コックのジトムィール①
ヤナとヤロスラーヴがまず会いに行ったのはコックの姿をした白い犬のぬいぐるみ、ジトムィールでした。
背の高さはヤナの胸までくらい。後ろ足だけで立ち、肩紐が取れかかったエプロンを着ています。
さっきヤナが食べた料理を準備したのも、このジトムィールでした。
「新しいお客人、何の用だ。ここに来ても面白いことは何もないぞ」
調理場で挨拶をしたヤナとヤロスラーヴでしたが、返ってきたものはジトムィールの低く落ち着いた拒絶の声でした。
それにヤロスラーヴは異を唱えます。
「ねえ、ジトムィール。ヤナは違うんだ。ボクたちを捨てたりはしないよ」
「ヤロスラーヴ、お前はここに来て日が浅いからそう無邪気なのだろうが、人の客人はこの城に長くいないのだ。お前はいずれ、いなくなった客人を思って『捨てられた』と嘆くことだろう」
「なんてことを言うんだ! ヤナ、行こう。こんな分からず屋、紹介するんじゃなかったよ!」
ヤロスラーヴはぷりぷりと怒りながらキッチンを出ていきます。
「ヤロスラーヴ、ちょっと待ってて!」
ヤナは廊下に出たヤロスラーヴに向かって声を張り上げたあと、改めてジトムィールに向き直ります。
「ジトムィールさん、ごちそうありがとう! あんなに美味しいもの、初めて食べたわ」
ヤナはにっこりと笑います。それはまるで夏空の下に咲くひまわりの花のようでした。
「お客人、確かにあんたは他の人の客人とは違うようだ。だがそれなら尚のこと、この場所には来ない方が良い。美味い食事を食べたいならな」
「ここにいるとご飯がおいしくなくなってしまうというの? あなたはエプロンを擦り切れさせてしまうくらい仕事熱心なのに」
「あいにくエプロンがボロなのはこの城に来る前からでね。もしかしたら、そうなったからこの城に来たのかも知れないが」
ジトムィールはそう言って視線を下に落としました。
ヤナにはその様子がとても寂しそうに見えて、何も言えなくなってしまいます。
「お客人よ。ヤロスラーヴと仲が良いなら歌劇場にでも行くと良い。人に慣れた連中がいるはずだ」
黙ってしまったヤナに対し、ジトムィールが声をかけました。
それは最初とは、うって変わって優しい声でした。
「ありがとう。あの、ごきげんよう、ジトムィールさん」
ヤナはジトムィールの柔らかい声にそれ以上なにも言えず、お辞儀をして別れを告げます。
けれども、そのまぶたの裏にはボロボロになったエプロンが、強く強く焼きついていたのでした。
ー◇ー
「ふむ。それでわしのところに来たのか。何が望みかね」
ヤナの姿は城で一番大きな部屋、黒いもやの前にありました。
調理場を出たあと、すぐヤロスラーヴに案内してもらったのです。
「わたし、ジトムィールさんのエプロンを直してあげたいの。だからおうさま、針を貸していただけないかしら」
エプロンを直してあげたら、きっとジトムィールの『寂しい』はなくなるに違いない。
ヤナはそう考えたのでした。
「ふむ。針かね? 少し待っていなさい」
黒いもやはそう言うとじっとして、揺らぐのを止めてしまいました。
その姿をヤナは、まるで目を閉じて考え込んでいるようだな、と思いました。
そうしてしばらくの時間が経ったあと。
「針はいくつかあったが、これらの中で使えるものはあるかね?」
黒いもやはそう言うと、もやを枝分かれさせ、ずいっと細くヤナの前まで伸ばします。
そこには赤茶色に錆びた針が何本も乗っていました。
「おうさまありがとう。けれど、こんなに錆びてしまっていると針が布に通らないと思うの」
錆は針を覆っています。針の周りのとげとげは布を傷つけ、ほつれさせてしまうに違いありません。
「ふむ、そうかね。では新しい針が必要なのかね?」
「ええと、そうではないの。おうさま」
黒いもやの問いかけにヤナは首を横に振りました。そして、錆びた針をそっと手のひらに乗せて言うのです。
「わたし、この錆びた針が何故だかとってもかわいそうで。どうにか錆を取ることはできないかしら」
黒いもやはその言葉を聞くと、ぶるる、と体を震わせました。
