雨の中の悪意
小屋の屋根にバタバタと叩きつけて降る雨音よりも、自分の心臓の音が大きくて、隣りに身を屈めて隠れている早坂真紀に聞こえてしまいそうだと思うから、更に早く脈打つ。
濡れた服が、小屋の中の蒸れた湿気を纏って、肌に張り付いて不快だ。
激しい雨音に搔き消されながらも、微かに足音が聞こえ、外に人の気配を感じる。
息が苦しく、その呼吸する音さえ消してしまわなくてはと思うので、焦り、荒く早くなる。
なんとか、この管理小屋の小窓から中に侵入して、この場所に隠れる事ができた。
小屋の入口は鍵が掛かっていたし、僕等の様な小学生ならともかく、大人が小窓から中に入るのは難しいだろうから、見付かる事はまず無いはずだ。けれど、僕も早坂真紀も震えが止まらない。勿論、雨に濡れたせいではない。
小窓から入ってくる明かりは微かで、小屋の奥にある棚の中に隠れているので、その微かな光も届かない。暗闇の中で蹲り、震えながら耳をそば立てている。
軒下のコンクリートの三和土を歩く靴音が、打ち付けられて跳ね返る雨音に紛れて聞こえる。
足音が強く、ずっと気配があるのは、小屋の軒先で雨宿りでもしているのかもしれない。
入口の辺りで話し声が聞こえた。一人で話している様に聞こえるのは、きっと電話なのだろう。
早坂真紀が僕の袖を掴んだ。声を殺して泣いている。堪え切れずに少し声が漏れる。
彼女の口を手で塞いで、首を横に振って、声を出しちゃダメだと伝える。
無意識に息を止めていたのか、気が遠くなってきた。
小屋のトタン屋根を、更に激しく雨が打つ。話し声も聞こえなくなって、バタバタと脈打つような雨音と心臓の音だけがする。激しい音がこの空間を消してしまいそうで、うす暗い視界を黒が染めて行く。
一瞬だったと思ったけれど、どのくらいだったのか、扉を叩く音で目覚めた。
視界が戻っていくと恐怖が蘇り、震えが全身を走った。
入口のドアノブを、ガタガタと乱雑に揺らす音が、今にも侵入して来そうで恐い。
迫ってくる恐怖に耐えれず、早坂真紀が「キャー」っと、悲鳴を上げた。
「誰かいるの?」
ドアの向こうから声がした。扉を揺らしながら叫んできた。
その声に反応して、早坂が「イヤー」と、頭を抱えて泣き叫ぶ。
「誰かいるのね、伊原君と早坂さんよね、そうでしょ」
聞き覚えのある声に、自分の名前を呼ばれて緊張がほぐれた。
早坂が立ち上がる。ふら付きながら、入口に向かって歩いていく。
「せんせー、せんせー」
早坂がしゃがれた泣き声を絞り出して叫ぶ。
「早坂さん?早坂さんなのね、伊原君はいるの?」
先生の声が扉を叩く。
「ぜんぜ、ぜんぜえ」
早坂が扉に抱きつくように触れて、震えながら声を上げる。
扉の向こう側で人が増えている。
「鍵借りてきた」とか「見付かったか」とか声が飛んでいる。
「早坂さん、いま開けるからね」
緊迫した先生の声、ガチャガチャと慌ただしい音がして扉が開き、光が流れ込んできた。眩しさに一瞬目を閉じる。暗闇を光が侵略していくのが見える。
光の先に、担任の横山先生が、泣きじゃくる早坂を抱きしめている。
その後ろから、他の先生が光を遮って入ってきた。
六坪程度の小屋でも、奥にある棚の下段にまでは充分な光が入らない。その先生は、僕をすぐに見つける事が出来なかった。
暗闇から見る光と、光から見る暗闇は違う。
動こうとするけど、うまく動けない。
ほの暗い中で微かに動いた僕を見付けた先生は、少したじろいだが「いたぞー」と、声をあげた。僕は声が出ない。
呆然と見上げる僕に差し伸べた手の後ろで、早坂がひきつけを起こすように泣いているのが見えていた。
チャイムが鳴ったので、廊下に出ている生徒はいないが、教室からはザワザワと騒ぐ声が聞こえる。
そんな中を、さっき初めて顔を合わせたばかりの横山先生の後ろを付いて歩く。
先生が教室の扉を開けると、直前まで騒がしかった雑談の声がピタッと止んだ。
横山先生に続いて僕が教室に入って行くと、少しザワついた。
「ほら、日直」と、横山先生が声を上げると「きりーつ」何処からか生徒が号令をかける。ガタガタと皆が揃って立ち上がり「礼」の掛け声の後に続いて「おはようございます」と、生徒が声を揃える。
教壇の隣りで向かい合ってそれを受け、圧倒され怯む。
「着席」の掛け声で皆が座り直す。ガタガタ、ズズズと、椅子を引きずる無数の音の中に一人で手持ち無沙汰に立ち尽くす。知らない人たちの視線が僕に集まる。居心地が悪い。
横山先生が黒板に大きく綺麗な文字で、伊原直樹と僕の名前を書いた。
「伊原くん自己紹介して」横に立つ僕に、小さく優しい声で促した。
「伊原直樹です。東京から引っ越して来ました。よろしくお願いします」
もっと、先生が喋る様に流暢に喋るつもりだったけれど、口を開いた時には喉が乾いていて上手く動かず、とてもぶっきら棒に喋ってしまったから、心臓がドキドキと早くなった。
それでもパチパチと拍手が帰ってきた。8割は先生の拍手で「はい、みんな仲良くしましょうね」の声かけで拍手が止む。
一番後ろの空いている席に着く様に言われ、机に並んだ生徒の群れの中に踏み入って行く。歩いて進むと視線が追いかけてくる。僕の姿を横目にクスクスと笑い声も聞こえる。
教室の後ろ一面に張ってある書写の中の、誰が書いたのか知らない『友達』の文字を見つめて、真っすぐ一歩一歩と進み、無事に生徒の群れを抜けて一番後ろの席に着いた。
腰を降ろすと、息を止めていたのかと思うほどに空気を吸い込んで、大きく息を吐いた。その深い深呼吸で、朝いちで職員室に行ってから続いていた緊張が解れて、椅子の背にグッと、凭れた。
ふと、横を見ると隣りの席の女の子と目が合い、小さく会釈されて、慌てて倣って返した。
女の子は少し乗り出し、口に手を添えて「私、早坂真紀。よろしくね」と、小声になっていない小声で、耳打ちして笑顔を見せた。
朝の会の終わりを告げるチャイムが鳴った。長くダラダラと流れるチャイムの音に、緊張が溶けていく。
