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霊力ゼロの陰陽師見習い[短編版]

作者: 三科異邦
掲載日:2026/02/05

短編用に再編集しました。

ご興味あるかたはぜひどうぞ。

 かつて世界は、人ならざるものに脅かされていた。


 夜になれば闇は牙を剥き、名もなき叫びが人の営みを引き裂く。

 妖怪――理を外れ、本能のままに生きる存在。


 その頂点に立つ王がいた。

 妖怪を統べる王。

 ただ在るだけで、人を壊す存在。


 王の通った跡には、必ず死が残った。

 村は焼け、街は沈黙し、希望は踏み潰された。


 それは戦争ではない。

 蹂躙だった。


 やがて人々は悟る。

 ――このままでは、滅びる。



 滅びを前に、人は初めて手を取り合った。


 最強と謳われた五つの陰陽師の家が結束し、

 ただ一つの目的のため、妖怪の王に挑む。


 戦いは凄惨を極めた。

 結界は破られ、術は尽き、命は削られていく。


 その最前線に立ち続けたのが、西園寺家当主だった。


 術と剣を一つにし、彼は王へ迫る。

 嘲笑を浴びながらも、退かなかった。


 一瞬の隙。

 刃は王の肉を裂き、黒い血が噴き上がる。


 その血に宿る呪いが、当主の全身を侵した。


 代償と引き換えに、

 妖怪の王は封印される。


 世界は、救われた。


 ――そう、思われた。



 生き延びた当主は英雄だった。

 だが、その血は穢れていた。


 子に異変が現れ、

 孫の代で、呪いは確かな形となる。


 霊力は乱れ、奇病と不幸が一族を蝕む。


 人々は囁いた。

 ――西園寺家は、呪われた。


 英雄の家は衰え、

 それでも呪いだけが、消えずに残った。


 封印は終わりではなかった。

 それは、因縁の始まりだった。



 王を失った妖怪たちは散り、

 人は彼らを狩り尽くした。


 ――妖怪の時代は終わった。

 そう語られるようになる。


 だが力ある者ほど、

 人の世に溶け込む術を身につけていた。


 姿を変え、名を偽り、

 憎しみを胸に抱いたまま。



 そして現代。


 妖怪は過去となり、

 陰陽術は管理された技術となった。


 人々は、安心している。


 だが封印は、静かに軋み始めていた。


 かつて王の血を浴び、

 恐れられ、利用され、切り捨てられた――

 西園寺の血が、


 再び、物語の中心へ引き戻されようとしている。


 この時、

 まだ誰も、それを知らなかった。


霊術学院・第三訓練場


 訓練の時間だというのに、

 俺の周囲だけが、妙に静かだった。


「次、西園寺玄弥」


 教官の声に、空気がわずかに緩む。

 理由は、誰もが分かっている。


 ――どうせ、何も起きない。


 俺は列から一歩前へ出た。

 足元の土の感触だけが、やけに鮮明だった。


「基礎霊術だ。霊力を発動し、的に命中させろ」


 何度も聞いた言葉。

 何度も失敗した課題。


 目を閉じ、呼吸を整える。

 体内を探る。


 ……ない。


 霊力の気配も、流れも、色も。

 本来あるはずの感覚が、俺には存在しなかった。


 それでも霊札を構え、術式をなぞる。


「術式、展開――」


 沈黙。


 数秒後、どこかで小さな笑いが漏れた。


「今日も無反応か」

「霊力ゼロって、逆にすげえよな」


「……終了」


 教官は淡々と告げ、もう俺を見なかった。


 訓練場では炎が舞い、水が走り、風が刃となる。

 ――俺だけが、何もできない。


 西園寺玄弥。

 霊力を扱えない、陰陽師見習い。


 この世界では、それだけで致命的だった。



 実習のペア決めが始まる。


 生徒たちは自然と声を掛け合い、組を作っていく。

 俺の周囲だけが、空いたままだ。


 目が合う。

 すぐに逸らされる。


「悪い、もう決まってる」

「そっち行って」


 言われる前に、距離を取られる。


「西園寺、余りだな」


 教官は名簿を見たまま言った。


「三人組の補欠に入れ」


 補欠。

 最初から数に入っていない席。


「霊力ないのに?」

「迷惑だろ」


 小さな声。

 でも、はっきり聞こえた。


「西園寺は後ろで見てて」

「無理しなくていいから」


 俺は結界の外に立つ。

 術式の円にすら、入れてもらえない。


 霊が顕現し、光が走る。

 成功する仲間たち。


 ――俺だけが、観客だった。


 ここに居る意味が、分からなくなる。



 放課後。


 教室に残っていた数人の中心に、クラスのまとめ役がいた。

 霊力も成績も優秀な、皆が従う存在。


「なあ、西園寺」


 嫌な予感が、確信に変わる。


