冬の森と城の入口
ここではないどこか。今ではないいつか。
こごえそうな冬の森の中、一人の女の子が真っ赤にかじかんだ手をこすり合わせながら歩いています。
女の子の名前はヤナ。
亜麻色の髪を三つ編みにした12歳の女の子です。
ヤナは赤色のベストと白色のシャツ、それに足首まで届きそうな丈のエプロンと真紅のスカートという装いでした。
その姿を森の動物たちが見たならば不思議に思ったことでしょう。
彼らが知る限りでは、冬の森に入るのは決まって硬く、いかつい格好をした男であったからです。まれに女が紛れ込むことがあるにせよ、それらは枯木のように細く、ぼろきれのような服をまとっているものばかりでした。
だから、歳若い女の子が飾り立てられた格好で森の中を行くことなんて、常ならざる理由からに違いありません。
「ああ、あとどれくらいなのかしら。わたしが凍える前に辿り着かなくちゃ」
ヤナが森の中を行く理由、それは竜でした。
森の奥深くに真冬のあいだだけ現れるという大きな鏡。その鏡は竜の棲む城へとつながっているという……。
そんな言い伝えがありました。
「服も汚れないように。気に入ってもらわなければ意味がないのだから」
城の中には竜が貯め込んだ財宝が山のように眠っていて、竜は自らの望みの叶えた者に宝を与えるというのです。
「何が望みかは分からないのだけれど。……若い娘を歯牙にもかけないことはないでしょう」
顔も知らない為政者によって引き起こされた飢餓。
指先を力いっぱいに握り返してきた弟の幼いゆび。
それで、それだけで、当たり前のようにヤナの心は決まってしまいました。
人々が飢えの果てに狂うよりなお早く、ヤナは古い因習の贄へと躍り出たのです。
ざくざく。ざくざく。
革のブーツが雪に沈みます。
水が入り込まないよう頑丈に作った革靴でしたが、少しずつ水は沁み込んでゆき足はまるで凍りついたように動かすことが難しくなってゆきました。
はあはあ。はあはあ。
吐く息は白く、こぼれ出た湿気はヤナの頬の熱を奪います。細かな水の粒たちは、やがて氷になってヤナの顔に張りついてゆきました。
おかしな話なのです。
贄となるものが一人で城に向かう習わしなのに、宝を誰かが受け取れる、なんて。
いったい誰が宝を受け取るというのでしょう。ヤナは一人森の中を進み、その行き先は誰も知らないというのに。
それならそんな話はきっと間違いで。
追い詰められた人たちがすがってきた幻でしかないのでしょう。
けれど、ええ。
けれど。
ヤナはたどり着きました。
雪と氷に包まれた森の中、嘘みたいにぽっかりと開いた大きな空間。
何十人もの人が手を繋いでも端に届かないような巨大な湖がそこにはありました。
「凍ってる……」
ヤナがそうっと足を踏み入れると、湖の氷は『きしり』と音を立てながら、その体を受け止めました。
「だから、真冬なんだわ……」
きっと湖の真ん中から城に行けるに違いない。ヤナはぼうっとした頭でそう考え、足を前へ前へと進めます。
きしり、きしりと音は響きます。
響く音はやがてどんどんと大きくなっていき、そして。
ヤナは湖の真ん中にたどり着きました。
ぎしり、ぎしりと、今にも何かが起こりそうな音が響きます。
けれども氷は未だヤナをその上に留めていました。
氷は境目でした。
空気と水。
人の生きる場所と竜の住処。
光の下と闇のただなか。
越えればもう、戻ることはできません。
それを。
「えいっ!」
ヤナは強く踏みつけました。
太陽の光できらめいていた氷面に、ぴしりとヒビが走ります。
それは瞬く間に縦横斜めと広がり、がしゃあん! と。
全てが割れて、ヤナを湖の中へと受け入れたのでした。
ー◇ー
まっくろやみのなか。
とったらぽーう、ぽうぽう。
とったらぽーう、シャン!
とったらぽーう、ぽうぽう。
とったらぽーう、シャン!
どこか楽しそうなリズムの音でヤナは目を覚ましました。
いつの間にか気を失っていたようでした。
ヤナはゆっくりと目を開きます。
「わっ!」
ヤナは驚いて声をあげました。
視界いっぱいに何かがあったからです。
とったらぽーう、ぽうぽう。
とったらぽーう、シャン!
飛び起きて離れたところからよく見ると、顔の近くにあったものはぬいぐるみでした。
手のひらくらいの大きさをした茶色いリスのぬいぐるみ。青いタキシードを着て歌をうたい、ときどき手に持ったシンバルを鳴らしています。
「おどろいちゃった! けどあなた、よく見ればとってもかわいいわ!」
ヤナは頭をなでようと、そうっと手を伸ばします。
けれど。
しゃん! しゃん! しゃん!
リスのぬいぐるみはびっくりしたようにとびあがり、シンバルを鳴らしながら逃げていきました。
もちろん、びっくりして逃げるぬいぐるみなんてヤナは見たことがなかったので、ヤナはまたびっくりしてしまいました。
改めて周りを見渡すと、そこは真っ黒のなかでした。
床は真っ平らでつやめく黒をしています。
離れたところに見える階段も、その先へと続く巨大な門も、大きなお城も、遠くに見える高い塔も、ただひたすらに真っ黒い色をしています。
全部が真っ黒なのに、それらがくっきりと区別がつくことが少しだけ不思議でしたが、ヤナの心は他のことでいっぱいでした。
だっておとぎばなしでしか聞いたことのないようなお城にいるのですから。心は一人で冒険してみたいほど高揚していたのです。
そう。ヤナは何かを捨てていることに気付いていませんでした。
今は、まだ。