黒いお城の竜とヤナ④-B
「おうさま。戻りました」
「……どうしたのかね。必要なものは揃っていないようだが」
おうさまの態度は崩れません。
冷たく突き放すような言い方のままでした。
それでももう、ヤナが心を乱されることはありません。
「いいえ、おうさま。わたしはまず決めるべきでした。それをしなかったばかりにおうさまやみんなにひどいことをさせました」
おうさまは黙って聞いています。真っ黒なもやのその姿からは感情を読み取ることはできません。
「わたしは帰ります。わたしはそのために来たのだから」
ヤナはまっすぐに言いきりました。
その瞳にもう迷いはありません。
「……そうか。ならばいくつか確認させておくれ」
おうさまは少しだけ静かにしたあと、穏やかな声でヤナに問いかけます。
「お前の選択次第でことが失敗する。それを大広間で経験したはずだ。そのうえでやはり現世に戻ることを選ぶかね。人には耐えられぬような決断の重みをお前は負えるのか」
それは心配する言葉でした。
厳しい運命に立ち向かうヤナをただ純粋に心配するものでした。
「ええ、それでも。それでも頑張ってみます。おうさま、あなたと話したことがわたしの中にたくさん詰まっているから。なんとかしてみせますとも」
そう言ってヤナは笑ってみせました。
まるで冬を耐えて咲くマツユキソウのような、可憐で強さを持つ笑顔でした。
それがどんなにおうさまへ眩しく映ったことでしょう。
「ヤナ。帰った先にお前の喜びはあるのかね? 苦しいだけではないと言い切れるかね?」
「ふふっ」
ああ、このひとはどこまでも優しいひとなのだとヤナは思いました。
人ではいられないと言いながら、人の喜びがあるかどうか聞くなんて。あべこべで、矛盾していて、だからこそ、優しいひと。
「弟が成長していくのを見るのは幸せで。お父さんに料理がうまいと褒められるのは嬉しくて。近所のおばさんたちとの噂話とかも意外と楽しかったりしたんです。ヤロスラーヴが考えさせてくれたおかげでちゃんと思い出せました」
すう、と息を吸い、吐いて。
「だから。大丈夫です。義務だけではなく、帰りたい理由もちゃんとありました」
ヤナはまっすぐに告げました。
「そうか」
おうさまは小さく呟いて、黙りこくり、そして。
「降参だ。もはやお前を引き止める言葉をわしは持ち得ない」
そう言って、縦に伸ばしたもやを揺らしました。降参、という仕草なのでしょう。
「……引き止めようとしてくれてたんですか?」
ヤナはびっくりして思わず聞き返していました。全部ぜんぶ、試練と優しさからくるものだと思っていたからです。
「もちろんだとも。黒の城はお前が来てから賑やかに、そして喜びに満ちたのだから。わしもお前がいて楽しかった。不謹慎かもしれぬが、お前と共に避難の計画を考えたあの時間は竜であった時も含めても、わしにとって無上の時間だった」
それは思いがけない言葉でした。
そんな風に思っているなんてこと、おうさまはヤナに欠片も感じさせないようにしていたからです。
だからこそ、ヤナは寄り添うことは同じくあることと思えていたのに。
「ずるいひと」
ヤナは背を向けておうさまに向かって倒れ込みました。
黒いもやは優しくそれを受け止めます。
「ぜんぶ決めて、ぜんぶ決めさせて。そのあとでそんなことを言うなんて。わたしがぽっきり折れちゃったらどうするんですか」
「すまぬ……」
「ううん。ほんとうは良いんです。それが聞けただけで。報われますよ。わたしの気持ちも」
それきり言葉はありません。
ヤナの表情をおうさまが伺うことはできず、またおうさまの感情はいつも通り分かりません。
ただ。ただ穏やかな時だけがそっと、二人の間を包んでいました。
-◇-
それから。
ヤナは大広間でぬいぐるみたちにお願いをして、一も二もなく黒の城は慌ただしくなりました。
