反省しながら働けばよろしいのでは?」


「何を反省しますの?」


「それを今から考えます」


「考えてなかったんですのね」


 ミレーヌが吹き出した。


 ところが、神殿側が収入を立て直そうと動き始めるより先に、王太子府はさらに一歩踏み込んできた。


 今度は王都からではない。


 近隣の領主を通じて、神殿へ通知が届いたのである。


 神殿の工房で作られた品について、「罪を償う者の労働によって作られた品を利益目的で販売することは適切ではない」として、販売量を制限するよう求める内容だった。


「…………」


 ヴィクトリアは通知を三度読んだ。


「これを書いた方は」


 声は静かだった。


「この神殿を潰したいのでしょうか?」


 マグダレーナがため息をつく。


「恐らく、ご本人は逆のつもりでしょう」


「逆?」


「清廉な場所にしたいのでしょうね」


 それを聞いて、ヴィクトリアは理解した。


 なるほど。


 レオナルドたちは、金を稼ぐこと自体を神殿にふさわしくないと思っているのだ。


 寄進を受け、質素に暮らし、祈り、反省する。


 彼らの頭の中にある神殿とは、そういう場所なのだろう。


 けれど実際には人が暮らしている。


 食事が必要だ。


 衣服もいる。


 建物は傷む。


 薬も買う。


 働く人間には給金を払わなければならない。


 そして何より、ここにいる女性たちを次の人生へ送り出すには金がかかる。


「善意というものは」


 ヴィクトリアは書状を机へ置いた。


「帳簿を読まないのですね」


 マグダレーナが、ほんの少し笑った。


「名言ですね」


「笑い事ではございません」


「分かっています」


 だがヴィクトリアの中では、まだレオナルドへの怒りより困惑の方が大きかった。


 彼は、ここまで愚かだっただろうか。


 少なくとも以前は、話せば分かる人だった。


 予算の説明をすれば聞いた。


 法的に無理だと説明すれば、不満そうでも引き下がった。


 何度も意見がぶつかった。


 喧嘩もした。


 それでも最後には、互いに落としどころを探した。


 だからヴィクトリアは、彼となら王国を支えていけると思っていたのだ。


 それが今は。


 自分の「正しさ」を証明するために、正しくないものを次々と作っている。


「一度、直接お話しした方がよろしいのかもしれません」


 ヴィクトリアが言った。


 マグダレーナは彼女を見た。


「殿下と?」


「はい。書状では埒が明きません」


「会ってくださると思います?」


「元婚約者としてではなく、神殿側の代表として正式に面会を申し込みます」


「あなたが行く必要は?」


「あります」


 ヴィクトリアは迷わなかった。


「殿下の考え方を、わたくしは知っていますから」


 そして。


 たぶん。


 まだどこかで期待していた。


 顔を見て話せば。


 昔のように。


 分かってくれるのではないか、と。


 面会の申し込みに対する返事は、意外なほど早かった。


 許可する。


 ただし王都ではなく、三日後、王太子自身が神殿を訪問するという。


「……来るの?」


 ミレーヌが驚いた。


「ええ」


「一人で?」


「まさか」


 ヴィクトリアは届いた書状を机へ置いた。


「側近四名と、リリアーナ嬢もご一緒です」


 部屋の空気が止まった。


「全員?」


 ロザリンドが聞く。


「全員」


「ここへ?」


「ここへ」


 セシリアが眼鏡を外して眉間を押さえた。


 アデライーデだけが少し考えてから言った。


「お茶、いる?」


「そこ?」


「客なら」


「……必要でしょうね」


「お菓子も?」


「必要ですわね」


「分かった」


 アデライーデは立ち上がった。


「待って、今から?」


「試作する」


「アデライーデ」


「何?」


 ヴィクトリアは少し迷った。


「胡桃は使わないでくださいませ」


 沈黙。


 ミレーヌが最初に吹き出した。


「あなた、そこは覚えているのね」


「体質は笑い事ではありません!」


「分かっておりますわ」


「もう」


 ヴィクトリアはため息をついた。


 三日後。


 王太子一行は、予定より一時間遅れて神殿へ到着した。


 ヴィクトリアは礼拝堂前の廊下で待っていた。


 以前なら、レオナルドを迎えるためだけに何人もの侍女が彼女の身支度を整えただろう。


 今日は生成り色の見習い神官服。


 装飾品はなし。


 髪は一本の木の棒でまとめている。


 それだけだった。


 馬車が止まり、最初にレオナルドが降りる。


 続いてガイウス。


 ユリウス。


 リュシアン。


 ディートリヒ。


 そして最後に、淡い桃色のドレスを着たリリアーナ。


 神殿の質素な景色の中では、そのドレスだけがひどく華やかに見えた。


「ヴィクトリア」


 レオナルドが彼女を見た。


 一瞬。


 何か言いかけたように見えた。


 視線が、ヴィクトリアの髪へ向く。


「……髪」


「はい?」


「いや」


 レオナルドは顔を逸らした。


「随分、変わったな」


 ヴィクトリアは自分の神官服を見下ろした。


「神殿ですので」


「そうか」


「ええ」


 それだけだった。


 以前なら。


 もう少し何かあったのだろう。


 久しぶり、とか。


 元気だったか、とか。


 似合わないな、と笑うとか。


 何でもよかった。


 けれど今は、何を言えばいいのか分からない。


 それはたぶん。


 レオナルドも同じだった。


 面会は神殿長の応接室で行われた。


 マグダレーナ。


 ヴィクトリア。


 セシリア。


 そして王太子側の六人。


 ロザリンドたちは別室で待機している。元婚約者同士が全員揃えば話が感情的になりかねない、とマグダレーナが判断したためだった。


「まず」


 マグダレーナが口を開いた。


「神殿から提出した抗議文について、王太子殿下のお考えを直接伺いたく存じます」


「考えは変わらない」


 レオナルドは迷わず答えた。


「この神殿の制度には問題がある」


「どの点でしょう」


「罪を犯した者が、数年過ごしただけで何事もなかったかのように社会へ戻っている」


「ですから」


 セシリアが静かに言った。


「ここにいる女性たちの大半は、有罪判決を受けておりません」


「法だけが罪を決めるものではない」


「法治国家で、王太子殿下がそれをおっしゃいますか?」


 ユリウスが眉をひそめた。


「言葉尻を捉えるな」


「言葉尻ではございません」


 セシリアの声は冷静だった。


「非常に重要な点です」


「でも」


 リリアーナが口を挟んだ。


「悪いことをした人が、何もなかったみたいに幸せになるのって、おかしくないですか?」


 ヴィクトリアは彼女を見る。


 リリアーナは本気だった。


 悪意はない。


 それが、かえって厄介だった。


「リリアーナ嬢」


「はい」


「例えば、こちらには夫を亡くした後、婚家から追い出された女性がおります」


「それは……可哀想だと思います」


「実家へ戻ろうにも、すでに弟が家督を継いでおり、居場所がない。ですからここで三年暮らし、現在は薬草の知識を学んでおります。秋から地方の診療所で働く予定です」


「それなら、いいと思います」


「ですが今の殿下の規定では、彼女も王太子府の許可なしには出られません」


 リリアーナが黙った。


「ほかにもおります。政争に巻き込まれただけの女性。婚約者が別の女性を選んだため、体面上ここへ入れられた女性。子どもができないことを理由に離縁された女性」


 ヴィクトリアは、レオナルドを見る。


「その方々も、罪人ですの?」


「そういう者については、個別に判断すればいい」


「誰が?」


「王太子府が」


「何を基準に?」


「それは今後――」


「まだ決まっていないのですね」


 レオナルドが言葉を止めた。


「殿下」


 ヴィクトリアは、できるだけ穏やかに言った。


「制度を変えること自体が悪いとは申しません。この神殿にも、改善すべき点はあるでしょう」


「なら」


「ですが」


 ヴィクトリアは彼の言葉を遮った。


「今ある制度を壊す前に、何のために存在しているのかを調べてくださいませ」


「……」


「ここは、悪い女性を閉じ込めるための場所ではありません」


「だが君たちは――」


「わたくしたちの話ではございません」


 そこだけは。


 少し強く言った。


「わたくしがお嫌いなら、それは構いません。ロザリンドたちがお嫌いでも、それは皆様方の問題です。ですが、その感情を理由に、ここにいる百人近い女性の人生まで変えないでくださいませ」


