黒いお城の竜とヤナ④-A
二人の話し合いはとても長い間続きました。
時間にすれば何日も。何日も。
それでもやがて終わりは来ます。
「これで……」
「ああ、検討できることはすべて検討しただろう」
「改めて見るとすごい量」
おうさまの部屋にはヤナの腰ほどの高さの紙がいたるところに積まれていました。
紙の内容は具体的な逃走計画から避難者のまとめ方、そして避難先における交渉や現地の人との関係構築などに至るまで様々なものが含まれていました。
紙はいつでも確認できるよう内容に応じてまとめられ、本ぐらいの厚さごとに束ねられています。
いつでも見返せるように、そして誰にでも理解できるように、まとめ方や表現の仕方は工夫したつもりです。
それでも。
「これを使う人は大変だなあ」
ヤナは思わず息を吐きました。
作り上げた紙の束。それらを何度も使いながら話し合いをしてきたので、ヤナはそれらの内容と書いてある場所をそらで言うことができるようになっていました。
けれど他の人ではそうはいかないでしょう。
富農のおじさんならともかく、村に残っている人たちが完全に理解して使いこなすには不安がありました。
それに財宝や食料とともに紙束が村にもたらされたとして、紙束のことを信用してくれるとも限りません。
「お父さんは……わたしの書いたものなら信頼してくれるだろうけど」
仮に全てを有効なものだと捉えてくれたとしても、使えるほどに腑に落ちてもらうにはかなりの賭けが必要でした。
「ヤナ、いいかね」
「あ、はい」
最後の紙の束を整えていたヤナに、おうさまが後ろから声をかけました。
「冥界と現世、それらへ続く塔の話は覚えているかね」
「はい。お城の奥にある高い塔ですよね。あ、もしかして、あそこからお城にあるものを村に届けることができるんですか?」
「そうだ」
「良かった! そこがちょっと心配だったんです。おうさまのことだから心配ないと分かっていたんですけどね」
ヤナはほっとした喜びでにっこりと笑いました。そこだけが明らかになっていなかったのですっきりして安心したのです。
「ああ、生きる理由のできた今のお前ならば上り階段を見ることが出来るだろう。必要なものとともに現世へと帰還するのだ、ヤナ」
「え」
予想もしていなかったおうさまの言葉にヤナは固まりました。いえ、本当は考えないようにしていただけだったのかもしれません。
それほどまでにヤナにとって黒の城の生活は幸せで、当たり前で。おうさまは一緒にいるべきひとでした。
「お前の言った通りなのだよ。作り上げた紙の束を誰が信用し、また理解できるかね? お前だ、お前だけなのだ、ヤナ」
「……っ」
いやだ、とは言いませんでした。
でもそれだけでは足りないと言わんばかりにおうさまは続けます。
「それとも何もかも忘れ、黒の城にとどまるかね。それでも良い。歓迎しようとも」
「な、なんで……」
おうさまの急な変化にヤナは戸惑いました。
あえて意地悪な言い方をしているのだとは分かっています。それでもどうして急にそんな風にするのか納得ができません。
「お前が去るにせよ、とどまるにせよ、村に必要なものは集める必要がある。城の皆に頼んで用意してもらうように」
突き放すような冷たい言い方でした。
そしてそれきりおうさまは黙ってしまいます。
「おうさま……?」
ヤナの問いかけにも答えません。
あまりにも露骨な態度にヤナも流石にむっとしてしまいます。
「分かりました! 行ってきます!」
ぷりぷりと怒りながらヤナは部屋から去っていきまた。
おうさまの部屋は久しぶりにおうさま一人となり、静寂が部屋を支配します。
おうさまは部屋の端にずっともやで隠していたカゴに自らのからだを伸ばしました。ヤナの記憶が戻ったときに持っていたあのカゴです。
おうさまはそっとカゴを開け、時を止めていた料理を一つずつ丁寧に取り出したあと、ゆっくりとそれらを自らの身に取り込んでいきました。