「お前がいるとさ、流れ止まるんだよ」


 空気が静まる。

 誰も止めない。


「霊も出せないくせに同じクラスって」

「正直、迷惑」


 次の瞬間、

 見えない圧が肩にのしかかった。


「っ……」


 息が詰まる。

 床の簡易術式が光り、足を縛る。


「これが霊力だよ」

「同じ陰陽師でも、格が違う」


 声が出ない。

 抵抗も、逃げ場もない。


「安心しろ」

「怪我しない程度には抑えてる」


 ――それが、一番残酷だった。


「西園寺」

「お前は、ここに居ちゃいけない側なんだ」


 視界が滲んだ、その時。


「……そこまでだ」


 霊圧が引き、空気が戻る。


「冗談だろ」

「からかっただけ」


 教官は何も言わない。

 注意も、処罰もない。


「次は、ちゃんと謝れよ」


 それだけだった。


 俺は床に手をつき、息を整える。


 霊力を持つ者が、

 持たない者を支配する。


 それが、この場所の常識。


 西園寺玄弥は、

 その最下層にいた。


 その日の帰り道。

 気づけば俺は、学院の裏手へと足を向けていた。


 立ち入り禁止区域。

 本来なら、近づく理由などない。


 それでも胸の奥がざわつく。

 呼ばれている――そんな感覚だけが、はっきりしていた。


 森の奥へ進むほど、空気は重くなる。

 視えるはずのない“気配”が、濃く満ちていく。


 倒木の影で、俺はそれを見つけた。


 巨大な狐。

 人の背丈を遥かに超える体躯。

 金色の毛並みは血に濡れ、荒い息が夜を震わせている。


 黄金の瞳が、俺を射抜いた。


『……人の子よ』


 声は、耳ではなく胸に響いた。


『近づけば、引き裂くぞ』


 脅しではない。

 事実を告げるだけの声音だった。


「……分かってる」


 足は震えている。

 それでも、目は逸らさなかった。


「でも……あんた、もう長くないだろ」


 一瞬、森の空気が凍る。


『……ほう』


 九尾の瞳が、細まった。


『人の身で、よく分かるものだ』


「分かったわけじゃない」


 正直に言う。


「ただ……そう見えるだけだ」


 力を誇示しないこと。

 それが、何より雄弁だった。


『……愚か者め』


 九尾は低く笑った。


『我が全盛であれば、貴様など一息で消えておる』


「だろうな」


 否定はしない。


「でも、今は違う」


 沈黙が落ちる。


『……霊も扱えぬ身で』


 九尾は言った。


『なぜ、そこまで関わる』


「さあな」


 肩をすくめる。


「ただ……何もできないまま終わる感覚が」

「あんたと、少し似てた」


 九尾は、じっと俺を見つめていた。


『……奇妙な器だ』


 次の瞬間、頭の奥に声が直接響く。


『貴様の霊泉には、強固な呪いが張り付いておる』


「……呪い?」


『妖怪の王が用いる、血脈封殺の呪式だ』


 森が、微かに震えた。


『貴様は、生まれながらに霊力を封じられていた』


 長年の疑問が、音を立てて崩れる。


「……だから、何もできなかった」


『当然だ』


 淡々とした言葉。


『だが――我を助ければ、その呪いを一時的に緩められる』


「……契約か?」


『仮契約だ。完全ではない』


『危険もある。精神が耐えねば、壊れる』


 それでも。


「……断ったら?」


『貴様は無能のまま生き、我はここで消える』


 俺は、自分の手を見る。

 何も掴めなかった、空っぽの手。


「……仮でいい」


 顔を上げる。


「それで俺は、“立てる”んだな」


『――ああ』


『力の入口に、だが』


 それで十分だった。


「やる」


 恐怖よりも、何も変わらない未来の方が怖い。


「俺は、西園寺玄弥だ」


『よかろう』


 九尾の身体が、淡く光る。


『我が名は――葛葉』


 術式が脳裏へ流れ込む。

 知らないはずの文字が、自然と理解できた。


「我は西園寺玄弥。

 葛葉と仮契約を結ぶ」


 胸の奥で、何かが軋む。


 砕けはしない。

 だが――確かに、こじ開けられた。


 初めて感じる霊力。

 世界が、輪郭を持って迫ってくる。


『これでよい』


『呪いは残る。だが、使える』


 俺は、ゆっくり息を吐いた。


 ――もう、無能じゃない。


 霊力の流れが、ふっと変わった。


 爆ぜるでもなく、荒れるでもない。

 水面に小石を落としたように、静かに――だが確かに、何かが現れる。


 玄弥の前で、淡い霊光が人の形を結んだ。


 そこに立っていたのは、葛葉だった。


 ただし、その姿は想像とは違う。

 玄弥の胸ほどの背丈。

 年端もいかぬ少女の姿で、霊気も薄い。

