霊力ゼロの陰陽師見習い[短編版]
短編用に再編集しました。
ご興味あるかたはぜひどうぞ。
かつて世界は、人ならざるものに脅かされていた。
夜になれば闇は牙を剥き、名もなき叫びが人の営みを引き裂く。
妖怪――理を外れ、本能のままに生きる存在。
その頂点に立つ王がいた。
妖怪を統べる王。
ただ在るだけで、人を壊す存在。
王の通った跡には、必ず死が残った。
村は焼け、街は沈黙し、希望は踏み潰された。
それは戦争ではない。
蹂躙だった。
やがて人々は悟る。
――このままでは、滅びる。
⸻
滅びを前に、人は初めて手を取り合った。
最強と謳われた五つの陰陽師の家が結束し、
ただ一つの目的のため、妖怪の王に挑む。
戦いは凄惨を極めた。
結界は破られ、術は尽き、命は削られていく。
その最前線に立ち続けたのが、西園寺家当主だった。
術と剣を一つにし、彼は王へ迫る。
嘲笑を浴びながらも、退かなかった。
一瞬の隙。
刃は王の肉を裂き、黒い血が噴き上がる。
その血に宿る呪いが、当主の全身を侵した。
代償と引き換えに、
妖怪の王は封印される。
世界は、救われた。
――そう、思われた。
⸻
生き延びた当主は英雄だった。
だが、その血は穢れていた。
子に異変が現れ、
孫の代で、呪いは確かな形となる。
霊力は乱れ、奇病と不幸が一族を蝕む。
人々は囁いた。
――西園寺家は、呪われた。
英雄の家は衰え、
それでも呪いだけが、消えずに残った。
封印は終わりではなかった。
それは、因縁の始まりだった。
⸻
王を失った妖怪たちは散り、
人は彼らを狩り尽くした。
――妖怪の時代は終わった。
そう語られるようになる。
だが力ある者ほど、
人の世に溶け込む術を身につけていた。
姿を変え、名を偽り、
憎しみを胸に抱いたまま。
⸻
そして現代。
妖怪は過去となり、
陰陽術は管理された技術となった。
人々は、安心している。
だが封印は、静かに軋み始めていた。
かつて王の血を浴び、
恐れられ、利用され、切り捨てられた――
西園寺の血が、
再び、物語の中心へ引き戻されようとしている。
この時、
まだ誰も、それを知らなかった。
霊術学院・第三訓練場
訓練の時間だというのに、
俺の周囲だけが、妙に静かだった。
「次、西園寺玄弥」
教官の声に、空気がわずかに緩む。
理由は、誰もが分かっている。
――どうせ、何も起きない。
俺は列から一歩前へ出た。
足元の土の感触だけが、やけに鮮明だった。
「基礎霊術だ。霊力を発動し、的に命中させろ」
何度も聞いた言葉。
何度も失敗した課題。
目を閉じ、呼吸を整える。
体内を探る。
……ない。
霊力の気配も、流れも、色も。
本来あるはずの感覚が、俺には存在しなかった。
それでも霊札を構え、術式をなぞる。
「術式、展開――」
沈黙。
数秒後、どこかで小さな笑いが漏れた。
「今日も無反応か」
「霊力ゼロって、逆にすげえよな」
「……終了」
教官は淡々と告げ、もう俺を見なかった。
訓練場では炎が舞い、水が走り、風が刃となる。
――俺だけが、何もできない。
西園寺玄弥。
霊力を扱えない、陰陽師見習い。
この世界では、それだけで致命的だった。
⸻
実習のペア決めが始まる。
生徒たちは自然と声を掛け合い、組を作っていく。
俺の周囲だけが、空いたままだ。
目が合う。
すぐに逸らされる。
「悪い、もう決まってる」
「そっち行って」
言われる前に、距離を取られる。
「西園寺、余りだな」
教官は名簿を見たまま言った。
「三人組の補欠に入れ」
補欠。
最初から数に入っていない席。
「霊力ないのに?」
「迷惑だろ」
小さな声。
でも、はっきり聞こえた。
「西園寺は後ろで見てて」
「無理しなくていいから」
俺は結界の外に立つ。
術式の円にすら、入れてもらえない。
霊が顕現し、光が走る。
成功する仲間たち。
――俺だけが、観客だった。
ここに居る意味が、分からなくなる。
⸻
放課後。
教室に残っていた数人の中心に、クラスのまとめ役がいた。
霊力も成績も優秀な、皆が従う存在。
「なあ、西園寺」
嫌な予感が、確信に変わる。
「お前がいるとさ、流れ止まるんだよ」
空気が静まる。
