File1-1 非日常に誘われて
目の前に、死体があった。
何度も頭を強く打つ五月雨に、香病はようやく目を覚ます。
いつからここにいるのだろうか。
そんな曖昧な意識は、漠然と眼前の景色を映し出す。
降り頻る雨は道路に染み付き、濁った水槽のような独特の匂いを醸し出している。
舗装されたコンクリートと、雨の受け皿として撓り続ける樹木はここが郊外の一片であることを示していた。
ザァザァと聴覚を支配する雨音に、鈍い匂いが滲む。
「……あ」
間抜けな声をあげて、香病はようやく目の前のものを理解した。
鼻を劈く鉄の匂い、雨音、一刻遅れて狼狽。
「…な、んだ、これ」
目の前にある死体は腹部に穴が空いている。
香病が視線を自身の手に落とすと、そこにも「赤」。
意味がわからない。理解ができない。
それでも、背筋に冷たいものが走っていく。
視界がグルグルと廻る。
死体の端から端まで無意識下でカメラの映像のように眼球が捉えていく。
「な…なんで。なんで」
脊髄から言葉が溢れる。
目の前の光景を否定しようとして、寧ろ脳内に膠着する。
目の前の死体が、知人だと知ってしまった。
目の前の死体が、友人だと知ってしまった。
「テル……?」
世界が回る。
急速な脳の回転と、空間の発熱。
膨張する世界が、やがて一本の線となり、それはどこかへと消え去った。
***********************
「…………ぁ?」
喧ましい携帯のアラームだけが、退屈な朝に響く。
うんざりな高音に飽き飽きしながらも、香病はベッドから起き上がった。
「なんだ、よ。夢…?」
上体を起こし、初めて自身の服の重さに気がつく。肌に吸い付く冷たい服に、それが汗であることも遅れて気がついた。
バクバクと跳ねた心臓が、ようやく落ち着きを取り戻し始める。
「…ひでぇ夢」
友人を殺す夢……夢占いだと確かポジティブな意味だった気がする。そうとでも考えなければ、朝からあんなのを見て学校に行く気にはなれない。
ビッショリと濡れた服を脱ぎ捨て、制服へと着替える。服を着替えても、肉体に篭った熱が抜けない。もう6月だからだろうか、やけに湿った空気が体に張り付いたようだ。
トントン、と扉が叩かれる。
「お兄ちゃん〜?起きてる?ご飯できてるけど…?」
「ごめん!今行く!」
そういえば、今日の朝食当番はチグちゃんの番だったっか。そんなことを思いながら、階段を駆け降りる。
可愛い妹、美味しい朝食。
きっと今日も、退屈な学校はそれなりに楽しく、それなりに日常は続いていく。
幾度も見た通学路も。
とうに見飽きた教室も。
居心地の良い友人も。
電車を経由して20分。
いつも通り、朝のチャイムから少し遅れて。
彼は、のんびりと教室に入ってきた。
「あー、急なんだけどー、転校生が来てる」
教師が唐突に口を開く。
何かと適当な人だ。伝え忘れていたのだろうか。クラス内でもザワザワと声が立ち始める。やはり、皆初耳だったようだ。
「じゃ、入って。いい感じに自己紹介を」
非日常は唐突にやってくる。
何の前兆もなく、我が物顔をして。
まるで、そこにあるのが当たり前かのように。
カランカランと軽快な靴音を響かせて。
教室に現れた少女は「黒」だった。
今どき珍しい程の漆黒の髪。
時代に取り残された古風な制服。
髪留めには、栞を模した意匠が施されている。
そして、何よりその目だ。
暗黒という言葉が陳腐に聞こえるほどの黒々とした瞳は、光を何も通さないように見える。
思わず、自分の目を疑った。
あまりにもその少女は浮世離れしていたから。
全ての景色を背景にして、フォーカスを奪うほどの不思議な魅力が彼女にはあった。
「一比古あゆいです」
凛としたような、或いは空気に溶けて消えるような。それでもなお脳に刻みつけられるような、そんな声。
「じゃ、後ろの席座っといてくれ。困ったことはー、なんか他のやつに聞いとけ」
異常な黒は、カラカラと楽しげに足を鳴らし、跳ねるように教室を歩く。
「んー」
彼女は、一瞬後方を見渡したあとに。
「では、ここ。空いてますか?」