 九尾の象徴である尾は、影のように揺れているだけだった。


「……妙な顔をしておるな」


 姿に似合わぬ、落ち着いた声音。


「これが、今のわしの姿じゃ」


 玄弥は少し黙ってから言った。


「……俺の霊力が足りないからか」


「それもあるがの」


 葛葉は肩をすくめる。


「何より、わし自身が弱っておる」

「お前との繋がりも、まだ細い」


 小さな手を見つめる。


「流せる力も、この程度が限界じゃ」


 卑屈さはない。

 ただ、事実を述べているだけだった。


「それでも、出てきたんだな」


「当たり前じゃ」


 即答だった。


「お前が、ここまで辿り着いた」

「それだけで、十分じゃ」


 幼い姿でも、その場を支配する“格”だけは九尾のものだった。



 家の玄関を開けるまで、玄弥は忘れていた。


「ただいま――」


「おかえ……」


 母の声が、途中で止まる。


 玄弥が振り返ると、そこには――

 自分の後ろに立つ、小柄な少女。


「……誰?」


「――あ」


 葛葉は一瞬きょとんとし、すぐに姿勢を正した。


「九尾の葛葉じゃ」

「しばらく世話になる」


 沈黙。


「……とりあえず、中入りなさい」


 話は、それで強制的に前へ進んだ。



 食卓。


 葛葉は椅子に座り、平然としている。


「お腹、空いてるでしょ?」


「今は顕在化しておるだけで、食は不要――」


 ――ぐぅ。


 はっきりした音。


「……」


 葛葉は咳払いを一つ。


「器の問題じゃ」

「霊力不足だと、こうなる仕様らしい」


 母は何も言わず、茶碗を差し出した。


「遠慮しなくていいから」


「……では、少しだけ」


 一口。

 二口。

 止まらない。


「……玄弥」


「なんだ」


「“少し”とは、難しい概念じゃのう」


 母は思わず笑い、

 玄弥は小さく息を吐いた。


 ――こうして、九尾は家に居着いた。



 夜。


 葛葉はソファに座り、テレビを見ていた。


「玄弥」


「今度は何だ」


「あれは何じゃ」


「テレビ」


「……幻術か?」


「違う」


 人が箱の中で動くのを、真剣な顔で見つめる。


「人の世は、賑やかになったのう」


 母が腕を組む。


「……説明してもらおうかしら」


 逃げ場はなかった。



 話を聞き終え、母は葛葉を見た。


「つまり、あなたは玄弥を守る存在なのね」


「うむ。それが役目じゃ」


「……無茶はしないでね」


 葛葉は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。



 夜更け。


 玄弥の部屋に、二組の布団。


「ここが玄弥の巣か」


「巣って言うな」


 葛葉は布団に倒れ、すぐに寝息を立て始めた。


「……早いな」


 電気を消し、玄弥も横になる。


 妖怪ではなく、

 今はただ、隣で眠る存在。


 明日から、また面倒な日常が始まる。


 ――それでも、この夜だけは。


 不思議と、悪くなかった。


朝。


 台所から味噌汁の匂いが漂ってくる。


「玄弥ー、起きてるー」


「……起きてる」


 布団から身を起こした瞬間、違和感に気づいた。


 ――軽い。


 隣の布団が、空だ。


「……葛葉?」


 襖を開けると、居間にいた。


 正座している。


 背筋をぴんと伸ばし、机の前にちょこんと。


「おはようじゃ、玄弥」


「……早すぎだろ」


「日の昇る気配で目が覚めたのう」

「人の家は、鳥の声が近い」


 母が味噌汁をよそいながら、葛葉をちらりと見る。


「よく眠れた?」


「うむ。あの“ふとん”というもの、恐ろしい」

「一瞬で意識を奪われた」


「それは良かったわね」


 完全に順応していた。


 朝食が並ぶ。

 焼き魚、白米、漬物、味噌汁。


「どうぞ」


「……よいのか?」


「もちろん」


 葛葉は一瞬だけ玄弥を見る。


「毒見は不要かのう?」


「要らない」


 箸を手に取り、まず味噌汁を口に運ぶ。


「……おお」


 素で声が漏れた。


「どうした?」


「この柔らかきものは、何じゃ?」


「お揚げ」


「……おあげ」


 もう一口、今度はゆっくり。


「油で揚げておるのに出しゃばらぬ」

「出汁を吸い、それでいて己を失っておらぬ……」


 母がくすっと笑う。


「そんな大層な食べ物じゃないわよ」


「いや」

「信仰されるのも、わかる気がするのう」


「それ、誰の話だよ」


「わしの話じゃ」


 玄弥はため息をついた。


「……もう一杯、もらってもよいかのう」


「いいわよ」


「感謝する」


「……朝というものは、悪くないのう」