休み時間には、数人が席に押しかけて来ては、名乗っていろいろと質問をしていったけれど、誰がどんな事を訊いて来たのか、ほとんど覚えていない。
だいたいは、何処から来て何処に住んでるとかだったと思う。フワフワしたまま一日が過ぎた。
僕が入れられた班が掃除当番の週なので、初日から掃除をする事になった。
班の編成は、ほぼほぼが席の並びで決まっていて、隣りの席の早坂真紀も同じ班だった。
「伊原君くん、今日から同じ班だね、よろしくね。じゃあ、これ箒ね、掃き掃除お願いね」
と、笑顔で箒を渡して寄越した。
「曜一朗、机運んでね」と、早坂が優しく言う。
「うん、わかったよ」
身体が大きい割に、おっとりとしている金子曜一朗が答える。
「司村と私で、拭き掃除ね」
金子曜一朗に話す時よりも、心なしかきつい感じだ。
「いちいち優等生ぶりやがって」と、司村蓮が、整った顔の端を歪めて悪態をつく。金子曜一朗と対照的で、小柄で華奢に見えるけれど、勝気な性格の様だ。
「司村、不貞腐れていないで進めないと、早く帰れないよ」と、早坂がモップを渡す。
「はいはい、わかってるよ」と、司村はイラつきながらも、モップを乱暴に受け取り早坂の言う事を聞いた。
早坂は、テキパキと作業をこなしては皆に指示を出し、円滑に掃除は進んだ。
「お疲れ様。後はゴミ捨てだけだから、伊原くんに教えがてら私が行くよ。みんなは先に帰って」
「あっそう。じゃ、よろしく。行くぞ曜一朗」司村が教室を出て行く。
「あ、うん、今行く」曜一朗が慌ててカバンを取って「じゃあ、早坂さんお先に…伊原君も」目を伏せたまま声を掛けて、司村の後を追って行く。
「じゃあ、行こうか伊原くん、ごみ捨てる場所を案内するよ」と、ゴミ箱を抱えて教室を出る。
早坂に続いていき「持つよ」と、手を出したけれど「いいよ、今日はまだ」と、笑顔で断わられた。
「えーと『伊原』でいいよね」
「あ、うん」
「じゃあ、伊原は、転校初日どうだった?」
早坂は興味津々といった目で覗き込む。ハキハキとした物言いで、短めの髪が、更に活発な印象を助長する。
「緊張した?」
「うん、緊張した。今もまだ少し緊張してるよ」
照れ臭かったけれど、白状したら少し気が楽になった。
「だよね、最初に席まで歩いて来る時、何処見てるの、って感じだったもん」
「え、本当に?」
「ホントだよー」早坂がケラケラ笑うので、僕も釣られて笑った。
今日、いいや、磐田に引っ越して来てから初めて笑った。ほんの少し、口角を上げる筋肉がピリッとした。
渡り廊下を歩いていくと、校舎のほぼ全容が見えるようで、そこで早坂が、音楽室はあそこの三階の端で、とか、美術室はその向かいだとか、図書室の使い方は、今度一緒に行ってあげるとか、いろいろと説明をしてくれた。
ここから中庭を挟んで見る校舎は、とても大きく感じた。まだ、そこかしこで掃除をしている生徒の声がしている。ざわざわとした喧噪の中に笑い声が多い。
渡り廊下に四月の陽射しが差して、早坂が「上着脱いで来ても良かったかもね」と、こぼした。
中庭から風が抜けて来る。昇降口で桜の花弁が舞っているのが見えた。
焼却炉の場所を教わり、ごみ捨てを終えて教室に戻る途中に、校舎の裏で司村の怒鳴り声が聞こえてきた。
理科室の裏で、司村と知らない男子生徒が二人、金子曜一朗を囲んでいる。
曜一朗は右手左手と、一つずつランドセルを持ち、お腹に一つ抱え、背中に背負っているので、四つのランドセルを身に着けてよたよたと歩いている。
囲っている司村たちは手ぶらなので、彼らのランドセルだろう。
「ほら、しっかり歩けよ、曜一朗」
司村が声を上げて、横の男子が笑う。
「またやってる、あいつら」早坂がぼそりと呟いた。
「えっ?」
「いつもだよ。曜一朗は身体が大きいのに体力がないから、曜一朗がもたもたするのを、からかって笑ってるんだ」早坂が眉を寄せて顔を顰める。
「い、いじめとかなの?」
「うーん、それは違う。司村と曜一朗は幼馴染みなんだよ、今も曜一朗は司村にべったりだもん。司村はどう思ってるのか知らないけど、曜一朗が何も言わないからって、やりすぎなんだよ、アイツは」
そう毒づく早坂が、曜一朗に肩入れしてるのが伝わる。
「横の二人は?」
「隣りのクラスの男子だよ。司村の家って、地元じゃ有名な名士で、ちょっとした資産家なんだよね。それを笠に着てるっていうか、まあ、お金持ちのボンボンの取り巻きってところかな。この辺りでは、司村の家の系列会社に勤めてる家が多いんだ。私の家もそうだし」
早坂は、そう言って苦い顔をして見せる。「もう」と、ため息をついて、品のない笑い声を上げている司村たちに近づいて行く。
「ちょっと、いい加減にしなよ」と、早坂が力強い言葉を投げつけた。
苛立ちを隠さずに、司村が声を上げた。
「なんだよ、遊んでるだけだろ、優等生は入って来るなよ」
早坂の後ろに立っている僕に視線が向けられ、目が合うと睨んできた。
「曜一朗も、嫌だって言いなさいよ」
強い口調で早坂が、ランドセルまみれの曜一朗に声をかける。
「違うんだ早坂さん、僕が負けたから、バツゲームだから、僕がドン臭いだけだから」
息を切らして、よたよた歩きながら弁解した。
「曜一朗、そんなに持って歩くの、アンタじゃ無理だって」早坂が心配そうに声を上げる。
「だ、大丈夫だよ。ありがとう早坂さん」曜一朗が、何とか笑ってみせる。
「司村、もっと違う事にしてあげなよ」と、司村蓮に食って掛かる。
「うるせーなー、あーあー、白けた。もういいよ」と言うと、曜一朗の腕から乱暴にランドセルを取り上げて背負うと、早坂にぐいと歩み寄り、何かするのかと一瞬胸がざわついたが、口元を歪めて「フン」と鼻で笑うと、踵を返して校門の方に歩き出した。それに倣って取り巻きの男子が続き、あたふたとしながら「待ってよ連ちゃん」と、曜一朗が追っていった。
気付くと、雲が広がってきていて、遠くの空が暗く濁っていた。
「あれ、雨降るのかなあ、私たちも急いで帰ろう」と、早坂は気にも止めていないかの様に、そう言って、空を見つめて笑ってみせたけれど、遠くの空の様に曇って見えた。