誰も止めない。
「霊も出せないくせに同じクラスって」
「正直、迷惑」
次の瞬間、
見えない圧が肩にのしかかった。
「っ……」
息が詰まる。
床の簡易術式が光り、足を縛る。
「これが霊力だよ」
「同じ陰陽師でも、格が違う」
声が出ない。
抵抗も、逃げ場もない。
「安心しろ」
「怪我しない程度には抑えてる」
――それが、一番残酷だった。
「西園寺」
「お前は、ここに居ちゃいけない側なんだ」
視界が滲んだ、その時。
「……そこまでだ」
霊圧が引き、空気が戻る。
「冗談だろ」
「からかっただけ」
教官は何も言わない。
注意も、処罰もない。
「次は、ちゃんと謝れよ」
それだけだった。
俺は床に手をつき、息を整える。
霊力を持つ者が、
持たない者を支配する。
それが、この場所の常識。
西園寺玄弥は、
その最下層にいた。
その日の帰り道。
気づけば俺は、学院の裏手へと足を向けていた。
立ち入り禁止区域。
本来なら、近づく理由などない。
それでも胸の奥がざわつく。
呼ばれている――そんな感覚だけが、はっきりしていた。
森の奥へ進むほど、空気は重くなる。
視えるはずのない“気配”が、濃く満ちていく。
倒木の影で、俺はそれを見つけた。
巨大な狐。
人の背丈を遥かに超える体躯。
金色の毛並みは血に濡れ、荒い息が夜を震わせている。
黄金の瞳が、俺を射抜いた。
『……人の子よ』
声は、耳ではなく胸に響いた。
『近づけば、引き裂くぞ』
脅しではない。
事実を告げるだけの声音だった。
「……分かってる」
足は震えている。
それでも、目は逸らさなかった。
「でも……あんた、もう長くないだろ」
一瞬、森の空気が凍る。
『……ほう』
九尾の瞳が、細まった。
『人の身で、よく分かるものだ』
「分かったわけじゃない」
正直に言う。
「ただ……そう見えるだけだ」
力を誇示しないこと。
それが、何より雄弁だった。
『……愚か者め』
九尾は低く笑った。
『我が全盛であれば、貴様など一息で消えておる』
「だろうな」
否定はしない。
「でも、今は違う」
沈黙が落ちる。
『……霊も扱えぬ身で』
九尾は言った。
『なぜ、そこまで関わる』
「さあな」
肩をすくめる。
「ただ……何もできないまま終わる感覚が」
「あんたと、少し似てた」
九尾は、じっと俺を見つめていた。
『……奇妙な器だ』
次の瞬間、頭の奥に声が直接響く。
『貴様の霊泉には、強固な呪いが張り付いておる』
「……呪い?」
『妖怪の王が用いる、血脈封殺の呪式だ』
森が、微かに震えた。
『貴様は、生まれながらに霊力を封じられていた』
長年の疑問が、音を立てて崩れる。
「……だから、何もできなかった」
『当然だ』
淡々とした言葉。
『だが――我を助ければ、その呪いを一時的に緩められる』
「……契約か?」
『仮契約だ。完全ではない』
『危険もある。精神が耐えねば、壊れる』
それでも。
「……断ったら?」
『貴様は無能のまま生き、我はここで消える』
俺は、自分の手を見る。
何も掴めなかった、空っぽの手。
「……仮でいい」
顔を上げる。
「それで俺は、“立てる”んだな」
『――ああ』
『力の入口に、だが』
それで十分だった。
「やる」
恐怖よりも、何も変わらない未来の方が怖い。
「俺は、西園寺玄弥だ」
『よかろう』
九尾の身体が、淡く光る。
『我が名は――葛葉』
術式が脳裏へ流れ込む。
知らないはずの文字が、自然と理解できた。
「我は西園寺玄弥。
葛葉と仮契約を結ぶ」
胸の奥で、何かが軋む。
砕けはしない。
だが――確かに、こじ開けられた。
初めて感じる霊力。
世界が、輪郭を持って迫ってくる。
『これでよい』
『呪いは残る。だが、使える』
俺は、ゆっくり息を吐いた。
――もう、無能じゃない。
霊力の流れが、ふっと変わった。
爆ぜるでもなく、荒れるでもない。
水面に小石を落としたように、静かに――だが確かに、何かが現れる。
玄弥の前で、淡い霊光が人の形を結んだ。
そこに立っていたのは、葛葉だった。
ただし、その姿は想像とは違う。
玄弥の胸ほどの背丈。
年端もいかぬ少女の姿で、霊気も薄い。
九尾の象徴である尾は、影のように揺れているだけだった。