 母が言う。


「玄弥、この子、しばらく一緒にいるのよね?」


「……多分」


「そう」


 それ以上、聞かなかった。


 葛葉は味噌汁を飲み干し、満足そうに息を吐く。


「人の世……」

「油揚げがある限り、滅びぬな」


「基準そこかよ」


――


 玄弥は鞄を手に取る。


「……じゃ、俺そろそろ――」


「待つのじゃ」


 葛葉が手を挙げた。


「その“がっこう”とやら」

「妖に襲われる場所ではないのか?」


「普通はな」


 葛葉はじっと見る。


「わしを、置いていくつもりかのう?」


 母が割って入る。


「一緒に行きなさい」


「え?」


「置いていく方が危ないわ」


 葛葉は満足げに頷いた。


「賢明じゃ」


「……行くぞ、葛葉」


「うむ」


「それ靴だ」


「足枷か?」


「文句言うな」


――


 登校時間。


 正門前は生徒で溢れていた。


「西園寺の横の子……誰?」


 視線が集まる。


「……目立つ」


「当然じゃ」


 葛葉が小さく指を鳴らす。


 空気が、わずかに歪む。


 だが誰も異変とは思わない。


「認識阻害じゃ」

「見えておるが、意識に残らぬ」


「便利すぎだろ」


 教師ですら、素通りした。


「……切れたら?」


 葛葉は、にやりと笑う。


「全力で目立つ」


「やめろ」


 校門をくぐる。


 葛葉が呟いた。


「この学び舎……臭うのう」

「妖と人の境が、曖昧じゃ」


 玄弥は前を向いた。


「……あとで聞く」


「うむ」


 こうして。


 九尾は、誰の記憶にも残らないまま、

 普通に登校した。


 実技棟・第三訓練場。


 白い石板の床に、結界式が淡く光っている。


「次、西園寺玄弥。相手は三組、日下部」


 教官の声に、ざわめきが走った。


「またかよ」

「勝ち確じゃん」


 玄弥は無言で前に出る。

 日下部は肩を鳴らし、軽く笑った。


「悪く思うなよ。課題だからさ」


 開始。


 日下部の霊符が光り、身体能力を底上げする。

 一方、玄弥の周囲には――何もない。


 踏み込む。

 動きは教本通り。無駄もない。


 だが。


 日下部は半歩ずらしただけで拳をいなした。


「遅い」


 肘が腹に突き刺さる。

 息が詰まり、次の瞬間、床に叩きつけられた。


「終わりだ」


 霊符が展開され、四肢が縫い止められる。


 笛の音。


「勝者、日下部。……西園寺、課題未達だ」


 視線が痛い。


「霊力、今日も出なかったな」

「霊術科なのに霊術使えないって」


 玄弥は立ち上がる。

 口の中に、鉄の味が広がっていた。


 次も、その次も同じだった。

 強化霊装の一撃で吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。


「……西園寺は見学に回れ」


 教官の言葉が、何よりも重かった。



 昼休み。


 中庭のベンチで、弁当を前に箸が止まる。


「見た?」

「相変わらずだったな」


 わざと聞こえる声。


「才能ゼロだろ」

「五大家の名前だけじゃん」


 日下部が近づく。


「霊力、今日も温存か?」

「いや、使えないだけか」


 笑い声。


 玄弥は立ち上がる。


「……飯、冷めるぞ」


 背中に言葉が投げられるが、振り返らなかった。



 校舎裏。


「……くそ」


 拳を壁に打ちつける。

 鈍い音だけが返る。


「なぜ、使わぬ」


 低い声。


 振り向くと、柱の影に葛葉がいた。

 誰の目にも映らぬ位置で、腕を組んでいる。


「……使えないだけだ」


「本当に、そうかの」


 葛葉は目を細めた。


「おぬしの身体には、確かに霊力が流れておる」

「しかも、かなりの量じゃ」


「……嘘だ」


「嘘ではない」


 即答だった。


「昔は使えなかった」

「だがそれは才能の問題ではない」


 葛葉は静かに言う。


「“呪い”が、霊力の経路を塞いでおった」

「九尾との契約で、それは壊れた」


 胸の奥が冷える。


「完全ではないが、今は使える状態じゃ」


「……じゃあ、なんで」


「おぬし自身が」

「“使えない”と信じ続けてきたからじゃ」


 沈黙。


 試す前から、諦めていた。

 負ける前提で、立っていた。


「……本当に、使えるのか」


「使えるとも」


 葛葉は小さく頷く。


「おぬしは、ようやく」

「スタートラインに立っただけじゃ」


 遅れに遅れた、とでも言うように。


 その言葉は重く、

 同時に――初めて前を向ける言葉だった。


 放課後。