♢
連休が過ぎた五月の末に、恒例の春の校外学習があり、県立の森林公園に来ている。
「静岡県立森林公園は天然のアカマツ林を主体とした豊かな自然に恵まれた公園です」
インタープリターという自然解説員が説明をしている。
「東京ディズニーランドの四、二倍で、東京ドームの四十五個分の広さです」と、よく分からない説明が続いていた。
「ハイキングコースの奥に滝があるんだって、行ってみようよ」
この自然公園で見る事が出来る動植物についての説明を聞いていた時に、隣りに座っていた早坂真紀が耳打ちをした。
散策していいのは、ビジターセンターの所の冒険の森とかいう所からスポーツ広場までと、川向こうの水辺の広場までしか行ってはいけない事になっていた。
早坂が言う滝は、川向こうの広場を更に山道を登った所の筈だ。優等生の早坂が行こうと言い出すとは思えなくて、違う場所と間違えているのかと、何度もマップを見直した。
広場で弁当を食べた後、同じ班の司村蓮も、金子曜一朗と一緒に居なくなっていた。いつもの様に、司村に曜一朗がくっついて行ったのだろう。
担任の横山先生に、司村達も水辺の広場に行った様なので自分達もそっちに行くと伝えた。
横山先生は、普段にも増してにこやかに受け答えしてくれて「広場に引率の先生がいらっしゃるから、ちゃんと指示を聞いてね、木道までしか行かないんだよ」と、念を押した。
「はい」と、声を揃えて返事をしたけれど、実は、ちょっとした秘密の作戦を計画していたので、内心はドキドキしていた。
舗装された道をしばらく行くと木道になり階段を降りると水辺の広場に着いた。
小さな池が幾つかあり、その先で小川になっていて、小川沿いの水辺で開けた所が広場になっている。新緑が水面に揺れてきらきらと光っている。幾人もの生徒が、アオガエルやオタマジャクシなどの、水辺の生き物を観察している。鳴き声に誘われてウグイスやヤマガラを追うけれど見付けられないでいる。
広場を見渡せる所に建つ東屋に、引率の先生がいた。名前は何だったか、体育の専科教員だったと思う。
早坂に確認したら「伊原、四月に転校して来て、もうすぐ五月も終わるって言うのに、まだ覚えてないの」と、呆れられる。
「連休があったから、実際はまだ一か月ちょっとだよ」と言い返すと、早坂が苦虫を噛んだような変顔を見せるので笑ってしまう。
そういえば「金子先生がいるのに『金子』って呼び捨てするのもなんだし、司村が呼んでるのに倣って『曜一朗』って呼ぶようになったんだよ」と、教えられたのを思い出した。
その金子先生を横目に、自然観察林を抜けて、上流湿地の木道を進み、つり橋を渡って山道に入る。
土と木の根が隆起した道を一時間ほど歩いた。四十分くらいで着く筈だったけれど、筋を間違えて、少し戻ったりしたからだろう。
水の音がゴゴゴゴと、大きく聞こえてくる。並行していた沢が行き止まり、滝が現れる。
「着いたー」
両手を上げて伸びをする。
「思っていたほどじゃないわね」
早坂が息を切らしながら言うけれど、満面の笑顔だ。
「落差はあれだけど、水量はけこうあるよね」
滝のゴゴゴゴという音で、声が掻き消されてしまうので大声になる。
早坂が滝壺に近づき、飛沫を浴びる。
「きもちいいー、伊原も来なよ」
滝つぼに弾ける飛沫の先を見上げる。五メートル程の滝上から落ちる水量はかなり多く、大きさの割には迫力がある。
いつだったか、富士宮にある「白糸の滝」を見に連れられて行った事があった。
有名な滝だと聞かされていたけど、横に長く広がる湾曲した絶壁から幾つもの滝が流れ落ちる様は見事で、連なって並んでいる幾筋もの細い滝が、なるほど「白糸の滝」だと感激した。
いま眼前の小さな滝は、規模では、それとは比ぶべくもないけれど、離れた展望テラスから眺めたものと、こうして滝壺まで入って見上げた迫力もまた比類ない。
滝の上に沢が続いていて、その両サイドが三、四メートルの段差の崖になって深い渓谷の様になっているのが、下からも見える。
滝の上の山深さに、もっと違う景色が観れるのかもしれない。どうにか上に行けないかと辺りを見回すと、左側から滝を巻くような道が見えた。登山道と言うより獣道に近そうだ。早坂に教えようと声を掛ける。
「早坂」
声を掛けるのに振り返った時に、逆光の崖の上に人影を見た。
早坂が僕を見る。しかし、視線が合わない。
目を見開いている僕に気付き、僕の視線の先を追って崖の方を向く。
人が落ちた。落とされた。
「きゃっ」と、早坂が短く悲鳴を上げた。慌てて口を手で塞いで、そのまま腰から崩れ落ちて滝つぼに腰まで浸かった。
僕は息を飲んだ。早坂の悲鳴は滝の轟音にかきけされただろう。
気配を察したのか、崖の上の人物がこちらを見た。見られた。
崖の上から、人影がさっと姿を消した。僕らに見られて逃げたのか、いや違う、そうではない、こっちに来るんだ「まずい」そう直感した。
呆然としている早坂に飛び付く。肩を掴んで揺する。早坂の肩も、僕の手も震えている。
「だいじょうぶか。やばいよ、見られたんだ」
「えっ」
「立って、逃げるよ」
「えっ」
「ほら、早く」
早坂の手を引いて、沢づたいに走る。とにかく、振り返らずに走る。
さっき、早坂の悲鳴と一緒に、もう一人悲鳴が聞こえた気がした。
「うわー」とか、男のような、女の声だったような。滝の音が大きかったので気のせいかもしれない。とにかく、見ては不味いものを目撃してしまったのだ、と理解した。
砂利と小さな岩の河原を走って行く。心臓がバクバクして、砂利に足を取られるけど、それでも走った。
恐くて、不安で、周りの景色が急に暗くなったように感じた。現実感の無い薄暗い景色の中を必死に走り、恐怖だけがリアルに迫ってくる。繋いだ手の先で、躓きそうになりながらも必死に付いて来る早坂に振り返ると、ずっと後ろに人影が見えた。目を凝らして確かめて見るのが恐くて、前に向き直った。
