第十五話
かなり間が空いてしまいました。
遺伝子研究所は緑の蔦に覆われ、人里から隠れるようひっそりと佇んでいた。
依月は格子窓から中を覗こうとしたが、曇りガラスなのか室内の様子が全く見えなかったらしく小さく首を振っている。
入口の扉は黒塗りで重厚感のある趣だった。この扉は外の門とは違い、遠隔操作で自動で開きそうにもない。調はごくり、と生唾を飲み、ノブに手を掛けた。
力を込めた瞬間、外開きでゆっくりと扉が開いた。調は思いがけなく、大きく後ろに飛びのいた。
「……お待たせしました。中へどうぞ」
肩までの切りそろえられた髪に、黒縁の眼鏡を掛けた女性だった。その表情は何の感情も滲ませておらず、まるで幽鬼のような不気味さまで感じさせる。
「両親が心配するし、日が落ちる前までには俺たち帰りたいので。手短にお願いしますね」
明るくそう話す依月に、女性はぴくりと片眉をひそませた。
一瞬不快そうに表情を滲ませたが、彼女はそのまま何事もなかったかのようにくるりと踵を返した。調は明るく言えば、爆弾発言を投下してもいいと勘違いしている依月にちらりと視線を向けたが、とうの本人は何故かこちらにピースを向けてくる。
依月の言動に同意したわけではないのに、と調は序盤から一気に疲れ果てていた。
外観は古びた洋館を思わせたが、館内は近代的で個室が左右にいくつもあるような造りだった。調は遺伝子研究所は病院の独特な消毒液や薬品類の匂いがするかと思っていたが、そういう匂いも感じられず、むしろ館内の清掃が行き届いているのか清潔感のある雰囲気が感じられた。
むしろ、館内には目の前の女性以外は人がいないのではないかというくらいに、何の匂いも気配も感じ取れなかったというのが正しいのかもしれない。
(……わざと、人の気配を感じさせないようにしているのか?)
訝しさから不気味さへと移行するには大して時間を要しなかった。
さらに、前を歩く依月もやたらと黙っているのにも気がかりだった。彼ならば、この不自然な静けさや無臭に関して、色々と疑問を呈するのかと思っていたのだ。
女性は奥のあるドアの前に立つと、小さくノックをした。
「九十九主任、お連れしました」
「入ってもらってください」
間髪入れず、室内から声がした。
ドアが開くと、目の前に白髪の男性が座っていた。白髪、なのだが明らかに二十代後半から三十代前半くらいの若い男性で、あまりに調が目を見開いて見つめていたからか白髪の男性はくいっと口角をあげた。
「そうですよね、初めて見る人は驚くか奇異な目を向けます」
「あ、すみません」
「いいんですよ、一ノ瀬調さんと宇野依月さんですよね。今日は学校はお休みですか?そんなことはないですよね」
「そうですね、ここに来るためにサボりました」
淡々と口にする依月に横目で注意するよう向けても、彼は前に座る男性を強い眼差しで見据えており、調は思わず小さく息を飲んだ。
「では、私は仕事に戻ります」
「ありがとう、風祭くん」
女性―――風祭と呼ばれた女性は調たちを一瞥することなく元の通路を戻っていった。
九十九と呼ばれた男性は柔和な笑みを浮かべ、手の甲を顎の下に添えてこちらをゆったりと見上げた。
「―――それで、君たちの訊きたいことは何かな?」
「その前に、訊きたいことがあります。俺たちの素性は、まだあなたに伝えていないですよね?」
依月の言葉に、調ははっと体を強張らせた。
「一ノ瀬調くんのことは、よーく知っているよ。君の両親から、逐一報告が来ているからね。頭脳明晰で切れ者で素晴らしい出来栄えらしいじゃないか」
「出来栄えって……作られたような言い方……」
調の呟きに、九十九はきょとんと真顔になってそのまま顔を逸らした。
その不自然な言動に、調はかっと血が上るような感覚が体中を掛け巡った。前のめりになるところを、隣の依月がすっと腕を出して制止した。
「宇野依月くんは、そうだね、君は痕跡を残しすぎたね。データベースにアクセスするには個人アカウントが必須だからね。君の情報は伝わってきていたんだよ。今後、警戒するべき存在だって、ね。ここの場所も公になっていないはずだけれど、もしかして代償を払って突き止めたのかな?」
依月の横顔を見ても、彼の表情は頑なでいつもの飄々とした印象は一切感じられなかった。
「君の親族の事故は、私のあずかり知らないところで起こったんだよ。一ノ瀬たちは彼の報告を怠った。きちんと彼の変異を報告していれば、事故は防げていたんだ」
ふうっとため息をつきながら九十九は口にした。
「彼って……」
「君は、疾うに気づいているだろう?一ノ瀬律人だ」
がん、と鈍器で殴られたような強い衝撃が走った。