もやは大きく乱れ、薄くなったところからはその奥にある壁が見えるほど。
けれど、もやはすぐにかたちを取り戻します。
「おうさま……?」
「鍛治師のヴウークに針を見せたまえ。きっとどうにかしてくれるだろう。場所はヤロスラーヴに案内してもらうように」
黒いもやは少し突き放すように答えます。
あるいはそれは、努めて冷静に振る舞おうとしたためだったからかもしれません。
けれど、ヤナはその冷たさにも似た様子を気にすることはありませんでした。
お願いごとを聞いてくれた喜びに溢れていたのです。
「ありがとう、おうさま! わたし、あなたのこと大好きだわ!」
ヤナはエプロンのポケットに針をしまい、目の前に伸びていたもやを両腕で包み込むように抱きつきます。
もやは黒く、冷たいものでしたが、ヤナの体をしっかりと受け止めて柔らかい感触を返しました。
「行ってきます、おうさま!」
ひとしきり抱きついたあと、ヤナは踊るような足取りで駆けて行きます。
あとには黒いもやだけが残されました。
「ごきげんよう、優しい望みを持つものよ。願わくば、お前の望みがみなの願いを叶えんことを」
黒いもやが分かれて伸びた先っぽ。
ヤナの抱きついていたそこだけが、あつく、あつく。じんじんと熱を帯びていたのでした。
ー◇ー
「ああコリャひどいねェ。芯まで錆びちまってらァ」
「どうかしら? 直せるかしら」
「そりゃもちろん! オレと王様の炎がありゃあ、お茶の子サイサイよ」
「さっすがヴウーク! 名職人!」
「おう、小リスのヤロスラーヴ、調子いいじゃねェか。良いことだ! わーはっはっは!」
ヤナたちの姿は離れの鍛冶場にありました。
黒い炎が燃え盛る炉の前で鍛治師のヴウークと会っていたのです。
ヴウークはヤロスラーヴより少し大きな体をした、狼の顔をしたぬいぐるみです。
右脇腹に大きく裂けたような破れがあり、ふわふわとした綿がこぼれていました。
「それじゃあ、いっちょやってみるかねェ!」
ヴウークは炉の前に立て掛けてあった黒い大鎚を右手に取りました。
そして、ヤナから左手で針を受け取り、黒い炎の炉に突き入れます。
すぐに針は真っ黒に染まりました。
それをヴウークが取り出し、金敷の上に寝かせます。
針に大鎚が振るわれるたび、針の周りにきらめく星が飛びました。
それは何度も繰り返されて、まるで夜空を流れる流星のよう。
そうしてたくさんの光がやみのとばりを取り払うと、キラキラと銀色に輝く針が現れたのでした。
「どうだい嬢ちゃん。出来は満足かい?」
「すごい! つるつるだわ、これならエプロンにもちゃんと針が通りそう。ヴウークありがとう!」
ヤナは針を撫でました。そこには一切錆がなく、引っかかる感触は欠片もありません。
「や、礼は王様に言ってくれやィ。俺みたいなのが鍛治師の真似事をできるのは王様のおかげでね。捨てられたものにお優しい方だよ。あの方は」
ヴウークは笑いながら言いました。
その言葉にヤナは思わず言葉が出てしまいます。
「あなたも捨てられたの?」
それは自然に出た言葉でした。
黒の城に来てから出会ったもの、全てがそうだと気づいていたからかも知れません。
「ヤナ、それは……」
「なァにを今更。この黒の城に捨てられたもの以外あるもんかい。俺たちみたいに王様に動けるようにしてもらった奴らだけじゃなく、この針だって、嬢ちゃんが食ったメシだって、ぜーんぶ誰かに捨てられたもんさァ」
ヤロスラーヴが話を止める間もなく、ヴウークは答えました。
ヴウークは自分に居場所をくれた王様が大好きだったのです。だから何を気にすることもなく、自分が捨てられたものだと話しました。
「やっぱりそうなのね。ありがとう、教えてくれて」
ヤナはにっこりと笑います。
そうして、はっ、と気づきました。
「ああ。だからジトムィールさんはどこかに行けと言ったんだわ」
気づいたものはジトムィールの優しい気持ち。
だから。
はやく、はやく。
ジトムィールの『寂しい』をなんとかしてあげたい。
ヤナの胸の中にはそんな気持ちが溢れていたのでした。