特撮映画の世界にでも入った様な、灰色の雲が広がる異様な暗さに飲み込まれていきそうだ。それもその筈で、実際に辺りがどんよりと暗くなり、急に雨が降り出した。
早坂が足を止めて「もう、なんで」と、誰に向けてか分からない質問をして、雨を避ける術もなくへたり込んだ。
「なんで逃げてるの」早坂が顔を歪めて、机を叩く様に両腕を振り下ろす。「もうやだ!」
パニックだった。まだ追って来ているかどうか、わからない。ここは何処か、わからない。服が雨を吸って肌に張り付いていく。
どうしたものかと、ここは何処かと、オロオロ辺りを見渡すと、河原から斜面を上がった所に、小さな小屋が見えた。建物があるという事は、登山道に戻れるのかもしれない。
早坂の肩を掴んで揺すり「あの小屋まで行こう」
早坂は、震える足で立ち上がりながら、小さく何度も頷いた。
道のない斜面をよじ登るように上がる。濡れた靴に土が纏わり付く。靴下を滝の所に置いて来てしまった事に気づいた。
斜面を登りきると登山道に出た。その脇に、倉庫の様な木造の小屋があった。
安堵して、足の力が抜けて腰から落ちそうになる。何が解決した訳でもないのだけれど。
小屋の入口のドアを開けようと、ガチャガチャとノブを揺らす手が震えている。鍵が掛かっている。
早坂に振り返り、ダメだ開かない、と伝える。すると、ドアに飛びついてガタガタと揺らす。二人で押してみるけれど、当たり前だがビクともしない。
「もう、なんでよ」早坂が唸るように呟く。
小屋の軒下に入って濡れなくなったけれど、雨が勢いよく降り続ける。急かすように雨音がバタバタと跳ねる。
岩の転がる河原を闇雲に走っていた時よりは、幾らかましだけれど、恐怖と不安は消えない。あの人が今にも追いついて来るのでは。この雨の中を走って逃げる体力はもうない。
小屋の横に周って見ると、小窓があった。子供ならば何とか通れる大きさだが、窓を乗り越えるには少しばかり高い。
辺りを探すと、丸太を切った椅子の様なものがあった。茂みの中を転がして運び台にした。
小窓は、換気の為か少し空いていたけれど、網戸が固定されていて動かない。思わず、窓の横の壁を叩いて音を出してしまう。
ハッとして、辺りを見渡し、思い出したように緊迫感が戻ってくる。
網戸を掴んで、思い切り引っ張ると、枠ごと撓んで思いの外に簡単に外れた。
窓を開けて中を除くと、テーブルの様な台があって、中に入る事が出来そうだ。
振り返って縋る様に見上げている早坂に頷く。胸の前で重ねた手をぎゅっと強く握り小さく頷き返した。
先に窓へ這うようにして小屋の中に入り込み、頭から乗り越えて来る早坂を台の上で受け止める。台を降りて床に座り込むと、息を切らしたまま、呆然とする。
あちこち泥がついて、全身ずぶ濡れの服から伝って、土埃の積もったコンクリートの床を濡らしていく。
「ねえ、人が落ちたよね」早坂が、力なく口を開いた。
「…うん」
二人で確かめ合うように頷いた。
「落とされたの?私、落ちたところしか見てないよ、でも、上にも人がいたのは見た。伊原は落としたところ見たの?」早坂の語尾が少し強くなる。
「…うん」
「私たち見ちゃったから…追いかけられてるの?」
「た、たぶん」
「たぶんって、逃げる必要なかったんじゃないの?」
どう答えていいか分からずに黙った。あれは間違いなく追って来ていた。あれを見ていない早坂にどこまで話せばいいのか分からなかった。ここに隠れていればやり過ごせるなら知らない方がいいとも思った。
「とにかく逃げなくちゃと思ったんだ」
「落としたって人はよく見えなかったけど、落ちたのって、子供だったよね」
ドキッとした。さっきのシーンが蘇る。そこは早坂も見ていたのかと溜息も出る。
「どうかな、子供にも見えたけど、一瞬だったから」
そう答えはしたけど嘘だった。崖の上から子供が突き落とされたのをはっきりと見ていた。服の色も覚えている。落とした人物の顔も。
「子供って、うちの学校の生徒じゃないよね、違うよね」そう言った早坂の頬を、大粒の涙がボロボロと流れた。
「これからどうするの?」と、泣きだす早坂を制して、人差し指を立てて、声を殺して言う。
「シッ、静かに」
小屋の外で雨音に混じって、茂みを掻き分けて進む様な音がした気がした。
緊張が走り、心臓がバクバクと高鳴る。血の気が引いていくのを感じた。
確かに人の気配がした。小窓は閉めて中から鍵をかけてあるし、入口のドアも施錠されているので、そうは見付かる事はないと思えたけれど、恐くて、奥の棚の隅に並んで身を屈めた。
濡れた服から震えが伝わってくる。叩きつける様な雨の音が響く中、突き落とした男の顔が、鮮明に浮かんだ。
扉を叩く音で目覚めた。
視界が戻っていくと恐怖が蘇り、震えが全身を走った。驚きと恐怖のあまりに、息を飲み込んで喉が絞まる。
ドアノブを、ガタガタと乱雑に揺らす音が、今にも侵入して来そうで恐い。
迫ってくる恐怖に耐えれず、早坂真紀が「キャー」っと、悲鳴を上げた。
「誰かいるの?」
ドアの向こうから声がした。扉を揺らしながら叫んできた。
その声に反応して、早坂が「イヤー」と、頭を抱えて泣き叫ぶ。甲高い声が頭に突き刺さる。心臓がもう限界というほど大きな音を立てる。小屋の外まで聞こえてしまって、見付かってしまうと思って胸を強く押さえる。
「誰かいるのね、伊原君と早坂さんよね、そうでしょ」
聞き覚えのある声に、自分の名前を呼ばれて緊張がほぐれた。
「早坂さん、伊原君、いるんでしょう」
もう一度、力強い女性の声が名前を呼ぶ。
早坂が立ち上がる。ふら付きながら、入口に向かって歩いていく。
「せんせー、せんせー」
「早坂さん、早坂さんなのね、伊原君はいるの?」先生の声が扉を叩く。
「ぜんぜ、ぜんぜえ」
扉の向こう側の人の声が増えている。
「鍵借りてきた」と、男の声がした。
「早坂さん、いま開けるからね」
ガチャガチャと音がして扉が開くと、光が流れ込んできた。眩しさに一瞬目を閉じる。暗闇を光が侵略していくのが見える。
光の先に、担任の横山先生が、泣きじゃくる早坂を抱きしめている。
