コックのジトムィール②
ヴウークから銀色の針を受け取ったヤナは、自らのシャツからほつれさせた糸をポケットに入れて調理場に向かいました。
中ではジトムィールが夕食の準備をしているようで、入口からはごそごそと動く彼の背中が見えます。
きっと、そこではヤナに見せたくない光景があるのでしょう。
けれど、ヤナは足を踏み入れます。
それを見るべきだと思ったからです。
そして。
ぐちゃぐちゃに混ざった、野菜やお肉。
ろくに手もつけられずに放られたお魚。
無造作に潰れたケーキや砕けた焼き菓子。
捨てられた食べ物たち。
それらが、ジトムィールが真っ黒な包丁やフライパンを振るうたび見違えるように蘇っていくさまを、ヤナは見たのでした。
「ジトムィールさん」
ヤナの声にびくり! とジトムィールは体を強張らせます。
そしてまるで油の切れたカラクリ人形のようにゆっくりと振り向きました。
「お客人。あれほど来るなと言ったのに。……もう食事の準備は不要だな?」
「どうして!? 要る要る! 要るわ!」
「見たのではないのか? ゴミを食べたくはないだろうに」
「ゴミではないわ、ジトムィールさん。あなたが出してくれたご飯は、あなたが食べものにしてくれたものじゃない! わたし、美味しかったもの!」
ヤナは声を張り上げます。
捨てられた食べ物を見せないようにした優しさをヤナは感じていました。
その優しさが好きだ、と強く伝えたかったのです。
「今までここを見た人の客人はみな食べることを辞めてしまったというのに、お客人はそうしないのかね? 食材を暴くためでなければ、なぜここに来た?」
「あ、お料理をしているところを見なければと思ったことは本当なの。けれど、それとは別に用があるの。けれど……」
「けれど?」
ヤナの曖昧な言葉にジトムィールは疑問を投げかけます。
けれど。
「ご飯、食べてからで良いかしら?」
ぐうう。
やっぱりヤナは美味しそうなご飯を我慢できなかったのでした。
料理を邪魔してはいけないという気持ちがなかったわけではないのですけれど。
ー◇ー
「ごちそうさま! 美味しかったわ、ジトムィールさん!」
ご飯をお腹いっぱいに食べたヤナは、ヤロスラーヴと一緒に食器を持って調理場を訪れました。
もちろん、満開の笑顔をたずさえてです。
「ああ、わざわざありがとう。満足してくれたようで嬉しいよ」
ジトムィールも小さく笑っています。
それを見たヤロスラーヴも満足そうにニコニコしています。
「ジトムィールさん。わたしの用なのだけど、良いかしら」
「儂にできることなら何なりと」
「ありがとう。あのね、あなたのエプロンを貸してほしいの。傷んでしまっているのを直してあげたくて。この針、ヴウークにサビをとってもらったのよ」
ヤナは自分のエプロンから針と糸を取り出しながら言いました。
銀色に艶めく針は、見るものの目を引く美しさを備えています。
黒が満ちるこの城にあってはなおさらのことでしょう。
「お客人。なんで儂なんぞにそこまで……。儂はアンタにとって良いモノではなかったろうに」
「もうっ。ジトムィールさん、おかしいわ。ずっとあなたは自分を悪く言っているけれど、わたしはそう思わないの。だってあなたは優しいし、あなたのごはんはおいしいわ。ほんとよ?」
かぶりを振るジトムィールにヤナは少しむくれたように言いました。
そんなヤナの様子に、ジトムィールは苦笑しながらエプロンを脱いで渡します。
「お客人、ありがとう。よろしくお願いする」
「うふふ。よろしい!」
ヤナはエプロンを受け取りました。
そしてちょこんと丸座椅子に座ります。
「じゃあ、やるわね」
ヤナは膝にエプロンを乗せ、取れかかった肩紐に針を通し始めました。
ちくちく。ちくちく。
ヤロスラーヴとジトムィールが見守るなか、ヤナは慣れた手つきで縫っていきます。
危なげな様子もなく、ヤナはあっさりと肩紐を縫い付けました。
「うん! こんなものかしら」
糸の始末を行い、肩紐をくいくいと引っ張って取れないことを確認したヤナは満足そうに声を出します。
そしてヤナは他の部分を縫っていきました。
右上が取れかかったポケット。
ほつれてしまった縁取り。
小さく穴の空いた胸のあたり。
黒い炎に照らされるまま、エプロンに銀の針が通っていき、そして。
「できたわ! ジトムィールさん、どうぞ!」
ヤナが手渡したエプロンには、色あせた布地に真っ白な糸が輝いていたのでした。
ー◇ー
「こりゃすごい! 気を使わなくてもエプロンがずれないのがこんなに楽だとは!」
エプロンを着たジトムィールは大喜び。
興奮して体を揺すり、エプロンが外れたりしないことを確かめます。
「あはは! ジトムィール、踊ろうよ、ほら! とったらぽーう、ぽうぽう!」
「おおっと! こうかな?」
「そうそう! いい感じ!」
ヤロスラーヴもシンバルを鳴らしながら歌います。
二人は即興のダンスを踊り、楽しそう。
ヤナはそんな二人を見て、とても満ち足りた気持ちになりました。
ここにいれて嬉しい。
そんな想いが胸を満たしたのです。
ふっ、と。
ヤナは誰かの服を繕っていたことを思い出しました。
ろうそくの脂が燃える臭いのなか、さっきみたいに誰かのために何かを縫っていたのです。
その誰かは、ヤナの記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっていたけれど、きっと大事なひとだったに違いありません。
だってヤナは、とても温かい気持ちとともにそれを思い出したのですから。
「ほら、ヤナ! 君も踊ろうよ!」
「……ええ、踊りましょう!」
ヤナはかぶりを振って『思い出せないこと』を頭から追い出しました。そしてヤロスラーヴたちと一緒に踊り始めます。
まだ。
まだ、ヤナにとって一番大事だったはずのことはかけらも思い出せないまま。
黒の城の一角は、喜びと温かみに満ちていたのでした。