「……妙な顔をしておるな」
姿に似合わぬ、落ち着いた声音。
「これが、今のわしの姿じゃ」
玄弥は少し黙ってから言った。
「……俺の霊力が足りないからか」
「それもあるがの」
葛葉は肩をすくめる。
「何より、わし自身が弱っておる」
「お前との繋がりも、まだ細い」
小さな手を見つめる。
「流せる力も、この程度が限界じゃ」
卑屈さはない。
ただ、事実を述べているだけだった。
「それでも、出てきたんだな」
「当たり前じゃ」
即答だった。
「お前が、ここまで辿り着いた」
「それだけで、十分じゃ」
幼い姿でも、その場を支配する“格”だけは九尾のものだった。
⸻
家の玄関を開けるまで、玄弥は忘れていた。
「ただいま――」
「おかえ……」
母の声が、途中で止まる。
玄弥が振り返ると、そこには――
自分の後ろに立つ、小柄な少女。
「……誰?」
「――あ」
葛葉は一瞬きょとんとし、すぐに姿勢を正した。
「九尾の葛葉じゃ」
「しばらく世話になる」
沈黙。
「……とりあえず、中入りなさい」
話は、それで強制的に前へ進んだ。
⸻
食卓。
葛葉は椅子に座り、平然としている。
「お腹、空いてるでしょ?」
「今は顕在化しておるだけで、食は不要――」
――ぐぅ。
はっきりした音。
「……」
葛葉は咳払いを一つ。
「器の問題じゃ」
「霊力不足だと、こうなる仕様らしい」
母は何も言わず、茶碗を差し出した。
「遠慮しなくていいから」
「……では、少しだけ」
一口。
二口。
止まらない。
「……玄弥」
「なんだ」
「“少し”とは、難しい概念じゃのう」
母は思わず笑い、
玄弥は小さく息を吐いた。
――こうして、九尾は家に居着いた。
⸻
夜。
葛葉はソファに座り、テレビを見ていた。
「玄弥」
「今度は何だ」
「あれは何じゃ」
「テレビ」
「……幻術か?」
「違う」
人が箱の中で動くのを、真剣な顔で見つめる。
「人の世は、賑やかになったのう」
母が腕を組む。
「……説明してもらおうかしら」
逃げ場はなかった。
⸻
話を聞き終え、母は葛葉を見た。
「つまり、あなたは玄弥を守る存在なのね」
「うむ。それが役目じゃ」
「……無茶はしないでね」
葛葉は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
⸻
夜更け。
玄弥の部屋に、二組の布団。
「ここが玄弥の巣か」
「巣って言うな」
葛葉は布団に倒れ、すぐに寝息を立て始めた。
「……早いな」
電気を消し、玄弥も横になる。
妖怪ではなく、
今はただ、隣で眠る存在。
明日から、また面倒な日常が始まる。
――それでも、この夜だけは。
不思議と、悪くなかった。
朝。
台所から味噌汁の匂いが漂ってくる。
「玄弥ー、起きてるー」
「……起きてる」
布団から身を起こした瞬間、違和感に気づいた。
――軽い。
隣の布団が、空だ。
「……葛葉?」
襖を開けると、居間にいた。
正座している。
背筋をぴんと伸ばし、机の前にちょこんと。
「おはようじゃ、玄弥」
「……早すぎだろ」
「日の昇る気配で目が覚めたのう」
「人の家は、鳥の声が近い」
母が味噌汁をよそいながら、葛葉をちらりと見る。
「よく眠れた?」
「うむ。あの“ふとん”というもの、恐ろしい」
「一瞬で意識を奪われた」
「それは良かったわね」
完全に順応していた。
朝食が並ぶ。
焼き魚、白米、漬物、味噌汁。
「どうぞ」
「……よいのか?」
「もちろん」
葛葉は一瞬だけ玄弥を見る。
「毒見は不要かのう?」
「要らない」
箸を手に取り、まず味噌汁を口に運ぶ。
「……おお」
素で声が漏れた。
「どうした?」
「この柔らかきものは、何じゃ?」
「お揚げ」
「……おあげ」
もう一口、今度はゆっくり。
「油で揚げておるのに出しゃばらぬ」
「出汁を吸い、それでいて己を失っておらぬ……」
母がくすっと笑う。
「そんな大層な食べ物じゃないわよ」
「いや」
「信仰されるのも、わかる気がするのう」
「それ、誰の話だよ」
「わしの話じゃ」
玄弥はため息をついた。
「……もう一杯、もらってもよいかのう」
「いいわよ」
「感謝する」