 部活の声も消えた訓練場の端で、玄弥はひとり立っていた。

 夕焼けが地面を赤く染めている。


「……やるぞ」


 誰に言うでもなく呟く。


 これまでは、失敗する前提だった。

 どうせ何も起きない――そう思いながら、掌を伸ばしてきた。


 だが今日は違う。


 ――使える。


 葛葉の言葉が、胸の奥に残っている。


 深く息を吸い、吐く。

 術式も、型も取らない。


 ただ、自分の内側を探った。


 すると。


 胸の奥で、何かが脈打った。


「……っ」


 熱でも、光でもない。

 だが確かに“流れ”がある。


 玄弥は恐る恐る、掌を前に出した。


 ――出ろ。


 次の瞬間。


 淡い霊光が、掌の上に灯った。


 小さく、揺れる光。

 だが、確かに存在している。


「……」


 息をするのを忘れた。


 消えない。

 幻じゃない。


 意識を向けると、光はわずかに強くなる。


「……使えてる」


 声が震えた。


「ちゃんと……使えるんだ」


 今まで何度も見つめてきた、何も起きない掌。

 嘲笑、失望、諦め。


 それらが一気に押し寄せる。


 玄弥は、膝をついた。


 光が消える。


「……くそ……」


 拳で地面を叩く。


 悔しかった。

 才能がないと言われ続け、何も言い返せなかった自分が。


「……悔しい……」


 涙が、ぽろぽろと落ちた。


 それは弱さからの涙じゃない。

 可能性を知ってしまった涙だった。


「みっともなくなどない」


 低い声がした。


 振り向くと、葛葉が隣に立っていた。

 夕焼けに照らされ、白い髪が淡く光る。


「長い間、できぬと言われ続けた」

「それでも折れずに、ここまで来たのじゃ」


 葛葉は、玄弥の頭にそっと手を置く。


「おぬしは、できないのではない」

「呪いに抑え込まれておっただけじゃ」


 玄弥は、ゆっくり顔を上げた。


「……俺は」


「遅れておるだけじゃ」


 葛葉は、くすりと笑う。


「今日、霊力が灯った」

「それが“始まり”じゃ」


 夕風が吹き、草が揺れる。


「焦るな」

「だが、諦めるでない」


「おぬしは、ちゃんと前に進んでおる」


 玄弥は深く息を吸った。

 胸の奥に、静かな熱が残っている。


「……ありがとう」


「礼などいらぬ」


 葛葉は誇らしげに言った。


「立ち上がるなら、わしは隣におる」


 夕焼けの中。


 こうして、玄弥の“本当の修行”は始まった。


 翌日からの日々は、驚くほど地味だった。


 放課後。

 人のいない校庭の隅。


「今日も同じじゃ」


 葛葉は淡々と言う。


「流す、止める、戻す」

「それだけでよい」


 玄弥は頷き、目を閉じた。


 呼吸を整え、内側へ意識を沈める。


 ――流す。


 胸の奥の霊力が、細い川のように動く。

 掌に、淡い光が灯った。


 だが、すぐ揺らぎ、消える。


「……四秒」


「昨日は二秒じゃ」

「進歩しておる」


 その一言だけで、救われた気がした。


 翌日も、その翌日も。

 派手な変化はない。


 だが、五秒が七秒に。

 七秒が十秒になる。


 身体は少し軽くなり、

 殴られても、以前ほど痛くない。


「霊力は量ではない」

「扱いじゃ」


 葛葉の言葉が、少しずつ実感に変わっていった。



 週末の訓練の終わり。


 掌の霊力は、いつもより安定していた。


「……今日は、調子いいな」


 その瞬間。


 背骨の奥を、冷たいものが這い上がった。


「――っ!」


 激痛。


 霊力の流れが、内側から引き裂かれる。


 膝をつき、息ができない。


「来たか」


 葛葉の声が低くなる。


「呪いじゃ」

「力を取り戻そうとすると、目を覚ます」


 進むな。

 思い出すな。


 言葉にならない圧が、全身を締めつける。


「……それでも……」


「今は引け!」


 葛葉の声に、玄弥は必死に霊力を戻した。


 痛みが、ゆっくりと引いていく。


「……進めば、邪魔されるってことか」


「そうじゃ」


 葛葉は静かに言った。


「だがそれは」

「前に進んでおる証でもある」


 玄弥は、拳を握った。



 実技演習。


「次。西園寺玄弥、日下部」


 ざわめき。


「またサンドバッグか」

「終わりだな」


 玄弥は、もう俯かなかった。


「始め!」


 日下部が踏み込む。


 以前なら、避けられなかった一撃。


 だが――


 半歩、ずれる。


「……っ?」


 拳が空を切る。


 次の瞬間、足裏に霊力を流し、横へ跳ぶ。


「ちょろちょろ――」


 言葉の途中。


 掌底に、薄く霊力を乗せる。


 ――ドンッ!


