再会
それは、本当に偶然だった。
用事の合間に時間がぽっかり空いた午後、いつもは通らない路地の先にある、ガラス張りのカフェが目に入った。
葵は、その店の前を何度も通ったことがある気がしたが、入ったのは初めてだった。
平日の午後三時、店内はまばらだった。
窓際の席に座り、アイスコーヒーを頼んで、バッグから文庫本を取り出そうとしたそのとき――ふと、視界の端に見覚えのある後ろ姿が入った。
ノートパソコンを開いて、何かを黙々と打っている男性。
落ち着いた紺色のシャツ、指先に残る静かな所作。
あまりにも記憶の中の姿と変わっていなかった。
「……遥人?」
その名前が、思わず声に出ていた。
彼がゆっくりと顔を上げた。瞬きがひとつ、ふたつ。やがて、懐かしそうに目元を緩めた。
「……葵? ひさしぶり」
まるで季節をまたいだような再会だった。
立ち上がった遥人は、少しだけ線が細くなったように見えた。けれど、目の奥にある穏やかさは変わらなかった。
「近くで仕事中?」
「うん、たまにこの辺で打ち合わせがあって……。偶然だね」
「ほんとに」
自然と、隣の席に座ることになった。
カップに残るコーヒーの揺れが、葵の胸のざわめきを映しているようだった。
二人の会話は、最初ぎこちなかった。
「元気だった?」
「うん。そっちは?」
「まあ、それなりに」
「そっか」
何度も使われたような言葉を、何度も繰り返した。
それでも、時間がゆっくりとほぐしてくれた。
やがて、遥人がスマートフォンを差し出した。待ち受けには、三歳くらいの女の子がいた。
「娘。ちょっと俺に似てるって言われる」
「……かわいいね」
「ありがとう。結婚して、いまは割と落ち着いてる。……仕事も、生活も」
葵も湊の話をした。
四年目の暮らし、安定した日々、結婚を考えていること。
「良かった。葵には、幸せでいてほしかったから」
その言葉に、葵の胸の奥が少し熱くなった。
沈黙のあと、遥人が静かに口を開いた。
「……実はね、最近になって、あのとき葵が俺を選ばなかった理由、なんとなくわかった気がしたんだ」
葵の指先が、微かに震えた。
声に出さなかったが、その続きを聞こうと、彼女は黙って目を見た。
遥人は、一呼吸置いて話し始めた。
「たぶん……あれ、登山のときだったと思う。覚えてる?」
葵は、頷いた。
「初めて一緒に行った山。道が分かれてて、俺、前を歩いててさ……葵が立ち止まってたのに、気づかずにどんどん進んじゃった」
その記憶は、確かにあった。
細い山道、分岐点。
葵はどっちの道かわからずに迷い、立ち止まった。声をかけようとしたが、遥人はもう十メートル先を歩いていた。
「……思ったんだよね。俺って、目的地に向かうことばっかり考えてて、隣にいる人の歩幅を見てなかったなって。葵って、そういうの、ちゃんと見る人だったから。だから、俺は“違った”んだって、最近気づいた」
遥人の言葉には、言い訳も恨みもなかった。ただ、ひとつの事実を見つめるような、真摯な語りだった。
葵は、静かに頷いた。
「……そう、かもしれない」
けれど、その言葉は、嘘だった。
遥人が語った「自分の歩幅を見ていなかった」という理由は、整いすぎていて、まるで誰かが用意した納得の形のようだった。
それを否定することは、優しさを壊す気がしてできなかった。
――本当の理由は、違った。
その記憶が、胸の奥で鈍く疼いた。
でも、いまこの場では、彼の理由でもういいのだと思った。
あのとき、誰かが正しかったわけではない。誰も悪くなかった。
ただ、そうなるしかなかった。
コーヒーの最後の一口を飲み干し、遥人が立ち上がった。
「そろそろ、戻らなきゃ。また、どこかで」
「うん。……元気でね」
カラン、と椅子の音だけが残った。
彼が店を出ていったあと、葵はカップを両手で包んだまま、しばらくその場を動けなかった。
心の奥にあった何かが、少しだけ、音を立てて崩れたような気がした。