第5話 星ひとつしかない寒空
一筋の光も届かぬ暗闇の底。
静寂の中、水面に落ちる水滴の音だけが僅かに大気を震わせている。
到底生き物が存在すべき場所ではないこの空間。
そんな場所に力無く横たわる青年に打ち寄せる波が、まるであの世へと誘うように肌を撫で続けていた。
(ここは、どこだ・・・・・・冷たい)
(何も見えない、息すら、出来ない・・・・・・)
「息!?」
青年は反射的に目を見開くと地に手を付き身体を持ち上げる。
肺に溜まった水を吐き出し濡れた髪が青ざめた肌に張り付く。
呼吸を整え、揺れる水面に反射する今にも死にそうな己の顔に向けて青年は呟いた。
「シルトア、どうやら天使様はお前の魂を拾い損ねちまったみたいだな・・・・・・」
崩落に巻き込まれ意識を失ったシルトア。
だが奇跡的にも水深の深いこの地底湖に落ちたことで即死を免れ、そのまま波打ち際まで流されることで何とか一命を取り留めたのだろう。
「一体どれだけ・・・・・・っ!!」
意識が明瞭になったことで感覚も戻ったのか身体中に激痛が走る。
崩れそうになる腕に力を込め、痛みに顔をしかめながらも何とか浜に這い上がり仰向けに寝転がる。
「こりゃ全身どっかしらは折れてるな・・・・・・」
見上げても先が見通せない程の高さから落ちてきたのだ。
そのまま水面に叩きつけられたとなればその衝撃は計り知れないだろう。
寧ろ命が残っていること自体が不思議なくらいだ。
シルトアは軋む身体に鞭を打つ。
唇を噛み息を切らしながらも何とか立ち上がると、よろめく足を頼りにゆっくりと歩き始めた。
「せっかく拾った命だ・・・・・・ このまま諦めて土に還るより、みっともなく足掻いてやる!!」
シルトアは震える声を張り上げ、自らを鼓舞し前へと踏み出す。
だが心の奥底では薄らと現実を理解していた、理解はしていても納得は出来なかった。
生きて帰れる訳がない、と────
「にしても出口なんてあるのか? そもそも落ちてからどれくらい経った? 皆はもう外に出たかな?」
先の見えぬ暗闇をあてもなく歩み続けながら、シルトアは常に誰かに向けて返ってくるはずもない返事を期待しながら喋り掛ける。
もし一瞬でも口を止めればその瞬間、恐怖と孤独に押しつぶされてしまいそうだったから。
陽の光も届かぬここでは時間の感覚が狂う。
落ちてからどれくらいで目を覚ましたのか、1時間か1日、数日経ったかもしれない。
何も分からない不安が徐々に精神を削っていく。
「最後の晩餐が糧食とか最悪だな。せめて暖かい飯を食ってから旅立ちたいんだが・・・・・・ そうだな、肉がいい」
愚痴と願望が混ざりあった言葉が虚しく木霊する。
一寸先も見えぬ暗闇の中で感覚だけを頼りに、あるかも分からない出口を求めてシルトアは彷徨い続けた。
──どれくらい歩いただろう。
暗闇にも目が慣れたのかある程度の距離なら地形が把握できるようになっていた。
限りなく遅い歩みだとしても止まることは無かったのだから進んでいるはず、そんな憶測に縋るしかない現実に嫌気が差してきた頃。
「そろそろ陽の光くらい見えてもいいんじゃないか・・・・・・って、ここは?」
シルトアの視界が捉えたのは、今までの坑道のような通路とは打って代わり円形に広がる開けた空間だった。
天井は暗闇に覆われそこにあるのかすら分からないが、壁面には竪穴で見た物と同じ赤い光が灯っている。
壁際には瓦礫が山と積まれているがその空間の形自体は岩蜘蛛と戦ったあの場所によく似ていた。
シルトアは鞘ごと剣を引き抜くと地面を数箇所叩きその音に耳をすませる。
響くことのない鈍い音、下が空洞ではないことを確かめ一息つくとシルトアはその空間に足を踏み入れた。
「こんだけ広いならどっか外に通じてて・・・・・・!?」
手掛かりを探そうと辺りを見回すシルトアの視界に飛び込んできたのは、瓦礫の山に隠れた鉄製の扉だった。