「……朝というものは、悪くないのう」
母が言う。
「玄弥、この子、しばらく一緒にいるのよね?」
「……多分」
「そう」
それ以上、聞かなかった。
葛葉は味噌汁を飲み干し、満足そうに息を吐く。
「人の世……」
「油揚げがある限り、滅びぬな」
「基準そこかよ」
――
玄弥は鞄を手に取る。
「……じゃ、俺そろそろ――」
「待つのじゃ」
葛葉が手を挙げた。
「その“がっこう”とやら」
「妖に襲われる場所ではないのか?」
「普通はな」
葛葉はじっと見る。
「わしを、置いていくつもりかのう?」
母が割って入る。
「一緒に行きなさい」
「え?」
「置いていく方が危ないわ」
葛葉は満足げに頷いた。
「賢明じゃ」
「……行くぞ、葛葉」
「うむ」
「それ靴だ」
「足枷か?」
「文句言うな」
――
登校時間。
正門前は生徒で溢れていた。
「西園寺の横の子……誰?」
視線が集まる。
「……目立つ」
「当然じゃ」
葛葉が小さく指を鳴らす。
空気が、わずかに歪む。
だが誰も異変とは思わない。
「認識阻害じゃ」
「見えておるが、意識に残らぬ」
「便利すぎだろ」
教師ですら、素通りした。
「……切れたら?」
葛葉は、にやりと笑う。
「全力で目立つ」
「やめろ」
校門をくぐる。
葛葉が呟いた。
「この学び舎……臭うのう」
「妖と人の境が、曖昧じゃ」
玄弥は前を向いた。
「……あとで聞く」
「うむ」
こうして。
九尾は、誰の記憶にも残らないまま、
普通に登校した。
実技棟・第三訓練場。
白い石板の床に、結界式が淡く光っている。
「次、西園寺玄弥。相手は三組、日下部」
教官の声に、ざわめきが走った。
「またかよ」
「勝ち確じゃん」
玄弥は無言で前に出る。
日下部は肩を鳴らし、軽く笑った。
「悪く思うなよ。課題だからさ」
開始。
日下部の霊符が光り、身体能力を底上げする。
一方、玄弥の周囲には――何もない。
踏み込む。
動きは教本通り。無駄もない。
だが。
日下部は半歩ずらしただけで拳をいなした。
「遅い」
肘が腹に突き刺さる。
息が詰まり、次の瞬間、床に叩きつけられた。
「終わりだ」
霊符が展開され、四肢が縫い止められる。
笛の音。
「勝者、日下部。……西園寺、課題未達だ」
視線が痛い。
「霊力、今日も出なかったな」
「霊術科なのに霊術使えないって」
玄弥は立ち上がる。
口の中に、鉄の味が広がっていた。
次も、その次も同じだった。
強化霊装の一撃で吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
「……西園寺は見学に回れ」
教官の言葉が、何よりも重かった。
⸻
昼休み。
中庭のベンチで、弁当を前に箸が止まる。
「見た?」
「相変わらずだったな」
わざと聞こえる声。
「才能ゼロだろ」
「五大家の名前だけじゃん」
日下部が近づく。
「霊力、今日も温存か?」
「いや、使えないだけか」
笑い声。
玄弥は立ち上がる。
「……飯、冷めるぞ」
背中に言葉が投げられるが、振り返らなかった。
⸻
校舎裏。
「……くそ」
拳を壁に打ちつける。
鈍い音だけが返る。
「なぜ、使わぬ」
低い声。
振り向くと、柱の影に葛葉がいた。
誰の目にも映らぬ位置で、腕を組んでいる。
「……使えないだけだ」
「本当に、そうかの」
葛葉は目を細めた。
「おぬしの身体には、確かに霊力が流れておる」
「しかも、かなりの量じゃ」
「……嘘だ」
「嘘ではない」
即答だった。
「昔は使えなかった」
「だがそれは才能の問題ではない」
葛葉は静かに言う。
「“呪い”が、霊力の経路を塞いでおった」
「九尾との契約で、それは壊れた」
胸の奥が冷える。
「完全ではないが、今は使える状態じゃ」
「……じゃあ、なんで」
「おぬし自身が」
「“使えない”と信じ続けてきたからじゃ」
沈黙。
試す前から、諦めていた。
負ける前提で、立っていた。
「……本当に、使えるのか」
「使えるとも」
葛葉は小さく頷く。
「おぬしは、ようやく」
「スタートラインに立っただけじゃ」
遅れに遅れた、とでも言うように。
その言葉は重く、
同時に――初めて前を向ける言葉だった。
放課後。
