表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

あの日の傘

「選ばなかった」その理由は、いつも心の奥に沈めたままだった。

湊との時間を大切にするためにも、遥人との思い出は、なるべく触れずにいた。

けれど、再会は静かにその封印をほどいた。


あの日の傘。

それが、葵の中でずっと引っかかっていた。

ほんの小さな出来事だった。日常のひとこま。

けれど、その瞬間に“わかってしまった”のだ。


――彼を選べない、と。


あれは、付き合うかどうかまだ曖昧な関係だった頃。

梅雨の時期で、天気はころころと変わった。


その日も、朝は晴れていたのに、夕方から土砂降りになった。


葵は傘を持たずに出てきてしまっていた。

遥人との待ち合わせ場所に着いたときには、髪も肩もびしょ濡れだった。


遥人はすでに到着していて、カフェの軒先でスマホを見ていた。


彼女の姿に気づいたとき、遥人はすぐ傘を開き、駆け寄ってきた。

「うわ、けっこう濡れたね。風邪ひくよ」


彼の言葉には責める色もなく、優しさだけがあった。

けれど、そのあとだった。


葵が何気なく言ったのだ。

「一緒に帰る時、傘ふたつあるかな?」

冗談半分だった。

帰る頃には止むかもしれないし、誰かに借りることもできる。


でも、遥人はきっぱりと言った。


「今日は、俺ちょっとこのあと別の予定あるから。……急ぎで移動になるかも」


その言葉に、葵はふいに冷たい水をかけられたような気がした。

遥人は責められることなど何一つしていない。

約束通り時間に来たし、体調も気遣った。傘も貸そうとした。

完璧だった。


でも──そう、「完璧すぎた」。


あのとき彼の中には、予定が優先され、目の前にいる“葵”はその枠に組み込まれていなかった。

「好きだから、今日は予定を変える」

そんな突発的な選択を、遥人はしない人だった。


合理的で、誠実で、間違えない人。

きっと、そういう人となら、穏やかな人生を送れたのだと思う。


でも、葵はそのとき、どうしようもなく「それでは足りない」と思ってしまったのだった。


湊なら──

傘がなくたって、「一緒に濡れようぜ」くらい言って、びしょ濡れのまま笑って走っていたかもしれない。

そういう無鉄砲さが、愛しさになると、葵はあのとき気づいてしまった。


それが、遥人を選ばなかった理由。

確信したのは、帰り道。

濡れたシャツを冷たい風が吹き抜けるなか、電車の中でじっと窓を見つめながら、ひとりで決めた。


「この人とは、たぶんずっと“こういうままで”いく」

「私はきっと、どこかで“寂しい”と思い続けてしまう」


それはきっと、わがままなのかもしれなかった。

でも、恋というのは、わがままな感情なのだと葵は思っている。


感謝も、敬意もあった。

でも、それだけでは踏み込めない一線が、確かにそこにあった。


再会したカフェで遥人が語った、「歩幅を合わせられなかった」という気づき。

それは、遥人なりの誠実な解釈だった。


でも、葵の中の理由は、それよりもっと曖昧で、説明しづらくて、感情のままの不器用な“違和感”だった。


だから、あのとき葵は頷いた。

「そうかもしれない」と、嘘をついた。

それは彼を傷つけないためであり、自分を守るためでもあった。


そして、同時にこうも思った。


――彼の理由でも、もういいか。


それぞれが、それぞれに納得の物語を持って生きていけばいい。

どちらが本当だったかなんて、もう重要ではないのかもしれない。


「選ばなかった理由」を、誰かの正しさに委ねることも、ときには優しさなのだ。


そう、あの日の傘のことを思い出しながら、葵は静かに微笑んだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