 レオナルドの顔が強張った。


「僕が私情でやっていると言いたいのか」


「そう見えます」


「ヴィクトリア!」


「では、なぜ今なのです?」


 彼女は静かに問い返した。


「この神殿は百年以上、この制度で運営されてきました。殿下が制度改革を始めたのは、わたくしたち五人がここへ入った直後です」


「それは、お前たちのような者が簡単に社会へ戻れる制度だと知ったからだ!」


「それを私情と申します」


 沈黙した。


 レオナルドの顔が赤くなる。


 リリアーナが不安そうに彼の袖を掴んだ。


「レオ」


「大丈夫だ」


 その愛称を聞いて。


 ヴィクトリアの胸が少しだけ痛んだ。


 以前なら。


 自分だけが呼べる名前だった。


 けれど、その痛みは不思議なほど小さかった。


 たぶん。


 もう。


 痛む場所そのものが変わり始めている。


「とにかく」


 レオナルドは立ち上がった。


「僕は間違っていない」


 ヴィクトリアは彼を見た。


 昔。


 議会の模擬討論で負けた時。


 悔しそうに、それでも自分の資料を読み直していた少年を思い出した。


 どこで。


 変わってしまったのだろう。


 それとも。


 自分が。


 見えていなかっただけなのだろうか。


「そうですか」


 ヴィクトリアは、それ以上追わなかった。


「では、こちらも必要な手続きを取ります」


「好きにしろ」


「ええ」


 レオナルドたちは部屋を出ていった。


 最後にリリアーナだけが、扉の前で振り返った。


「ヴィクトリア様」


「何でしょう」


「私……」


 少し迷って。


「皆が幸せになればいいって、本当に思ってるんです」


 ヴィクトリアは彼女を見た。


 嘘ではないのだろう。


「ええ」


 だから。


 少しだけ。


 悲しくなった。


「でしたら」


 ヴィクトリアは答えた。


「一度、ご自分の考える『皆』の中に、顔も名前も知らない人を入れてみてくださいませ」


 リリアーナは答えなかった。


 やがて扉が閉まる。


 静かになった部屋で、マグダレーナが長く息を吐いた。


「……どうでした?」


 ヴィクトリアは聞いた。


「あなたの元婚約者ですから、何とも」


「元、です」


「失礼」


 セシリアは無言で書類をまとめている。


「セシリア?」


「はい」


「何をしていますの?」


「今日の議事録です」


「もう?」


「忘れないうちに」


 ヴィクトリアは思わず笑った。


「さすがですわね」


「褒めても何も出ません」


「期待しておりません」


 そこで扉が開いた。


 ロザリンド。


 ミレーヌ。


 アデライーデが入ってくる。


「終わりました?」


「ええ」


「どうでした?」


 ミレーヌが聞く。


 ヴィクトリアは少し考えた。


「話は通じました」


「なら」


「理解はされませんでした」


「ああ」


 ミレーヌが納得した。


「一番面倒なやつですわね」


「ええ」


 全員がため息をついた。


 その日の夜。


 ヴィクトリアは自室へ戻ると、人形を棚から下ろした。


「聞いてくださる?」


 青い硝子の瞳へ話しかける。


「殿下は、ご自分が間違っていないとおっしゃいました」


 人形を机へ座らせる。


 カチリ。


「わたくしも、自分が正しいと思っております」


 また、カチリ。


「困りましたわね」


 そこでヴィクトリアは少し笑った。


「正しい人間が二人おりますわ」


 人形は当然、何も答えない。


「でも」


 ヴィクトリアは、その赤い唇を見た。


「正しさというものは、相手を黙らせるために使い始めたら、たぶん少し危ないのでしょうね」


 それはレオナルドだけの話ではない。


 自分だって。


 学院にいた頃。


 正しい礼儀。


 正しい身分秩序。


 正しい王太子妃。


 それを振りかざして、リリアーナを傷つけたことがなかったとは言えない。


 内容が正しかったから。


 言い方まで正しかったことにはならない。


「……わたくしも、少しは反省いたしましょうか」


 人形を持ち上げる。


 カチリ。


「少しだけですわよ」


 カチリ。


「何ですの。もっとしろと?」


 返事ではない。


 分かっている。


 それでもヴィクトリアは、人形を見ながら笑った。


 翌朝。


 神殿へ一通の知らせが届いた。


 今度は王太子府からではない。


 王宮からだった。


 国王陛下が倒れた。


 もともと療養中だった国王の容体が急変し、政務のほとんどを王太子へ委任することになったという。


 つまり。


 昨日までなら、まだ「王太子の独断」として止められたものが。


 今日からは。


 実質的な国政になり得る。


 ヴィクトリアは書状を読み終え、静かに机へ置いた。


 マグダレーナも何も言わなかった。


 セシリアの顔から血の気が引いている。


「……まずいですわね」


 ロザリンドが言う。


「ええ」


 ヴィクトリアは窓の外を見た。


 神殿の庭では、いつも通り洗濯物が揺れていた。


 通いの下女たちが笑っている。


 薬草園では神官たちが働いている。


 厨房からは、焼いたパンの匂いがする。


 何も変わっていないように見える。


 けれど。


 確実に何かが変わった。


「神殿長」


 ヴィクトリアは振り返った。


「帳簿を、もう一度すべて見せてくださいませ」


「何をするつもりです?」


「王家から一銭も入らなくなっても、この神殿が回る方法を考えます」


 マグダレーナはヴィクトリアを見つめた。


「できますか?」


「分かりません」


 ヴィクトリアは正直に答えた。


「ですが」


 机の上の帳簿へ手を置く。


「できるかどうかを決めるのは、計算してからです」


 その日から。


 ヴィクトリアたちは、王太子を説得することをやめた。


 代わりに。


 王太子が何をしても、この場所が潰れない方法を考え始めた。


 ◻︎◻︎◻︎◻︎


王家から一銭も入らなくなっても、この神殿を回せるようにする。


 言葉にしてしまえば簡単だが、実際に帳簿を広げてみれば、当然ながら話はそう単純ではなかった。


 王家からの寄進そのものは、神殿全体の収入の一部に過ぎない。だが問題はそこではない。王太子府が神殿を「反省すべき令嬢たちを収容する場所」と位置づけ、それに従わない神殿へ圧力をかけ始めたことで、これまで普通に続いていた取引まで揺らぎ始めていた。


 王都の大商会は取引量を減らし、貴族からの寄進も目に見えて少なくなった。さらに工房で作られた品の販売へまで口を出されれば、いずれ神殿が自力で得ていた収入まで細っていく。


 その一方で、ここで暮らす人間の数は減らない。


 見習い神官、正式な神官、通いの下男下女。事情があって一時的に保護されている女性と、その子どもたち。建物の修繕費も必要だし、冬に備えて薪も買わなければならない。薬草園で作れない薬は外から仕入れる必要があるし、働いている者たちへの給金を遅らせるなど論外だった。