部活の声も消えた訓練場の端で、玄弥はひとり立っていた。
夕焼けが地面を赤く染めている。
「……やるぞ」
誰に言うでもなく呟く。
これまでは、失敗する前提だった。
どうせ何も起きない――そう思いながら、掌を伸ばしてきた。
だが今日は違う。
――使える。
葛葉の言葉が、胸の奥に残っている。
深く息を吸い、吐く。
術式も、型も取らない。
ただ、自分の内側を探った。
すると。
胸の奥で、何かが脈打った。
「……っ」
熱でも、光でもない。
だが確かに“流れ”がある。
玄弥は恐る恐る、掌を前に出した。
――出ろ。
次の瞬間。
淡い霊光が、掌の上に灯った。
小さく、揺れる光。
だが、確かに存在している。
「……」
息をするのを忘れた。
消えない。
幻じゃない。
意識を向けると、光はわずかに強くなる。
「……使えてる」
声が震えた。
「ちゃんと……使えるんだ」
今まで何度も見つめてきた、何も起きない掌。
嘲笑、失望、諦め。
それらが一気に押し寄せる。
玄弥は、膝をついた。
光が消える。
「……くそ……」
拳で地面を叩く。
悔しかった。
才能がないと言われ続け、何も言い返せなかった自分が。
「……悔しい……」
涙が、ぽろぽろと落ちた。
それは弱さからの涙じゃない。
可能性を知ってしまった涙だった。
「みっともなくなどない」
低い声がした。
振り向くと、葛葉が隣に立っていた。
夕焼けに照らされ、白い髪が淡く光る。
「長い間、できぬと言われ続けた」
「それでも折れずに、ここまで来たのじゃ」
葛葉は、玄弥の頭にそっと手を置く。
「おぬしは、できないのではない」
「呪いに抑え込まれておっただけじゃ」
玄弥は、ゆっくり顔を上げた。
「……俺は」
「遅れておるだけじゃ」
葛葉は、くすりと笑う。
「今日、霊力が灯った」
「それが“始まり”じゃ」
夕風が吹き、草が揺れる。
「焦るな」
「だが、諦めるでない」
「おぬしは、ちゃんと前に進んでおる」
玄弥は深く息を吸った。
胸の奥に、静かな熱が残っている。
「……ありがとう」
「礼などいらぬ」
葛葉は誇らしげに言った。
「立ち上がるなら、わしは隣におる」
夕焼けの中。
こうして、玄弥の“本当の修行”は始まった。
翌日からの日々は、驚くほど地味だった。
放課後。
人のいない校庭の隅。
「今日も同じじゃ」
葛葉は淡々と言う。
「流す、止める、戻す」
「それだけでよい」
玄弥は頷き、目を閉じた。
呼吸を整え、内側へ意識を沈める。
――流す。
胸の奥の霊力が、細い川のように動く。
掌に、淡い光が灯った。
だが、すぐ揺らぎ、消える。
「……四秒」
「昨日は二秒じゃ」
「進歩しておる」
その一言だけで、救われた気がした。
翌日も、その翌日も。
派手な変化はない。
だが、五秒が七秒に。
七秒が十秒になる。
身体は少し軽くなり、
殴られても、以前ほど痛くない。
「霊力は量ではない」
「扱いじゃ」
葛葉の言葉が、少しずつ実感に変わっていった。
⸻
週末の訓練の終わり。
掌の霊力は、いつもより安定していた。
「……今日は、調子いいな」
その瞬間。
背骨の奥を、冷たいものが這い上がった。
「――っ!」
激痛。
霊力の流れが、内側から引き裂かれる。
膝をつき、息ができない。
「来たか」
葛葉の声が低くなる。
「呪いじゃ」
「力を取り戻そうとすると、目を覚ます」
進むな。
思い出すな。
言葉にならない圧が、全身を締めつける。
「……それでも……」
「今は引け!」
葛葉の声に、玄弥は必死に霊力を戻した。
痛みが、ゆっくりと引いていく。
「……進めば、邪魔されるってことか」
「そうじゃ」
葛葉は静かに言った。
「だがそれは」
「前に進んでおる証でもある」
玄弥は、拳を握った。
⸻
実技演習。
「次。西園寺玄弥、日下部」
ざわめき。
「またサンドバッグか」
「終わりだな」
玄弥は、もう俯かなかった。
「始め!」
日下部が踏み込む。
以前なら、避けられなかった一撃。
だが――
半歩、ずれる。
「……っ?」
拳が空を切る。
次の瞬間、足裏に霊力を流し、横へ跳ぶ。
「ちょろちょろ――」
言葉の途中。
掌底に、薄く霊力を乗せる。
――ドンッ!