その後ろから、他の先生が光を遮って入ってきた。
六坪程度の小屋でも、奥にある棚の下段にまでは充分な光が入らない。その先生は、僕をすぐに見つける事が出来ない。いま動かなくては。
暗闇から見る光と、光から見る暗闇は違う。
僕は動こうとするけど、恐怖でうまく動けない。ほの暗い中で微かに動いた僕を見付けて、その先生が少したじろいだのに、僕は恐怖で喉が張り付いて声を出す事も出来ない。
呆然と見上げる僕に手が伸びてくる。その手は僕の喉をがっしりと掴んで締め上げた。
苦しくて悶えるけれど、身体を押さえつけられ、声も出ない。
「余計な事は言うんじゃないぞ、分かるな」
金子先生が、突き刺す様な低い声で囁き、凍るような冷たい目で威圧する。
絞められた手が緩められ、急に空気が入ってきて「かはっかはっ」と、むせ返る。
「大丈夫か、しっかりしろ、いたぞー」
金子先生が別人のような声を上げ、振り返って入口の横山先生に知らせ、締め上げていたその手で抱き起こす。
あの崖から、人を突き落としたこの男の後ろで、横山先生にしがみつく早坂が、癇けを起こすように泣いているのが見えた。
廊下の窓に雨が激しく打ち付ける。雨粒の大きさが鮮明に見て取れるほどだ。環境に優しいと、張り替えられたマーモリウムの床を歩く音も、激しい雨音が掻き消してしまう。
「本当に良く降るな」と、横山佳織は窓の外に目をやり、鬱々としたため息を落とし、保健室へ続く廊下を歩いていく。
まったく色々な事が起きた日だ。去年、浜松の小学校から天竜のこの学校に赴任してから、これほどの事が起きた事はなかった。そもそも今日は、しとしとと続く春の長雨の合間に、運よく晴れて、中止することなく校外学習を決行できて良かったと思っていたのにと、また一つ、ため息をマーモリウムの床に落として保健室の扉をがらがらと開ける。消毒液の匂いが広がる。カーテンで仕切られたベッドの横の椅子に腰を下ろし、静かに眠る伊原直樹を見つめる。なんだか、どこか大人びた子供だと思っていたけれど、どうして、子供らしい寝顔ですやすや眠っている。
転校して来てからそれほど経っていないのに、クラスにも馴染んで見えていた。見えていたと言うのはどこか一線引いている様で、流石にまだ遠慮があるのだろうかと、気にしていたけれど、良くも悪くも、それがこの子の対人術と言うか、接し方なのだろうと思い至っていたところだった。
カーテンで仕切られたこの場所でも雨音が聞こえるけれど、先ほどよりは少し弱まっただろうか。
雨に濡れ土埃にまみれて震えていた伊原直樹を思い出す。公園の管理小屋で見付けた時には、身体が冷え寒さに震えて、怯えていた。手足に数か所、大した傷ではない擦り傷があった。いったい何があったのだろうか。一緒にいた早坂真紀は大泣きしていて儘ならず、伊原直樹は多く語らずに、ただ、追いかけられて逃げた。と言っていた。この状態の子供たちに訊問する訳にもいかず、病院に迎えにきた早坂真紀の母親には、納得して貰う説明が出来なくて激怒されて、ひたすら頭を下げた。
申し訳ない気持ちはもちろんあったけれど、深く頭を下げた時に目に入った早坂真紀の母親の靴が気になった。私でも知っている高級ブランドの靴で、おそらく高価だろうそれがエナメル独特の光沢を放ち、ブランドのロゴを象った飾り金具が揺れていた。
外出先から病院へ来て頂いたのだろうけれど、この雨の日には不釣り合いに思えた。
自分の靴が見える。簡易防水のアウトドアシューズにつま先から泥汚れが付いている。病院の入口でしっかり落としたつもりだったのに。向かい合う綺麗な靴を見て、自分の靴に目をやると、まるで自分の靴の方が異質に思えてくるほど頭を下げた。
伊原直樹の親御さんには連絡が付かなかった。大した怪我も無いので取り敢えず学校に連れて戻る事になった。病院にそのまま居させたくなかったのが本音だ。同じ班の司村蓮と金子曜一朗も運ばれて来ていたからだ。
「本当に、いったい何があったのよ」佳織が静かに寝息をたてる伊原直樹に向かって零す。雨はまだ止まない。今日中は降らずに持つ筈だったのに、結局、自然公園からずっと降り続けている。
いったい何が原因で起きた事故なのか、病院に入院する事になった司村蓮と金子曜一朗は意識が戻らないままだ。病院に残った先生方に比べれば、学校に戻ってきた佳織はまだましな方かもしれない。事後処理や、保護者への説明、責任問題。降り続く雨音が鬱々とした気分を増幅させる。
自然公園での自由時間が終わる前に雨が降り出したので、予定の時間より前に広場に集合することになった。
集合できたクラスからビジターセンターの建物へ入って行くのだけれど、佳織のクラスだけが全員揃わなかった。
班ごとに点呼を取って報告する形だ。もちろん教師が確認もする。一つの斑が四名全員いない。
「司村蓮、金子曜一朗」
居ないのは確認しているけれど、大きい声で名前を呼ぶ。返事はない。
「早坂真紀っ、いないのー」
「伊原、伊原直樹ぃ」
佳織の声だけが響く。
雨に備えて用意していた雨具を、みんな着ている、今はまだ本降りとまでは振っていないけれど、不在の4人を残して先にビジターセンターへと入らせた。
「まったくあの子たちはあ」「どこで遊んでるのよう」などとぼやいていたけれど、小川の広場の方に行っていた金子先生が、司村と曜一朗のリュックを持ってきて戻ってきたので事態が変わった。
「小川の広場にゴミとか忘れ物とか無いかと見廻ってたんですが、東屋の所に置いてあるのを見つけました。荷物を置いて遊んでいるのかなと、周囲を探しましたけれど見当たりませんでした。こっちには戻っていませんか?」
息を荒げて、金子先生が早口で報告する。
「いえ、まだ、です」
佳織はそう答えながらも、瞬時には状況を飲み込めなかった。走って来たのか、息が上がって報告する金子先生には必死さが、緊迫感があった。荷物が置いてあっただけで只事では無いと判断したのだろうか。佳織ならば、荷物忘れて集合してしまったか、時間を忘れてまだ遊んでいるとか、きっと、どこかで雨宿りでもしているのだろうと、考えてしまう。三年ほど先輩の金子先生との経験の差なのだろうかと、未熟さを感じて下を向きそうになる。