-◇-
以前スヴォボダから聞いた話によれば、ぬいぐるみたちは最近ずっと大広間に集まっているそうでした。
ヤナはおうさまの部屋を出たその足で大広間の扉を開けました。
「あ、ヤナ! いらっしゃい!」
駆け寄ってくるのはヤロスラーヴです。
劇で見たぬいぐるみたちと一緒にいたようでした。
「こんにちは、ヤロスラーヴ。えっとジトムィールさんに会いたいのだけどいらっしゃるかしら」
「うん、あっちの方にいるよ。ねえヤナ、ボクたち新しい劇の準備をしてたんだ。きっと楽しくなると思うよ」
屈託なく話すヤロスラーヴを見て、ヤナはずきりと胸が痛くなる思いになりました。戻るならば新しい劇を見ることはできません。
「ありがとう。それは楽しみね」
そう言ってヤナはそそくさとジトムィールの方に向かいます。ヤロスラーヴの顔を見ることはできませんでした。
「ジトムィールさん、こんにちは。お願いがあるのだけど、聞いてもらっていいかしら」
ジトムィールは劇団のぬいぐるみたちと一緒にいました。
「おお、お客人。アンタの頼みならなんでも聞こうとも」
「ありがとう! ジトムィールさん。お願いなのだけど、日持ちをするご飯をたくさん作ってほしいの。……できるなら、半年ほど村をまかなえるくらい」
ヤナはじっとジトムィールの目を見つめながら言いました。できるはずでした。ずっと昔の村には塩漬けや乾燥させた食べ物があったのです。ジトムィールなら用意できると思いました。
「ほう、そりゃ大変だな。ビスケットや燻製肉、それとひまわりの種と乾燥フルーツを混ぜたおやつあたりも付けようか。ただ、ちょいと時間がかかる。いいかね?」
「も、もちろん! ありがとう、ジトムィールさん!」
ヤナは右手を胸において一番の感謝を伝えました。本当にほっとしたのです。
おうさまは食べ物のことは前提として話をしてくれていましたが、日持ちがしなかったり、そもそも手に入れられない可能性もありました。
一番大きな問題が解決しました。
「しかし、そんなことを儂に頼むということは、何かあったのかね」
「はい、色々と思い出して。村へご飯を渡したいんです」
「ふむ……。しかし、そういうことなら魚の缶詰も欲しいな。ヴウークに缶詰の容器を作ってもらえないかね」
それはまたとない申し出に聞こえました。魚の缶詰もあれば、栄養状態がかなり良くなります。道中の魚釣りに要する時間が短くなることも魅力的でした。
「ありがとう! 頼んでみます!」
ヤナは手を振って駆けていきます。
その表情は希望に満ち溢れています。
けれど。
「イヤだね」
話を聞いたヴウークは開口一番そう答えました。不機嫌なのを隠す様子もありません。
「なあ嬢ちゃん。缶詰ってのは使い捨てするもんだろ。それをオレに頼むってことについて、何にも考えなかったのかィ?」
「あ……」
考えていませんでした。村のことが頭にいっぱいで、『捨てられた』ヴウークの気持ちを考えてはいませんでした。
「黒の城のやつのためならいくらでもやってやるさ。もちろん、嬢ちゃんのためでもな。ただ、会ったこともねェ奴のためにイヤなことはしたくねェ」
ヴウークの言っていることはもっともでした。気分を害した理由も理解できます。
それでも缶詰は逃亡計画に大きな効果をもたらします。ヤナはヴウークを説き伏せなければなりません。
「ねえねえ、どうしたの?」
会話に飛び込んできたのはヤロスラーヴでした。離れたところから様子を見ていたようでした。
「嬢ちゃんが村の奴らのために缶詰を作って欲しいんだとよ」
「ふーん。ダメなの?」
「イヤだね」
「そっかー。じゃあしょうがないね。ヤナ、新しい劇の話なんだけどさ……」
あっという間に。ヤナが口を挟むひまもないまま、話は進み、終わっていきます。
