LOOK DOWN -ムショボケ任侠、少女に出会う-
鉄錠門の閉まる軋む音を後ろに、流れる雲の隙間の太陽を見上げる。網膜が白く染まる感触を楽しむ。
「兄貴ぃっ!」
向かいの路肩に停めた黒のメルセデスから、どたどたとスーツ姿の男達が駆け寄ってくる。慌てた様子で吸いかけの煙草を放り、あるいは革靴の裏で雑に揉み消す。スーツ姿、と言ってもまともな勤め人には見えなかった。開襟シャツであったり、派手な柄の物を纏っていた。
大上和久はその光景に、十三年に渡る収監ですっかり癖になった独り言を漏らした。
「せせろーしいのぅ」
「兄貴ぃ、ご苦労さんですっ!」
「おぅ・・・叔父貴は?」
膝に手をついて頭を下げる男達。一人が大切そうに抱える遺影の縁に手を伸ばした。一人が差し出した煙草を口に咥えると、他の一人がすかさず火の点いたライターを差し出す。
十三年ぶりのニコチンとタールに心地よい立ち眩みを覚えていると、先頭の一人が言いにくそうに口を開いた。
「・・・すんません、都合つかん様でして。姉さんが目黒の別宅でお待ちですけぇ」
「よおけぇおるけぇ、えぇがの」
メルセデスの後部座席に乗りこむと若い女が居た。短い丈のワンピーススカートに濃い化粧、大上を覗き込む様に見て、ねっとりと微笑む。
助手席の男が振り返って言った。
「スケ用意しましたけぇ」
※※※
一九八七年十二月二十日。クリスマスを目前に控えたその日、竜胆会二次団体、伊良子会構成員、大上和久が殺人による十三年の長きに渡る刑期を終えて府中刑務所を出所した。
第四次広島抗争に端を発する伊良子会会長、五十嵐由紀夫の刺殺事件に対する報復として、敵対する俠栄会協力組織、石動組にて抗争の陣頭指揮をとっていた若頭、榎本政武の刺殺事件が発生した。
事件の翌々日、広島北署に犯人と名乗る男が自首する。県警捜査本部は本人並びに関係者の証言から、事件の犯人を伊良子会構成員、大上和久と断定、短い公判の後に懲役十三年を言い渡される。
《中略》
府中刑務所の面会室で本誌の取材に答えた大上和久受刑者(以下、大上と省略)は記者から自分が犯した罪についてどう思うか問われ、一連の抗争で命を落とした者に対して冥福を祈ると告げたあと、こう言った。
『それが仁義言うもんです』
「カズぅ、貴方、こんなカッコいい事言ったん?」
着物の女が上品に笑いながら言った。
竜胆会直参、伊良子会会長五十嵐切羽。刺殺された夫、五十嵐由紀夫に代わって伊良子会傘下準構成員含めて八〇〇名を執り仕切る女傑。若かりし頃は銀座で白百合と謳われた美貌のホステスだったが、極道の愛人から妻として支え、今や夫の跡目を継いだ会長として伊良子会を率いる切羽の目付きは鋭く、冷たい。
応接テーブルの鼈甲の様な木目を見おろしていた大上に雑誌の見開きを放った。
「・・・おぅ、えろぅ懐かしいもん出てきましたのぅ」
収監されて間もない頃にやってきた週刊誌の記者の事を思い出す。
『時間かかっても必ず記事にしますんで』
つい先日に発行されたばかりのそれには『第四次広島抗争の真実』と題打たれて、大上自身ですら記憶が薄れている内容を克明に記していた。
約束を守る奴は好きだ。見栄っ張りの嘘吐きばかりなのは堅気も無頼も同じだからだ。
「・・・それにしても姉御、柴田の叔父貴と連絡がつかんのじゃけど、何か知っちょりますかのぉ」
「・・・柴田ぁ、あぁ、寅の事かい?」
「あそこいらは柴田の叔父貴んもんじゃなかったですかいのぅ」
切羽の後ろに控えていた男がずいっと顔を寄せる。
「なんじゃ、姉さんがワレん為にシノギをくれてやるっちゅうんに不服なんかぁ?」
「おおぅ、熊谷の叔父貴じゃなかですか。おった事に気づかんじゃった。今は本部長でしたかいのぅ」
