第151話:誰か為の賛歌
「お待たせしました。それではまた弾かせていただこうと思います」
それなりに強いカクテルを飲み、立ち上がりながら軽く一礼する。
酒場らしくヤジや口笛が飛び交うが、俺が視線を向けるとスッと姿勢を正す。
酒場なのだからお行儀良くなんてしなくて、そのままでも良いのだが……まあ俺が言っても説得力は無いか。
先程の練習曲のおかげでピアノの癖も掴め、休んだおかげで指の調子もかなり良い。
(あの練習曲って曲名はあったりするのか?)
『ふむ、そうだな……考えておくとしよう。余の戯れで作っただけの曲だからな』
うん、そんな感じだろうと思った。
「今度は何を聴かせてくれるんだー?」
「良い演奏を頼むよー!」
「誘われて良かったぜ!」
ピアノの前に座ったタイミングで、更に声援が飛んでくる。
俺が店に入った時よりも更に客は増えているが、壁が取り払われている関係で、限界以上に客がごった返している。
増えすぎると音の反響が弱まってしまうのだが、このピアノならばこの程度大丈夫だろう。
「それでは本日二曲目となります。少々長めの曲となりますので、お食事と一緒にお楽しみください」
一曲目から骸を引くのは駄目だが、今は既に超満員レベルで客が居る。
売り上げも大丈夫だろう。
『今回も相応の演奏を頼むぞ。つまらぬ演奏でもしようものなら、今夜は寝かせんからな』
(それは勘弁してくれ)
現実で骸を弾いた回数は片手の指程度だが、夢の中ならば優に五十回を超えている。
一回三十分位の曲だが、寝ている間にずっとピアノを弾かされるのは、もう嫌だ。
ノイローゼにならない、この身体が恨めしい……。
演奏とは本人も楽しんでこそだと思うのだが、この曲だけはルシデルシアの想い出の曲という事もあり、全力で挑む以外の選択肢がない。
認めたくないが、ルシデルシアは俺の命の恩人なので、俺としても手を抜くのは忍びない。
受けた恩を返すのは当たり前だからな。
最近は恩を、仇で返されている気がするけど。
全ての指をゆっくりと鍵盤に乗せて、深呼吸をする。
それでは、千年前の賛歌を奏でさせて貰おう。
1
サレンがホロウスティアでピアノを弾くのは、そんなに多いことではない。
それはある意味当たり前の事だが、酒場にピアノがあることが、まずないのだ。
相応の劇場ならともかく、弾く人間が限られるピアノを買うメリットが、酒場側にはないのだ。
そしてサレンがピアノを弾くのは、酒を飲むついでである。
ついでなのだが多様な曲を演奏し、聴くものを虜にする腕は、帝国の劇団であるウィルライズ劇団の、赤薔薇の舞姫が認める程である。
一部の者は、その演奏が場末の酒場で聴けて良いものではないと理解しているが、ミリーが噂を流して上手く誤魔化している。
中には直接サレンを勧誘しようなんて者も現れるが、サレンに睨まれてすごすごと逃げて行くのが定番の流れだったりする。
先程サレンが演奏した練習曲は確かにレベルが高く、劇団に行った事がある者達を唸らせるレベルではあった。
だが、この程度の演奏を出来るものは居るだろうと、思わせる程度で終わった。
確かに鍵盤の隅から隅まで使っていたが、そう思わせる何かがあったのだ。
それはルシデルシアの仕込みなのだが、実際にこの練習曲を演奏しようとすると、サレン以外は指が間に合わないか、指が攣る結果を招くだろう。
もしもサレンの演奏している手元を見る事が出来たのならば、この結論に至れたかもしれないが、酒が入っている人間に常識を説いても意味がない。
今サレンに向けられている期待も、酒の肴に合う演奏をしてくれるのだろうという、普通の期待だ。
それは何も間違った期待ではない。