「つまり、節約だけでは無理ですわね」


 会計室の大机いっぱいに帳簿を広げながら、ヴィクトリアは腕を組んだ。


 向かいではセシリアが支出項目を一つずつ確認している。数字を追う目は冷静だったが、眉間にはうっすら皺が寄っていた。


「食費を切り詰めれば、多少は浮きます」


「却下です」


「まだ最後まで申し上げておりません」


「どうせ食事の質を落とすのでしょう?」


「そのつもりでした」


「却下」


「では、薪代」


「冬に凍死なさりたい?」


「したくありません」


「でしょう?」


 セシリアが小さくため息をついた。


 その横では、アデライーデが食材の仕入れ帳を読んでいる。もともと辺境伯家で物流と備蓄に関わってきた彼女にとって、こうした記録は見慣れたものらしい。


「食費、もう少し下げられる」


「本当?」


 ヴィクトリアがすぐに身を乗り出すと、アデライーデは帳簿の一行を指した。


「質は落とさない。近隣の農家から直接買う」


「今は?」


「仲買が二つ入ってる。野菜と穀物、どちらも」


「なぜ?」


「昔から」


「またそれですの?」


 ヴィクトリアは思わず天井を仰いだ。


 この神殿では時折、「昔から」という名の怪物が帳簿の隅から姿を現す。


「直接契約へ切り替えた場合、どの程度下がります?」


「一割ちょっと。品質は私が見る」


「ではお願いします」


 アデライーデは頷き、そのまま計算を書き始めた。


 少し離れたところでは、ロザリンドが建物の修繕費を睨んでいる。


「こちらも妙ですわ」


「何が?」


「小さな補修まで、全部王都の職人へ頼んでおります。屋根の一部修繕や壁の補修程度でしたら、近くの村の大工や石工でも十分ですわ」


「礼拝堂のような大きな建物は?」


「そこは専門の職人が必要でしょうけれど、小規模な修繕まで王都へ依頼する必要はありません」


「では、そこも見直しましょう」


 削れるものと、削ってはいけないもの。


 それを一つずつ分けていく。


 ヴィクトリアは王太子妃教育の中で、国家予算を題材に似た訓練をしたことがある。けれど神殿の帳簿は、あの頃の数字よりずっと生々しかった。


 ここを一割削れば、誰かの給金が減る。


 ここを止めれば、冬の食卓から一品消える。


 逆に少しでも収入を増やせれば、誰か一人が読み書きを覚えるまで、もう数か月ここで働くことができる。


 数字は冷たいものだと思っていた。


 けれど実際には、数字ほど暮らしに近いものもない。


「やはり、支出を削るだけでは足りませんわね」


 ヴィクトリアがそう言うと、待っていましたとばかりにミレーヌが顔を上げた。


「でしたら、刺繍ですわ」


「売り先が問題です」


「王都だけが市場ではございませんでしょう?」


 ミレーヌは一枚の紙を机へ置いた。


「隣国?」


「ええ。帝国です」


 そこには帝国側の商家と、いくつかの貴族家の名前が書かれていた。


「神殿の刺繍は意匠そのものが珍しいのです。王国では『神殿で作られたものだから安価で当然』と思われていますけれど、国外では事情が違いますわ」


「輸送費がかかります」


「その分、高く売ればよろしいのでは?」


「簡単におっしゃいますわね」


「簡単ではございません。ですから知り合いを使います」


「誰ですの?」


「わたくしの叔母が帝国へ嫁いでおりますの」


「ああ」


「それに、あなたも帝国に親類がおりましたでしょう?」


 ヴィクトリアは少し考えた。


「母方に。再従兄弟が何人かおります」


「使えます?」


「人を道具のように言わないでくださる?」


「紹介状を書いていただけます?」


「それでしたら」


 ヴィクトリアは改めて紙を見る。


「できますわね」


 こうして、王太子府が国内の販路を狭める横で、神殿は国外へ目を向け始めた。


 もちろん、すぐに大きな利益が出たわけではない。


 最初に帝国へ送ったのは祭壇布が三枚。祈祷用の小さな刺繍布が十二枚。それから神殿で作っている香草袋と、装飾用のレースを少し。


 ミレーヌの提案で包装も変えた。


 ただ布を畳んで渡すのではなく、神殿の紋章を入れた箱へ収め、刺繍の意味や由来を記した小さな紙を添える。高級品として売るなら、品物だけでなく、受け取った時の印象まで含めて商品なのだという。


