あの日の傘
「選ばなかった」その理由は、いつも心の奥に沈めたままだった。
湊との時間を大切にするためにも、遥人との思い出は、なるべく触れずにいた。
けれど、再会は静かにその封印をほどいた。
あの日の傘。
それが、葵の中でずっと引っかかっていた。
ほんの小さな出来事だった。日常のひとこま。
けれど、その瞬間に“わかってしまった”のだ。
――彼を選べない、と。
あれは、付き合うかどうかまだ曖昧な関係だった頃。
梅雨の時期で、天気はころころと変わった。
その日も、朝は晴れていたのに、夕方から土砂降りになった。
葵は傘を持たずに出てきてしまっていた。
遥人との待ち合わせ場所に着いたときには、髪も肩もびしょ濡れだった。
遥人はすでに到着していて、カフェの軒先でスマホを見ていた。
彼女の姿に気づいたとき、遥人はすぐ傘を開き、駆け寄ってきた。
「うわ、けっこう濡れたね。風邪ひくよ」
彼の言葉には責める色もなく、優しさだけがあった。
けれど、そのあとだった。
葵が何気なく言ったのだ。
「一緒に帰る時、傘ふたつあるかな?」
冗談半分だった。
帰る頃には止むかもしれないし、誰かに借りることもできる。
でも、遥人はきっぱりと言った。
「今日は、俺ちょっとこのあと別の予定あるから。……急ぎで移動になるかも」
その言葉に、葵はふいに冷たい水をかけられたような気がした。
遥人は責められることなど何一つしていない。
約束通り時間に来たし、体調も気遣った。傘も貸そうとした。
完璧だった。
でも──そう、「完璧すぎた」。
あのとき彼の中には、予定が優先され、目の前にいる“葵”はその枠に組み込まれていなかった。
「好きだから、今日は予定を変える」
そんな突発的な選択を、遥人はしない人だった。
合理的で、誠実で、間違えない人。
きっと、そういう人となら、穏やかな人生を送れたのだと思う。
でも、葵はそのとき、どうしようもなく「それでは足りない」と思ってしまったのだった。
湊なら──
傘がなくたって、「一緒に濡れようぜ」くらい言って、びしょ濡れのまま笑って走っていたかもしれない。
そういう無鉄砲さが、愛しさになると、葵はあのとき気づいてしまった。
それが、遥人を選ばなかった理由。
確信したのは、帰り道。
濡れたシャツを冷たい風が吹き抜けるなか、電車の中でじっと窓を見つめながら、ひとりで決めた。
「この人とは、たぶんずっと“こういうままで”いく」
「私はきっと、どこかで“寂しい”と思い続けてしまう」
それはきっと、わがままなのかもしれなかった。
でも、恋というのは、わがままな感情なのだと葵は思っている。
感謝も、敬意もあった。
でも、それだけでは踏み込めない一線が、確かにそこにあった。
再会したカフェで遥人が語った、「歩幅を合わせられなかった」という気づき。
それは、遥人なりの誠実な解釈だった。
でも、葵の中の理由は、それよりもっと曖昧で、説明しづらくて、感情のままの不器用な“違和感”だった。
だから、あのとき葵は頷いた。
「そうかもしれない」と、嘘をついた。
それは彼を傷つけないためであり、自分を守るためでもあった。
そして、同時にこうも思った。
――彼の理由でも、もういいか。
それぞれが、それぞれに納得の物語を持って生きていけばいい。
どちらが本当だったかなんて、もう重要ではないのかもしれない。
「選ばなかった理由」を、誰かの正しさに委ねることも、ときには優しさなのだ。
そう、あの日の傘のことを思い出しながら、葵は静かに微笑んだ。