「ぐっ!?」
体勢が崩れた。
流す。
止める。
もう一度、流す。
足払い。
「――なっ!?」
日下部の身体が宙を舞い、床に叩きつけられた。
「……勝負あり!」
静寂。
玄弥は、自分の手を見る。
震えている。
だが、恐怖じゃない。
「……勝った」
遠くで、葛葉が小さく頷いた。
「よい」
「今のは、ちゃんと“使えておった”」
玄弥は拳を握る。
――もう、殴られるだけの存在じゃない。
そう、はっきりと実感できた瞬間だった。
組み手が終わっても、訓練場は妙に静かだった。
誰も、すぐには声を出さない。
「……今の、見たか?」
「西園寺……勝ったよな?」
遅れて、ざわめきが広がる。
玄弥が歩くたび、視線が集まった。
侮りでも、嘲りでもない。
値踏みするような目。
胸の奥は、まだ熱い。
だが浮かれてはいなかった。
――これは、まだ始まりにすぎない。
⸻
一方、訓練場の隅。
日下部は一人、地面に座り込んでいた。
「……ふざけんな」
拳を土に叩きつける。
霊力もある。
努力もしてきた。
それなのに――負けた。
「……なんで、あいつが」
見下していた相手。
何もできなかったはずの相手。
胸の奥で、何かが軋んだ。
⸻
その夜。
月明かりの下、日下部は一人で歩いていた。
「……力が欲しい」
本音が、零れ落ちる。
「俺の方が、上のはずなんだ」
「――そう思うのも、無理はない」
低く、粘ついた声。
影が揺れ、人の形をした“何か”が立っていた。
「お前は選ばれている」
「ただ、使い方を知らないだけだ」
「……誰だ」
「力を与える者だ」
囁きは、甘い。
「西園寺が使っているのも力だ」
「ならば、お前が使って、何が悪い?」
――危ない。
そう分かっていても。
「……勝てるのか」
「当然だ」
「お前の方が、器は上だ」
その一言が、決定打だった。
「……教えろ」
影は、満足げに笑った。
⸻
翌日。
実技演習。
日下部が前に出る。
開始の合図。
一瞬。
次の瞬間、対戦相手は地面に転がっていた。
「……え?」
速すぎる。
見えない。
周囲がざわつく。
玄弥は眉をひそめた。
「……あれ」
肩に触れる、小さな手。
「混ざっておる」
葛葉の低い声。
「人と、妖の気配がな」
後半の組み手。
日下部の踏み込みは、さらに速い。
――速すぎる。
「やりすぎだ、日下部!」
教師の制止も届かない。
次の一撃が放たれ――
「……ぐっ!」
日下部が突然、膝をついた。
頭を抱え、荒い呼吸。
教師が駆け寄る。
「大丈夫か!? 誰か保健室を!」
混乱。
誰も、異変の正体に気づいていない。
ただ一人。
「……憑かれておる」
葛葉だけが、断言した。
「妖怪が、内側に入り込んでおる」
「しかも、制御が甘い」
玄弥は、日下部を見る。
一瞬だけ、視線が合った。
その奥に――
人ではない“何か”が、確かに蠢いていた。
⸻
放課後。
「もう、偶然じゃないな」
玄弥の呟きに、葛葉が頷く。
「うむ」
「誰かが、意図的に力を与えておる」
夕暮れの校舎が、重く沈んでいく。
「止めないと、どうなる」
「身体が壊れるか」
「主を失うかじゃ」
玄弥は拳を握った。
「……放っておけない」
「最初から、そのつもりじゃ」
葛葉は静かに言う。
「次に動けば、取り返しがつかぬ」
「時間は、残されておらぬぞ」
校舎の影。
――誰かが、こちらを見ていた。
その気配だけを残して。
翌日、教室に入った瞬間、空気が重かった。
ざわつきはある。
だがそれは好奇心ではなく、露骨な警戒だ。
「……日下部、今日やばくね」
「昨日から、完全に別人じゃん」
視線の先。
日下部は机に足を投げ出すように座り、爪で天板を叩いていた。
苛立ちが、隠しきれていない。
教師が入ってくる。
「では、この問題の答えを――」
「はぁ、そんなこと」
吐き捨てるような声。
教室が、凍りつく。
「……日下部?」
「分かってますよ」
「いちいち説明、必要です?」
教師の言葉を遮り、答えを口にする。
正解。だが、完全に挑発だった。
「だから何です?」
誰も笑わない。
息を呑む音だけが、静かに広がった。
⸻
昼休み。
日下部の周囲には、誰も近づかない。
試しに肩へ触れた生徒に、低い声が落ちた。
「……触るな」
血走った目。