「慈善を売り物にするのは嫌ですの」


 ヴィクトリアが言うと、ミレーヌも頷いた。


「同感ですわ。『可哀想な女性たちが作りました』で一度は売れても、二度目はございませんもの」


「品物そのものに価値がなければ続きません」


「でも由来は使います」


「そこは使うんですのね」


「商売ですもの」


 実に逞しい。


 最初の返事が届いたのは三週間後だった。


 祭壇布、完売。


 刺繍布、完売。


 レース、完売。


 香草袋だけ半分ほど残った。


「なぜ香草袋だけ?」


 ヴィクトリアが首を傾げると、セシリアが記録を確認しながら答えた。


「香りが帝国向けではないのでは?」


「叔母からも同じことが書かれておりますわ」


 ミレーヌが手紙をひらひらさせる。


「帝国では柑橘系の香りが好まれるそうです」


「では配合を変えましょう」


「すぐ変えるんですのね」


「売れなかったのでしょう?」


「ええ」


「なら変えます」


 ヴィクトリアにとっては、それだけの話だった。


 そしてその潔さは、思っていた以上に神殿の女性たちへ受け入れられた。


 これまで工房では、何十年も同じものを、同じ方法で作り続けていた。失敗しない代わりに、大きく売れることもない。


 ヴィクトリアたちは、そこへ少しずつ手を入れた。


 刺繍が得意な者には刺繍を任せる。


 裁縫が得意な者には縫製を。


 絵が得意な者には意匠を考えてもらい、字の綺麗な者には商品へ添える説明カードを書いてもらう。


 貴族だから上。


 平民だから下。


 そういう分け方はしなかった。


 売れるものを作れる者が、その仕事をする。


 気づけば工房は、以前よりずっと賑やかになっていた。


 そんなある日、ヴィクトリアは別のことに気づいた。


「神殿長」


「何でしょう」


「最近、見習い神官が増えておりません?」


 マグダレーナの顔から、わずかに笑みが消えた。


「気づきました?」


「食堂の席が足りなくなり始めておりますもの」


「今月だけで十一人です」


「十一?」


 通常なら、一月に一人か二人。多い時でも三、四人だという。


「なぜ?」


「王太子殿下の改革です」


 マグダレーナが机から一枚の書類を取り出した。


 そこには、貴族社会の風紀を正し、婚姻制度を健全化するための新しい制度について書かれていた。


 婚約解消や離縁に際して、「女性側に問題があった」と認められた場合、一定期間の神殿奉仕を勧告できる。


「判断するのは?」


「王太子府に新設された風紀委員会です」


「委員は?」


「王太子殿下の側近方が中心ですね」


 ヴィクトリアは書類を机へ置いた。


 セシリアも横から読み、すぐに眉を寄せる。


「財産の扱いは?」


「婚約契約によります。ただ、女性側が有責とされた場合、持参金の一部を返還させる例が増えております」


「……これは」


 セシリアの声が低くなった。


「悪用されます」


「ええ」


 ヴィクトリアも同意した。


「もう、されているかもしれません」


 仕組み自体は単純だ。


 婚約者の男性が「彼女には問題がある」と訴える。


 風紀委員会が認める。


 女性は神殿へ送られ、婚約は解消される。


 場合によっては持参金の一部が男性側へ戻る。


 そして神殿へ送られた女性は、王太子府の許可なしでは簡単に外へ出られない。


 最初から悪用するつもりで作られた制度ではないのだろう。


 むしろ逆だ。


 王太子たちは、これを「女性も男性も愛のない婚約から解放するための制度」だと思っているのかもしれない。


 けれど、善意で作られた制度ほど、利用する者にとって使いやすい場合がある。


 実際、その日の夕方。


 新しく神殿へ入った少女が、食堂の隅で泣いていた。


 十七歳の子爵令嬢。


 名をエレオノーラという。


 ヴィクトリアはしばらく迷った末、その隣へ腰を下ろした。


「何があったのです?」


 少女は泣きながら、何度か息を整えようとした。


「わたくし……婚約者に、ひどいことを言ってしまって」


「何と?」


「馬鹿、と」


「ほかには?」


「役立たず、と」


「ほかは?」


「……それだけです」


 確かに、褒められた言葉ではない。


「なぜ、そんなことを?」


 ヴィクトリアが尋ねると、エレオノーラは俯いた。


「わたくしの持参金を、勝手に使ったからです」


 ヴィクトリアの表情が止まる。


「何に?」


「賭け事です」


「いくら?」


 少女が答えた。


 小さな額ではなかった。


「それで、あなたが怒った」


「はい」


「婚約者は何と?」


「わたくしは夫を立てることもできない、気性の荒い女だから、結婚してもうまくいかないと」


「それで婚約破棄?」


「はい」


「持参金は?」


「半分しか戻らないそうです」


 ヴィクトリアは目を閉じた。


 怒りはあった。


 だが、ここで自分が怒鳴ったところで、目の前の少女をさらに怯えさせるだけだ。


「エレオノーラ様」


「はい」


「まず、お食事をなさって」


「でも……」


「泣くのも、怒るのも、その後でできます。今日はこちらへ来たばかりなのでしょう?」


 少女が小さく頷く。


「でしたら、今日は休みなさい。明日、一緒に書類を確認しましょう」


「……一緒に?」


「ええ」


「でも、わたくしは……」


 エレオノーラの唇が震えた。


「悪い女だから、ここへ送られたのでしょう?」


 その言葉に、ヴィクトリアは少しだけ息を止めた。


 聞き覚えがあった。


 悪役令嬢。


 傲慢。


 嫉妬深い。


 可愛げがない。


 人を見下している。


 何度も言われれば、人はいつか自分でもそう思い始める。


「馬鹿と役立たずは、確かに言わない方がよろしかったですわね」


「……はい」


「そこは反省しましょう」


 少女がさらに俯く。


「ですが」


 ヴィクトリアは続けた。


「それと、あなたの持参金を勝手に使った方の行為は別の話です」


 エレオノーラが顔を上げた。


「一つ悪いことをしたからといって、相手の悪いことまで正しくなるわけではございません」


 少女の目から、また涙が落ちた。


「明日、確認しましょう」


「……はい」


 今度は、ほんの少しだけ力のある返事だった。


 翌日から、セシリアを中心に新しく送られてきた女性たちの記録を調べ始めた。


 すると、似たような例が次々と出てきた。


 婚約者の浮気を責めた。


 義母と口論した。


 夫の借金を実家へ相談した。


 婚約者が愛人へ贈った宝石について説明を求めた。


 結婚後も自分の財産を自分で管理したいと主張した。


 もちろん、本当に本人にも大きな問題がある例はあった。


 使用人へ暴力を振るった者。


 婚約者の愛人だと思い込んだ女性へ執拗な嫌がらせをした者。


 借金を隠して婚約しようとした者。


 だからこそ、一括りにしてはいけない。


「全部、同じ『問題のある女性』になっておりますわ」


 セシリアは集めた記録を机へ置いた。


「審査が雑すぎます」


「というより」


 ヴィクトリアは一枚の書類を指で叩いた。


「結論が先にあるのでしょう」


「神殿へ送るという?」


「ええ」


 王太子たちは、自分たちがしたことを正しいことにしなければならない。


 婚約者を捨て、その女性たちを神殿へ送り、自分たちは愛する相手を選んだ。


 それが正義であるなら、同じように婚約者を捨てる男たちもまた、正しいことになる。


「前例を作ってしまいましたのね」


 ヴィクトリアは呟いた。


 そしてその前例を、他の者たちが使い始めたのだ。


 一方、王太子府では別の問題も起きていた。


 最初に情報を持ってきたのは、やはりミレーヌだった。


「王都で、妙な噂が出ていますわ」


「どんな?」


「曰く付きの品について」


 ヴィクトリアの手が止まる。


「わたくしたちの?」


「ええ」


 ミレーヌは楽しそうというより、少し困惑した顔をしていた。


「ガイウス様が落馬なさったそうです」


 ロザリンドが眉を上げる。


「死んだの?」


「生きております」


「なら、よかった」


「それだけ?」


「元婚約者ですけれど、死んでほしいとは思っておりませんもの」


「それもそうですわね」


 問題はその後だった。


 ガイウスが落馬して怪我をしたことで、ロザリンドが神殿へ持ち込んだ「血を吸う紅玉の首飾り」の噂が再び広まった。


 持ち主を傷つけた者から血を奪う。


 もちろん、ただの伝承だ。


「落馬なら、血くらい出ますでしょう」


「ええ。でも噂というものは、理屈ではございませんから」


 続いて、ユリウス。


 重要書類を一時紛失し、大きな失態をした。


 セシリアの持つ「罪を映す鏡」が、彼の隠していた罪を暴いたという噂が立った。


 リュシアンは夜会で、複数の女性へ同じ口説き文句を使っていたことが露見した。


 ミレーヌのオルゴールが夜中に鳴り、その秘密を告げたのだという。


 ディートリヒは軍の演習中に食中毒を出した。