熊谷と呼ばれた男は大上の胸ぐらを掴むと振りかぶった拳をおろした。鈍い音がしてソファに倒れた大上は「ってぇ」と頬をさすりながら身体を起こした。
「ムショぼけしとんのかぁっワレぇっ!生意気抜かしてっとぶち殺すどっ!」
男はなおも面罵する言葉を述べようとしたが、出来なかった。
「がっ」
跳ねる様に勢いよく伸ばされた大上の拳が熊谷の鼻梁を打ち抜いたからだ。大上はテーブルの切子ガラスの灰皿を掴むと引っくり返った熊谷のそばに屈んだ。
「・・・ムショじゃ舎弟筋の皆さんには、えっと世話になったんよ」
笑顔を貼り付けて、堪える様に首を振った。熊谷は鼻血をダラダラと流して、怯えた目で大上を見上げた。切羽が足を滑らせながら、「誰かぁっ!」と部屋の外に飛び出していく。
「飽きもせんと、えっと殴り倒してくれて、あんなクソ味噌にされたんは実の親にもなぁですけん」
灰皿を振りおろす。骨を砕く音と肉が潰れる湿った音が響き、念押しする様に何度も何度も振りおろす。鼻が無くなり、上顎が潰れ、やがて目玉が溢れ落ちたところで手を止めた。
「くそ狸が」
部屋を見渡すと、別邸とは言え流石にヤクザの屋敷で目当てのものはすぐに見つかった。壁にかけられた日本刀を手に取り、鞘を捨てると部屋を出る。
そこら中で乾いた発砲音と断末魔の叫び声が響いていた。
「いやぁああああっ!!」
日本家屋の縁側の先、玉砂利の上で髪を掴まれて膝をつく切羽の姿があった。
素足のまま砂利の庭に降りると、舎弟の一人が履いていたサンダルを脱いで「こちらを」と差し出してくる。
「はっ、われのくっさいサンダルなんておるかよ」
照れた様に笑う舎弟を押し除けて、屈んで涙と鼻水でぐずぐずになった切羽の顔を覗き込む。
「のぅ、拳士坊ちゃんはどしたん?」
切羽の視線が左右に動く。
「藤林の兄貴、親父が可愛がってた陽平もおらんようになった。瑞波ちゃんも、どこに行ってしもうたんじゃ」
「瑞波は元気よっ!」
「ほぅかぇ、瑞波ちゃんは・・・」
ニィッと笑って顎を握り締める。
「あがっ」
「全部姉さんが知っちょるじゃなかですか?おどれが代行言うて仕切る様なってからでしょ。石動と手打ち言うて、あの頃の若い衆はみぃーんなブタ箱か墓の下じゃろう。先に娑婆に戻った兄貴とも連絡がつかん」
めきょっと音がして、切羽の顎が外れたままになる。口をポカンと開けたまま、えずく様にこうべを垂れると刀を振りかぶった。
舎弟が切羽の髪を離し、うなじがあらわになる。
ヒュンと風切り音の後に首が落ちて、どさりと転がった玉砂利に首を失った胴体から血が降り注いだ。大上は使い終わった縫い針の様に刀を背に刺すと吐き捨てる様に言った。
「ダボかすがぁ、全部お見通しじゃ」
※※※
大上和久は一九五〇年、戦後の薫りが漂う相生通り、原爆スラムのバラックで産まれた。母は淫売で、シャブ中の父は正気でいる事の方が少なくて、時折り思い出した様に母と自分を殴り倒すと財布をむしり取って博打を打ちに行った。
子供の頃はとにかく腹を空かせていて、冗談抜きに泥水を啜る様に過ごした。
「日雇いの港湾労働者ばかりの地域じゃけん、力はあっても頭の足りない連中ばかりでのぉ。外国人も多いけん参った参った。ガキ相手でも手加減っちゃつを知らんから」
灰皿を差し出す若い男が大上に灰皿を差し出していた。黒いジャージに長い金髪、細身だが引き締まった良い身体をしていて、大柄な大上よりも背が高い。
小清水力也、暴走族上がりのケンカ自慢でヤクザでは珍しくもないタイプ。襲撃の現場まで舎弟が連れてきた若者で、まだ誰からも盃を貰ってないらしい。
大上の盃が欲しいとこの場にやってきた。