「優生思想、というのを知っているかな。もともとはイギリスのゴルドンが優生学を定義したことが起源になるのだが、そこから話すと長くなるから割愛しよう。簡単に言えば、同じ人間の中に優れた者と劣った者が存在するとみなした上で、優れた者の増産と劣った者の淘汰を目指す考え方だ。この日本にも優生思想は導入され、1940年の国民優生法、1948年に優生保護法などが制定されて、不妊手術や人工妊娠中絶が実施されたんだよ。昨年、ようやく障害のある人の生存そのものを否定し、非人道的かつ差別的な内容によって、長年にわたり人権侵害を続けてきたことが明るみになり母体保護法へと改正された。でも、今から意識を改革させるのは遅い。これから被害にあった人たちがどんどん声を上げて、国は補償などの措置に追われるだろうね。そもそも、あらゆる人間の生命に対して線引きなどしてはいけなんだよ。人間がこの世に存在するための特別な条件などはどこにもない。だけど、日本は長きに渡り、その考えを持たなかった。いや、持たないように仕向けられていた。今から意識を変えようと思っても、私たちの意識の中にそのような考え方が深く根を張らない限り、真の共生社会の実現などはありえない」
雄弁に語っていた九十九は、何の反応も見せない調と依月に気付き、場を取り繕うようにこほんと小さな咳をした。
「すまないね、風祭くんにもよく釘を刺されるのだが、どうしても熱くなると話の趣旨とずれてしまうことがあるんだ。一ノ瀬律人のことだったね、優生学の話に少し戻るんだが優生政策には二つ分けられてきたんだ。一つは積極的優生学、子孫を残すにふさわしいと見なされた者が子孫を残すように奨励する。二つは消極的優生学、こちらは子孫を残すにふさわしくないと見なされたものが子孫を残すことを防ぐ。依月くんはもう分かったような顔をしているね。国が行ってきたことは消極的優生学だ、そして、私たち〈光の苑〉が行ってきたことは、積極的優生学の推進。1980年代から1990年代にかけて新しい生殖補助医療が利用に可能になってきているし、今後遺伝子改変などの新技術が明るみになってくるだろうね。でも、私たちはもうその技術を体現させているんだよ、この場所で。優秀な遺伝子に優秀な遺伝子を組み合わせて人為的に優秀な人材を生み出す、それを可能にしている。そう、それが、調くんの弟の一ノ瀬律人というわけだ」
口角を引き上げ、恍惚とした笑みを浮かべて演説する九十九は、もう調たちを視界に入れていなかった。陶然と艶然と、頭上のまだ見ぬ神に向けて自分の行いを主張しているようだった。
「……人間の生殖細胞に対するゲノム編集の適用は、未解明なことが多くて日本でも海外でも禁止されていますよね」
依月の指摘に、九十九はすっとこちらを見据えた。
「よく勉強したじゃないか。そうだね、でも未解明でも何でも、この国の人間はどの分野でも精度を高めたいんだよ。最初から優秀な人間が生まれるということが保証されているのなら、いくらでも大金を積んでくるんだ。倫理観なんか、彼らには一片も備わってなどいないよ」
「―――じゃあ、父や母は、そのことを分かっていても、どうしても律人を欲したということなのか?」
震える声で調が問うと、九十九は憐れむような視線を向けた。
「私は彼らに指摘したんだよ。もう、調くんという成功例がいるのだからいいんじゃないかと。彼らは音楽家として最上の存在を生み出したいと何度も何度も訴えてきた。そして、私の知らないところで研究員の一人を懐柔し、いくつもの遺伝子を組み合わせて改変させて律人という化け物をこの世界に生み出してしまった。その研究員はすでに解雇したけれど、私の制止などは聞かずに余計なことをするからだよ。暴力的で危険性のあるもう一人の彼を宿したまま、律人は放たれた。でも、責任を持って育てる決めたのは彼らだからね、きちんと手綱を握っておかなければ―――」
「律人は、犬とか動物じゃない!俺の、弟だ!」
ばん、と強く机を叩くと、九十九はふっと小さく息を吐いた。
「調くんは、さっきから気づいていないのか。後ろの依月くんは気づいているのか顔が真っ青だよ。律人はこの研究所で生まれた。そして、その一年前に君もここで生まれたんだよ」
「―――は?」
「君と律人は生まれた場所を同じくしているだけで、兄弟でも何でもないんだよ。赤の他人だ。君が、律人のことを憂慮することはないんだよ」
ふふっと慈愛を込めた笑みを浮かべた九十九の顔を思い出せなかった。調は依月の制止の声も耳に入らず、いつの間にか机の上に飛び上がり、九十九に飛びかかっていた。
色々と間違っていた観念があったらすみません。