 アデライーデが持つ、「三人の主人を殺した黒いティーセット」の祟りとされた。


「レオナルド殿下は?」


 ヴィクトリアが聞くと、ミレーヌは彼女の隣に置かれた人形を見た。


「まだ、何も」


「そう」


 ヴィクトリアは自分でも不思議なくらい安堵した。


 婚約は破棄された。


 神殿へ送られた。


 制度にまで手を入れられた。


 それでも、彼が不幸になればよいとは思えなかった。


「全部偶然ですわ」


「当然です」


 セシリアも頷く。


「人形も、首飾りも、鏡も、ただの品です」


「でも、世間はそう思わないでしょうね」


 ミレーヌが言った。


 それは確かにそうだった。


 噂は恐ろしいほど早く広がった。


 曰く付きの品とともに神殿へ送られた五人の令嬢。


 その元婚約者たちに、次々と災いが起きている。


 神殿で彼女たちが呪いをかけた。


 いや、品物そのものが怒っているのだ。


 罪のない令嬢を陥れたからだ。


 噂にはすぐ尾ひれがついた。


 ガイウスは落馬しただけなのに、一度死んだことになった。


 ユリウスの紛失書類は翌日には見つかっているのに、国家機密を敵国へ売ったことになった。


 リュシアンに至っては、三日後には隠し子が七人いることになっていた。


「七人?」


 ミレーヌが腹を抱えて笑った。


「どこから出てきたの、その子たち」


「笑い事ではございません」


 ヴィクトリアはそう言いながらも、口元が少し緩む。


「でも七人は多すぎません?」


 ロザリンドまで笑った。


「そこではありません!」


 それでも、この噂は使える。


 最初にそれを口にしたのは、意外にもセシリアだった。


「訂正しないでおきましょう」


 全員が彼女を見た。


「セシリア?」


「何です?」


「あなたがそれを言います?」


「嘘を流すとは言っておりません」


 セシリアは眼鏡を押し上げた。


「聞かれたら、『そのような事実は確認しておりません』とだけ答えます。わざわざ王都中を回って、一つ一つ否定する義務もございませんでしょう」


 ミレーヌが、ゆっくり笑った。


「好きですわ、その考え」


「わたくしは嫌です」


 ヴィクトリアは即答した。


「ですが合理的です」


「セシリアまで!」


「王太子府はこちらを『罪人』と呼びました。こちらは人形を人形として保管し、首飾りを首飾りとして保管しているだけです」


 確かにそうだ。


 呪いをかけたなどとは、一言も言っていない。


「……絶対に、こちらから噂を流してはいけませんわよ」


「もちろん」


「嘘も禁止です」


「当然です」


「何か起きても、呪いだとは言わない」


「はい」


 ヴィクトリアは四人を見回した。


「わたくしたちは、何もしません」


 ミレーヌがくすりと笑った。


「それが一番怖い言い方ですわね」


「なぜですの!」


 だが、彼女たちが何もしなくても、王都は勝手に動いた。


 国王の病状がさらに悪化し、政務を任されたレオナルドは、自らが信じる理想を次々と政策へ変え始めた。


 婚姻の自由。


 身分差別の是正。


 古い貴族制度の改革。


 言葉だけを見れば、若い貴族や民衆から支持されるものも多い。


 問題は、その実務だった。


 長年続いた婚姻契約を一方的に解消しやすくしたことで、婚姻と同時に結ばれていた別の契約まで次々と崩れ始めた。


 持参金。


 領地の共同管理。


 交易権。


 鉱山の使用権。


 軍事協力。


 婚姻だけを切り離せると思っていたのかもしれない。


 だが貴族の婚姻とは、本人同士の感情だけで成立しているものではない。


 王太子府は、発生する問題ごとに個別対応を求められた。


 そして、処理しきれなかった。


「当然ですわ」


 セシリアは王都から届いた情報を読みながら言った。


「婚姻契約だけ切って、付随する契約が全部無事だと思ったのでしょうか」


 ヴィクトリアは答えなかった。


 かつてなら、自分がそこにいた。


 レオナルドが理想を語る。


 ヴィクトリアが必要な法改正を調べる。


 ユリウスが行政手続きを整える。


 ロザリンドの家が軍と地方貴族の反応を確認する。


 ミレーヌが社交界でどこから反発が出るかを探る。


 アデライーデの家が地方物流への影響を見る。


 それで初めて、一つの政策になる。


 けれど今、その調整役の多くは王太子の傍にいない。


 そして、決定的な出来事が起きた。


 国王が崩御した。


 知らせが届いた日の朝、神殿の鐘はいつもとは違う間隔で鳴った。


 ヴィクトリアはその音を聞きながら、しばらく動くことができなかった。


 国王は、幼い頃から知っている人だった。


 王太子妃教育が始まった時、


『レオナルドを頼む』


 そう言って笑った。


 厳しい人だったが、ヴィクトリアが初めて書いた政策案を、最後まできちんと読んでくれた人でもある。


「……陛下」


 小さく呟いた。


 国王の死によって、本来であればレオナルドがそのまま即位する。


 誰もがそう思っていた。


 おそらく、レオナルド自身も。


 だが、即位式は行われなかった。


 王都から届いた次の知らせを、マグダレーナは全員の前で読み上げた。


「先王陛下の弟君、アルブレヒト大公殿下が王都へ入られました」


 ヴィクトリアは顔を上げる。


「大公殿下が?」


「ええ」


 アルブレヒト。


 先王の弟。


 長年王都から離れ、北部の広大な直轄領を管理していた人物であり、王位継承順位はレオナルドの次にある。


「枢密院が、レオナルド殿下の即位承認を保留いたしました」


 その言葉に、部屋の空気が変わった。


「理由は?」


 ヴィクトリアが聞く。


「摂政期間中の政務について、重大な疑義があるため」


 セシリアが小さく息を呑んだ。


「つまり」


「調査が入ります」


 婚姻制度への介入。


 神殿への圧力。


 貴族家との契約問題。


 王太子府による権限の逸脱。


 そして、風紀委員会。


 すべてが調べられる。


 その夜、ヴィクトリアは自室へ戻り、例の人形を膝に乗せた。


 青白い陶器の顔は、今日も何も変わらない。


「大変なことになりましたわね」


 人形の腕がわずかに胴へ触れ、カチリと鳴った。


「あなたのせいではございませんわよ」


 もちろん返事はない。


「呪いなんて、ありませんもの」


 そう言ってから、ヴィクトリアは少し黙った。


 不思議なものだ。


 王太子たちは彼女たちへ「曰く付きの品」を与えた。


 悪い女には、不吉なものがお似合いだと。


 そうして神殿へ追いやった。


 なのに今では、王都中がその品々を恐れている。


 自分たちが笑って押しつけたものに、自分たちが怯えている。


「呪いというものは」


 ヴィクトリアは人形の白い縦ロールを、指先でそっと整えた。


「案外、人の心の中にあるものなのかもしれませんわね」


 カチリ。


「……今のは少し格好よく言いすぎましたわ」


 人形は何も言わない。


 ヴィクトリアは小さく笑った。


 翌日。


 神殿へ正式な使者が訪れた。


 今度は王太子府ではない。


 枢密院からだった。


 神殿へ送られた五人の令嬢について、事情聴取を行いたいという。


 卒業記念舞踏会での婚約破棄。


 神殿送り。


 曰く付きの品。


 その後の制度変更。


 すべてについて確認したい、と書かれていた。


 ヴィクトリアは書状を読み終えてから、四人を見た。


「皆様、どうなさいます?」


 ロザリンドが肩を回した。


「全部話しますわ」


 セシリアはすでに資料の束を抱えている。


「記録は揃っております」


 ミレーヌは穏やかに微笑んだ。


「王都でどのような噂が流れているかも整理してありますわ」


 アデライーデは少し考えてから、いつもの調子で聞いた。


「お茶、出す?」


「そこから離れてくださいませ」


「客だから」


「……出しましょう」


 五人は顔を見合わせた。


 そしてヴィクトリアは一度自室へ戻り、棚の上の人形を抱き上げた。


 カチリ。


「あなたも参りましょうか」


 曰く付きの品そのものも、事情聴取の対象になっている。


 ヴィクトリアは人形を抱いて廊下を歩いた。


 青白い陶器の肌。


 サファイアのような青い瞳。


 鮮やかな赤い唇。


 真っ白な縦ロール。


 恐ろしい復讐の人形。


 ――ということになっている。


 もちろん、人形は何もしない。


 笑わない。


 怒らない。


 呪わない。


 ただ、ヴィクトリアが歩くたびに磁器の関節が触れ合い、


 カチリ。


 カチリ。


 静かな廊下に、硬質な音だけが響いていた。


 ◻︎◻︎◻︎◻︎◻︎


枢密院による事情聴取は、ヴィクトリアが想像していたよりもずっと静かに始まった。


 怒号もなければ、誰かを吊し上げるような芝居がかった場面もない。神殿の応接室に数名の調査官が入り、セシリアが整理した記録を受け取り、一つずつ事実関係を確認していくだけだった。