わざわざ盃をもらう為に襲撃の現場まで出向くなんて、ヤクザでもそうはいない無鉄砲さが気に入って申し出を快諾した。
何でこんな話をしているのだったか・・・。
「われも寿町じゃろ?」
「っす」
「似た様な感じでぇ。五十嵐の親父に出会うまで中国マフィアに拳法教わったり、ヤクザの使いっ走りしとったのぅ」
「中国拳法っすか」
「なんじゃわれ、興味あるんか」
「まぁ、強くなりたくって」
「兄貴っ!!」
屋敷の奥から慌ただしく飛び出してくる。
「見つけましたっ!地下ですっ!」
死屍累々の廊下を歩く。警察のガサ入れに備えて銃器も刃物も運び出したところを狙ったのだ。人数を揃えていても、武器の差はそう簡単に埋められるものではない。
ましてや、大上の舎弟らは抗争でも矢面に立っていた武闘派揃い。別宅でぬくぬくとしている会長の警護なんてしている連中とは覚悟が違う。
相手にならない。なる筈がない。
「こちらですけぇ」
地下の書斎に案内される。豪華絢爛なシャンデリアが照らす赤絨毯の先に背の高い本棚があった。隠し扉になっていた様で、半畳程の空間に蓋の外れたマンホールの様な穴が広がっていた。
梯子がかけられている。
「中は?」
「まだです」
「ほうか・・・おい」
手を伸ばして顎をしゃくると手榴弾を渡される。ピンを抜いて穴に放る。ややあって炸裂音が響いて焦げ臭い埃っぽい風が頬を撫でた。
「深いのぅ」
「露払いさせていただきます」
小清水を先に穴を降りていく。暗い。ライトを取りに帰るべきか考えていると、上から「兄貴」とペンライトを渡される。
難儀しながら感触だけを頼りに地下に降りると、パッと明かりがつく。一瞬だけ白んだ視界が元に戻ると、壁のスイッチに手をやる小清水の姿があった。
後から降りてきた男が小清水の頭をパシリと叩く。
「点けるんなら先にゆいんさい。びっくりするじゃろう」
「すいませんっ」
「柳田、われが降りてきてええんか?」
柳田と呼ばれた男はポマードで固めた頭を撫でながら下げた。
「はい、後は用が済んだら電話一本かけるだけなんで」
「ほぅか、しかし、こりゃあ・・・」
そこは倉庫の様だった。一メートル四方のコンテナが二段、三段と積み重ねられている。地下倉庫、いかにもヤクザの別邸らしい光景だったが、そこら中から汗と糞便、獣臭が漂っていた。
小さな鉄格子の様な覗き窓から怯えた瞳がこちらを窺っていた。
獣ではあり得ない理性を孕んだ瞳。
「・・・人身売買か」
「こがぁなこと・・・」
「・・・のぅ柳田、伊良子はシャブと拐かしは御法度じゃと思うとったが」
動揺した柳田の様子を見て、舎弟らもまた知らなかったのだと悟った。
「そりゃ、われが娑婆におった頃の話じゃ」
のそりとコンテナの影から男が現れた。短く刈り込まれた頭に、顔の右半面は火傷の痕で潰れていた。ノーネクタイのスーツの上からでもわかるほど、はち切れる様な筋肉が服を押し上げている。
「男衾の叔父貴じゃぁないですか」
「おぅ、われ、十三年もぶち込まれとった割にゃぁ元気そうじゃのぉ」
「わしがおった頃たぁどうゆう事じゃろぉか?」
男衾は「はっ」と渇いた笑いを溢すとコンテナ、檻の一つを開けて中身を引っ張り出した。
「ヤッ、ヤメテッ・・・」
薄汚れて判りにくかったが白人、少女の様だった。片言の日本語で助けをこう少女の首筋に太い体温計の様な物を押し付けた。握り締めると「プシュッ」と音をたてて少女がビクリと痙攣する様に背筋を伸ばした。
「はっ、われもわしもここまでじゃっ!」
「がっ、あっ、ああああああっ」
少女の血の気のない肌が一段と青白く染まる。
「があああああっ!!」
無針注射器を押し当てられた首筋を中心に、淡く光る赤い線が血管の様に広がる。
ミチッミチミチミチィッ!!