「それ、まずいんじゃない。他は、全員揃ったの?」ビジターセンターに生徒を誘導していた、五年二組担任の飯田先生がちょうど様子を見に戻ってきた。
「いえ、同じ班の生徒があと2人戻ってません」佳織が顔を顰めて報告する。さも、神妙に。
「まずいな、それ」飯田先生が、皺の多い顔の口元を大きく歪める。「山の方に行かれたら厄介だぞ」
「僕はもう一度川の方を探してきます。川向こうに行ったかもしれないので、何かあったら連絡します」金子が少し大きめの声で主張した。
「いや、何も無くても連絡してください」と、強く言う飯田に返事をして、金子が勢いよく川の方に走って行った。
「横山先生は登山道の方に行ってみて下さい。私も他の先生に報告してから追いかけますから」
「はい、分かりました」
佳織も返事をして広場を後にするけれど、金子の様に勢いよく出て行けなかった。まだ、どこかで遊んでるだけでは無いのか、この公園で、慌てて飛び出して行く様な事態など起こるだろうかと、半分は願望もあったけど、半分は想像ができなかった。
きっと、どこかで雨宿りでもしているのだろう。まだそう考えてしまう。どうか、雨宿りをしていてと、願う。
雨はすっかり本降りで、大粒の雨が雨具の上から容赦なく叩いてくる。
早足に五分も歩くと携帯電話が鳴った。不意な機械的な着信音に咄嗟に身震いしてしまい、自分が緊張していたのだと気付く。見つかったのただろうかと足を止めて電話に出た。
「はい、横山です」出るや否や飯田先生の力強い声が飛び込んできた。
「横山先生、至急、ビジターセンターに戻って下さい」
「え」間の抜けた返事をしてしまった。
「司村と金子が見つかりました」
「え、本当ですか、良かった」安堵の息を漏らすのを遮って飯田が続けた。
「川に倒れているのを登山客が見付けてくれたようです。今、救急隊が来るので先生も至急戻って下さい」
普段はあまり見せない、飯田の強い言葉に、安心できる状況でないのだと理解させられるが「救急隊」という、普段は口にすることのない言葉にたじろいでしまう。
「他の先生は生徒たちと学校に帰しますから、こちらに戻って下さい」
飯田が少し急いで伝える。
「わかりました」
出来る限り、はっきりと答えたけれど、雨音で掻き消されたのでは無いかと思うほどに雨脚は強くなった。佳織は踵を返して、地面を跳ねる大きな雨粒を蹴り分けて急いだ。
ビジターセンターに戻ると丁度、回転灯を光らせて救急車と消防車が連なって到着した所だった。
自然公園の職員と教務主任の先生が、隊員たちの対応していた所を、少し下がって聞いていた。と言うよりも見ていた。
真っ赤なボディーに、特別救助隊と白文字で書かれた救助工作車から、オレンジを纏った救助隊員が降りてくる。水色を着てヘルメットを被った救急隊員が準備を始める。日常であまり見る事のない光景の中、何が起きているのだという不安と、この現状を変えてくれるのではという期待感が入り混じる。手際よく動いていく隊員たちを眺めていてると、期待の方が強くなる。この雨すら止むのではと、勝手な望みを込めて見つめてしまう。その傍観に気付き、何かしなければと教務主任の元へ踏み出そうとした時、飯田に声をかけられた。
「救急隊と入れ違いで、生徒たちは学校に戻りましたよ。先生のクラスも四人以外は全員戻りました」
四人は戻れていない事実が圧し掛かるが、顔を上げる。
「ありがとうございます」そこまではっきり答えることが出来たが、続きは声色がくすんでしまう。
「何が起きたんでしょうか、司村君達はどうなっているんでしょうか」隠そうとしたけれど、声が震えた。
「横山先生、まあ、落ち着いて」と、飯田に諭される。電話とは違う穏やかな語り口だけれど、表情は固い。佳織の目を見て小さく頷いて続けた。
「電話で言った通り、司村と金子が川で倒れているのを登山客が見付けてくれてビジターセンターに通報してくれたんです。どういう状態かは分かりませんけど、登山客の方が今も付いていてくれていて、救急隊を待っている所だそうです。登山客の方が付いていてくれているって事は、意識はあるんじゃないでしょうか、いや、分からないけど」
―意識があるんじゃー。飯田の言葉にハッとする。意識が無いことなんてあるのか、ただの迷子では無いのか、初めて実感した生徒たちの生命の危機に、悲鳴を上げそうになり、両手で顔を覆い、呟いた。
「どうして、そんな事に」
「どうやら滝の方に行ったらしい。山の中だと搬送も難しくなるでしょうね」
かつて従弟の友人が亡くなった痛ましい出来事が頭を過り、佳織は飯田の話を聞いて居なかった訳ではないが、集中できてなかった。
「先生、横山先生」
「あ、はい。滝ですね、滝」
飯田が小さく息を吐く。「しっかりして下さい。子供たちはきっと頑張っているから、先生もしっかりして」そ叱責する飯田の声は優しかった。
佳織は息を飲み込んで「はい」と返事をする。
「おそらくだけど、四人で一緒に行動していたと思う。見つかっていない二人も司村達の近くに居るはずだから、きっと見つかりますよ」
その可能性は高いけれど、飯田らしくない楽観的とも思える意見は、佳織を励ますためだろうと分かった。飯田の配慮に有難いと思う半面、自分が情けなく思えて、垂らした手を強く握る。けれども、従弟の友人が幼い命の火を消した出来事が、どうしても頭を過る。そういえばあの子も、小学五年生だった。
救急隊が移動しだして、続いて警察が到着していた。
「あとの二人も山の中にいるとしたら、捜索隊も出して貰う必要あるなあ。我々にも出来る事があるかもしれない、指示を仰ぎましょう」
促されて、警察官と話をしている教務主任の元へ歩き出した。