「だ、ダメ。ヤロスラーヴ、ごめんなさい。今ヴウークと話してるの。ヴウーク、あのね」
「ヤナ」
「な、なに、いま忙しいの。ねえヴウーク……」
話ができずにヤナは少しイライラしながら口を開いて。
「ねえ、ヤナ。それは新しい劇より大事なこと?」
答えを出せずにいた問いかけに刃を突き立てられました。
「ねえ、ヤナ。ヤナを助けなかったひとたちなんてどうでもいいとボクは思うな。弟だって、ママを独り占めできなくしたやつじゃない。役に立たないお父さんだって、大人だって。誰もいらないよ、そんなやつら」
ぐさりとヤナの胸にそれは突き刺さりました。それらを考えなかったわけではありません。
けど、それらは仕方のないことだとも思っていました。失望もあるけれど、それよりもっとたくさんの温かいものをもらっていたのだとヤナは思っていました。
けれどそれら全てと黒の城での思い出を比較して、すぐにどちらが大事か、なんて言えるわけがなくて、ヤナは答えることができません。
「ヤナ、しっかりするのだわ」
ぽふ、と頭の後ろに柔らかい感触がありました。スヴォボダです。彼女がヤナの上に飛び乗っていたのでした。
「す、スヴォボダ?」
「そ、あなたのお友達のスヴォボダよ。大変そうだからヒントをあげる。決めるべきことを決めてなかったからあなたは今苦しいのだわ。やり直してらっしゃいな」
「あ……」
それはこんがらがった考えをすぱっと正してくれるような言葉でした。
そう初めから間違えていたのです。
元の世界に戻るかどうか。
そんな大事なことを決断しないままで、色んなひとに頼み事をするなんて間違いに決まっていたのです。
ヤナはひょい、と頭の上のスヴォボダを掴みました。そして顔の前に持ってきます。
スヴォボダはぷい、と顔を背けてヤナの手から飛び降りました。顔を見られたくないようでした。
それで、ヤナは自分が友達にどんなにつらいことをさせたのか理解しました。
黒の城での初めての友達、ヤロスラーヴにも。とても優しいヴウークにも。
「みんなごめんなさい! わたしが間違ってました。やることをやってからまた来る! 酷いことをさせてほんとうにごめんなさい!」
ヤナは三人の方を向きながら思いきり頭を下げました。正しい仕草ではありません。頭を下げすぎています。けれどそれは自然に出てしまったものでした。
「あーあ。惜しかったなー。うん、良いよ。許したげる。ヴウークも良いよね」
「ん? ああ、そりゃもちろん。まァ、嬢ちゃん頑張んなよ。あ、缶詰は作っとくから安心しな」
二人はあっさりと許しの言葉を口にしました。
それでヤナは、恥ずかしくて、情けなくて、ありがたくて、色んなものがないまぜになった気持ちになりました。
「ヤナ、顔を見て謝ろうとしたら絶交だから。早く行きなさいな」
スヴォボダは尻尾をひらひらと振って、ヤナが早く行くように促します。
「すべきことをすると良いのだわ。頑張って」
友達が背中を押してくれる感覚。
それはどこまでも優しく温かく。
ヤナは一歩目を踏み出すことができました。
ヤナは駆けていきます。
大広間を抜け、螺旋階段をのぼり、おうさまの部屋へと駆けていくのでした。
そして、大広間では。
「そんなに泣くなら自分だってヤナを引き止めたら良かったのにさ」
「るさいわねっ! 子供がレディの泣き顔見てるんじゃないわよっ!」
泣き続けるスヴォボダを呆れたような顔で見つめるヤロスラーヴの姿がありました。
「いや、ほんとあとちょっとだったのに、キミは甘すぎ。だいたい戻ったってすごい大変そうじゃない。ボクはやっぱりここにいた方がヤナは幸せだと思うけどね」
「小リス……。そうね、そうかもしれない。けどそれも全部ヤナが決めることなのだわ。わたくしはそれを受け入れるだけ。わたくしはそれだけのことをしてもらったのだから」
「ふーん」
「それで良いのよ。それで泣くのもわたくしの勝手なのだから」