音を立てて少女の身体が膨れ上がって、栄養失調でか細かった肢体が太く逞しいものになっていく。恐怖と苦痛に歪んでいた顔が顔が獣じみた、いや、口蓋が迫り出して鋭く尖った牙を剥いた獣そのものになっていく。
肩で荒い息を繰り返す獣は男衾に視線を合わした。
「あ」
少女、獣はぐばぁっとその顎を拡げて男衾の首筋に喰らいついた。
がつんっと硬い音がして牙が閉じる。重く湿った音と共に男衾の首が転がり、その胴体が思い出した様に血を噴き出しながら倒れた。
「・・・叔父貴」
眼球は内側からの圧力に耐えかねた様に飛び出して、その末期の思いがいか様なものだったかも窺い知れない歪み方をしていた。
ゥルルルルゥ・・・
獣は奇妙な唸り声を上げて大上達の方へ向いた。
「兄貴っ!」
前に出た柳田がマカロフのコピー拳銃を獣に向ける。
ガァッ!!
大口を拡げた獣が跳ねる様に襲いかかり、吹っ飛ばす様に柳田をコンテナの壁に叩きつけた。ぐらぐらと揺れるそれらの内側から微かな悲鳴が聞こえてくる。
「柳田っ!」
小清水と共に柳田の右腕を丸々喰らいついた獣に殴りかかるが、唸り声を上げて離さない。柳田は苦痛に顔を歪ませながらも無理やり笑みを浮かべて言った。
「おぅ、でっけぇ犬じゃのぅっ!」
獣の口腔でパンッとくぐもった音が響いた。獣は咳き込む様な音を鳴らして頭を左右に振って、柳田の右腕が引き千切られる。
肘の先から血を噴き出して倒れる柳田をどうしてやる事も出来なかった。
ギギギィ
軋んだ音をたてて獣の首が大上に向いたからだ。転げる様に飛びかかってくる顎を避ける。尻餅をついたまま後退りながら、がつんっ、がつんっとトラバサミの様に閉じる顎をすんでのところで避ける。
柔らかい感触が後退を邪魔する。男衾の亡骸だった。
「うおおおおっ!」
小清水が雄叫びを上げて獣に殴りかかるが、丸太の様に太いウデを振り回して弾き飛ばした。獰猛な唸り声を上げて小清水の方へ向いて大上に背を向ける。
標的を変えたらしい。
「待たんかい、われ」
脚に取りつこうとして足蹴にされる。
「がっ」
軽く叩く様なそれは胸に当たり、肉と骨が軋む音が全身に伝う。身体を持ち上げ、吹き飛ばし、ぶち当たったところで苦痛が、息が出来ない苦しさに襲われる。
「・・・くそっ」
まるで身体の芯をぽっきりと折られてしまった力の抜け方だった。意識を闇の泥沼に引き込む、恐ろしい何かに必死で争うが、それでも視界は急速に狭まっていき、やがて完全に暗転した。
※※※
血ノ契リヲ交セ
耳鳴りの様な声がした。大上の周囲を怖い大人達、怖かった大人達が漂い何かを急かしてくる。
そうだ、あの中国人のじじいから借金を回収しなければ。中国本土で星の数ほどあった内乱で星の数ほど人を殺してきた拳法の達人だから、無鉄砲なヤクザでも近寄りたがらない。
血ヲ、血ヲ・・・
違う。何か大切な事を忘れて・・・。
湿った音がして目を覚ました。
ざらざらと埃っぽいコンクリート感触が頬に伝う。次第に焦点を結ぶ視界の先で、仰向けに倒れた小清水が大上に視線をくれていた。
まるで何かを否定する様に頭を振っている。
グチィッ、ビッ、グチィッ・・・。
腹部に顔を寄せ、開いた腹腔に口蓋の先を突っ込む度にそんな湿った音が響く。
血ヲ、血ヲ・・・。
何かが自分を呼んでいる。音をたてない様に、視線だけで周囲を探る。自分の腑は、脳は無事なのだろうか。もしかしたら、とっくに獣に齧り取られておかしくなってしまったのではないか。
すぐそばのコンテナの鉄格子から大上を覗く青い瞳が一対。まるでブルーサファイアの様な鮮やかな青だった。
