たしかなもの
再会から数日が経った。
葵はいつもの日常に戻っていた。
湊との暮らしも、変わらず穏やかで、小さな笑いが続いていた。
夕食を食べたあとのリビング、ソファにふたり並んでドラマを見ていると、湊がふいに言った。
「最近さ、たまに思うんだけど」
「うん?」
「俺、葵に選ばれてなかった可能性も、全然あったよねって」
それは冗談のようで、冗談にならない話だった。
葵は笑いながらも、返事を少し迷った。
「そうかもね」
「だってさ、遥人のほうがちゃんとしてたし、落ち着いてたし、将来の計画とかも立ててたじゃん。俺、そのとき何もなかったよ」
「……何もなかったけど、何かをくれそうだったのは湊だったから」
そう答えると、湊はちょっと驚いた顔をして、それからふにゃっと笑った。
「それ、なんか名言っぽいな。メモしとくわ」
「やめてよ。書かないで」
湊はやっぱり湊だった。軽さと真面目さのバランスが、どこか不器用で愛しい。
再会のあと、葵は遥人から連絡を受けていない。
自分からもしなかった。
それでいいと思っていた。
再会は、必要な儀式だったのかもしれない。
“過去”という引き出しを丁寧に閉じるための、最後の確認作業。
もう、その中を何度も開けることはないだろう。
葵は、遥人を愛していた。
でも、「一緒に生きたい」と思ったのは、湊だった。
それは、理屈ではなかった。
傘を差し出す誠実さより、傘を持たずに笑う奔放さを、心が選んだ。
再会で、遥人はそれを「歩幅」と表現した。
それでも、葵の中に残っているのは、あの日の冷たい雨と、自分で自分を決めた感触だった。
選ばなかった理由も、選ばれなかった理由も、人それぞれの中にある。
どちらが正しいかではなく、「どちらも必要だった」と思える今がある。
ふと、湊が言った。
「結婚、どうする?」
それは唐突だったけれど、長い時間を経た問いだった。
葵はソファの隙間に手を差し込みながら答えた。
「そうだね。そろそろ、いいかもね」
それ以上の言葉はなかったが、それで十分だった。
湊はテレビのリモコンを投げて受け損ね、床に落として苦笑いした。
「ほら、こういうとこあるからなぁ、俺」
「……でも、拾ってくれるしね」
「え?」
「そういうところ、私、ちゃんと好きだよ」
その夜、久しぶりに雨が降った。
風の音と、窓を打つしずくの音が、心に静かに染み込んだ。
あの日と同じような雨。
でも、今はもう、誰かの傘を期待しているわけではなかった。
すでに、自分の傘を手にしていたから。
選ばなかった人を、間違っていたとは思わない。
選んだ人を、完璧だとも思わない。
でも、今こうして隣にいる人のぬくもりが、ただ確かで、揺るがなかった。
“選ぶ”というのは、正しさではなく、責任でもなく、
「その人と、これからを積み重ねることを恐れない」
という覚悟かもしれない。
葵はそれを、今になってようやく言葉にできるようになっていた。
そして、静かに心の中で呟いた。
「ありがとう。さようなら、遥人」
「ただいま、湊」
物語は終わりではない。
けれど、確かに一つの章が、優しく閉じられた。