大広間はおうさまの力で真っ平に、そして広く作り替えられました。
そこにぬいぐるみたちがたくさんの必要なものを積み上げていったのです。
「あァー!? キミたち何してるんです! その紙束はあっち! こっちは食べ物に関する紙束を置くのです! キィーッ!」
指揮を取ってくれているアナトライヤの叫び声が響きます。舞台の上でなければいつもはこんな感じとのことでした。
大広間の端っこではヤナが目を血走らせながら服や布を繕い続けています。
それらは他のぬいぐるみたちの手を借りてどぼんどぼんとユルコーの桶に投げ入れられ、どんどんとウォードで染められていきました。染めることにより、より寒さを防ぐことができるのです。
そこからやや離れたところではスヴォボダが宝石や財宝などを取りまとめています。
比較的安価で売りやすいもの、安価だけれど高そうに見えるもの、本当に貴重なもの、それらを目利きをしながら分けていました。
金貨や宝石は人の目を眩ませやすく、検問や国境を越えるときを含めて活躍する可能性がありました。
大広間から離れた食堂ではジトムィールが倒れそうになりながら料理を作り続けています。
おうさまからどさどさと運ばれてくる『食べ物だったもの』に対してフライパンや包丁を振るっています。
その脇にいるのはヴウークです。彼はいつもの大胆な口調とは裏腹なしっかりとした目つきで、穴や抜けがないよう慎重に缶詰を作り続けていました。
食べ物は要です。
まず生きるためにも、そして逃げるためにも一番重要と言って差し支えないものでした。
そしておうさまは深く深く城の深淵に潜り、かつての竜の力の片鱗を探していました。黒の城の外でも使うことのできる力、すなわち、湖を凍りつかせるほどのできる凍てつく冷気、村全体を覆うほどの炎の壁、あらゆる病と傷と飢えを癒す竜の血の霊薬です。
たくさんのものが大広間に集められていきました。黒の城でできること全てが集っていったのです。
そしてやがて、それにも終わりがやってきます。
別れのときでした。
-◇-
大広間には黒の城に住まうもの全てが集まっていました。
話したことのあるぬいぐるみも、話したことのないぬいぐるみも、みんなヤナのために頑張ってくれたものたちでした。
「では、別れの挨拶を。ヤナ」
おうさまが声をかけます。
ヤナはぐるっと前を見回したあと、一歩前に進みました。
「みんなありがとう。あなたたちの助けのおかげでここまでの準備ができました」
ヤナは右手を胸に当て、全員の目を見るようにしながら軽く頭を傾けました。正しいお礼のやり方です。
戻ったあとに自然とできるよう、おうさまやスヴォボダと一緒に練習した通りでした。
「わたしはこれから現世へと戻ります。そしてあなたたちが準備してくれたもので必ず望みを果たしてきます。どうかわたしの成功を祈ってください。わたしもつらいときはこの城でのことを思い出して頑張ろうと思います。……みなさんもお元気で」
ヤナはそう言って微笑んでみせました。
それは堂々とした振る舞いでした。それを誰かが見たならば、誰も学のない12歳の娘とは思えないでしょう。
「さあ、皆のもの。どうかこの勇敢な友柄を拍手とともに送り出してくれ!」
おうさまの深く、大きな声が響きます。
それとともにぬいぐるみたちの柔らかく、そして力強い拍手の音が鳴り響きました。
これはある種の儀式でした。
旅立つ者、送り出す者それぞれが互いに別れを告げるための。
それを分かっていてもヤナは胸に込み上げる温かいものを感じずにはいられませんでした。
ヤナは表情を崩さずに手を振ります。それが送り出してくれるぬいぐるみたちを安心させることだと信じていたからです。
「それでは皆のもの。広間を出てくれ。これからこの場全てのものを運びやすいように閉じ込めるゆえ!」