浅黒い指先を人差し指を出して、その先から血を滴らせていた。
何をしようとしているのか。冷静に、いや、冷静になっている暇なんて無い。
ただ、予感した何かに飛びついた。
身体を起こしてに血が滴る人差し指に舌を這わせた。粘りつく様な、血液独特の感触が伝う。
嚥下仕切れずに咳き込む。獣がのそりとこちらを向いた。
グゥッグゥッグゥッ・・・
地を震わせる様な唸り声、最初はそれが自分の喉から鳴っていると分からなかった。
「グゥッ、おおお、おおおおオオオオッ!!」
爪が鋭く伸び、皮膚が目の前の化物と同じ様に青白く、紋様の様に薄く光る血管が広がっていく。
全身を凶暴な衝動が、獰猛な自分ではない何かが支配していく。
ダメッ、自分ヲ離サナイデッ!!
歯を食いしばって唸り声を押し込める。様子を窺いながらじりじりと近寄る化物の向こう、横たわる小清水の亡骸を睨みつける。
盃をくれてやる事も出来なかった。
だが、自分が仇を討たずして誰が討つ。
口角が持ち上がり、獰猛な笑みが溢れる
「来いっ!!」
跳ねた様に化物が飛びかかって来る。大上は開かれた顎に真正面から拳を突っ込んだ。鋭い牙が肌を裂き、しかし、化物は牙を何本か折られながらも大上の腕を口に含み牙を閉じようとする。
「まだまだぁっ!!」
更に喉奥に拳を突っ込むと、化物は慌てて吐き出そうとえずく。滑ったゴムの様に分厚い内臓を爪で抉り、暴れる様に脈打つ内臓に手をかける。
化物と目が合った。自身の命に手をかけられた獣の瞳。恐怖とも哀願とも、怒りともつかない、ただそうとしか言えない目だった。
(すまんの)
きっと被害者だったのだろう。拐かされて、言葉も通じない異国の地で言葉の通じない獣物に成り果てる。長い地獄、酷い最後だ。
しかし、助けてやる事は出来ない。獣物を人に戻す手段なんて持ってないし、出来たとしてもやらない。大上とて、”子”となる筈だった者の命を失っているのだ。応報せねば、それが”親”たる者の務めだ。
心臓を引き抜いた。ブチィッとも、ミチィッともつかない肉が引き裂かれて命が失われる感触と音。千切れかけた動脈に引かれる様に獣は倒れ、痙攣する。
脈打つ心臓を握り潰し、破片をその背に放る。
「・・・それが、仁義言うもんじゃけぇ」
※※※
這いつくばりながら荒い息を吐く。床一面に広がった血の水たまりが微かな波をつくる。
コンテナの檻から騒がしい息遣いを感じる。
あの青い瞳が急かす様に内側から叩いた。
「おぅ、ちぃっと待ってろ」
南京錠のついた鎖は最も簡単に引き千切られた。観音開きの蓋を開くと、中から恐る恐る少女が出てきた。
黒髪の、浅黒い肌をした裸の女の子。十歳を少し過ぎたくらいだろうか。南アジア系に近い様な気がしたが、複雑に血が入り混じった容貌をしていた。薄汚れてはいたが、身綺麗にしたらさぞ美少女だろう。
上着を脱いで羽織らせる。触れて、手触りから高級な物だと分かったのだろう。縮こまってあまり触れない様にする少女にしっかりと巻きつける。
「・・・アリガト」
こんな時に何と返せば良いのかわからなかった。
他のコンテナからも内側から叩く音が響く。一つが二つ、二つが三つへ呼び水となって広がり、地下が内側から叩く音で満たされた。
「待ってろ。今・・・」
少女が大上の手を掴む。強い力だった。ふるふると首を振る。境遇と状況を鑑みても強張った、恐怖と緊張を孕んだ表情だった。
「何じゃ、何かあるんか手を・・」
コンテナを叩く音が大きくなる。助けを求めると言うには切迫した、攻撃的な響きだった。