 卒業記念舞踏会で、誰が何を言ったのか。


 神殿送りを決めたのは誰か。


 どのような権限に基づいて決定されたのか。


 神殿へ送られた後、王太子府からどのような書状が届いたのか。


 進路の制限。


 外出許可。


 寄進の停止。


 商会への働きかけ。


 風紀委員会の設置。


 そして、婚約破棄や離縁に際して女性側だけが不当に不利益を負った事例。


 セシリアの記録は正確だった。


 日付。


 署名。


 発言。


 書状。


 証人。


 必要なものは、ほとんど揃っている。


「こちらが最初の抗議書です」


 セシリアが一通の写しを差し出す。


「神殿側は、この時点で王太子府には進路を制限する法的根拠がないと指摘しております」


「返答は?」


「こちらです」


 次の書状が置かれる。


 調査官は黙って読み、それから少しだけ眉を寄せた。


「この後、さらに外出制限が?」


「はい」


「それも抗議した?」


「もちろんです」


「返答は?」


「寄進停止の通知でした」


 部屋が少し静かになる。


 ヴィクトリアは隣に置いた人形へ目をやった。


 例のオールビスク・ドールも、今日は証拠品の一つとして連れてきている。


 青白い肌。


 サファイア色の瞳。


 赤い唇。


 そして、真っ白な縦ロール。


 調査官の一人が人形を見た。


「これが、例の?」


「ええ」


「持ち主を陥れた者へ災いを返すという」


「そういう曰くがあるそうです」


「本当に?」


 ヴィクトリアは少し考えた。


「少なくとも、わたくしは呪いをかけた覚えはございません」


「では、王都の噂については?」


「存じております」


「否定しなかった?」


「聞かれれば否定しております。ですが、王都中を回って『呪いではございません』と触れ回る義務まではないと思っておりますの」


 調査官の口元が、ほんの少し動いた。


「なるほど」


「それに」


 ヴィクトリアは人形を見た。


「こちらは、そもそもレオナルド殿下から頂いたものです」


「殿下が?」


「ええ。わたくしにはふさわしい、と」


「由来をご存じの上で?」


「恐らくは」


 調査官は数秒黙った。


「……随分、思い切ったことをなさった」


「わたくしもそう思います」


 そこで人形を少し動かした拍子に、磁器の関節が触れ合った。


 カチリ。


 調査官の肩が、ほんのわずかに跳ねた。


 ヴィクトリアは見なかったことにした。


 調査は数週間続いた。


 やがて神殿だけではなく、王太子府そのものへ人が入った。


 そこで見つかったものは、ヴィクトリアたちが予想していたよりひどかった。


 最初から悪事を企んでいたわけではない。


 むしろ、それが問題だった。


 レオナルドたちは、自分たちが正しいと信じていた。


 愛のない婚約から人を解放する。


 身分によって人生を縛られた者を救う。


 悪いことをした者には、きちんと反省させる。


 古い制度を正す。


 一つ一つの言葉だけを拾えば、立派なものだった。


 けれど、何をもって「愛のない婚約」とするのか。


 誰が「悪いことをした」と決めるのか。


 誰が反省したと判断するのか。


 制度を悪用した者が出た時、誰が止めるのか。


 その答えが、何もなかった。


 風紀委員会には明確な審査基準すら整備されていなかった。


 ガイウスは「男がそこまで言うなら、よほど酷い女なのだろう」と判断した。


 ユリウスは法制度を作ることに夢中になり、実際の運用で何が起きるかを軽視した。


 リュシアンは社交界で「愛のない婚約から自由になるべきだ」と語り続け、結果として無責任な婚約破棄を流行させた。


 ディートリヒは制度そのものには疑問を抱きながらも、「女性を守るためには厳しい指導も必要だ」と考えて止めなかった。


 そしてレオナルドは、彼らの意見をまとめながら、自分こそが古い王国を変えているのだと思っていた。


 悪意はない。


 私腹を肥やした者も、ほとんどいない。


 だからこそ、始末が悪かった。


 誰も自分を悪人だと思っていなかったのだ。


 それでも、責任は残る。


 先王の崩御から一か月後。


 枢密院は正式に、レオナルドの王位継承を認めないと発表した。


 理由は、王太子として委任された権限を越えて制度へ介入し、王国の婚姻契約、貴族間協定、神殿運営に重大な混乱を生じさせたこと。


 さらに、その後の調査で、風紀委員会による判断の中に多数の不当な事例が認められた。


 レオナルドは王太子の地位を失った。


 王位は、先王の弟であるアルブレヒト大公へ移った。


 新国王アルブレヒト一世。


 もともと北部の広大な直轄領を長年管理していた人物であり、華やかさには欠けるが、実務に強いことで知られている。


 ヴィクトリアは即位の知らせを聞いた時、少しだけ複雑な気持ちになった。


 レオナルドが王になれなかったことを喜びたいわけではない。


 昔。


 彼がまだ少年だった頃。


 一緒に王国地図を広げながら、どんな国にしたいかを話したことがある。


 その時の彼は、本気だった。


 たぶん今も、本気だったのだろう。


 ただ、王とは善人であれば務まるものではない。


 理想を持っているだけでも足りない。


 その理想が誰を踏みつけるのかまで考えられなければ、善意は簡単に刃になる。


「……殿下」


 ヴィクトリアは一人で呟いた。


「本当に、別れて正解だったと思わせてくださいましたのね」


 願っていた形とは、随分違ったけれど。


 側近たちも、それぞれ処分を受けた。


 ガイウスは騎士団の役職を外され、一時的に領地へ戻された。後に下級騎士として復帰することになるが、以前のように王太子の傍で権力を振るう立場ではない。


 ユリウスは官職を失い、父である宰相の監督下で法務を一から学び直すことになった。彼が作った制度の欠陥を、今度は自分自身で修正する仕事を与えられたらしい。


 リュシアンは外交部門から外され、地方の小さな領事館へ送られた。華やかな夜会とは無縁の場所で、書類と商人相手の実務に追われているという。


 ディートリヒは軍籍こそ失わなかったものの、辺境で兵站実務を一から経験し直すことになった。


 誰も死んではいない。


 誰も呪いで消えてはいない。


 自分たちがしたことに応じた責任を取り、その後の人生を生きている。


 それでいい。


 ヴィクトリアはそう思った。


 リリアーナ・フローレスについては、さらに扱いが難しかった。


 彼女には官職もなければ、王太子府の決裁権もない。


 ただ、レオナルドの隣で賛同し続けた。


 悪い人には反省が必要。


 愛のない婚約は間違っている。


 皆が幸せになればいい。


 それだけだった。


 調査の結果、彼女自身に罪を問える行為はほとんどなかった。


 けれど、何もなかったことにもできない。


 結局、フローレス男爵が娘を領地へ連れ帰った。


 その前に一度だけ、リリアーナは神殿へ来た。


 以前とは違い、派手なドレスではない。


 薄い青色の簡素な服を着て、父親と二人で現れた。


 応接室で、彼女は長いこと何も言わなかった。


 ヴィクトリアも急かさなかった。


 やがて。


「ごめんなさい」


 リリアーナが言った。


「はい」


「私、本当に……こんなことになると思ってなくて」


「そうでしょうね」


「皆が、好きな人と一緒になれたらいいって。それだけで」


 リリアーナの指が、膝の上で強く組まれている。


「お父様にも言われました。『それで傷つく人のことを、一人でも調べたのか』って」


 ヴィクトリアは黙って聞いていた。


「調べてませんでした」


「ええ」


「知らなかったんです」


「ええ」


「でも」


 リリアーナが顔を上げる。


「知らなかったから仕方ない、では駄目なんですよね」


 ヴィクトリアは少し考えてから答えた。


「知らなかったこと自体は、罪ではございませんわ」


「……」


「知ろうとしないまま、人の人生を変えようとしたことは、反省なさった方がよろしいでしょうけれど」


 リリアーナの目に涙が浮かんだ。


 ヴィクトリアは慰めなかった。


 泣くことも、たぶん必要なのだ。


「わたくしも」


 しばらくしてから、ヴィクトリアは言った。


「あなたには随分、嫌味を申し上げました」


「え?」


「礼儀作法上の注意は必要だったと思っております。ですが、必要以上に厳しく言ったこともございました」


「でも、それは私が」


「あなたが間違っていたからといって、わたくしの言い方まで正しくなるわけではございませんでしょう?」


 以前。


 神殿へ送られてきた少女へ、自分でそう言った。


 一つ悪いことをしたからといって、相手の悪いことまで正しくなるわけではない。


 なら。


 自分にも同じことを言わなければならない。


「そこについては、わたくしも謝ります」


「ヴィクトリア様……」


「ですから、これでおしまいにいたしましょう」


「許してくださるんですか?」


「許すとか許さないとか」


 ヴィクトリアは少し笑った。


「もう、そういう話でもございませんわ」


 リリアーナは領地へ帰った。