相手が引くと、日下部は舌打ちする。
ドン、と拳が机を叩いた。
小さな悲鳴。
玄弥は歯を噛みしめた。
(……完全に、制御が外れてる)
⸻
放課後。
校門へ向かう荒い背中に、玄弥は声をかけた。
「日下部」
苛立たしげに振り返る。
「……何だよ」
「無理してるだろ」
「無理?」
鼻で笑う。
「今までが無理だったんだよ」
「力があるのに、抑えてた」
一歩、距離が詰まる。
「今は違う」
「俺は、強い」
その瞬間、ざらついた妖気が玄弥の肌を撫でた。
「……それ、本当にお前の力か?」
「借り物でもいいだろ」
「強けりゃ」
背後の影が、揺れた。
「このままだと――」
「うるさい!」
日下部は吐き捨て、背を向けた。
玄弥は追わなかった。
今ぶつかれば、壊れると分かっていたからだ。
⸻
翌日の放課後。
校舎裏の通路で、荒い声が背後から飛んだ。
「探してた」
日下部だった。
足元に、歪んだ妖気が溜まっている。
「決闘しようぜ」
「一対一だ」
「……ただの喧嘩だ」
「違う」
目が、ぎらつく。
「格付けだ」
「断る」
「今やったら、誰かが怪我する」
「ビビってんのか」
「違う」
「お前を止めたいだけだ」
一瞬の沈黙。
「……クソが」
地面を蹴り、振り返りざまに言い放つ。
「今日の夕方、訓練場」
「来なきゃ、逃げたって言ってやる」
挑発的な笑みを残し、去っていった。
⸻
夕方。
誰もいない訓練場。
赤く染まる空の下、玄弥は中央に立っていた。
(……来る)
次の瞬間、風が裂けた。
合図もなく、日下部が突っ込んでくる。
玄弥が跳び退いた直後、地面が抉れた。
「避けたか!」
日下部の全身から、妖気が噴き出す。
「最初から本気だ!」
異常な踏み込み。
拳が迫る。
受け止めた腕が、痺れた。
「どうした!?」
「前は、こんなもんじゃなかったろ!」
連撃。
荒く、理性のない攻撃。
「……日下部、やめろ!」
「ここまで来て?」
嗤い声。
背後の影が、獣の輪郭を描く。
「玄弥!」
葛葉の声が鋭く響く。
「もう半分、出ておる!」
日下部が腕を振る。
妖気が刃となり、地面を裂いた。
「いいな、この力……!」
興奮に歪んだ笑み。
「お前も使えよ!」
玄弥は歯を食いしばり、霊力を引き上げた。
空気が変わる。
「……それだ」
日下部が、嬉しそうに笑う。
拳と拳がぶつかる。
爆音。
だが次の瞬間、影がさらに膨れ上がった。
「遅ぇよ!」
理性を失った一撃が、振り下ろされる。
――これは、勝負じゃない。
暴走を止められるかどうか。
その分岐点に、二人は立っていた。
日下部は、医務室の簡易ベッドに横になっていた。
顔色はまだ悪いが、呼吸は落ち着いている。
「……悪かったな」
天井を見つめたまま、ぽつりと言う。
「調子に乗ってた」
「強くなりたいって……それだけだったのに」
「分かってる」
玄弥は椅子に腰かけた。
「俺も、同じだったから」
短い沈黙。
「……助けてくれて、ありがとう」
日下部はそう言って目を閉じる。
玄弥は立ち上がり、静かに告げた。
「無理するな」
「しばらく、休め」
扉を閉めると、廊下はもう夜の気配だった。
⸻
帰り道。
街灯が、一定の間隔で道を照らしている。
人影は少なく、車の音も遠い。
(……妙だ)
理由は分からない。
ただ、胸の奥がざわついていた。
「葛葉」
「分かっておる」
背後の気配が、低く応える。
「後ろじゃ」
立ち止まった瞬間――
街灯が、ひとつ消えた。
乾いた音。
続けて、もう一つ。
闇が、道の端から滲み出す。
影が、立ち上がった。
人の形をしているが、輪郭が揺れている。
地面に落ちる影だけが、異様に濃い。
「逃がした器は惜しかったが……」
あの声。
日下部の中から聞こえていた、妖怪の声。
「代わりは、もっと上等だな」
「俺を狙ってたのか」
「最初からだ」
妖怪が一歩近づく。
足音が、二重に響く。
「九尾と契約し、人の身を保つとは」
「実に、気に食わん」
葛葉が低く唸る。
「……しつこいのう」
次の瞬間。
影が弾けた。
妖怪が地を蹴る。
速い。
玄弥は跳び退く。
直後、街灯の支柱が叩き折られた。
「ここで戦うつもりか?」
妖怪が嗤う。
「悲鳴も、助けも来ぬぞ」
「それでいい」
玄弥は構えた。
「誰も、巻き込まない」
