〇 第1話 彼女の胸は羽毛よりも柔らかかった ―2
明かりのない薄暗い部屋に、カーテンのない窓から柔らかい日差しが指していた。簡素な部屋だ。私が寝ていたベッドの他には、雑多なものが置かれた棚と机、そして一脚の椅子だけしかない。
「夢じゃなかったんだ……」
さっきまでの現実が夢で、この異世界が現実か。自分でも意味が分からないが、どうやら私は本当に異世界転移って奴に行き会ってしまったらしい。
馬鹿らしい。ふざけてる。信じられない。意味がわからない。あんまりな出来事に、思考がまとまらない。
「うっ……」
駄目だ、吐き気が止まらない。いや、そういえば私は昨日、投身自殺を計る前に、たしか半日くらいは何も食べていないのだった。そこから一晩眠っていたのだとすれば、丸一日何も口にしていないことになる。もしかしたらこの胃の気持ち悪さは空腹感かもしれない。
「お水とかないのかな」
ここはあのエルフの家なのだろう。人がここで生活しているのだから、飲料の蓄えくらいはあるはずだ。
お腹を抑えながら、ベッドから離れる。四角い木の枠に布の切れ端のようなものを詰めただけの、私の生きていた世界からは考えられないほど簡素なベッドだが、あのエルフが毎日ここで寝ているのだとしたら、私の吐しゃ物で汚してしまうわけには行かないだろう。
私は小さな部屋を横断して、扉へと向かった。
「エルフもいない……」
私を空中で拾ったあのエルフ。昨日はろくに話もできずに、私はこの家に連れ込まれてすぐに疲れから眠ってしまったけれど、彼女は突然現れた私に対してどう思っているのだろう。
異世界人って呼んでたよね、私のこと。
私から見れば、この世界こそ異世界だけれど。
「……ああ、涼しい」
家の扉を開けて外に出ると、その先はビルの屋上ではなく、小高い丘の上だった。心地の良い風が、朝の日差しと共に私の肌をくすぐる。深呼吸を何度か繰り返すと、段々と吐き気は収まってきた。
出口から見て、前方は森が広がっているけれど、家の裏手から丘を下ったところに小さな民家の集まりのような町が見える。昨日はさっぱり気が付かなかった。どうやらここは、人里離れた未開の秘境というわけではないらしい。
きょろきょろと周りを見渡すと、家の裏手に置いてある水瓶が目に入った。木でできた板切れのような蓋を開けると、たっぷりと水が入っている。
「うっ。これ、飲んでも大丈夫なのかな……」
中の水は澄んでいるように見えるし、嫌な臭いもしないけれど、どうしたものか。
私はお腹が弱い。怪しい飲み物を口にすると、すぐにお腹を壊してしまう。コーヒーやエナジードリンクや牛乳でも同じだ。
小学生の頃、遠足でお腹を壊し、集合時間に間に合わなくて先生に怒られたことがある。あの時は同級生にも馬鹿にされて、小学校中の晒し者だった。
ああ、また嫌なことを思い出してしまった。本当に勘弁してほしい。私の海馬はヘドロのような悪臭のする記憶で一杯だ。
「そういえば、あの鳥もいない」
なんと呼ばれていたんだったか。まさに異世界らしいと言うべき巨大な鳥だった。物理学的には、あんな大きさの鳥が空を飛べるわけがない。いや、きっとこの世界の人が私の世界に来た時、飛行機に同じことを思うのだろうけれど。
そんなことを考えながら、私は喉の渇きに我慢ができなくなって、一口だけ水瓶から水を手ですくって飲んだ。
うん、ぬるい水だ。きっと冷蔵庫なんてこの世界にはないのだろう。だからたぶん、殺菌も何もあったもんじゃない。今夜は下痢かもな。