雨を避けて、ビジターセンター入口の庇のある場所へ移動し、警察官にいろいろ訊かれた。今日一日の行動と、最後に生徒たちを見た時の事を、なるべく細かく伝えた。今は、強い雨音の横で、飯田が話をしている。
今、救助隊が向かっているが、通常だと五十分程掛かる場所なので、訓練された隊員ならばそこまで掛からないとしても、到着にはもうしばらく時間が掛かるだろうと言う。登山者に発見されてから、通報を受けて十分程で救急隊が到着したらしい。五分もしないで救助に向かって行ってから10分経ったぐらいだろう。救助隊が55分の道をどのくらいで行けるのか分からないけど、流石にあと二、三十分は掛かるのではないだろうか。
司村と金子が水辺の公園で弁当を食べていたのは、多くの生徒が目撃している。公園の東屋にリュックサックが置いてあったので間違いないだろう。十一時三十分に広場で解散して昼食と自由時間に入った。広場から水辺の公園へ移動しても五分。弁当を食べても十二時頃には行動しだしただろう。登山用のマップを見ると、発見された滝の上までは五十分掛かる、寄り道していればもう少し遅いだろうけれど、遠くまで行くつもりだったのならば急いだだろう。十二時五十分には滝の上に着いただろう
滝で何があったのか分からないけど、通報が十四時八分と聞いたので、七十八分の間に何かがあった事になる。甘く考えて、通報直前に起きたとしても、もうすでに二十五分、更に後三十分として、五十五分。少なくとも55分。最低でも一時間近く雨に晒されている事になる。最悪だと更に七十八分だ。
思わず庇の外にでると、大粒の雨が容赦なく体を打ち付けてくる。救急隊が一刻も早く到着出来る事を願う。かつて起きた、突然の喪失感、悲しみに憤りが蘇り、目頭が熱くなる。後の二人、伊原直樹と早坂真紀は大丈夫だろうか、どこかで雨宿りしていてくれればいいのだけれど、と、もはや祈る。雨が勢いよく叩きつけ、ひとすじと共に佳織の頬を伝い流れる。
雨音を切り裂く様に携帯電話が鳴った。庇の下に戻り電話を受けると、金子先生が雨音に負けない様に大き目の声で喋ってきた。
「公園の管理小屋の中に居るようなんです。足跡があって、中に入った形跡があるんですけど、鍵が掛かってて入れなくて、呼びかけても返事がないんです。中に入ってみない事には分からないんですが、この小屋の鍵を借りる事できませんかね」
居るかもしれない、そう耳に入ってきた時に心臓がドクンと跳ね上がって電話を落としそうになった。
「小屋ですか、どこの、どこの小屋ですか?」
声が大きくなって、数メートル先の警察官と飯田がこちらに振り向いた。けたたましく地面を叩いていた雨音が消えて、電話の金子先生の声がクリアに耳に届いてくる。
「分かりました、直ぐに向かいます」
生徒が見つかった。正確には見付けたと思う、との事だけれど、状況が悪化しかしていない所に十分過ぎるほどの情報だった。興奮していた。何かあったのではと、様子を窺っている飯田の元へ駆け寄る。
佳織の慌てた顔をみて「どうしました」と、飯田も真顔で構える。
「登山道にある小屋の中に子供が居る様子だそうです」
「おおっ」飯田と警察官が思わず声を漏らす。
「ただ、鍵が掛かっているので借りれないかと、金子先生が」
「じゃあ、早速、ビジターセンターで借りてきます」
飯田が見た目よりも軽やかに動き出そうと身体を揺らしたところで止まる。
「鍵が掛かってて、子供が中に居るって事は、自分たちが閉めたんだよね。鍵。中から鍵を開ける事は出来ないのかな」
飯田が眉間に皺を寄せて、ぼそぼそと呟く。
「いやいや、とにかく借りてこよう。開ける事の出来ないような状態かもしれないし」
思わず嫌な想像をするけれど刹那に掻き消し「はい、お願いします」と、極力はっきりと返事をした。
「小屋っていうのは何処の」と、飯田が訊きかけたけれど、そわそわしている佳織を見て「まあいいか、幾つもないだろう、全部借りてこよう。先生は先に行って下さい。横山先生が行ったら、中から開けてくれるかも知れないし」
佳織の顔が明るくなる。
「はい。すぐに行きます」と、返事をしながら向きを変えて、飯田とお互い動き出しながら離れていく。「慌てないで、気を付けて下さいよ」と、飯田の声が追ってきた。
雨を受けながら金子先生の説明を思い出して登山道をつり橋の方へ向かう。
確かに飯田が言った通り、子供たちが中に居るのなら中から開けて貰えばいい。それが出来ない方がおかしい。そもそも、中には誰が居るのだろうか、伊原直樹と早坂真紀、二人とも居てくれれば良いけれど、もし、一人だけだったら、まだ行方が分からない生徒がいる事になる。
救助隊の方はもう到着しただろうか、司村蓮と金子曜一朗は大丈夫だろうか、おそらく、連絡がくるのはまだ後になるだろう。
明るい情報に期待して歩き出したのに、足取りが重くなる。こんな時は雨がきつく当たってくるかと思えば、いつの間にか小雨になってきていた。
「大丈夫、きっと大丈夫」
頭の中で言い聞かせる様に反芻したつもりが声に出ていて、そのか細く震えた声に驚く。とても自分が発した声とは思えなかった。
足を止める。震えてどうする、しっかりしろ、と、自分を戒める。それこそ今も子供たちはどこかで震えているだろう。一度眼を強く瞑り、息を吐いて歩き出す。
雨は小降りになったけれど、水浸しになった道を水を跳ねて歩く。
早坂真紀が迷い、雨に濡れ、不安で震えて助けを待っているのが想像出来てしまい、奥歯を強く噛んだ。けれど、伊原直樹が震えている姿が想像出来ない。何処か飄々としている彼は、小雨になったこの空に気付いて、雨宿りしていた何処かから、そろそろとひょっこり出て来るのではないか、と思ってしまう。このどうしようもない無責任な考えだけれど、そう祈らずにはいられない。
登山道に入り、いっそう泥濘の道を泥を跳ねて急いだ。
登山道と沢が沿うようになった辺りに、樹々に隠されて木造の小屋があった。
トタン屋根に板張りの外壁といった割に、不釣り合いな程の重厚な木製の扉がある。雨はほとんど止んでいたけれど、その扉のポーチの庇の下に金子先生がいた。佳織を認めた金子が呼ぶ。