この中で事態を正確に理解しているのはミリーだけであり、端の方で様子を窺っているアーサーとシラキリは、正確には理解していない。
シラキリでも、これだけ煩い音を正確に聞き分けるのは難しく、耳元でこそこそと話すのをこの距離で聞く事は無理だった。
まあこの二人はサレン信者なので、基本的にサレンの事は全肯定するので、何が起きても気にしない。
さて、ミリーとマリアンが交わした賭けだが、かなり単純なものだ。
次の演奏で感涙を流したら、ピアノを安く譲って欲しい。全く心を揺さぶられなければ、酒の量は常識的な範囲に止める。
そういった賭けだ。
マリアンが嘘を吐けば、その時点で賭けはミリーの負けとなる。
そしてマリアンは嘘を吐く気満々だったので、賭けの時にニヤリと笑ったのだ。
今サレンが使っているピアノは、白銀の狼のマスターが用意したものであり、マリアンはそのマスターの義娘である。
つまりマリアンは、ピアノの演奏などを結構な回数聴いているのだ。
確かに最初の頃は感動したし、先程の曲も唸るほどには素晴らしいものだった。
だが感動したかと言われれば、そうでもない。
マリアンは平然を装いながら、売り上げの事を考えて内心馬鹿笑いをしていた。
――実際に演奏が始まるまでは。
サレンの指が鍵盤の上を滑り、旋律を奏でる。
大きく響く演奏と比例するように客達は静かになり、ただ静かにサレンの演奏を聴きいる。
呆然……カクテルを作っているマスターも、配膳していたマリアンも。ただ聴き入ってしまった。
悲しいと言う訳でも、嬉しいと言う訳でもない。
自然と、マリアンの頬を涙が伝う。
サレンの演奏は一心不乱と言う程ではないが、圧倒される雰囲気を出している。
その雰囲気に店内は呑み込まれ、それはもう満面の笑みを、ミリーは浮かべる。
賭けの勝ちを確信し、安くサレンにプレゼントを贈る事が出来るからだ。
そして何よりも、この演奏を聴いている間は、百年以上溜め込んでいる憎悪を無視する事が出来る。
ミリーが何故こんな賭けをしたかだが、ミリーは教国で復讐を……親友を殺すと同時に死ぬ気でいる。
復讐にはサレンの手を借りるのが一番であり、相当厳しい戦いになると予想している。
自分の我儘に付き合わせるお礼。
そのための賭けなのだ。
「これを聴くのも、これで最後かな?」
サレン以外の時が止まった様な状況で、ミリーはミードをゆっくりと味わう。
教国にも酒場はあるが、教国の住人はほぼ全員が信者だ。
他の宗教の者が幅を利かせる事が出来るはずもなく、そもそも貸し出される事はない。
そこら辺でヴァイオリンの演奏位なら出来るが、下手な場所で演奏を行えば直ぐに捕まる事となるだろう。
だから、ミリーはこれが最後になると思っている。
それもあり、色々と手を回して最高クラスのピアノを用意した。
良い演奏には良い楽器が必要だ。
腕で楽器の限界を越えられるかもしれないが、限度がある。
実質的にイノセンス教の第二支部となっている酒場のピアノも決して悪い物ではないが、ギリギリ二流のピアノである。
物足りないと感じる事は無かったが、だからこそ一流のピアノでも演奏を聴いて見たかった。
結果はご覧の有様だ。
酒場とは思えない程人の喧騒が消え、劇場の様に演奏者たるサレンの旋律だけが響き渡る。
感じる想いは人それぞれだが、一言で表すならば、それは愛情だろう。
愛とは形が違っても、誰もが持っているものである。
それを感じているのだ。
骸に捧げる誓いの賛歌は、ルシデルシアが己の最後に向け、ディアナのために作ったものである。
ルシデルシアは最終決戦で流そうと思っていたのだが、流石にそんな事が出来るはずもなく、当時この曲を聴けたものは誰もいない。
その理由は、ルシデルシアが世界に宣戦布告してから作ったからだ。