 父親の商会で帳簿と商売を学びながら、しばらく暮らすという。


 それでいいと思う。


 彼女にも、自分の人生がある。


 王太子府によって作られた風紀委員会は解散した。


 神殿への制限も、すべて撤回された。


 王家からの寄進についても、新国王は元の額へ戻すと申し出た。


 ところが。


「お断りしてもよろしいでしょうか」


 マグダレーナの執務室で、ヴィクトリアはそう言った。


 新国王からの書状を読んでいたマグダレーナが目を丸くする。


「全部?」


「全部ではございません。祭礼や救護活動への寄進はありがたく。ただ、通常運営まで王家の寄進に依存する形には戻さない方がよろしいかと」


「なぜ?」


「今回と同じことが起きます」


 王家に依存すれば、王家から圧力を受ける。


 それは今回、嫌というほど学んだ。


「工房の収益も増えました。農地の契約も見直しました。近隣商人との取引も増えています。王家からの寄進は、あくまで余裕を作るためのものにすべきですわ」


 マグダレーナは少し考えた。


「あなた」


「はい」


「こちらへ残りません?」


「嫌です」


「即答ですね」


「神殿長の椅子を押しつけようとなさったでしょう?」


「ばれました?」


「ばれますわ」


 マグダレーナは楽しそうに笑った。


 けれど、神殿にはもう一つ問題が残っていた。


 この場所の出口である。


 これまでも女官や商家、神官など、結婚以外の進路は存在した。


 それでも制度上の基本は、数年後に条件の合う男性を探し、再び嫁がせることだった。


 長年そうしてきた。


 悪意があったわけではない。


 実際、それで生活が安定した女性も多い。


 しかし。


「嫁ぎたくない方もおりますでしょう」


 ヴィクトリアが言うと、マグダレーナは頷いた。


「おりますね」


「では、なぜ結婚が基本なのです?」


「昔は、それが一番確実だったからです」


 女性が自分で職を持つことのできる場所は、今より少なかった。


 だから再婚させる。


 それが一番安全だった。


「でも、今は少し違います」


 セシリアが言った。


 王宮女官。


 家庭教師。


 商会。


 工房。


 領地管理。


 神殿。


 選択肢は増えている。


「でしたら」


 ヴィクトリアは一枚の紙を机へ置いた。


「出口を一つにする必要はございませんでしょう」


 結婚。


 再婚。


 実家への帰還。


 就職。


 商売。


 王宮勤め。


 神殿に残る。


 そして、どれも選ばず、しばらく一人で暮らす。


 本人が決める。


 もちろん、誰もが望み通りになるわけではない。


 金も必要だし、能力もいる。


 だから神殿で学ぶ。


 自分が何をできるのか。


 何をしたいのか。


 そのために何が足りないのか。


「贖罪ではなく」


 マグダレーナが言った。


「再出発ですか」


「名前まで変えます?」


「それはやめましょう」


「なぜ?」


「皆、『贖罪神殿』という名前で覚えておりますもの」


「そこは商売人みたいですわね」


「長く運営しておりますので」


 二人で笑った。


 制度改革が一段落した頃。


 ヴィクトリアは王宮へ呼ばれた。


 新国王アルブレヒト一世との謁見である。


 久しぶりの王宮だった。


 神殿の見習い服ではなく、公爵令嬢としての正式なドレスを着る。


 そして髪。


「どうなさいます?」


 久しぶりに身支度を手伝いに来たエマが尋ねた。


 ヴィクトリアは鏡の中の自分を見た。


 神殿ではずっとまとめていた髪。


 木の棒一本で留めれば、それで済む。


 でも。


 今日は違う。


「巻きましょう」


「よろしいので?」


「ええ」


 ヴィクトリアは少し笑った。


「嫌いだったわけではございませんもの」


 ただ毎朝するのが面倒だっただけだ。


 正装としては、自分によく似合う。


 エマが笑った。


「では、以前と同じように?」


「いいえ」


 ヴィクトリアは少し考えた。


「以前より綺麗に」


 一時間後。


 鏡の中には、懐かしい姿があった。


 整然とした縦ロール。


 けれど。


 以前とは少し違って見えた。


 あの頃は、王太子の隣へ立つための髪だった。


 今日は。


 自分が好きでしている。


 アルブレヒト王は、先王とはあまり似ていなかった。


 体格が大きく、顔つきも厳しい。


 けれど話し始めると、思っていたより率直な人物だった。


「そなたがヴィクトリアか」


「はい。陛下」


「兄からよく聞いていた」


 その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。


「……どのように?」


「甥より王太子妃候補の方がよく勉強している、と」


「陛下」


「兄の言葉だ」


「なお悪いですわ」


 思わず答えてから。


 ヴィクトリアは口を閉じた。


 国王相手だった。


 アルブレヒトは数秒黙り。


 笑った。


「なるほど。聞いていた通りだ」


「申し訳ございません」


「構わん」


 そして本題に入った。


「そなたほどの才を、この国から失うのは惜しい」


「過分なお言葉にございます」


「神殿から出るのであろう?」


「はい」


「ならば、国内で縁談を探す気はないか」


 ヴィクトリアは少し驚いた。


「縁談、でございますか?」


「公爵家でも侯爵家でもよい。条件は私が整える」


 破格の申し出だった。


 王が自ら仲介する。


 それだけで相手側も、ヴィクトリアを「王太子に捨てられた令嬢」と軽んじることはできない。


「考えさせていただいても?」


「もちろんだ。そなた自身の結婚だ」


 その答えが。


 ヴィクトリアには少し嬉しかった。


 以前なら。


 王太子妃になることは決定事項だった。


 今は。


 考えていい、と言われる。


「ありがとうございます」


 ヴィクトリアは素直に礼をした。


 そして本当に、考えた。


 感情だけで国内の縁談を拒むつもりはなかった。


 候補として挙がった家の領地。


 家族構成。


 財政状況。


 当主となる男性の性格。


 それぞれ調べた。


「結婚相手を選んでいるというより、投資先を選んでいるみたいですわ」


 ミレーヌに言われた。


「大事なことですもの」


「普通はもう少し、容姿とか」


「見ますわよ」


「本当?」


「不潔な方は嫌です」


「基準が低い!」


 もちろん、容姿も大事だ。


 話し方も。


 人柄も。


 一緒に食事をして苦痛でないかも。


 ただ、それだけでは決められない。


 候補を調べるうち。


 ヴィクトリアは、一つの報告に目を止めた。


 ガイウスが騎士団へ復帰した。


 ユリウスも、低い役職ながら王都の官庁へ戻った。


 リュシアンについても数年以内の王都復帰が検討されている。


 ディートリヒも、軍務で一定の成果を出し始めているという。


 ヴィクトリアは書類を置いた。


「……そう」


 彼らは処分を受けた。


 学び直した。


 ならば、いつか戻ってくる。


 それはおかしなことではない。


 むしろ、一度失敗した人間を永遠に排除する社会にしたくないと、自分たち自身が神殿で主張してきたのだ。


 彼らにも。


 人生をやり直す権利はある。


 ただ。


 ヴィクトリアはしばらく考え。


 翌日。


 もう一度王宮へ行った。


「国内の縁談は気に入らなかったか?」


 アルブレヒト王が尋ねた。


「いいえ。皆様、申し分のない方々です」


「なら?」


 ヴィクトリアは少し考えた。


「元側近の方々が、少しずつ復帰していらっしゃると伺いました」


 王が彼女を見る。


「気に入らぬか?」


「いいえ」


 ヴィクトリアは首を横へ振った。


「あの方々が処分を終え、人生をやり直すことには異存ございません」


「ならば」


「ですが」


 ヴィクトリアは王の目を見た。


「その人生に、わたくしが付き合う義務もございませんでしょう?」


 アルブレヒトはしばらく何も言わなかった。


「嫌なのか」


「はい」


 そこは。


 きっぱり答えた。


「もう関わりたくございません」


「……」


「恨んではおりません。復讐したいとも思いません。幸せになるなとも思いません」


 ただ。


「二度と同じ社交界で、お互いの顔色を読みながら暮らしたくはございませんの」


 それが答えだった。


 アルブレヒト王はしばらくヴィクトリアを見た後、椅子の背へ体を預けた。


「では、どうする?」


「一つ」


 ヴィクトリアは答えた。


「考えているお話がございます」


 隣国。


 グランツ帝国。


 ヴィクトリアの母方には、帝国貴族との血縁がある。


 その中に、再従兄弟にあたる男性がいた。


 名はアレクシス・フォン・ローゼンタール。


 帝国内でも有力な侯爵家の嫡男で、ヴィクトリアより五歳年上。


 幼い頃に数回会ったことがある。


 それ以降も、親族間の祝辞や季節の手紙程度のやり取りは続いていた。


