名無しの権兵衛
縁の割れた水瓶から竹筒に水を入れ男に渡すと男はクンクン匂いを嗅いでから口にした。
「まずい」
「はいはい。ところであんた名前は?ヘビ太郎?」
「なんだその安易な名前は」
「いや名前がわからないと呼びにくいなと思って。私は音惟」
「ふーん。僕は、僕の名前は」
そう言ってから男は止まった。ぽかんとした表情で固まっている。
「名前は?」
「名前、名前、僕の名前」
それから頭を抱えておいおい泣き始めた。
「名前、僕の名前思い出せない。神様が付けてくれた大切な名前なのに」
「名無しの権兵衛」
ぼそりと音惟が呟けば男はさらに大きな声で泣き始める。
「ああ、もうちょっとうるさいわね。泣き止みなさいよ」
「……ひっく、お、おまえのせいだ」
しゃくり上げながらも訴える男に音惟は困ったように肩を竦める。
「悪かったわね。あんなことになるなんて思わなかったのよ」
「罰として僕の名前を考えろ」
ゴシゴシと目を擦りながら傲慢に男は言い放つ。そんなことを言われてもと音惟は思い浮かんだ名前を口にする。
「ごんべ……」
「却下」
終いまで言う前に却下された。
「きちんと考えてつけろよ。この世での仮の名だが僕に相応しいものじゃなきゃいけないからな」
「え、面ど……」
桃色の目がギロリと睨むので皆まで言えなかった。
(白蛇、にょろ、ぬめ、ちょろ……)
音惟は頭の中で考え始める。ろくな名前が出てきやしない。
「変な名前考えてないだろうな」
頭の中を見透かされ、音惟は苦笑いした。そしてもう一度考える。暫く考え込んでから。
「ミシロ……ミシロはどう?」
安易な気もするが悪くない、白蛇だし、と音惟が男の目をのぞき込めば頬が桃色に染まった。
「悪くない」
小さな声でそう言うとミシロはもう一度その名を呟いた。
「さて、と。することもないし寝ましょ。あんたその布団使っていいわ。私そこらで雑魚寝するから」
せんべい布団を指し示すとミシロは不思議そうな顔をした。
「おまえも一緒に寝ればいいじゃないか」
「何言って」
顔を真っ赤にし俯いた音惟をミシロは不思議そうに見る。
「指の数より多く男と寝たにしては初心な反応だな」
「うるさいっ!さっさと寝ろ!」
音惟は立ち上がり部屋の隅に行き体を横たえた。ミシロはきょとんとした様子で一瞥したが気にすることなくせんべい布団に潜り込む。
「なあ、これ足が出るんだけど」
「贅沢言うな、寝ろ!」
仕方なくミシロは体を縮めてみるがヘビの姿と違ってそこまで小さくなれない。人間の体は不便なものだと思いながら目を閉じる。
「……おやすみ」
音惟の小さな声が聞こえ、それから小屋の中は静まりかえった。