「横山先生、こっちです」金子が手を挙げる。
「今、鍵を借りに行って貰っています」息を整えて「どうですか、中から返事は?」
「いや、ありません」
「でも、よく、この中に居るのが分かりましたね、今も、声を掛けられなかったら見落としていました」
新緑の樹々の枝葉が小屋を囲う様に張り出していて、登山道からだと見えにくかった。それに、小屋を見付けたとしても、何故、この小屋の中に居ると思ったのだろうか、中から返事もないのに。まさか、金子の早とちりではと、想い至り嫌な汗が出る。
「僕は沢の方から来たので小屋が見えました。雨宿りでもしていればと思ったんです。もう雨でほとんど流れてしまいましたけど、入口のコンクリートの辺りが土で汚れてたので、中に居るのかとドアを開けようとしたら鍵が掛かってました」
「じゃあ、何とも言えないですね、居ないかもしれない」佳織の語尾が強くなる。
「いえ、でも、こっち来てください」
金子が建物の脇に周って行く、コンクリートの三和土を付いて進む。確かに所々に土の汚れがあるけれど、もう雨で流れたのだろうか、足跡には見えない。ただの汚れだ。小屋の横に周り、茂った草と建物の間に入っていく。
「見てください、あの小窓、子供なら入れそうです」
少し高い位置に明り取りなのか、換気なのか、台所にあるような小さな窓がある。確かに子供ならば入れそうではあるけど、とても届きそうにない。
「流石に無理じゃ」と、言いかけた佳織の言葉を遮って金子が続ける。
「これを使ったんじゃないかな」
金子が横になって転がっている短い丸太を起こす。一メートル程の物と、それより少し短い丸太を窓の下に立てかける。ちょうど段になって踏み台にして入るには具合が良い。けれど、それでも窓まで届くだろうか、大人ならば手を伸ばせ届く高さだけれど、早坂真紀が丸太の上で高窓に手を伸ばし、よじ登って行く姿を想像しようとするけれど、上手く行かない。あの子は身長何センチだったろうかと思考を巡らしていると、金子が草むらの中から木の枠の様な物を見付けた。
「これ、網戸じゃないですか、外したんですよ、入る為に」
小屋に着いてから、金子と合流したのもあって、ほんの少し落ち着きを取り戻していたけれど、焦りからか、心臓が高く脈打つ。
金子が掲げたそれは、片側は汚れて劣化しているけれど、反対面は屋内側にあった為かそれほどの劣化がない。
「ほら、この大きさ間違いないですよ」金子が網戸を窓の下で合わせる様に掲げて、確信したような昂った声を上げる。壁際に立ち、下から手を伸ばして窓を開けようとする。
「ダメだ、鍵が掛かっています」
金子が溜息を落として、壁を軽く叩いた。
中で「ガタン」と音がした。いや、金子が鳴らした音かもしれない。きっとそうだ。しかし、血液が一気に流れ出し、激しくなった鼓動が突き動かした様に、音がした瞬間に入口の扉へと駆けていた。
重厚な木製のドアを叩く。激しく叩く。
ドアノブを、ガタガタと乱雑に揺らす。
「キャー」
悲鳴が、背中をぞくりと走り抜ける。驚きと、安堵も少しあっただろうか、血液が身体中を激しく巡る。胃が締め付けられる。中の物を吐き出してしまいたい。
「誰かいるの?」
極力落ち着かせて声を出すつもりだったけれど、箍が外れて、叫んでいた。
ドアノブを掴んで扉を揺らす。重たい扉は開かないけれど、ガタガタと音を立てる。
「イヤー」
少女の悲鳴だ。間違いない。
「誰かいるのね、伊原君と早坂さんよね、そうでしょ」
重たい扉越に声を掛ける。
「せんせー、せんせー」
間違いない。早坂真紀の泣き声が聞こえた。
「早坂さん?早坂さんなのね、伊原君はいるの?」
扉を叩いて、早坂真紀に聞こえる様に大声で続ける。
「ぜんぜ、ぜんぜえ」
早坂真紀の声が近い、扉の前に居るのだ。早坂の恐怖が扉越しに伝わる。激しい雨の中、戻れずに、不安で恐かったのだろう。自分の不甲斐なさと、安堵が複雑に混ざって込み上げてくる。震えてしゃくり泣く早坂真紀が改めて愛しいと感じる。
中から鍵を開けれないかと声を掛けるけれど、泣きじゃくる彼女には上手く伝わらない。
「鍵借りてきたぞ」
駆け付けて来た、飯田の声が飛んで来る。「見付かったか」と、息を荒くする飯田が救世主の様に頼もしく感じた。
「早坂さん、いま開けるからね」
焦って鍵が上手く鍵穴に入らないでガチャガチャと慌ただしく音を立ててしまう。重く閉ざされていた扉が、存外軽く開き、小屋の中に光が流れ込んで行く。
早坂真紀が体当たりの勢いで駆け寄り、抱き付いて来る。膝を付いて受け止めて抱きしめる。良かった。心の底から湧き出た。
小屋の奥の暗闇を光が侵略していくのが見える。奥の方に目を向けるけれど良く見えない。光から見る暗闇は闇でしかない。
入口で早坂真紀を抱きしめている佳織の横をすり抜けて、室内に入っていった金子が声を上げた。
「いたぞー」
その声を耳にして、早坂真紀の頭を撫でつける手が、だらりと落ちるほど力が抜けた。その場の空気を安堵が包む。
金子が、伊原直樹を抱えて出てくる。
「伊原くん」
声を掛けるけれど返事がない。怯える様に震えている。目の焦点が合っていない様に見える。
いつも飄々としていた伊原直樹の姿とは思えなかった。震えているのは雨に濡れて冷えたからなのだろうか、恐かっただろうし、不安だっただろうけれど、道に迷っただけでこんなに怯えるだろうか、雨宿りする屋根もあって、友達とも一緒で不安も軽減出来たはずだし、ドアを開けておけば明かりも入って来る。そもそも何故、鍵を閉めていたのだろう。
抱えられて行く伊原直樹を追って、立ち上がり早坂真紀の肩を抱いて外に出る。まるで隠れていたみたいじゃないか。
小さくがぶりを振ってこみ上げた思考を打ち消す。早坂真紀の肩を撫でる。まだ涙は止まらないようだけれど、少しは落ち着いたようだ。伊原直樹も自分の足で立った。
「いったい何がー」
ポツリと、コンクリートの三和土に雨粒が落ちると、ポツポツと繰り返し、また雨が降り出した。
(了)