「ぐっ!?」


 体勢が崩れた。


 流す。

 止める。

 もう一度、流す。


 足払い。


「――なっ!?」


 日下部の身体が宙を舞い、床に叩きつけられた。


「……勝負あり!」


 静寂。


 玄弥は、自分の手を見る。


 震えている。

 だが、恐怖じゃない。


「……勝った」


 遠くで、葛葉が小さく頷いた。


「よい」

「今のは、ちゃんと“使えておった”」


 玄弥は拳を握る。


 ――もう、殴られるだけの存在じゃない。


 そう、はっきりと実感できた瞬間だった。


 組み手が終わっても、訓練場は妙に静かだった。


 誰も、すぐには声を出さない。


「……今の、見たか?」

「西園寺……勝ったよな?」


 遅れて、ざわめきが広がる。


 玄弥が歩くたび、視線が集まった。

 侮りでも、嘲りでもない。


 値踏みするような目。


 胸の奥は、まだ熱い。

 だが浮かれてはいなかった。


 ――これは、まだ始まりにすぎない。



 一方、訓練場の隅。


 日下部は一人、地面に座り込んでいた。


「……ふざけんな」


 拳を土に叩きつける。


 霊力もある。

 努力もしてきた。


 それなのに――負けた。


「……なんで、あいつが」


 見下していた相手。

 何もできなかったはずの相手。


 胸の奥で、何かが軋んだ。



 その夜。


 月明かりの下、日下部は一人で歩いていた。


「……力が欲しい」


 本音が、零れ落ちる。


「俺の方が、上のはずなんだ」


「――そう思うのも、無理はない」


 低く、粘ついた声。


 影が揺れ、人の形をした“何か”が立っていた。


「お前は選ばれている」

「ただ、使い方を知らないだけだ」


「……誰だ」


「力を与える者だ」


 囁きは、甘い。


「西園寺が使っているのも力だ」

「ならば、お前が使って、何が悪い?」


 ――危ない。


 そう分かっていても。


「……勝てるのか」


「当然だ」

「お前の方が、器は上だ」


 その一言が、決定打だった。


「……教えろ」


 影は、満足げに笑った。



 翌日。


 実技演習。


 日下部が前に出る。


 開始の合図。


 一瞬。


 次の瞬間、対戦相手は地面に転がっていた。


「……え?」


 速すぎる。

 見えない。


 周囲がざわつく。


 玄弥は眉をひそめた。


「……あれ」


 肩に触れる、小さな手。


「混ざっておる」


 葛葉の低い声。


「人と、妖の気配がな」


 後半の組み手。


 日下部の踏み込みは、さらに速い。


 ――速すぎる。


「やりすぎだ、日下部!」


 教師の制止も届かない。


 次の一撃が放たれ――


「……ぐっ!」


 日下部が突然、膝をついた。


 頭を抱え、荒い呼吸。


 教師が駆け寄る。


「大丈夫か!? 誰か保健室を!」


 混乱。


 誰も、異変の正体に気づいていない。


 ただ一人。


「……憑かれておる」


 葛葉だけが、断言した。


「妖怪が、内側に入り込んでおる」

「しかも、制御が甘い」


 玄弥は、日下部を見る。


 一瞬だけ、視線が合った。


 その奥に――

 人ではない“何か”が、確かに蠢いていた。



 放課後。


「もう、偶然じゃないな」


 玄弥の呟きに、葛葉が頷く。


「うむ」

「誰かが、意図的に力を与えておる」


 夕暮れの校舎が、重く沈んでいく。


「止めないと、どうなる」


「身体が壊れるか」

「主を失うかじゃ」


 玄弥は拳を握った。


「……放っておけない」


「最初から、そのつもりじゃ」


 葛葉は静かに言う。


「次に動けば、取り返しがつかぬ」

「時間は、残されておらぬぞ」


 校舎の影。


 ――誰かが、こちらを見ていた。


 その気配だけを残して。


 翌日、教室に入った瞬間、空気が重かった。


 ざわつきはある。

 だがそれは好奇心ではなく、露骨な警戒だ。


「……日下部、今日やばくね」

「昨日から、完全に別人じゃん」


 視線の先。

 日下部は机に足を投げ出すように座り、爪で天板を叩いていた。


 苛立ちが、隠しきれていない。


 教師が入ってくる。


「では、この問題の答えを――」


「はぁ、そんなこと」


 吐き捨てるような声。


 教室が、凍りつく。


「……日下部?」


「分かってますよ」

「いちいち説明、必要です?」


 教師の言葉を遮り、答えを口にする。

 正解。だが、完全に挑発だった。


「だから何です?」


 誰も笑わない。

 息を呑む音だけが、静かに広がった。



 昼休み。


 日下部の周囲には、誰も近づかない。


 試しに肩へ触れた生徒に、低い声が落ちた。


「……触るな」


 血走った目。

 相手が引くと、日下部は舌打ちする。


 ドン、と拳が机を叩いた。


 小さな悲鳴。


 玄弥は歯を噛みしめた。


(……完全に、制御が外れてる)



