静かな日々
湊と正式に付き合い始めたのは、あの選択から一週間後のことだった。
「なんか……勝った気がする」と、彼は冗談めかして言った。
「誰に?」と聞くと、「さあ?」と笑った。
その無邪気な笑顔を見ながら、葵はまだ自分の選択が正しかったのか自信が持てずにいた。
けれど、正しさなんて所詮あとからついてくるものかもしれない。そう思うことにした。
湊との日々は、意外にも波風が少なかった。
彼は「自由人」という言葉のイメージとは裏腹に、恋人になると少しだけ不器用なほど真面目だった。デートのたびに新しいことを提案してきて、手料理を覚えたいとキッチンに立ち、たまに焦がしながらも夕食を用意してくれた。
初めての旅行では、道に迷って駅を二つも乗り越したが、湊は笑いながら言った。
「迷ったって、それも旅でしょ?」
確かにそうかもしれない。
彼の隣では、失敗も何もかも「物語の一部」になってしまう。それが、遥人にはなかった“色”だった。
ただし、それでも湊は湊だった。
約束の時間に遅れることもあったし、気まぐれな発言に傷つくこともあった。
ある日、葵が落ち込んでいたとき、彼はうまく慰められなかった。ただ、ぎこちなく肩を抱いてきたその手の温度が、妙に頼りなかったのを覚えている。
その夜、葵は一人で洗面台の前に立ち、自分の顔を見つめていた。
「私、何がしたかったんだろう……」
でも、湊は変わっていった。
少しずつ、ゆっくりと、彼は“恋人らしく”なる努力を見せてくれた。
葵が風邪を引いたとき、慣れない手つきで雑炊を作ってくれた。
味はやっぱり少し薄かったけれど、彼の横顔を見ているうちに涙が出そうになった。
選んでよかった。
その瞬間だけは、確かにそう思った。
それでも、心のどこかに、あの日の遥人の姿は、静かに沈殿していた。
「私は、湊を“選んだ”。でも、遥人を“捨てた”ことには変わりない。」
葵は、自分がその事実をまだ許し切れていないのだと気づいた。
罪悪感なのか、未練なのか、ただの執着か。
それはまだ、はっきりとはわからなかった。
月日は流れた。
四年という時間は、恋を穏やかな絆へと変えた。湊とは同棲も始まり、二人の生活は自然と重なっていった。刺激は減ったけれど、代わりに安堵があった。
湊も少し落ち着いた。夜遅くまで飲みに行くことは減り、気まぐれな旅の誘いもなくなった。
「昔の俺、落ち着きなかったよなあ」
「……今もそこそこだけどね」
「え、褒めてよそれ」
そんなやりとりが当たり前になっていた。
ただ、湊がふいに言った言葉が、心に引っかかる。
「葵はさ、なんで俺を選んでくれたの?」
その質問に、彼女は一瞬言葉を失った。
――それが、一番自分にわからないことだったから。
「なんとなく、かな。直感、ってやつ」
「うわ、めっちゃ雑。でもまあ、俺もそんなもんだと思う」
湊は気にした風もなく笑ったけれど、葵の胸の内はそう単純ではなかった。
彼を愛していた。
けれど、その“なんとなく”という直感が、今になって不安定に響き始めていた。
そんなある日、時間に余裕のあった午後、葵は街中のカフェに立ち寄った。
そして、そこで――再会した。