やがて、あの奇妙な唸り声が聞こえた。
ゥルルルルゥ・・・
鉄格子を掴む手が、破損した蓋から伸びる手が青白い、あの獣のそれに変じていく。
これが全部・・・一体、どれ程の数がいるか。
急かす様に少女が手を引く。
「そうじゃの、こうしちゃいらりゃぁせん」
少女を抱えて梯子を駆け上がる。小柄で痩せ細っているとは言え、人一人抱えてるとは思えない軽快さだったが、梯子を登り切り地上に戻る頃には息が上がってしまっていた。
青白い肌も紋様の様に広がる血管も元に戻っていた。しかし、そんな事を気にする余裕はなかった。
屋敷は燃えていた。轟々と燃え盛る炎に少女が咽せる。サイレンが聞こえる。既に消化活動は始まっている様だったが、全焼は免れないだろう。
警察も駆けつけている事だろう。逃げ場がないってかった。炙られた空気を吸い込まない様に浅い呼吸を繰り返しながら、苦しそうな少女を抱え上げる。
舎弟達は、鉄火場にまで着いてきてくれたあいつらどうなった。
襖を蹴破る。玉砂利の向こうの高い壁越しに消防と警察、野次馬の人だかりを感じた。緊迫感に満ちた空気の中で、庭をうろうろと歩く者達がいた。
呼びかけ様として、すんでのところで止まる。見覚えのある、いや、確信をもって舎弟らだと分かった。あいつらの事なら何だって、間違える筈ない。間違える筈ないのに・・・。
だが、茫洋とした視線を自身に向ける彼らを見て、それらが本当に自分の知る彼らか分からなかった。
「・・・われら」
ギィッ、ギギッ・・・
人ではあり得ない獣物の視線だった。
ギギギッ、ギギッ・・・
屋敷の奥から獣物達が姿をあらわす。別邸に詰めていた組員達か。不味い状況だった。あの獰猛な力は既に失せている。
「ンッ」
少女がおのれの手に齧りついた。だらだらと溢れ出る血を大上に差し出す。諦めていない、生命力に満ち溢れた瞳に気押される。
「・・・そうでの」
そうか、そうだよな。諦める訳にはいかない。挫ける訳にはいかない。戦えと、そう言っている瞳に頷くと、血が滴るその腕を掴み、その血を啜った。
※※※
“ヤクザ業界に激震!竜胆会二次団体会長宅で謎の火災?「終わらない第四次広島抗争の残火」の噂”
もう何度も視線を走らせた週刊誌をペラペラとめくり、やはり何も書かれていなかったと嘆息して閉じた。
何も書かれていなかった。本当の事は何も。
真昼間の日の光が燦然と降り注ぐなか、大上はフェリーのデッキで胡座をかくと、煙草を取り出して火をつける。
「おい、あんましゃぁしゃいで転ぶなよ」
真っ白なワンピースを着た女の子、あの少女が何が面白いのかぐるぐると回ったスカートをはためかせている。
無理もないかと諦める。自由も太陽も、少女からしたらずっとずっと遠い存在だったのだろうから。
あれから、目黒の別邸を抜け出したあの日から半年近くが経とうとしていた。襲いかかってくる獣物達は数も多く、少女を守りながらの戦いは絶望的なものだったが、助けてと言うか、機会は意外なところからあらわれた。
消防が注ぎ込んだ放水が獣達の周囲を濡らし、獣達は気勢を削がれた様に壁の向こうに気配を探らせる。やがて、目の前の厄介な同類を相手にするよりは遥かに組みしやすい獲物らが大勢いることに気づいて、壁をよじ登って集まっていた者らに襲いかかった。
阿鼻叫喚の地獄を横目に何とか逃げ出して来たのだ。
姿を隠しながらオホーツク経由でロシアに渡った。盗難自動車の密輸業者を脅して何とか海を渡ると、陸路で中国経由で韓国に密入国した。