 放課後。


 校門へ向かう荒い背中に、玄弥は声をかけた。


「日下部」


 苛立たしげに振り返る。


「……何だよ」


「無理してるだろ」


「無理?」


 鼻で笑う。


「今までが無理だったんだよ」

「力があるのに、抑えてた」


 一歩、距離が詰まる。


「今は違う」

「俺は、強い」


 その瞬間、ざらついた妖気が玄弥の肌を撫でた。


「……それ、本当にお前の力か?」


「借り物でもいいだろ」

「強けりゃ」


 背後の影が、揺れた。


「このままだと――」


「うるさい!」


 日下部は吐き捨て、背を向けた。


 玄弥は追わなかった。

 今ぶつかれば、壊れると分かっていたからだ。



 翌日の放課後。


 校舎裏の通路で、荒い声が背後から飛んだ。


「探してた」


 日下部だった。

 足元に、歪んだ妖気が溜まっている。


「決闘しようぜ」

「一対一だ」


「……ただの喧嘩だ」


「違う」


 目が、ぎらつく。


「格付けだ」


「断る」

「今やったら、誰かが怪我する」


「ビビってんのか」


「違う」

「お前を止めたいだけだ」


 一瞬の沈黙。


「……クソが」


 地面を蹴り、振り返りざまに言い放つ。


「今日の夕方、訓練場」

「来なきゃ、逃げたって言ってやる」


 挑発的な笑みを残し、去っていった。



 夕方。


 誰もいない訓練場。

 赤く染まる空の下、玄弥は中央に立っていた。


(……来る)


 次の瞬間、風が裂けた。


 合図もなく、日下部が突っ込んでくる。


 玄弥が跳び退いた直後、地面が抉れた。


「避けたか!」


 日下部の全身から、妖気が噴き出す。


「最初から本気だ!」


 異常な踏み込み。

 拳が迫る。


 受け止めた腕が、痺れた。


「どうした!?」

「前は、こんなもんじゃなかったろ!」


 連撃。

 荒く、理性のない攻撃。


「……日下部、やめろ!」


「ここまで来て?」


 嗤い声。


 背後の影が、獣の輪郭を描く。


「玄弥!」

 葛葉の声が鋭く響く。

「もう半分、出ておる!」


 日下部が腕を振る。

 妖気が刃となり、地面を裂いた。


「いいな、この力……!」


 興奮に歪んだ笑み。


「お前も使えよ!」


 玄弥は歯を食いしばり、霊力を引き上げた。


 空気が変わる。


「……それだ」


 日下部が、嬉しそうに笑う。


 拳と拳がぶつかる。

 爆音。


 だが次の瞬間、影がさらに膨れ上がった。


「遅ぇよ!」


 理性を失った一撃が、振り下ろされる。


 ――これは、勝負じゃない。


 暴走を止められるかどうか。

 その分岐点に、二人は立っていた。


 日下部は、医務室の簡易ベッドに横になっていた。


 顔色はまだ悪いが、呼吸は落ち着いている。


「……悪かったな」


 天井を見つめたまま、ぽつりと言う。


「調子に乗ってた」

「強くなりたいって……それだけだったのに」


「分かってる」


 玄弥は椅子に腰かけた。


「俺も、同じだったから」


 短い沈黙。


「……助けてくれて、ありがとう」


 日下部はそう言って目を閉じる。


 玄弥は立ち上がり、静かに告げた。


「無理するな」

「しばらく、休め」


 扉を閉めると、廊下はもう夜の気配だった。



 帰り道。


 街灯が、一定の間隔で道を照らしている。

 人影は少なく、車の音も遠い。


(……妙だ)