何故この暗闇の中で瓦礫に隠れた物が扉だと分かったかと言えばその答えは単純。
扉だとひと目でわかる程の眩い光が隙間から漏れ出していたのだ。
それはあの光る天井とは違う紛れもない自然の光。
このまま誰にも会えずに朽ちていく最期が頭から離れなかったシルトアにとって、その光は正しく希望の光だった。
シルトアは痛みに軋む身体を些細なことと言わんばかりにその扉に向け一直線に駆け出す。
まだチャンスはあると言い聞かせても内心ではとうに諦めていた。
だからこそ眼前の光は何よりも眩しく、何よりもはっきりと見える。
扉まで数十歩。
しかしてその希望は飴細工よりも儚く、脆いものであった──。
突如として静寂に得体の知れぬ音が響く。
耳の奥を這い回り脳に直接響くような不快な音。
それは次第に大きく明瞭になっていく、そしてその音にシルトアは聞き覚えがあった。
忘れるはずもない。
シルトア達を絶望させた怪物が、獲物を狙い澄まし牙を擦り合わせるあの音だったのだから。
「っ!!!」
瞬間的にシルトアの身体が死の危険を訴え、もはや感覚のない脚に持てる力を込め全力で後ろに跳躍する。
直後、巨大な黒い塊が眼前に落下し砂塵が舞い上がった。
腹の底まで響くような鈍い音を轟かせ落ちてきた"それ"をシルトアはよく知っている。
先程までシルトアがいた地面は抉れ、黒く光る鋼鉄の脚が姿を覗かせた。
「なんでここに・・・・・・!」
シルトアの背筋は寒気に震え、舌の奥に苦味と酸味ががまとわりつくような感覚を覚える。
それに対し眼前の"それ"は8つの瞳孔でシルトアを見据え、歓喜の声を轟かせた。
岩蜘蛛だ。
「ははっ・・・・・・ ここでのんびり待ってたって訳かよ」
熟練の冒険者達が全力を持ってようやく渡り合えた魔物をたった1人で。
それも呼吸すら危うい人間が討ち取るなど不可能としか言いようがない。
それは例え相手が手負いだとしても覆ることのない事実であった。
だがその時、シルトアの胸中に渦巻いていたのは恐怖や絶望では無かった。
むしろその逆、渇いた身体を煮えたぎらせる程の怒りである。
「上等だ! こうなったらヴァルハラへの手土産に目ん玉のひとつくらいは貰ってやるよ!!!!」
怒りと興奮に身を任せシルトアは駆け出した。
吹っ切れた精神は痛みを鈍らせ身体を前へと押し進める。
あたかも何かの力に目覚めたように思えた。
だがそれは所詮、シルトアが思ったというだけである。
勢いに任せて振り下ろした単調な攻撃が岩蜘蛛に通用するはずもなく容易く見切られてしまう。
そして岩蜘蛛を捉えていた視界には先程まで剣だった破片が舞う。
直後、内蔵をすり潰されるような鈍い音と共にシルトアの身体は砕かれた。
横薙ぎに払われる鋼鉄の脚によって砲丸の如き速度で壁に叩きつけられた身体は簡単にひしゃげた。
ずり落ちる身体、残響が止まぬ頭とぼやけた視界で状況を把握しようと己の身体に目を向ける。
しかし目の当たりにした光景は人間の脳に到底理解出来るものではなかった。
「・・・・・・え?」
腹部は肋骨が見えるほど抉れ落ち、枯れ枝のように捻れた左腕は痙攣が止まない。
目に映る肉塊のような何かが己の身体だと認識できるのに何秒掛かっただろう。
そして時間と共にシルトアを襲う、まるで熔けた鉄を直接流し込まれたような耐え難い苦痛。
喉からせり上がる物を無条件に吐き出せば、骨肉が入り混じるどす黒い己の血だった。
「がっ・・・・・・あっ」
大声を上げたくとも潰れた身体ではそれすらも許されない。
浅い呼吸の中ようやく絞り出せた声はあまりにか細く、身体の末端から徐々に赤みが失せていくのが容易に察せた。
『いつかアーティファクトを手に入れてやる!』
狭まっていく視界に映るのは食い荒らされた骸の如き自分の身体と近付いてくる岩蜘蛛の影。
喉を通る息に温もりを感じられるほどに冷めきった身体を襲う強烈な眠気。
このまま委ねてしまいたくなるが岩蜘蛛がそれを許さない。
(っ!!!)
