〇 プロローグ 自殺したはずが、異世界でエルフに拾われました。 ―1
私は自殺する。
十五階建ての廃ビルの屋上へ続く非常階段の扉。そこに申し訳程度に掛かっていた南京錠のさびた錠前を、荒れ果てた下の階のすみっこから拾ってきたコンクリートのブロックで叩き壊して、私は外に出た。
重く錆び付いた扉を押し開けた瞬間に、突風のように強いビル風が、轟々と音を立てて私の耳元を吹きすさんでいった。
その風に押し戻されまいと、私は一歩一歩、ゆっくりと屋上の端に進んでゆく。
……私は自殺する。
自殺の理由はいくつかあるが、どれも単純なものだ。
高校でのいじめ。父親からの家庭内暴力と、それを見て見ぬふりをする母親。教師も助けてはくれなかった。数少ない友人だった奴は、私を友達とは認めなくなった。このまま生きていても、私によい事が与えられることは一生ないのだろうという諦観。それどころか、悪化していくのではないかという漠然とした不安。ありとあらゆる負の感情が綯い交ぜになった、黒々としたヘドロのようなこの気持ち。
ああ、でも、もうそんなものとはおさらばだ。
私は今から、ここから飛び降りて、死ぬ。
「……ばいばい」
喉の奥から絞り出した言葉も、特に洒落た物ではなかった。ああ、やっぱり私って、それくらいつまらない人間だったんだと、最期の最期に思い知らされる。
もう何も言うまい。何も言えない死体になるのだから。
遺書を書き残すことすらせずに、何も考えず、私はビルの屋上から空中へと身体を投げ出した。
風を切る音がする。自然と目は閉じられた。
走馬灯というやつが来るとしたら、この時なのだろうけれど、私にはこの世に嫌な記憶しかなかったからだろうか、何一つ振り返ることもしなかった。
ただ、私の死をあの母親が被害者面で嘆くのだろうと考えたら、また少しだけ腹が立った。最期のときまで私を不愉快にさせるこの世は、本当に度し難い。
でも、その度し難さも、何もかも、もう感じることはなくなる……。
……。
…………。
……………………。
感じることは、なくなるはずなのに。
おかしい、体感で、もう数十秒は落下している気がする。私が飛び降りたのは、十五階建てのビルだ。爆発する超高層ビルに取り残された灰原哀でなくとも、落下した私が地面に落ちるまでの時間がそれほど長くかからないということはわかる。
もしや、これが走馬灯というやつで、私の体内時間が引き延ばされた結果なのかと、私はもう開くことのないと思っていた瞼をゆっくりと持ち上げた。
「――――えぇ?」
間抜けな声が出た。
いや、間抜けな声という表現では少し足りないかもしれない。瞳を開いた瞬間、私は、ただの間抜けというにはあまりにも特殊すぎる状態にいたのだから。
私は地上数百メートル、あるいは数千メートルの上空から大地を見下ろしていた。眼下には、広大な森林。少し視線をあげれば、遠くの海と、その水平線に沈もうとしている夕日が、世界を赤く染めているのが見える。よく目を凝らせば、森林に小さな穴をあけるように、ちらちらと、人家の明かりと思しい光の点の集合が間隔を開けて並んでいる。
「……えーっと。天国?」
そう思うしかないだろう。私は神も仏も聖書も他人の言うことも信じてはいないが、それでもこんな光景を見せられたら、自分は死後の世界へ召されたのだと信じてしまう。
とはいえ、私は今、落ちている。あまりにも地面と離れすぎていて、視覚的な情報ではイマイチわかりづらいが、耳元でビュンビュンと鳴る風切り音がそれを示している。