 神殿の工房製品を帝国へ売る時にも、彼の家を通じていくつかの商人を紹介してもらっている。


 そして。


 少し前。


 アレクシス本人から、一通の手紙が届いていた。


 内容は。


 求婚だった。


「いつから?」


 ミレーヌが手紙を奪う勢いで聞いた。


「一月ほど前です」


「なぜ黙ってましたの!」


「考えていたからです」


「何て?」


「『帝国まで噂は届いているが、それを踏まえてなお、あなたほど我が家に必要な女性はいないと思う』と」


「まあ」


「それから」


 ヴィクトリアは続けた。


「『恋情だけで結婚を決める歳でも立場でもないが、あなたとは長く話をしてみたいと思っている。もし同じように思ってくれるなら、一度正式に会いたい』と」


 ミレーヌが胸を押さえた。


「好き」


「あなたが好きにならないでくださる?」


「だって、まとも!」


「基準が」


「今までが今までですもの!」


 ロザリンドまで頷いている。


 セシリアは手紙を読み、真面目に言った。


「文章も明瞭です。曖昧な表現が少ない」


「そこ?」


「重要です」


 アデライーデは別のところを気にしていた。


「帝国、食べ物おいしい?」


「そこですの?」


「大事」


 ヴィクトリアは思わず笑った。


「会ってみようと思います」


 それで。


 アレクシスは王国へ来た。


 一度会った。


 二度会った。


 三度会った。


 話は驚くほどよく通じた。


 アレクシスはヴィクトリアの神殿での仕事について興味を持ち、細かく質問した。


 なぜ工房の価格を変えたのか。


 なぜ使用人の給金を下げなかったのか。


 なぜ帝国への販路を選んだのか。


 そして。


 自分ならどうするか。


 意見が食い違うところもあった。


 それが。


 心地よかった。


 意見が違っても。


 怒鳴らない。


 馬鹿にしない。


 聞く。


 反論する。


 また考える。


 そんなことが。


 ヴィクトリアには新鮮だった。


「わたくし、随分基準が下がっておりません?」


 ある日、自分で言うと。


 アレクシスが笑った。


「では、上げてもらって構わない」


「よろしいの?」


「その方がこちらも楽だ」


「なぜ?」


「何を求められているか分からない妻ほど怖いものはない」


 ヴィクトリアは少し考えて。


「それは、そうですわね」


 たぶん。


 これならやっていける。


 そう思った。


 数か月後。


 ヴィクトリアは、帝国へ嫁ぐことを決めた。


 神殿を出る日の朝。


 部屋には荷物が積まれていた。


 最初にここへ来た時より、少しだけ多い。


 本。


 帳簿の写し。


 神殿の女性たちから贈られた刺繍。


 アデライーデが持たせてくれた保存食。


 なぜかロザリンドから渡された短剣。


 セシリアからは、帝国法の入門書。


 ミレーヌからは帝国社交界の人物相関図。


「最後のものが一番怖いですわ」


「役に立ちますわよ」


「否定はしません」


 そして。


 最後に。


 棚の上。


 青白い人形。


 ヴィクトリアが抱き上げる。


 カチリ。


「そちらも持っていかれるのですか?」


 見送りに来た神官エレナが聞いた。


「ええ」


「神殿へ納められた曰く付きの品ですよ?」


「わたくしと一緒に納められたものです」


「理屈が強い」


「それに」


 ヴィクトリアは人形を見る。


「この子は、持ち主を陥れた者へ災いを返すのでしょう?」


「そう言われておりますね」


「でしたら、ここへ置いていく方が危険ではなくて?」


「……どういう理屈でしょう」


「帝国まで連れていきますわ」


「帝国の皆様へ迷惑がかかりません?」


 ヴィクトリアは当然のように答えた。


「わたくしを陥れなければよろしいのです」


 エレナは何も言わなかった。


 近くにいたロザリンドが吹き出した。


 神殿の門前には馬車が待っていた。


 マグダレーナ。


 ロザリンド。


 セシリア。


 ミレーヌ。


 アデライーデ。


 神官たち。


 通いの使用人たちまでいる。


「随分、大勢ですこと」


「人気者だったんですね」


 エレナが言う。


「知りませんでした」


「本人だけが」


 マグダレーナが笑った。


 ヴィクトリアは一人ずつ挨拶をした。


 ロザリンドは領地へ戻り、騎士団の訓練制度を手伝うという。


 セシリアは新王から声をかけられ、王宮で法制度の見直しに参加する。


 ミレーヌは王都へ戻り、神殿工房と帝国商人をつなぐ仕事を続けるらしい。


 アデライーデは神殿と領地を行き来しながら、食料供給と保存技術の改善を進めると言っている。


 全員。


 以前決められていた未来とは違う場所へ進む。


「それでは」


 ヴィクトリアは四人を見る。


「また」


「帝国だからって逃げられると思わないでくださいませ」


 ミレーヌが言う。


「手紙くらい書きますわ」


「毎月」


「多い」


「二月に一度」


「考えておきます」


「ヴィクトリア!」


 皆が笑った。


 馬車へ乗る直前。


 マグダレーナが声をかけた。


「ヴィクトリア様」


「はい」


「ご自分で選んだ未来は、どうです?」


 ヴィクトリアは少し考えた。


 王太子妃になる。


 それが。


 ずっと自分の未来だった。


 疑ったことすらなかった。


 けれど今は。


 隣国へ行く。


 自分で選んだ男と結婚する。


 何をするかは。


 まだ全部決まっていない。


 不安はある。


 でも。


「悪くございませんわ」


 そう答えた。


「むしろ」


 少し笑う。


「楽しみです」


 馬車が神殿を離れた。


 石造りの建物が、少しずつ遠ざかっていく。


 ヴィクトリアは窓からしばらく眺めていた。


 隣の座席には。


 例の人形。


 青白い肌。


 青い瞳。


 赤い唇。


 そして。


 完璧な真っ白の縦ロール。


 ヴィクトリアは自分の髪へ触れた。


 今日は旅装なので、いつものように簡単にまとめ、一本の木の髪留めを差している。


「あなたは相変わらず大変そうな髪ですこと」


 馬車が小さな石を踏んだ。


 カチリ。


「何ですの」


 ヴィクトリアは人形を見る。


「羨ましいなら、帝国へ着いてから一本差して差し上げてもよろしくてよ」


 当然。


 返事はない。


 ヴィクトリアは笑い、窓の外へ視線を戻した。


 王都も。


 神殿も。


 やがて見えなくなる。


「次は帝国ですわよ」


 静かな車内で。


 カチリ、と。


 小さな音がした。


◻︎▫︎▫︎▫︎


数か月後。


 贖罪神殿の神殿長室に、帝国から一通の手紙が届いた。


 封蝋を見たマグダレーナは、すぐに差出人が誰なのか分かった。


 ヴィクトリア・フォン・ローゼンタール。


 今では帝国侯爵家の夫人となった、元アルヴェイン公爵令嬢である。


 手紙の内容は、おおむね平穏だった。


 夫とは問題なく暮らしていること。


 帝国の社交界は王国とは随分勝手が違うが、案外面白いこと。


 神殿の刺繍品について、さらに扱いたいという商会がいくつか現れたこと。


 そして最後に。


『追伸。


 例の人形について、一つだけ妙なことがございました。


 こちらの古物研究家に見せましたところ、王国で作られたものではないと言うのです。


 帝国製だそうです。


 それも、百二十年ほど前に作られた非常に珍しい品で、とある侯爵家から行方不明になった人形によく似ている、と。


 もちろん、今さら返すつもりはございませんけれど。


 あの子は、わたくしが王国から連れてきたのですもの』


 マグダレーナは手紙を読み終えると、しばらく黙っていた。


 それから、小さく笑った。


「まあまあ」


 窓の外では、見習い神官たちが洗濯物を干している。


「今度は帝国なのね」


 遠く離れた帝国の侯爵邸。


 窓辺には、一体の人形が座っていた。


 青白い磁器の肌。


 サファイア色の瞳。


 赤い唇。


 そして、一本の乱れもない真っ白な縦ロール。


 部屋には誰もいない。


 風もない。


 それなのに。


 カチリ。


 小さな音がした。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


今回も一話完結のつもりで書きましたが、ヴィクトリアたちや贖罪神殿については、まだ書けそうな話がいくつかあります。


もし「この後も読みたい」「神殿のその後が気になる」「帝国へ嫁いだヴィクトリアをもう少し見たい」などありましたら、感想などで教えていただけると嬉しいです。


リクエストが多ければ、このお話を連載として続けることも考えています。


もちろん、「悪役令嬢人形譚」自体も、また別の令嬢と別の人形のお話を思いついたら続く予定です。


最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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