言葉の問題は意外な事に少女が解決してくれた。ロシア語、中国語、韓国語、そして少し辿々しいが英語も。小学校も碌に出てない大上には及びもつかない語学力だった。聞けば、日本に”出荷”される前は山奥、恐らくは言葉の堪能さから中国で顧客となり得る者達の言葉の勉強ばかりさせられたのだとか。
胸糞悪い。一体どれほどの長きに渡って虐げられてきたのか。
少女が心配するように大上を見ていた。
「何でもない」
少女は納得せずになおも大上の様子をうかがう。大上はため息をついて、おのれの頬を人差し指で挟むと無理やり持ち上げた。
鏡を見なくて分かる凶相、子供の喜ぶ笑顔なんてヤクザもんの表情筋のレパートリーにない。しかし、それでも無理して笑顔を浮かべる大上がおかしかったのか、ケラケラとおかしそうに笑った。
笑ってくれた。
海のさざなみの向こうに港が見えた。広島県姫川市浅浦港。釜山を出て下関を通り半日、幾つも寄港地を経て漸くついた。地形的な問題から大型船が入港できず、時代から取り残された港として、今は細々と漁港としての役割を残す田舎町。
自分を拾い上げてくれた柴田が、目をかけてくれた兄貴分や可愛がっていた弟分が消息を絶ったその土地に、ようやく帰ってきた。
「そうだ、パスポートパスポート・・・」
韓国で手に入れた偽造パスポート、今の大上は在日韓国人の日岡恵一だ。預かっていた少女のパスポートを捲る。少女の顔写真の横には”COSETTE HIOKA”、日岡コゼットと記載されている。在日韓国人の日岡恵一とフィリピン人の妻の間に生まれた娘という設定だ。
いくら教養のない大上でもその名は知っている。レ・ミゼラブルに出てくる可愛そうな少女の名前だ。あんまりでわざとらしい名前に手配した韓国人に文句を言うと、かえってその位の方が怪しまれないと笑っていなされてしまった。
怪しまれないだろうか。ちゃんと入国出来るだろうか。むくむくと沸き起こってくる不安を隠しながら、「のぅ」と少女に声をかける。
「ほんまの名前はなんてゆうん?」
ずっとお互い適当な偽名を使っていたし、二人っきりだからそれで困らなかった。
少女はきょとんとした顔をして微笑むと、とてとてと駆け寄って大上の耳元に顔を寄せて呟いた。
エフェメラ、そう言った様ようだった。
「そっちで呼んだ方がええんかのぉ」
胡坐をかいた膝の上に尻を乗せてくる。煙草を指ではじいて放ると、少女は大上と話す内に少し流暢になった日本語で言った。
「コゼットは優しくて明るい女の子。デモ、育ての親のヴァルジャンに出会うまで愛する事を知らなかったノ。きっと、空っぽな笑顔だったに違いないワ」
でも、と続ける。
「ヴァルジャンと出会って全部変わっタ。愛する事を知って、恋だって、結婚だって出来たシ、大好きだったヴァルジャンの最後も看取れタ。エフェメラなんかじゃないワ」
「ようない名前なんか?」
「・・・今度調べてみテ」
きっとろくでもない意味なのだろう。
何で自分は日本に戻ってきたのだろう。半年も大陸を旅して、日本が恋しいなんて一度たりとも思わなかった。このまま少女と共に旅をしながら生きて、適当なところで腰を落ち着けるという事も考えないではなかった。
だが、誘蛾灯に誘われる様に戻ってきてしまった。きっと自分の帰るべき家だった伊良子会を変えた何かがそこにあると思ったから。少女を拐かした連中に嫌悪感を抱きつつも、利用している事には変わりない自身に嫌気がさす。
せめて途中で投げ出すまい。どちらとも。
「わしぁさしづめ、日岡ヴァルジャンじゃのぉ」