 理由は分からない。

 ただ、胸の奥がざわついていた。


「葛葉」


「分かっておる」


 背後の気配が、低く応える。


「後ろじゃ」


 立ち止まった瞬間――


 街灯が、ひとつ消えた。


 乾いた音。

 続けて、もう一つ。


 闇が、道の端から滲み出す。


 影が、立ち上がった。


 人の形をしているが、輪郭が揺れている。

 地面に落ちる影だけが、異様に濃い。


「逃がした器は惜しかったが……」


 あの声。


 日下部の中から聞こえていた、妖怪の声。


「代わりは、もっと上等だな」


「俺を狙ってたのか」


「最初からだ」


 妖怪が一歩近づく。

 足音が、二重に響く。


「九尾と契約し、人の身を保つとは」

「実に、気に食わん」


 葛葉が低く唸る。


「……しつこいのう」


 次の瞬間。


 影が弾けた。


 妖怪が地を蹴る。


 速い。


 玄弥は跳び退く。

 直後、街灯の支柱が叩き折られた。


「ここで戦うつもりか?」


 妖怪が嗤う。


「悲鳴も、助けも来ぬぞ」


「それでいい」


 玄弥は構えた。


「誰も、巻き込まない」


 空気が、冷える。


「今度は、引き剥がす必要もない」


 妖怪の声が低く沈む。


「――喰らうだけだ」



 消えた。


「――っ!?」


 次の瞬間、背後。


 反応が、半拍遅れた。


 衝撃。


 玄弥は地面を削るように吹き飛び、背中を打つ。


「遅い」


 振り下ろされる爪。


 霊力で受けるが、砕け散った。


「九尾の力を借りたばかりで、我と渡り合えると思うな」


 腹に重い一撃。


 息が詰まり、膝が落ちる。


 影が足元から絡みついた。


「これが、現実だ」


 見下ろす声。


「人は、人のままでは――」


 拳が、振り上げられる。


「玄弥!」


 葛葉の叫び。


 拳が、止まった。


「……チッ」


 妖怪が舌打ちする。


「邪魔をするか、九尾」


 影が、さらに締め付ける。


 玄弥は動けない。


(……まだ……終われない)


 妖怪は嗤った。


「すぐには殺さぬ」

「絶望を、味わわせてからだ」



 その時。


 葛葉の声が、はっきりと響いた。


「玄弥」


「このままでは、負ける」


「……分かってる」


「じゃが、道はある」


 一拍。


「九尾の尾を、顕在化させるのじゃ」


 心臓が、強く打った。


 恐怖が、喉を締める。


 だが――


「……止められるか」


「止める」

「九尾の名に懸けて」


 玄弥は、息を吸った。


「……やる」


 霊力を、さらに深く沈める。


 胸の奥で、何かがほどけた。


 妖怪が、眉をひそめる。


「……何をした」


 答えは、形となる。


 玄弥の背後。

 淡い光が揺らめき――


 一本の九尾の尾が、夜に顕現した。


 空気が、反転する。


「……ほう」


 妖怪が、低く笑う。


「それが、九尾の力か」


 葛葉が告げる。


「一本が限界じゃ」

「じゃが――ここからが本番じゃぞ」


 玄弥は、ゆっくり立ち上がった。


 恐怖は消えていない。

 だが、退く気もなかった。


 夜道に、一本の尾が揺れる。


 ――戦いは、次の段階へ踏み込んだ。


 一本の尾が、夜気を裂くように揺れた。


 霊力の流れが、これまでとは違う。

 内側から、温かい力が押し上げてくる。


「……っ」


 玄弥は地を蹴った。


 速い。

 距離が、一瞬で消える。


 拳が妖怪の脇腹を捉え、衝撃が走る。

 妖怪の身体が、数歩後退した。


「……ほう」


 初めて、妖怪の表情が歪む。


「それなりにはやる」


 反撃の爪。


 玄弥は、尾の導くまま身を捻り、紙一重でかわす。


「今までと違うじゃろ」


 葛葉の声。


「押し切るんじゃ」


 玄弥は踏み込む。

 霊力を尾から全身へ。


 打つ、かわす、踏み込む。

 動きが、ひとつに繋がっていた。


「チッ……!」


 影が地面を這う。


 尾を振り、弾く。


 だが――


「ぐっ……!」


 反動が重い。

 尾を使うたび、胸の奥で呪いが軋む。


「無理をするな!」


「……分かってる」


 息は荒い。

 余裕はない。


 それでも、目は逸らさない。


「今は、倒せなくてもいい」


「――食らいつく」


 均衡。


 夜の路地で、二つの力が拮抗する。


 妖怪が、低く笑った。


「良い」

「だが――次で終わりだ」


 影が膨れ上がる。

 すべてを叩き込む構え。


 玄弥も、霊力をかき集めた。


(逃げない)

(折れない)


 限界は、はっきり分かる。


「……無茶じゃぞ」


「それでも」


 玄弥は前を見据えた。


「今、出さなきゃ意味がない」


 同時に踏み込む。


 影と霊力が、正面衝突した。


 押し合い。


 視界が、白く弾ける。


 妖怪の力が、じわりと勝る。


 足が滑り、膝が沈む。


(……負ける?)


「玄弥」


 葛葉の声が、鋭く届いた。


「尾の制御はわらわがやる」

「一気に、引き裂け!」


 考える暇はなかった。


(――斬る)


 尾が、一本の光に収束する。


 霊力が、一直線に走った。


 ――貫通。


「……な……っ」


 影が、中心から裂ける。

 力が音もなく崩れ落ちた。


 妖怪は、膝をつく。


「……見事だ」

「人の身で、ここまで……」


 その声を最後に、

 気配は霧のように消えた。



 静寂。


 夜風が通り抜ける。


 玄弥は立ったまま――

 次の瞬間、膝から崩れ落ちた。


 尾が、ゆっくりと消えていく。


「よくやったのう」


 葛葉の声は、穏やかだった。


「最後まで、折れんかった」


「……勝った?」


「うむ」


 はっきりとした答え。


「紛れもなく、おぬしの勝ちじゃ」


 力は残っていない。

 それでも胸の奥には、確かな実感があった。

 初めて、自分の力で掴んだ勝利。

 夜は、静かに明け始めていた。

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