空気が、冷える。
「今度は、引き剥がす必要もない」
妖怪の声が低く沈む。
「――喰らうだけだ」
⸻
消えた。
「――っ!?」
次の瞬間、背後。
反応が、半拍遅れた。
衝撃。
玄弥は地面を削るように吹き飛び、背中を打つ。
「遅い」
振り下ろされる爪。
霊力で受けるが、砕け散った。
「九尾の力を借りたばかりで、我と渡り合えると思うな」
腹に重い一撃。
息が詰まり、膝が落ちる。
影が足元から絡みついた。
「これが、現実だ」
見下ろす声。
「人は、人のままでは――」
拳が、振り上げられる。
「玄弥!」
葛葉の叫び。
拳が、止まった。
「……チッ」
妖怪が舌打ちする。
「邪魔をするか、九尾」
影が、さらに締め付ける。
玄弥は動けない。
(……まだ……終われない)
妖怪は嗤った。
「すぐには殺さぬ」
「絶望を、味わわせてからだ」
⸻
その時。
葛葉の声が、はっきりと響いた。
「玄弥」
「このままでは、負ける」
「……分かってる」
「じゃが、道はある」
一拍。
「九尾の尾を、顕在化させるのじゃ」
心臓が、強く打った。
恐怖が、喉を締める。
だが――
「……止められるか」
「止める」
「九尾の名に懸けて」
玄弥は、息を吸った。
「……やる」
霊力を、さらに深く沈める。
胸の奥で、何かがほどけた。
妖怪が、眉をひそめる。
「……何をした」
答えは、形となる。
玄弥の背後。
淡い光が揺らめき――
一本の九尾の尾が、夜に顕現した。
空気が、反転する。
「……ほう」
妖怪が、低く笑う。
「それが、九尾の力か」
葛葉が告げる。
「一本が限界じゃ」
「じゃが――ここからが本番じゃぞ」
玄弥は、ゆっくり立ち上がった。
恐怖は消えていない。
だが、退く気もなかった。
夜道に、一本の尾が揺れる。
――戦いは、次の段階へ踏み込んだ。
一本の尾が、夜気を裂くように揺れた。
霊力の流れが、これまでとは違う。
内側から、温かい力が押し上げてくる。
「……っ」
玄弥は地を蹴った。
速い。
距離が、一瞬で消える。
拳が妖怪の脇腹を捉え、衝撃が走る。
妖怪の身体が、数歩後退した。
「……ほう」
初めて、妖怪の表情が歪む。
「それなりにはやる」
反撃の爪。
玄弥は、尾の導くまま身を捻り、紙一重でかわす。
「今までと違うじゃろ」
葛葉の声。
「押し切るんじゃ」
玄弥は踏み込む。
霊力を尾から全身へ。
打つ、かわす、踏み込む。
動きが、ひとつに繋がっていた。
「チッ……!」
影が地面を這う。
尾を振り、弾く。
だが――
「ぐっ……!」
反動が重い。
尾を使うたび、胸の奥で呪いが軋む。
「無理をするな!」
「……分かってる」
息は荒い。
余裕はない。
それでも、目は逸らさない。
「今は、倒せなくてもいい」
「――食らいつく」
均衡。
夜の路地で、二つの力が拮抗する。
妖怪が、低く笑った。
「良い」
「だが――次で終わりだ」
影が膨れ上がる。
すべてを叩き込む構え。
玄弥も、霊力をかき集めた。
(逃げない)
(折れない)
限界は、はっきり分かる。
「……無茶じゃぞ」
「それでも」
玄弥は前を見据えた。
「今、出さなきゃ意味がない」
同時に踏み込む。
影と霊力が、正面衝突した。
押し合い。
視界が、白く弾ける。
妖怪の力が、じわりと勝る。
足が滑り、膝が沈む。
(……負ける?)
「玄弥」
葛葉の声が、鋭く届いた。
「尾の制御はわらわがやる」
「一気に、引き裂け!」
考える暇はなかった。
(――斬る)
尾が、一本の光に収束する。
霊力が、一直線に走った。
――貫通。
「……な……っ」
影が、中心から裂ける。
力が音もなく崩れ落ちた。
妖怪は、膝をつく。
「……見事だ」
「人の身で、ここまで……」
その声を最後に、
気配は霧のように消えた。
⸻
静寂。
夜風が通り抜ける。
玄弥は立ったまま――
次の瞬間、膝から崩れ落ちた。
尾が、ゆっくりと消えていく。
「よくやったのう」
葛葉の声は、穏やかだった。
「最後まで、折れんかった」
「……勝った?」
「うむ」
はっきりとした答え。
「紛れもなく、おぬしの勝ちじゃ」
力は残っていない。
それでも胸の奥には、確かな実感があった。
初めて、自分の力で掴んだ勝利。
夜は、静かに明け始めていた。




