〇 第1話 彼女の胸は羽毛よりも柔らかかった ―1
「おい! 百合子! なに寝てんだよおまえ」
あまり好きではない自分の名前を大声で呼ばれて、はっ、と顔をあげた。
ここは学校の教室、私がこの世で最も嫌いな場所。そして目の前には、この世で最も嫌いな女。
教室の壁に掛かっている時計を見る。どうやら授業中に寝てしまって、いつの間にかお昼休みになっていたみたいだ。
妙な白昼夢を見たような気がする。頭がくらくらする。空から落ちる夢。そして誰かと出会ったような……。
「おーい! 相変わらずぼーっとしてんなおまえ」
クソ女に肩を小突かれた。コイツにとっては単なるスキンシップ、あるいは会話の延長以上の意味はないのだろうけれど、その過剰なおふざけは私を確かに苛立たせた。なぜこの女は私が嫌がることを、わざわざ選んだかのようにやってくるのだろう。
とはいえ、私が苛立ったところで何かが変わるわけじゃない。この女の性格が変わるわけでもないし、そしてまた私の性格が、この根暗で陰気な性格が変わるわけじゃない。
「な、なに……」
私の怯えた声を気にかけることなく、クソ女はもう一度私の肩を叩いて、その醜悪な口を開いた。
「いやさ、おまえもう昼飯食ったの?」
ああ。この文章から始まる会話を、私とこの女はもう何度繰り返したのだろう。この女は他人に学食でパンを買ってこさせることに、至上の快楽を覚えているのだ。
本当にコイツは度し難いほどのクズなのだが、私も私で、結局はそれに抵抗できないでいる。ただでさえ母親からは最低限の金銭しか持たされていないので、私の昼食は減るばかりだ。
「…………サンドイッチでいいよね」
私は立ち上がった。このクソ女から逃げるために、クソ女の指示に従ってパンを買いに行く。きっと周りのクラスメイト達から見たら、私は馬鹿に見えているのだろう。私だって馬鹿だと思う。でも、この方法しか私にはわからないのだ。私にはこうやって一時的に嫌なものから逃げる方法しか与えられていないのだ。
教師は見て見ぬふりをした。相談できるような友達ももういない。そして家に帰ればあの男が待っている。
私に遺伝子の半分を分け与えたくせに、私の腹を殴って蹴って、それを肴に酒を飲むようなあの男。
ああ。いろいろなことを考えると、もう本当に嫌になってきた。ここ最近は、ずっとこの状況を終わらせる方法を考えている。そしてその答えに私はとうとうたどり着きそうになっていた。
私はクソ女にサンドイッチを恵んでやるために食堂へ向かおうと、教室の扉を開けて、外へと右足を踏み出した。
「え?」
瞬間、私の身体は落下した。
教室の外は、どこかで見たような廃ビルの屋上へとつながっていて、私が教室の外に一歩踏み出した途端、強烈なビル風で体が空に放り出されたのだ。
あれ? そういえば、私はもうこの世界に我慢ができなくなって、投身自殺したんだった。
ビルとビルの間を私の身体が落下する。あっという間にコンクリートの地面が近づいて、私はとっさに目を瞑った……。
「……はっ!」
私は目を覚ました。汗だくの身体に、前日から着たままのシャツが張り付いて気持ちが悪い。
しばらくは仰向けになったまま動けずにいたが、なんだか胃がむかむかして、吐き気を感じて体を起こした。