強烈な痛みに目を見開くと、右脚が岩蜘蛛の鋼鉄の杭によって刺し貫かれていた。
そのまま持ち上げられた身体はただ無気力に垂れ下がり最早声も出ない。
『俺は命賭け続けてるってよ!──』
『──せっかく拾った命だ!』
混濁した意識の水槽の中で先程から響く言葉は誰が言ったものだろうか。
(あぁ・・・・・・ 俺か)
岩蜘蛛はもはや反応の無くなったシルトアを、子が飽いた人形を捨てるかのように放り投げる。
瓦礫の山に落ちたシルトアの身体はそのまま瓦礫を崩しながら転げ落ちた。
(分かってたさ、俺には無理なんてことは。 でもせめて、1度くらい見てみたかったんだ・・・・・・ 叶えたい夢を)
止めを刺そうと近付く岩蜘蛛はまるでこちらを嘲笑うかのように牙を打ち鳴らす。
朧気な視界に映るのはシルトアへと迫る岩蜘蛛の姿と散乱する瓦礫の中で輝く輪っか。
(綺麗だな・・・・・・ あれ? 何処かで、見た気が・・・・・・ 何処だっけ)
幾つもの線が均一に彫られ、金属のようなもので出来た整美な輪っか。
初めて見るそれをシルトアは何故か見覚えがあった。
輪っかというより腕輪、ブレスレットのような──
(ブレスレット? それって・・・・・・!!)
その瞬間暗闇に覆い隠された視界は、陽光の下にいるかと錯覚するほど大きく開かれた。
(もしあれが本で読んだ"あのブレスレット"なら!!)
左腕は捻り砕け、腹は抉れ落ち、膝には風穴。
気力も体力もどこにもない筈なのに右腕はこの身体を前へ前へと這いずらせた。
眼前を岩蜘蛛の巨体が埋めつくす。
シルトアは枯れきった喉を震わせ心の底から湧き上がる思いを言葉に練り上げる。
「届けぇ!!!!」
シルトアが腕を伸ばした瞬間、鋼鉄の脚が振り下ろされた。
反射的に瞑った瞳、最後に映ったのはシルトア目掛けて振り下ろされた岩蜘蛛の脚と、"指先が触れ淡い光を放つブレスレット"だった。
開くかも分からない瞼を恐る恐る開く。
その瞬間、シルトアの瞳に飛び込んだ光景はあまりにも幻想的なものだった。
肉体を貫いたかに思えた岩蜘蛛の脚はシルトアに届くことなく、火花を散らしながら防がれている。
シルトアの眼前に立つ1人の少女によって。
「え・・・・・・」
その光景にシルトアはただ魅入ることしか出来なかった。
屈強な冒険者達でも誰1人まともに受け止めることなど出来なかったあの鋼鉄の脚を片手ひとつで受け止めている。
厳密に言えば少女の手は岩蜘蛛に触れてすらいない、まるで見えない"何か"がそこにあるように。
そして突き出した腕を少女が払えば、岩蜘蛛の巨体は蹴飛ばされた小石のように吹き飛ばされた。
理解が追いつかない光景に絶句するシルトア。
そして少女はこちらに振り返ると鈴音のように心地よい声と共に口を開いた。
「ありがとうございます、私を選んでくれて」
感情の欠片も感じない声はどこか儚く、氷のように冷たい表情は息を飲むほどに美しかった──────
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