言葉を合図にぱらぱらとぬいぐるみたちが広間を去っていきます。時折振ってくれる手に応えながら、ヤナは全員を見送りました。
広間にはおうさまとヤナだけが残されます。
おうさまの部屋で過ごしたときから初めてとなる二人きりの時間でした。
おうさまが何事か聞き取れない言葉を呟きます。
すると大広間に置かれた数々のものは一瞬にして消え去り、後には小さな指輪のみが残りました。
「ヤナ、右手を」
「は、はい」
ヤナは少し緊張しながら右手を差し出します。
もやに包まれた指輪はまるで初めからそこに収まっていたかのようにすっぽりとヤナの中指にはまりました。
「塔を登りきるまでの間となるが、荷物をその指輪に込めておいた。……では、行っておいで」
「はい、行ってきます」
ヤナは小さく手を振って、おうさまに背を向けました。
別れはもう、あのときに済ませていました。
互いのことを必要だと気持ちが通じ、背中を預けたのですから。
もう十分でした。十分すぎました。
ヤナは決心が鈍らぬよう途中から駆け出して。おうさまはただ一人、その背中を見送っていました。
-◇-
塔の扉を開けると、どこまでも透き通った透明な階段が見えました。
それは塔の内側から突き出して生えていて、果てしなく上にまで連なっています。
ヤナは恐る恐る一歩目を踏み出します。
すると透明な階段はしっかりとヤナの体を受け止めました。
登れます。この階段は。だからもう引き返す理由は一つもありません。
一つずつ、一つずつ。踏みしめるようにヤナは階段を登ります。
そのたびに、黒の城で過ごした想い出が蘇りました。
ヤロスラーヴとの出会い。ジトムィールの料理。スヴォボダとの宝石探し。竜の劇。おうさまとの時間。
そのいずれもが温かく、愛おしく、生きるための励みになるものでした。
戻るための、生きるための理由。それとともにこれらの想い出が現世へと至る階段を生み出しているのです。
ヤナは階段を登り続けます。
そのうちに吐く息に白いものが混じるのをヤナは気付きました。
黒の城に満ちていた暖かさが失われて、冬の寒さがどんどんと満ちているのです。
やがてヤナは塔のてっぺんに辿り着きました。そこは分厚い透明なものに閉ざされていました。触れると火傷しそうな冷たさでした。
氷です。
氷は境目でした。
幻と現実。
竜の住処と人の生きる場所。
闇のただなかと光の下。
越えればもう、戻ることはできません。
それに。
「行ってきます」
祈りを込めて手のひらを合わせました。
-◇-
ヤナが竜の森に旅立った次の日のことです。
森の中を何人もの大人たちが歩いていました。弟の様子を近所のおばさんに頼んだヤナのお父さんを筆頭に、おじさんやおばさんがヤナを探していました。
愚かなことです。
良心に耐えかねるくらいなら、初めから贄として送り出さなければ良いのです。
ええ、けれどヤナが森へ旅立ったからこそ、村の人に暖かな火が灯ったのです。
だからこそ、村人たちは森の中を行くランタンのような優しい橙色の光を見つけることができました。
それはひとりでに動き、森の奥へ奥へと村人たちを導いていきます。
そしてその果てに村人たちは森の中にぽっかりと空いた広場に辿り着きます。
そこには目も眩むような財宝の数々と、食べ物の山。そして布や本のような紙の束に囲まれて、一人の少女が目を閉じていました。
少女の格好は村を出たときとほとんど変わりません。
ただ、見る人が見れば右手の中指に見慣れない指輪がはまっていることに気付くでしょう。
少女の名前はヤナ。
竜の贄として旅立ち、そして村人を安住の地へと連れていく決意をしたもの。
彼女はゆっくりと目を開きました。
みなさま長い間お付き合いいただきまして誠にありがとうございます。
ご意見やご感想、ご質問などなんでも賜れれば非常に幸いです。
このたびは本当にありがとうございました。