カツンと爪先で床を鳴らし、俺の隣の席に指をかける。
「……いいの?黒板見ずれーけど」
「私、目がいいので」
「そう。ならいいんじゃねーの」
彼女は、人形のような無機質な笑顔を覗かせると、隣の席に静かに座る。
「でー、出席は。鮎桑以外いるか?あいつはまた遅刻か、無断欠席か……」
テル……こと鮎桑照。
どうやら相変わらずの様子だ。別に悪いやつではないのだが……。
担任がこれじゃなきゃ、指導が入ってもおかしくはない。
……しかし、あんな夢を見たあとだと嫌な感じがする。あとでメッセージでも送ろうか。
そんなことを考えていると、担任は足早にHRを終わらせ、授業のために教室を後にする。
「……君」
そんな声に横を向くと、ニコリと微笑みを向ける一比古が小さな声でこちらに囁いた。
「隣の席も何かの縁です。学校の案内をしてもらえませんか?」
「…いいけど。そういうの委員長とかに頼んだ方がいいんじゃねーの」
「何か用事でも?」
「………」
用事は…特にはない。しかし面倒だ。
部活に入っていないのがこんな所で仇になるとは。
「まあ、いいよ」
「よかった。暇そうな顔してると思ってたんです」
失礼な物言いに、多少の苛立ちを覚えつつも、その口調からは悪気が伺えない。
こういうやつ…と思うしかないだろう。これからクラスメイトとしてやっていくしかないのだから。
「では、よろしくお願いします。シッポくん」
「俺の髪見て言ったな?」
他人の髪型ネタにしやがって。
しかし、とうの彼女は悪びれる様子もなくニコニコと笑っている。
「では、また放課後に」
その声と同時に、チャイムが鳴り響き、二人の会話はそれで終わる。
やはり一比古は少しおかしなやつだった。
少し、というか。かなり。
授業間の小休憩には、多くのクラスメイトが一比古の席に訪れたが…。
「一比古さんってどこから来たの?」
「東京からです」
「都会じゃん!この時期に転校って珍しいよね?転勤とか?」
「学校の窓全部割って、鶏小屋に火を放ちました」
淡々と言い放つその言葉に、面白いくらいに全員が席から離れていく。
顔には引き攣った笑顔を浮かべて、遠くの席では「やばくね、あいつ」と噂立っている。
「じゃー、気をつけて帰るよーに」
間延びした担任教師の言葉が切れ、HRが終わる。
ふと隣を見たら、こちらをニコリと微笑み立ち上がった彼女が、俺の机に手をかける。
「さて、約束の時間ですね」
「…ところで、ガチの放火魔なの?」
「嘘です。質疑応答が面倒だったので」
「代わりに失ったものは大きいけどな」
尊厳とか、友達候補とか。
転校生にはなかなかに価値のあるものが。
「まあ、いいよ。約束だし、案内はする」
「助かります。避難経路くらいは覚えとかないと」
「マジで放火魔じゃないんだよな?」
「冗談ですよ」
表情の一つも変えずに、カラカラと言い放つ彼女は席を立ち上がり、廊下へと降り立つ。
彼女は飛び跳ねるような歩き方で、時々俺に質問を投げかける。「ここは何の教室か」だとか「購買は何時までか」だとか。
「ここ、保健室ですか?」
「そう。……なんか混んでるな」
「乱闘でもあったんですか?」
「そんなに治安終わってないけど……まあ梅雨だしな。偏頭痛とか」
気圧の問題で体調不良に陥る人も多いだろう。
「頭痛ってことはサボりです?」
「言わんとしてることはわからんでもないが、本当に頭痛い奴もいるからな」
まあ、俺もサボる時は頭痛って言うけども。
そういえば、最近クラスで軽い怪我をしたという声を多く聞く。雨天の為、転びやすい…とかだろうか。
だからといっても、こんなに多くの怪我人が出るわけはない。
「ところでさ」
「ん?なんですか?」
彼女は、足を止めてその場でくるりと回ってみせる。
まるでブリキ仕掛けのように、俺の正面でぴたりと止まって、彼女は首を傾げた。
「…言いづらいならいいんだけど。この時期に転校って珍しいし、なんかあったの?」
「はてな。聞いてどうするんです」
「別に、世間話だよ。歩いてばっかも味気ないし」