その前はディアナと後の勇者と旅をしていたが、ある時を境にルシデルシアは二人と別れ自身の最後に向けて準備を始めた。
骸に捧げる誓いの賛歌とは、ルシデルシアの人生そのものだ。
数千年に及ぶルシデルシアの全てを注ぎ込み、たった一人に向けて作られた曲。
ルシデルシアが弾いたならば、その想いはただ一人に向けられ、ここまでの影響を与えなかっただろう。
これは、サレンが弾くからこそだ。
ルシデルシアも初めて弾かせたときは、こんな影響を与えるような曲だとは思っていなかった。
忘れ去られるくらいならば、余興の一つにでもなるだろう。
それ位の軽い感じでサレンに弾かせた。
(ピアノ一つでも、変わるものだな)
サレンの中で演奏を聴いているルシデルシアは、ワインを飲みながら物思いにふける。
本当に、ただの余興だったのだ。
(あの小娘……ミリーもたまには良い事をする)
生きてた頃にそれなりの楽譜を作ったルシデルシアだが、骸に捧げる誓いの賛歌は一番思い出深いモノである。
サレンが弾く事により、演奏を聴いている全ての人の心に届く。
それは、サレンが日本人だからだ。
他人を思いやる気持ちがあるからこの曲は輝き、心に届く。
勿論サレン以外にも他人を思いやれる殊勝な人はいるだろうが、この曲を弾くのは相当厳しい。
いや、弾くことは可能だろうが、これ程の影響を与えることは出来ない。
骸に捧げる誓いの賛歌は、文字通り捧げる曲なのだ。
ルシデルシアの事を知らないで弾いてしまえば、演奏の出来映えは三割以上下がることになる。
そしてルシデルシアはサレンとディアナ以外に自分の事を話す気はないので、骸に捧げる誓いの賛歌は弾けるのはサレンだけなのだ。
最後のサビへと差し掛かり、転調する。
一進一退の攻防から、 全身全霊を込めた最後の一撃へと向かうフィナーレ。
そして決着……勝敗はルシデルシアの負けで終わる……はずだった。
当初はその様に描いた楽譜だが、結果は相打ちとなった。
それもあり、ルシデルシアは少しだけ楽譜を変えている。
意味があるのかと聞かれれば、ただの自己満足だ。
ただこの自己満足は、サレンが居たから得られたものである。
言葉として表現することはほとんど無いが、ルシデルシアはサレンにとても感謝していた。
演奏の最後。鍵盤の上で踊っていた指が完全に静止し、世界に音を刻み込む。
そして指を離し、ゆっくりとペダルから足を離す。
余韻の長さ。切るタイミング。身体の動き。
一つずれるだけで、台無しになってしまう。
それら全てを完璧に終えたサレンは立ち上がり、気品を感じさせる一礼をする。
(ククク……やはり良いものだ。これを聴く事が出来るのも、生きているからこそだな)
止まっていた時間が動きだし、割れんばかりの喝采が店内に響き渡る。
マリアンは嘘を吐くなんて事を、選べないと心の底から理解した。
これ程の演奏を、生きている内に聴くことは出来ないだろう。
神の演奏……そう言っても過言ではない。
「あっ、仕事しないと」
お盆に乗せていた料理は冷めてしまい、マリアンは急いで厨房に向かう。
途中でカウンターに居る義父を見ると、働きながらも涙を流していた。
それは何も義父だけではない。
拍手しながら皆がサレンを褒め称え、涙を流している。
本当にシスターなのかと疑問も湧いてくるが、今はそんなことどうでも良い。
あの人の……サレンの演奏をまた聴きたいと思ってしまっている自分に、マリアンは苦笑した。
「あら?」
マリアンが厨房に入ると、少し焦げた様な臭いを感じた。
そして直ぐに理由に思い至り、惚けている妹に渇を入れ、二人で急いで料理を作るのだった。
ミリー「お酒がおいしいぇ~」
その他大勢「「「「涙が止まりません」」」」