「うーん、まあ貴方には案内してもらってますし……」
彼女は、何かを語らうと口を開くと。
……そのまま何も話さない。
「…もしもーし。どうした?」
「あの傷、いつからあります?」
「傷?」
一比古が指差した先、その天井には確かに何かの傷があった。
いや傷というにはあまりにも大胆な。それは明確に意思を持ったであろう破壊。
天井に空いた拳大の穴。
「さあ?天井なんて見て歩かないし」
「この学校の天井結構高いですよね。アレ届きます?」
「無理…かもな。クラスの高い奴なら手は届くんじゃね?穴は開けられないと思うけど」
「君、結構小さいですもんね」
この女はずっと喧嘩を売ってるのだろうか。
俺はクラスで真ん中ら辺だ。
小さくはない。……小さくはない。
「なに?なんか気になるの?」
「穴ソムリエとして心が高鳴ってしまって」
「そーかよ。じゃあ穴ソムリエから見てこれはどうな訳?」
「ただの経年劣化です。興味もないですね」
そう吐き捨てると、また一人カランカランと歩き出す。
「……乗ってやったのに」
小さく吐き捨てると、嫌々ながらも一比古の後を追った。
***********************
メールの受信音に目が覚める。
深夜の十二時。眠りが浅かったのだろうか。
「……うぅんー、なにぃ?」
寝ぼけ眼をこすり、暗闇に光る携帯電話を手に取る。見てみれば、それはテルからのメッセージだった。
『キョウシツ 二 オイデ』
なんともカタコトな言葉が連なっている。
無機質で不自然なその文章に一瞬、えもいえぬ寒気を感じる。
「はぁ……?ふざけてんのか、こんな時間に」
悪戯だろうか。にしては趣味が悪い。
そもそも、テルはそんなことをする奴じゃない。
……そうだ。悪戯でそんなことはしない。
ピコンと、受信音と共に携帯が振動する。
『ハヤク キテ オネガイ』
テルに何かあった。
こんな時に学校に呼び出すほどの、そんな何かが。
俺は慌てて家を飛び出し、学校へと向かう。
閑静な住宅街に、嫌という程スニーカーがコンクリートを蹴る音が木霊した。微かな電灯と月の光だけが光源となる辺鄙な住宅街では、宙に浮いている錯覚すら起こる。
何度か暗闇に躓きそうになるものの、何度も体を起こし、バランスを保つ。
(何があったんだよ…!)
ようやく辿り着いた学校では、とうに閉じられた正門の柵を攀じ登り、転がり込むように学校に侵入する。
「教室……っても校舎しまってんだろ……」
今更気付いた自身を自傷するように、校舎の扉に手をかける。
「……あ?」
しかしその予想は外れ、扉はあまりにも呆気なく開いた。
「……なんなんだよ」
確実に感じている嫌な予感。
それでも、友人の異常事態に、自分を求める声に止まることはできなかった。
「……暗ぇ」
八つ当たり気味に呟いても一人きり。
一寸先の暗闇に心細くなりながらも、教室を目指して歩く。
「マジで、くだらない事だったら承知しねーからな…!」
大きな角を曲がった先。
この奥の階段を登ればすぐに教室。
「……なんだあれ」
理科室の前。その廊下に。
なにか、いる。
人間のサイズを遥かに超えた何か。
「………は…?」
その瞬間、意地悪な曇天が何処かへと飛んでいき、月光がその姿を照らす。
それは、人だった。
いや厳密には人ではない。
人体模型。理科室にあるような内臓が図示されたソレは、趣味の悪い玩具のように、肉体のあらゆるところに手足が接合され、まるで巨大なアシダカグモのようなシルエットになっている。
無機質な瞳は閉じられており、なんの冗談か、カタカタと全体が揺らぎ寝息でも立てているかのようだ。
非日常は唐突にやってくる。
作り上げた常識を嘲笑うかのように。
脆弱な日常は、まるでドミノ崩しのようにバラバラになって倒れていく。
この物語は、俺の体験した非日常の記録だ。
もし、そんな物語に敢えてタイトルをつけるのだとしたら……
一比古あゆいの黒手帳
第一章
『雨の音、ペトリコール』
お待たせ致しました!
本日より毎週月曜日21時頃に投稿していきます!
少しでも楽しんでもらえたら幸いです!